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生きてるなら、理想と綺麗事を信じろ

 生きるとはいったいどういうことなのだろう、と夜が来るたび考える。その問いに正面から答えることは難しいけれど、生きていることを前提に物事を考えることはできる。

 生きるということは、いくつもの前提の上に成り立つ奇跡みたいなことで。それなのに、いざ生きるということになると、辛いことや苦しいことが第一に想起されることが多いように思う。別に私は誕生や生きていることを言祝いでいるわけではない。でも、たまにはそういう私たちの生のありえなさや偶然性に思いを致してみるのも悪いことではないことのようにみえる。

 なんのために必死になって学校にいるときはなるたけ良い成績を取って秀でようとし、進学するという段になったら偏差値が高いところに行こうと努力したり、就職するというときになったら給料や福利厚生などの条件がいいところに入ろうとするのか。このことに本当の意味で正面から答えることは生きるということはどういうことなのか正面から答えるのと同じくらい難しいことのように思う。だって、私たちはいくつもの虚構を信じ込み、偽物が本物だと信じようとして生きているのだから。でも、そんなことしているうちは、いつまでたっても自分自身をみつけることはできないし、自分自身に追いつくことさえもできはしない。

 それでも、虚構を信じ込むことができることの価値はある。それは、トートロジーのようだけれど「信じること」である。生きる上でこれほど大切なことはない。私たちはいくつもの虚構や偽物かもしれないことを信じて生きている。だってそうでなければとても生きることなんてできないから。誕生さえも奇跡で、その点さえも言祝がれるべきことなのに、人生はそこが始まりで、私たちは人生を終えるまでその点を辿るようにして線を作っていく存在だから。存在は奇跡の象徴で、でもだとしたら生きるっていったいなんだろうとも思う。

 どうして生きているのだろう、だとか、なんのために生きているのだろう、だとか考えることは楽しいけどそれは思考上での遊戯にしか過ぎない。生きているということはそれ自体所与の前提としてあって、だとしたら私たちは、生きているならどうあるべきか、どうしたいのかを考えていった方がよいのだと思う。

 学校では努力が身を結び、ペーパテストの点数で自分が価値ある人間だとは思えなくても、他者がそう措定してくる場合が少なくない。就職だってそうだ。本当にくだらないと思うけれど、大企業だとか給料だとか福利厚生だとか。そんなことのためにいったいなにを必死になっているというんだ。いい大学だから、とか、いい企業だから、すごいのか? もちろんそんなことはないけれど、悲しいことに、世界では学歴や職歴で人の価値が定められることが少なくない。それらは確かに客観的な指標だけれど、そもそもそういう客観的な指標に価値を見出す構造が歪だといえなくもない。

 私は、そういう私でいたくないと強く思う。生きているなら、私ではない学歴や職歴、それに準ずるステータスで私の価値を決めないし、他者がいくら私をそれらの指標でみてきても気にしない。これは理想論だし、綺麗事かもしれない。でも、いったいどうしてせっかく生を授かったのにもかかわらず、自分を偽り、虚構や偽物を信じ込むふりをしなければならないのか。そんなの奴隷と一緒だ。私は強く思う。生きてるなら、理想や綺麗事を信じる私でいたいと。たとえそれで追い込まれて、もう生きていけないと思ったら喜んで死んでやる。私は、生まれたときから私の生死と一蓮托生の覚悟だ。

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