ロバート・ムーア『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』(岩崎晋也訳、エイアンドエフ)を読んで
こんにちは。柚子瀬です。
タイトルのとおり、『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』を読みましたので、感想を書いていきます。
私は歩くのが好きなんですよね。これまで歩くことに少なからぬ回数救われてきたし、今もまいにち実践していることだし、歩くことについて考えてもいます。私は『Tarzan』という雑誌をけっこう読むのですが、『Tarzan』では1年に1回ほどの頻度でウォーキングについての特集が組まれています。最近では、その特集をみてウォーキングシューズを導入したりしました。これがものすごくいい買い物で、歩くことが以前よりもよりいっそう楽しくなりました。好きなことをよりいっそう好きになれるのはきっと素敵なことだし、お金の遣い方には価値観が反映されることが多いなかで気持ちのいいお金の遣い方をできることも同様なのかな、と思っています。本書を読もうと思ったのはいつかの『Tarzan』のウォーキング特集で紹介されていて気になったからです。
私は本書を読むまでタイトルにある「トレイル」という言葉について考えたことがありませんでした。英語で「道」といえばpathだったし、pathとtrailの違いに思いを致す契機もありませんでした。しかし、本書のタイトルは「トレイルズ」で、pathではなくてtrailなのにはきっと理由があるはずだ。そう思いながら読み進めました。そんななかで、ようやく「トレイル」という言葉をめぐる記述に出会いました。
トレイルのイメージがなかった私からすれば、この記述でトレイルのなんとなくのイメージはわきました。パスではない、すなわち整然とはしていないというイメージです。
だけど、本書を読み進めていくと、トレイルとパスは厳密にみれば峻別されていないことがみえてきます。それはちょうど自然と人為的なものを厳密に峻別することが不可能なように。「自然とはなにか?」という問いは考えてゆけばゆくほどむずかしい問いなのではないか、と考えていて、それは大学生のころに教養演習という授業でルソーの『人間不平等起源論』を読んだときからのことです。たとえば、生まれてきてしまったという事実があるのに、生まれてこなかったときのことを仮定して考えたくなるときがあるとして。私の自然に対する問いはそれときわめて近いものです。人間がすでに存在してしまっているという事実があるのに、人間がいない状態が自然じゃないのか、とか、人為的ならざるものが自然だ、とかいうふうに。けれども一方で、ほんとうにそうなのだろうかとも考えないわけにはいかないんですよね。単純に二分したほうが上手く考えることができる場合もあるけれど、それだけでは上手くいかない。あるいは、二分して考えることがあったとしても、けっしてそのあいだにあるもののことを忘却しないということ。私たちはえてしてあいだにあるものがもっとも余白を有していることを忘れてしまうから。自然というものをどのように捉えるかはいまだに答えが出ない問いのひとつですが、本書ではその問いを考えるための示唆を得ることができました。
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