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世界の狂気、自分の狂気 


パンデミックと戦争が起きる。
起こるべくして起こったようにも思う。
世界も人も狂っている。度し難く、愚かである。
何であれ、その愚かさによって引き起こされることの全ての結果と責任は、僕ら人類が背負う。僕らは自分で文明を打ち立て、自分でそれを破壊し、自分でその瓦礫を片付けるのだ。
それを今までも続けてきたし、これからも続ける。
その狂気と愚かさの真っ只中に、自分自身も生きている。
その狂気と愚かさの一部として。
自分も人間である。その愚かで度し難い人類の一員である。
そこから逃れることはできない。
僕も愚かな人類の一員であるが、その愚かさを無知と冷笑で上塗りするような生き方だけは絶対にしたくない。
パンデミックも、戦争も、地球環境の激変も、もうすぐ起きる経済の破綻も、
「全て別の場所でどこかの他人がやっていることだ。今日の自分の暮らしはいつも通りだから大丈夫」と、己の無知と不感症から目を背け、それを肯定し続けるような人間の臆病さを、僕は最も軽蔑する。

このような世界の中にあって、音楽と芸術は益々輝きを増している。
このような世界になればなるほど、音楽と芸術は自分にとって
絶対に無くてはならないものだったのだ、と改めて確信する。
音楽も芸術もないような人生は、生きるに値しない。
だから僕は、人生の早い時から無意識に音楽と芸術を自分の人生の中心にしていたのだろう。人生を生きるに値するものにするために。
「音楽や芸術など無意味なことだ。くだらないことだ。何も生み出さない」と揶揄されたこともあった。そんな言葉に考えさせられたこともあった。
でも結局、そんな揶揄など意に介さずに今日まで生きてきた。
なぜか?僕は、音楽や芸術に意味や生産性を求めていないから。
ただ、自分にとって不可欠なものだから。

ただ自分の心の内側から湧き起こる衝動と情念が、僕に音楽と芸術を選ばせた。
説明できない心のうねり、湧き起こる強い思いが、僕にそれを選ばせた。

僕にとって、世界は初めから狂って見えていた。
そこは、とても生き辛く、厄介なものだった。
どうやって生き延びていけばいいのか、子どもの頃から悩みは尽きなかった。
ある日出会った音楽や芸術は、そんな世界を軽々と飛び越えていた。
地べたを這いずり回り苦しんでいた子どもの僕に、
世界を越える体験と、世界の向こう側があることを教えてくれた。
世界を突き抜けるという選択肢があることを教えてくれた。
僕はそれを追い求めていくことで、生きのびることができた。
それはある意味「狂気」なのだとも思う。

狂っている世界の中で、僕は世界の狂気と虚無と戦うために、
自分の中から湧き上がる「自分の狂気」を大切にしながら、
世界の狂気と、自分の狂気を闘わせることで生きのびることができた。
世界の狂気と戦うための僕の狂気を支えてくれたのが、音楽であり芸術である。それがなかったら、僕の魂や体は世界の狂気によってとっくに粉砕されていただろう。
今、世界はますます狂っていっている。
世界が狂えば狂うほど、音楽や芸術はどんどん輝いていく。
世界が狂えば狂うほど、音楽や芸術は僕の狂気を駆り立てる。
僕は世界の狂気と闘うために、
音楽と芸術の狂気に取り憑かれているのかも知れない。

愚かで度し難い人間は、世界を滅茶苦茶にしてきたが、
人間は自身の愚かさを嘆き、泣き崩れていただけではない。
同時に偉大な音楽や芸術も生み出してきた。
僕は、そんな人間とその世界を憎み、愛しもする。
底知れぬ絶望感と突き抜けるような希望を同時に感じている。

(2022.2.27)

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