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「ロジカル」と「エモさ」で人の最期を振り返る

私は介護施設(ショートステイ)で働いている介護職員です。
先日、1人のおじいちゃんが亡くなりました。

当施設では施設内で亡くなった際に「振り返り」をする機会を設けています。施設で人が亡くなった時に開く振り返りってどこか「ロジカル」でそれはそれでやるべきことだと思う一方で「ロジカルだけじゃ足りない部分があるんだよな〜」と思いつつ最近「エモさ」をいれた振り返りができたので今回はそれを話していきます。

※どちらの振り返りが最適また否定するという話ではありません。

介護施設の振り返りは「ロジカル=論理」と「エモーショナル=感情」の2つの部分があったほうが良いというお話です。介護施設の一般的な「振り返り」はロジカルなものがほとんどで、会議・研修として利用者の死後に対し「生前・直前・直後・死後」の対応はどうだったかを話し合います。そこには論理的、数値的なもの例えば「いつから食事量が減ってきたのか」とか「寝ている時間が多くなった」などを記録、数字を辿り「この時ぐらいから体調が変わっていた」「なぜもう少し早く気づけなかったか」「あの時ああしておけば」「もっとこれをしていればこうだったのでないか」と意見を出す感じ。

イメージとしては「固い」「数字」=ロジカル的な場

もちろん論理的、数字的な振り返りは大切。
本人の意思とズレていないか、変化はどこから起きていたのか、
自分たちのやっていたことがどうだったのか、、、、

ただ、それだけだと「後悔」が残りやすい感じもある。

そこで出てくるのが「エモさ」
エモい振り返りって・・・・?

弊社では前回、亡くなった方へ「お別れ会」を開いた(これがすごく良かったです)※その時の詳細はこちら


こっちの振り返りはしている施設は少ないと思う。
「え?それ話してどうなるの?」と思う人もいると思いますが…


私たちは人に関わることを生業としている。
記録や数字だけ追い続け追いすぎてしまっては我々はいつのまにか「機械」のよう如く、鋼の心とハイテクな脳になってします。私たちは「ひと」であって「ひと」ってそれぞれに感情があって記憶があると私は考えます。

「あ、これうれしい」の場所がひとによって違う。


同じ場面・出来事でもひとによって感じ方が微妙に違う。
それを記録と数字だけの振り返りを強くやり過ぎでしまうと
「私って何がしたいんだろう」「私じゃなくていいんじゃないの?」
「あの時ああしておけば」「もっとこれをしていればこうだったのでないか」感情をすりつぶさないと着地できない自分がいる(過去の私はそうでした)

お別れ会は、ロジカル<エモーショナルな「振り返り」を意識して作っています。ここでは「あの時ああすれば良かった」ということは議題に出さずに
「あの時ああだったよね」「この時はこんなことを話していた」
「私の1番の思い出はこれ」「この写真が私は1番好き、だって・・・」


イメージとしては「感情」「記憶」=エモく振り返る場。


前回は終始、温かい場になり参加した全員が
「楽しかった」「またやりたい」と言ってくれた。

1人でおじいちゃん、おばあちゃんに関わってはいない。
私たちは「みんな」おじいちゃん、おばあちゃんに関わっている。
そこにはいろんな数字とタイミングと結果、その人たちの感情と想いがある。それが「介護」それが「生活」それが「ひと」

介護は「ロジカル」と「エモさ」とのバランスでなっている。


ありがとうございます! おいしいものを食べて、エネルギーにします!!