見出し画像

大学の教職(国語)の授業をしているお話 その⑤

ちょっと仕事が立て込んでしまったので、6回目と7回目の大学での授業のお話をまとめて載せます。

教職課程の講義「中等教科教育法国語Ⅲ」の第6回と7回

第6回は、学校と社会の「乖離(かいり)」の話からはじまりはじまり~

学校はアジールで社会に直接接しない場で子どもたちが安心安全に学べるところ。そういう面もとっても大切だと思います。

でも、あまりにも学校と社会とを切り離してしまうのもどうかと思うのです。その結果、高校卒業したら突然社会に放り出されてなんでも自己責任ってなっちゃうのは酷い話じゃぁないのかなぁ。
まぁ、こういう発想が学校の仕事を増やしているという面もあるので、ちょっと慎重にはならないといけないですが。

今回ご紹介したのは、あまりたいそうなことではなく、「社会人基礎力」って、学校の諸活動でも伸ばせるよね~って生徒が自覚(メタ認知)すれば、高卒で就職するときにも、大卒で就活するときにも慌てて自分の資質能力って何でどう伸ばしてきたのかを一生懸命掘り起こさなくてもよいというお話。
「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」の中身を分節化して、それぞれ具体的にどんな力が必要とされるか明確にし、それらが学校の学び(そうその中には部活動とかも含まれる)で伸ばせるんじゃね?というような内容を書き出すだけでよいのです。
そうすると、学校での学びが「社会人基礎力」を伸ばせることがわかり、自分の学びがどんな資質・能力の向上に結びつくのかメタ認知できるようになります。

さて、国語に関する内容ですが、第6回は、下記の通り、学習指導案の「目的」のつくり方~

わたしは「生徒に必要なスキルや知識、資質・能力」から学びの目的を設定するのですが、学生さんにはなかなかわからないことかなぁとも思うので、「学習指導要領からパクっちゃってもいいよ~」とお伝えしました。

教材は、『伊勢物語』の「芥川」。そうあの鬼一口の芥川です。

学生さんがどんな資質・能力を設定してくれるか楽しみです。


第7回は下記のお話からはいって、じゃぁ、どういう授業をつくるのか?と考えてもらいました。

教師が学習者に一方的に教材をもちいて教える(第一世代)
教師が学習者が教材を学ぶことを支援する(第二世代)
教師も学習者とともに学ぶ(第三世代)

こんな風に言われていますが、自戒を込めて、第二世代すら実現できているとは言い難いのかなとも思います。

じゃぁ第三世代の学びのあり方ってどうやって作ったらいいのでしょうか?

ポイントの一つに、「教師もわからん問いをつくる」ことがあげられると考えています。どういうことか、私がやってみている例をご紹介。

「雨の日と青い鳥」 中沢けい
 朝から雨が降っていた。春の雨は土のにおいがする。

「婪り(むさぼり)」 辻邦生
 ある冬の寒い夜のことであった。

この2つの小説の冒頭部分に共通して見て取れる作者の工夫は何か?という問いです。いいかえると「なんでこの始まり方なの?」です。

じつはこうした問いに向き合うためには、答えがなかなか出てこない状態に耐えるレジリエンスが要ります。粘り強さといってもいいかもしれません。最近では、こうした資質を「学びに向かう力」の一つに据えて、「自己調整力」といったりするようです。

一見して、雨のイメージ、春のイメージ、冬のイメージや夜のイメージの利用が考えられます。そこまでわかれば(というかすぐに気が付くのですが)、あとはストーリやキャラクター設定と関連付ければOKです。

こうした分析や解釈がテクストに基づいてできるようになってくれば、教師と生徒とが一緒に学ぶ素地ができてきます。

たとえば、「婪り」では、主人公のモンテフェルトロ公が「野鴨」の恩返しを語るのですが、「それは本当に恩返しと言えるのか?」という問いに取り組むことができるということです。

恩返しにはそれが成立するための「話型」があります。その話型に当てはまるのかどうか点検するとともに、当てはまらないのならば、なぜモンテフェルトロ公は「恩返し」と語るのか?という問いも考えます。

これは教師用の手引きにもない問いですし、世界中の恩返しの話を分析することにもつながります。

それが探究的な学びということなのかなぁと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?