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【ボランティア編】他人の決めた道と自分で選ぶ道の話 その2

2年半の月日が流れ、

わたしが自分で選んだ道を進んだ結果、

わたし自身が、この中学生の勉強をみた時間は、とても少なかった。

ほとんど、おしゃべりしていた。

しかし、結局、この子は無事、希望校に入学できた。


何が起きたかというと、

見かねた周りが、その子に別の人を別の曜日にあてがったのだ。

その方は元校長先生という、

教えることに関するプロ中のプロの方だった。


その方がいかに素晴らしいか、

わたしはこの中学生から、とうとうと説明されることになるのだが、

その時のわたしの心情たるや・・・。

わたしだって、こんなに貴女の話きいているのに!!

なんで他の男の話をするのよ!!

という、これは恋愛か?という嫉妬心もあったりしたが(笑)

まぁ、それは大人になったわたしは外には出さなかった。

・・・いや、彼女もなかなか察する子だったので、

敢えて嫉妬させて、わたしの顔色を楽しんでいた可能性も

否定はできないが(笑)


つまり、何が言いたいかというと、

わたしは、自分に道が指し示されたとき、

それは自分がやらなければいけない、

そうでなければ、物事が崩れてしまう、

と、思いこんでいた。


もちろん、そういうケースもあるだろう。

崖から落ちそうな人の手を握っているときに、

「わたしじゃなくてもいいや」

などといって、あっさり手をはなせば、

それは事件になってしまう。


ただ、そういう極端な例を除き、

他人が示した道を、選ばない、とはっきり表明してしまえば、

周りは、それに合わせた対応をとる、

ということが、今回の件で分かったのだ。


要は、自分がやらなくたって、その空いたポジションには

誰かが入る可能性が十分にあるということだ。

もし、わたしが、今までのように、

真剣に彼女の勉強を見てしまっていたら、

元校長先生という優秀な指導者に会う機会を、

この中学生から奪ってしまっていたのかもしれない。


もしかすると、

自分がやりたいことを、自分で選択しても、

それに対して罪悪感を感じなくてもいいのかもしれない。

それが、例えその時は周りの思惑を外れ、

一時、迷惑をかけることになろうとも、

結果的に良い方向に動くのならば、

それは大した問題にはならないのではなのだろうか。

そんな考えに至った。


はまる、はまらない、という意味で、

自分のことをパズルのピースのように思う。

これまでは、

このピースは汎用性があったほうがいいし、自己主張がない方がいいし、

ただただ部品として機能して、そして出来るだけ代わりがきいて、

その存在に関して代わりがきく分、責任もなくて、

自分である必要もなくて、

そんなピースであればいいと思っていた。

それが組織において、正解なのだとさえ、思っていた。


ただ、今回の経験と、結果を通じて考えは変わった。

真っ白いピースが無理にはまらなくても、

もっといい景色を描けるピースがあるなら、それをはめた方がいいし、

自分も色のついたピースになれば、

もっといい景色を作りだせる場所があるのかもしれない。


でも、自分が何色のピースなのかは、

まずは自分で見極めないといけないし、

そして自分で発信しないと、誰も分からないし、

あと、どう扱われたいのかということも、

相手に伝えていかないと、決して分かっては貰えない。

それは、当たり前のことだと思う。


伝えて、否定されたらどうしよう。

そんな不安が、超ネガティブ思考なので、

当然、押し寄せて悶絶するけれども、

ただ、世の中は広くて、

受け入れる人もいれば、受け入れられない人もいるだろうし、

残念ながら全員に受け入れてもらえないのなら、

その集団から抜けだせばいいし、

もしその時受け入れられない人がいても、

時間がたてばその人も変わるかもしれないし。

ただ、ただ、世界は広く、そして流動的であり、

一瞬一瞬、瞬くその中を漂うこともできるし、

また、ひとところに留まることもできるのであろう。


全ては自分の選択、自分の見えている世界が全て。

周りがどうするのかは、周りが決めればいいこと。

わたしは、自分のことを決めるだけで精いっぱい。

だから、どうぞそちらも、お好きになさってくださいね?


そんな人との距離感が、

今のわたしにとって、最高に心地良いのである。

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