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【幼少期編】こどもの頃ってさ、問題解決の選択肢が少ないから、どうしても視野狭くなるんだよ

さて、ボランティアをすることによって、

自分にとって何が幸せかを発見したゆずさんではあったが、

まだまだ解決すべき問題は山積みだった。

ここにいらっしゃった、子供の頃のわたしをなんとかせねばならない、

というのも、その一つだ。

しかも、こちらにおわすお方が見覚えのある顔してるなと思ったら、

現実世界でも全く同じ表情をしていた時期がことが、

あるとき発覚する。

それは、祖父母がなくなり、家の整理をしていた時だった。

母が祖父母に送った写真を、束にしてもってきた。

実家にはある。自分で処分しろとのことだった。

母が勝手に撮って、祖父母に送ったわたしの写真を、

わたしに処分しろと言ってきたわけだ。

いい気分はしない。

が、恐らく、母は自身の育てた子供の写真を、

自分で捨てるのが嫌だったんだと思う。

彼女にとって、わたしと弟は、作品なのだから。

こういう言い方をすると、

昨今界隈をにぎやかにした、毒親という言葉が連想されるだろう。

だが、わたし個人の意見ではあるが、

毒親って毒親なんだろうか?と思う。

少なくとも、わたしの母親はプライドをもって子育てにあたっており、

自身も犠牲を尽くしていたことは明白だった。

その結果や、わたしと弟への対応が正しかったかは、

別問題として、

人が死力を尽くして行ったことを無下に評価するのは、

わたしは違うと思っている。

あくまで、個人的な感想ではあるが。

ただ、今回の写真の件といい、

彼女は自分で捨てるのは嫌。

行為を押し付けられたわたしは、自分の写真を自分で捨てろと言われ、

なんとも言えない、むなしさを強いられる。

押し付けられるわたしの身になったことある?

相手の立場になったことありますか?

このテーマに関して、母親に伝え、分かってもらいたい一心で、

物心ついたときから、論理性を磨き上げ、

なんとか言葉で理解していただこうと、

こんなに勉強を強いてくるのだから、

きっと論理でなら答えてくれると、

そう信じていた、幼少期~中学生低学年だった。

ほんとにね、

論理じゃ伝わらないと、あきらめた時のむなしさね、

絶望ともいうね。

自分の親に論理が通じないとか、

じゃあなんの為にわたしは勉強してたんだと、

中学で一回勉強する気なくなったわ。

単純に楽しいというのはあったから、

その後も惰性で細々続けてはいたけれど。

ああ、そうそう、

写真に写るわたしは、大抵、何かの受賞式で賞状
を手にしていた。

まだ小さい弟が並んで、無邪気な笑顔で映るなか、

わたしは、真一文字に結んだ口元に、少し上目遣いの

例の、あの、全てを恨んでいるような眼で、

カメラを睨みつけていた。

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