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『花束みたいな恋をした』を観て、好きなことへの向き合い方を考えた

 今更ながら観たんです。2021年1月29日公開なので、2年半経ってる。CM等で存在は知っていたものの、特に惹かれることもなくスルーしていたが、今回たまたま目に入ったから視聴した。特に映画にこだわりがある訳ではないのに、翌日以降にきちんと余韻を残している。この記事を書くくらいには。

 まだ10年も経っていない「2015年から2020年」の5年間を描いた本作。それなのに、こんなにもノスタルジーを感じさせることができるのか、ということに驚いた。誰もが知っているようなエンタメやトレンドを使って、「こんなことあったなあ」と思わせるのが上手い。
 例えば、付き合い始めのデートで食べる生クリーム山盛りのパンケーキ。ワイヤレスじゃないイヤホン。SMAP解散。今村夏子の芥川賞受賞。ストリーミング配信で動画を観ることが当たり前になってからのStaranger Things。別れた後に、まだ一緒に住んでいる部屋で飲むタピオカ。
 これが平成初期を振り返ったものなら、まだわかる。でもつい最近のことを確かに経験した時として描くことは共感性を高める。

 本作は麦と絹の物語であると同時に、「誰でもない私」がもう一度あの時を生きることができる作品になっている。同世代性がなくても、誰もが身に覚えがある物事を散りばめている。そんな本作だからこそ、自分の生き方(特に好きな物事への向き合い方)を考えるきっかけになったということを書いていきたい。

 麦と絹は、好きな本・漫画・映画・音楽をきっかけにお互いを意識し始める。ふたりとも映画の半券を小説のしおりにしていたり、深夜のカフェで見かけた押井守に興奮したり。大学生からフリーター時代にはお互い好きなことを一緒に楽しみ、大切にしながら過ごす訳だ。絹は就活が上手くいかなかったことが要因だと思うが、麦に関してはイラストに本腰を入れたくてフリーターを選んでいる。
 でもそんな二人に転機が訪れる。麦は安定した職がないと絹と一緒にいる未来がなくなってしまうかもしれないという不安を感じ始める。「絹と一緒にいるために」、「イラストの仕事が波に乗るために」と安定を求めたはずの麦だったが、いつの間にか仕事が第一になっていってしまう。「好き」を大事にし続けられている絹とだんだん噛み合わなくなってきてしまうのだ。

 さて、「社会人になって趣味に没頭できなくなってしまった」なんて、身に覚えがある人は多いのではないだろうか。少なくとも私は経験した。大学生の頃は深夜アニメを全録画し、最低3話は視聴してから切るかどうかを決めていた。それが就職後はどうだろう。Netflixで面白いと噂のアニメを観てみるけどいまいちハマれない。いつから人のおすすめを観るようになってしまったのか。自分の「好き」はどこにいってしまったのか。アニメを取り上げたが、音楽も小説もアイドルも同じことだった。「パズドラしかやる気がしない」麦の気持ちが痛いほど分かる。

 一方で絹は「好き」への気持ちを持ち続けている。定型的な医療事務に辟易し、エンタメ系の仕事を始めたりする。安定よりも好きなこと・面白いと思うことへの行動を切るわけだ。正直すごくかっこいい選択だと思う。でも麦からしたら面白くない。絹のように生きれるのが羨ましくて妬ましくて仕方がないはずだ。こうして二人は本格的にすれ違ってしまう。共通の「好き」で始まったはずなのに、「好き」が邪魔をするなんて皮肉だ。
 恋愛としては「あいつは変わった」「価値観が違ってきた」なんていうクリシェでしかないかもしれない。でも私はこのすれ違いにこの映画の一番の面白さを見出している。

 私も就活していたころには、エンターテイメント系に興味があった。おもちゃメーカーとか出版社とかテレビ局とか。でも踏ん切りがつかずに、結局あまり挑戦しなかった。好きを仕事にするということに尻込みしてしまったのだ。自信がなかった。結局IT企業に就職し、忙しさにかまけて好きだったはずのものから遠ざかってしまった。
 ふと思いなおすときがある。久々に観たアニメや漫画に感動したとき。テレビでやっていたお仕事ドラマに感化されたとき。私はこのまま今の仕事を続けていいのだろうか。悪くない、得意かもしれない、でもときめきはない。サラリーマンってそんなもの?いくら考えても答えなんて分からない。誰も私のことなんてわからないから。
 麦をみて思った。彼はまだ道の途中だったかもしれないけれど、安定を先に手に入れてからでも遅くない、と。楽しんで生きていける分の収入はある、貯金も余裕がある、ある程度スキルが身についたので転職もできる。社会の波に揉まれたことで、そんな自信はついた。「あ、私、今好きなことできるかもしれない」と思った。書きかけの小説を見つけた。こんなの書いてたんだ。めちゃくちゃだけど形にはなっている。「書く」がやりたいことかどうかはわからないけれど、「好き」を取り戻すための第一歩にはいいんじゃないか。
 
 なんとなく、物を創る側の人間は特別な使命がないといけないような気がしていた。壮大な夢というか。たまたま村上春樹のインタビュー本をめくっていたとき、印象的な内容があった。彼は世界的な小説家だけど、あまり誰のために書いているとか大きな命題はなくて、自分が快いから書いているといった趣旨だったと思う。あ、そうなんだ、村上春樹もそうなんだ。結局、創り続けられるかどうかによって足切りがされていることに改めて気が付いた。「やりたいことは何かな」なんて探そうとしているうちは、それほどやりたいことなんてないのだ。だったら、今の私ができることは少しでも心が動くもの、自然と行動に移せるものを続けてみることだろう。と。ダメだったら別のことをやってみればいいし、休憩してもいい。それができるのは安定を手に入れたから。
 プライベートがとても忙しいとか、とても激務な人には当てはまらないと思う。でもこれが私がとりあえず行き着いたところだ。

 さて、少しだけ麦と絹に話を戻させてもらう。付き合った当初から「こういったコミュニケーションはたくさんしたい方」という絹。キスとかセックスとか。付き合い初めは確かにたくさんコミュニケーションをとっている描写があるが、いつの間にか「麦といつからしていないんだろう」なんて絹のモノローグが入る。セックスレスカップル。なるほど、と思った。気持ちのすれ違いと同等、またはそれ以上の辛さがあるはずだ。
 絹は大学時代にギャラ飲みに参加していたり、同僚とコリドー街らしきところに行ってみたり、ある程度男慣れしていることが見受けられる。ピュアそうに見えるけど、そうでもない。

 誰もが身に覚えのあるような恋愛の始まりから終わり。終わりの始まり。始まりから終わりまで、雰囲気がすごく好きだった。特に麦の一人暮らし時代の部屋で絹が「ほぼ私の本棚じゃん」って言うところなんか最高。同棲時代の部屋も川沿いですごく快適そう。刺さってくれて感謝。

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