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大好きなゼミの先生の格言 その4:「ハイライトとひねり」

前回記事より連載)

卒業論文を書くにあたって、最も気をつけたことは何かと聞かれたら、
迷わず、「ハイライトとひねり」と答えると思う。

先生はよく、こう話していた。

ものの心臓は何か。
ハイライトのない語りはない。
ハイライトのために土俵をつくっていくのだ。

そしていい論文は、
その章が、あるべくしてある、ということも話していた。
つまり、第1章は、第2章のためにあり、第2章は、第3章のためにある。
論文全体は、ハイライトを際立たせるためにある、ということだ。

考えてみれば、ハイライトにこだわるというのは、
論文で主張したいことは何かと問われた時に、
簡潔に答えられるようにするということでもある。

それが大事な理由は、論文は作品だからだ。

たしかに、論文の原稿を仕上げるまでに、
膨大な量の文献を読み、勉強する。
しかし、論文は、勉強の成果を文字起こししたものではない。
学び、自分なりに理解したことを、
ストーリー立てて作品として仕上げるということが、
論文を書くということだ。

ハイライトにこだわる必要があるのは、論文だけではない。
テレビも雑誌も小説もブログも、何かを表現しているものには、
何かしら伝えたいメッセージがある。
そのメッセージが際立つように、
番組編成が組まれたり、写真や文章が作られたり、起承転結の構成が考えられているのだ。

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また、卒論でのハイライトは、往々にして「ひねり」でもあった。

論文のひねりとは何か。
それは、
論文の最もおもしろい箇所であり、
探究心をくすぐる事象であり、
著者が最も明らかにしたい部分であった。
「矛盾」と言い換えられるかもしれない。

あたりまえのことをあたりまえに説明しただけでは面白くない。
理論を学び、具体的な実践を観察し、
そこに垣間見られるひねり、矛盾した現実が、なぜ起きているのか。
それを考察して見えてくる新たな知こそが、
論文で伝えたいことであり、発見であり、ハイライトだった。

例えば、
男女共同参画が謳われている時代に、北関東圏には公立の別学校が存在するが、それはなぜか?
教師の多忙さが問題になっている時代に、部活動は教育課程外に位置付けられているにもかかわらず、なぜなくならないのか?

客観的に見たら、別学校も部活動もなくしたほうがいいと考えられる。
にもかかわらず、それがなぜ存在するのか。

これがひねりでありハイライトであった。

私たちは、ひねりに溢れた社会に生きているのだと思う。
しかし、そのひねりは、あまりにあたりまえに存在しているため、
近くにいてはひねりとして見えてこない。

だから、ひねりを際立たせるために必要な理論的前提をたくさん学び、
具体的な実践例を取り上げ、
その矛盾の裏に存在する価値や意味を明らかにする。

それが、卒論でやったことの意味であった。

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