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短篇『大阪エレジー』


 銀色の鉄の箱が通り過ぎていく。
 無機質な駅のホームに立ち尽くす私の横を、暴力的な速さで。
 地上の人々が豆粒に見える高層ビルの屋上も。どれだけ深いかも分からないほど濁った河川に掛かる橋も。

 大阪みたいな都会に住んでいると、「死」という言葉が脳裏を過ぎるのは日常茶飯事だ。

 特に梅田の人混みを歩くと、人が多すぎて皆ロボットみたいに見える。何百人もの人が、命を家に置いてきたみたいな目をして、規則正しい行進を続けて。その人いきれの中で足並みを揃える私も、自分の意思で足を動かしてないみたいに。
 それを毎日毎日繰り返して、二つの地点を往復して。これからの人生がずっとそうなんだと思ったら、何もかも馬鹿馬鹿しくて。

 消えたくなった。


 ネットの掲示板で見たけど、飛び降りって案外痛くない方法らしい。高ささえ確保すればほぼ即死だし、落ちている数秒間は恐怖も感じず、むしろ夢見心地なんだとか。

「──いや。飛ぶまではちゃんと恐いって書いといて欲しかったな……」

 深夜でも眠らない街並みを見下ろして、震える声で私は零した。まさかフェンスを乗り越えるまでに三時間もかかるとは流石に思わなかった。不思議なのは、いざそれとの距離がこんなにも近くなると、何かまだ為すべきことがあるような、そんな気にさせられることだ。

 当たり前なのかもしれないけど、私の命はこんなところで散らすには惜しいというか。死ぬ間際にそう思ってしまうような私はまだ死ぬべきじゃないというか……。

 帰ろう。今日はやめておこう。

 そう思ったのに、フェンスをもう一度乗り越えることがなぜかできなくて、私はまた数時間、数十センチの幅に立ち尽くした。

「ああ、そうか。この数十センチは『生』でも『死』でもない場所なんだ。だからこんなにも……心地いいんだろうな」

 フェンスに手をかけて、そんな至極どうでもいいことを呟く。ぬるい夏風に吹かれながら、私は異常なほど冷静に、今の状況と私の心境を表現するための言葉を探し続けていた。

「ふふっ。やっぱり駄目だね……」

 街が淡い青に包まれる頃合いになって、私はようやく『生』の方へと乗り越えた。

 私は歌を。
 歌を書かなきゃいけないから。

 

          *


 大阪に出て来てから、一度しか触っていなかったアコースティックギター。歌を書くのなんていつぶりだろう。昔は夢中になって歌詞をノートに書き殴って、毎日のようにバンド仲間と歌っていたのに。都会に流れる時間は、田舎と違って飛ぶように速い。

 いや、私が大人になっただけなのかな。でも、いつまで経っても「まだ大阪に来たばかり」と思っているくらいだから、逆に子供なのかもしれないとも思う。だけど、大人になって分かる。
 大人でいつづけることってそんなに楽じゃない。だからきっと、偉そうな上司も、若い子を見下す目で見ているおばさんも、きっと誰かの前では、どこかの瞬間では子供なんだ。そうでないと、人は生きていけないんじゃないのかな。

 私にとって、子供であれる瞬間は音楽と触れ合う時だった。ギターを久しぶりに鳴らし、簡単なコードに適当な鼻歌を乗せた時、私はそのことを思い出した。


 一人暮らししているアパートはふつうの住宅街──だと思う。しかし、私の知っている「ふつう」ではなくて、近所には田畑も竹藪も、小さな山ひとつない。なんでやねん、と「ふつう」にこんなところで暮らしている大阪人に言いたくなるが、また似非だの何だの言われるのは御免なのでやめておこう。

 何が言いたいって、この大阪の街はどうやっても窮屈だ。狭い土地に数多の家がぎゅうぎゅうに敷き詰められていて、ご近所さんの声を、目を、耳を、常に意識しなくてはいけない。部屋の中で歌おうものなら、隣の部屋どころかご近所中に聞かれる覚悟が必要な訳だ。

 気付けば私はギターを背負って、近くにある公園に来ていた。この公園は公園といっても、スタジアムや競技場もある大規模なところで、緑も多いからいわば私のオアシス的場所だ。ここが私のアナザースカイ。

 歌うのに都合のいい場所なら心当たりがあった。そこはぐるっと木に囲まれた砂地で、街灯が少なく仄暗い。端っこにある大きな岩は、腰かけるのにちょうどいい。

 何より良いのは、そこから見える開けた夜空。他の建造物が全く見えないので、もはや月の独壇場。まるでこの場所を照らすスポットライトの如く光を落としている。

 天然の照明を一心に浴びて、私は歌った。私にしか歌えない私だけの歌を。ここなら、窮屈な場所から抜け出して、好きなように歌えた。

 

 少なくとも大阪に出てくる前、子供だった私は死にたいなどと思ったことがなかった。特別裕福でもなかったけれど、特別不遇でもなかった家庭。多くはなかったけれど、いい子ばかりだった友達。めちゃくちゃ幸せって思うこともなかったけれど、なんだかんだ恵まれていたんだと思う。当時書いた歌は、何気ない日常を描いたものばかりだった。

 それはまるで、女子高生が思い出を写真に残そうとするのと同じように。その時の私が思ったこと、感じたこと、見たもの、聞いたもの、それを歌として残した。初めて失恋なんかした時は、誰にも聞かせられないようなひどい曲が腐るほど出来たものだ。

 私は根っからのシンガーソングライターなんだ。こっ恥ずかしいけれど、そうでもないとこっち側に戻ってこれた説明がつかない。

 初めて死にたいって思ったことも、初めて見たビルの屋上からの景色も、フェンスを乗り越えた時の恐怖も、結局死ねなかった私のことすらも。


 ぜんぶ歌にしようなんて思うんだ。私は。


 だから、そんなこと言っている内は死ねないね。残念だけど、仕方がない。

 仕方がないから、仕方がないってことを歌詞にした。そしてその歌詞にメロディをつけた。冷たい岩の感触をお尻に感じながら。


          *


 仕事終わりに公園に寄っては、なんともなしに歌を歌う。

 そんなサイクルが暫く続いていた。もちろん、それで急激に生きる気力が湧いてきたとかそんな簡単なことはなかったけれど。
 都会の喧騒の中で、まるで透明人間になったように感じていた私は、少しだけ自分という実体を取り戻したような気がした。

 私が作った歌は、私が存在していたことの証明だ。それがこの世界に残ることが、なんだか嬉しかった。

 とはいえ、楽譜にもボイスメモにも記録を残さず、歌詞だけをノートに書き殴っているだけ。それに、この深夜に知らない人が歌っているのを誰かが聴いてくれるでもない。
 遠巻きにちらっと通行人に見られては、すぐに立ち去られたことくらいなら何度かあるけれど。

 それを不満と思ったことは一度もなかったし、私は歌を書き残す喜びで充分満足もしていた。しかし、心のどこかで「誰かに聴いてほしい」と願っていなかったといえば嘘になる。
 それは、誰かの心に私の遺伝子を乗せた「種子」を埋め込んで、この世界に少しでも長く繁栄したいという極めて本能的な欲求の現れに思えた。

 

 その日。そんな私の願いに応えるかのように、彼は現れた。

 深夜2時。いつもの場所。いつものように私は歌っていた。書いた曲が溜まってきて、そろそろセットリストでも組もうかと考えている時だった。流石に観客のいないワンマンライブは可哀想だと神様が思ったのかもしれない。まだ学生のように見える彼は最初、少し離れて私の歌を直立不動で聴いていた。そして一曲歌い終えると、彼は純粋な目をして小さく拍手した。

「いい歌ですね」

 近付いてそんなことを言うものだから、私は少し驚いた。都会の子らしくない距離感だな、と。とはいえ、自分の歌を褒められているのだから悪い気はしない。人懐っこい笑顔で言われれば尚更だ。

「でしょう? 私が作ったんだ」

「へえ! すごいです。歌も上手なのに、作曲もできるなんて」

 そういえばこうして人に褒められるのは、いつぶりだろうか。そもそも、顔を合わせて人と仕事以外の話をしたのが久しぶりだった。そりゃ死にたくもなるか。今更ながらにそんなことを納得していた。

「この場所いいですよね、僕もよく来るんです。都会ってすごく疲れるから……」

 月並みだけれど、彼のその言葉で私は彼に心を許した。否、許したくなった。私の「種子」としての歌を、彼の心に残したいと欲望した。


          *


 それから彼は、週に何度か不定期に公園にやってきた。私は彼一人に向けて毎日ワンマンライブをした。ギター一本、マイクもなし。
 翌日の仕事の為いつも数曲ずつだったけれど、彼は必ず褒めてくれた。どの曲でも、どんな日も。おだてられているのだとは思うのだが、彼があまりにも子供みたいに笑うから、私はだんだん舞い上がっていた。

 気付けば季節は巡り、夜風が少し肌寒く感じる頃。陽の当たらない時間の中で、私たちは他愛のない話をするくらいの関係にはなっていた。
 といっても、お互いの名前や年齢は、何も知らない。単に聞く必要がなかった。かろうじて知っていることと言えば、私が会社員をしていること。彼は大学生で、進学のために大阪に出てきたことくらいだ。
 私たちは殆どの時間、音楽の話をして過ごしていた。昔書いた歌のこと。好きなバンドのこと。本当は彼も歌を書こうとしたことがあること。

 もうひとつ話していたとすれば、それはこの街──大阪のことくらいだろうか。

「僕、実は梅田って一度しか行ったことないんです」

 ある日、彼がそう打ち明けた時は流石の私も驚いた。いやしかし、乗り換えで利用することはあっても、梅田という地に降り立って何かすることって意外と少ないのかな……? よく考えれば、私も通勤で通る以外は化粧品や服を買うくらいでしか利用していない気もする。

「梅田は路上ライブしてる人が多いって聞いて、そのために一度……」

 変わってる子だなあ。そう思ったけれど、声には出さなかった。こんな変わった出逢いすら歌になるやもと企む私だって、きっと相当に変わっているだろうから。

「でも駄目でした。あそこは人が多すぎて、無機物なモノや情報が多すぎて、なんだか急かされるような気分になるんです」

 苦々しい表情で語る彼に私は共感した。しかし一方で、そのことにもはや何も感じなくなった自分自身を、乾いた眼で見つめてもいた。

「じゃあ私が梅田のおすすめの場所を教えてあげるよ。気が向いたら行ってみて」

 こう言う時は一緒に行くのが普通なんだろうけど、それは何か違う気がした。この木に囲まれた場所でしか、この月に照らされる時間にしか、私と彼の関係は成り立っていないように思えたのだ。

「ありがとうございます。嬉しいです」

 その時の彼の笑顔がいつもの人懐っこい顔とは程遠くて、私は思わず目を細めた。何も言えない。何も聞けないくせして、彼の奥底を巣食う闇から、自分の音楽で救うことはできないかと、この時から私はよく考えるようになっていた。

 私は自分の歌で、彼を笑顔にしたかった。なんて言うと、とても高尚なことに聞こえるけど、そんなんじゃない。私は誰かを救うことで、私と私の音楽の価値を高めたかったに過ぎないのだ。


          *


 そうだ、シンガーソングライターになろう。

 人種としてのシンガーソングライターではなくて、職業としてのシンガーソングライターに。そう決めたきっかけは職場でのゴタゴタとか、他にも諸々あるけれど、その大きなひとつはやはり彼だった。

「今日は新曲書いてきたから、良かったら感想教えて」

「楽しみです」

 その日私は、彼のことを考えて書いた曲を、初めて彼に聴かせた。その歌詞の内容はあまりにエゴイスティックで、「救い」とは程遠いものだったけれど、そうでなければ嘘になると思った。何も知らない他人のことを救いたいなんて歌は。

 ひとつ歌い終える度に必ず褒めてくれた彼が、その時は何も言わなかった。否、何も言えなかったのだ。彼は泣いていた。彼自身気付かぬうちに、声も出さず一筋の涙を頬に伝えていた。

「不思議です。あなたの歌はどうしようもなくあなたのことを歌うのに、どうしてこの曲も……そして今までの曲も全部、僕の痛みにこんなに寄り添ってくれるのでしょうか」

「寄り添ってなんかないよ。本当に。全部、自分のためなんだ」

「それってすごいことです。僕なんかの為じゃなくて……もっと色んな人に届けるべきです」

「そ、そうかな……」

 私は困り顔を浮かべながらも、内心高揚していた。確かに彼はこれまでもずっと褒めてくれていたけど、どこかでその言葉というものを信じ切れていない私がいた。
 いやむしろ必ず褒めてくれるからこそ、その言葉というものを儀礼的に感じてしまってもいたんだろう。しかし、涙を流すという現象には、そうした私の疑念を一切寄せ付けない説得力があった。

 要するに、私はこの日初めて「自分の歌が誰かを救う」ということを、身に染みて実感したのである。


          *


 都会特有の生臭さ。居場所を求めるようにたむろする若者。薄っぺらい笑顔で声を張り上げる客引き。そう、私は梅田にやってきていた。

 シンガーソングライターになるなんて言ったって、私は何のコネもないし、大した機材も持ってない。だったらやはり路上ライブからだと思った。それなら、場所を変えるだけで済む。

 

 久しぶりに梅田に降り立つと、金曜の夕方ということもあって人の数は当然凄まじく、私はくらっと倒れそうになった。それでも私は、よく路上ライブしてる人がいる某商業ビルの前を陣取った。
 梅田の中でもかなりの人が通行したり、待ち合わせをしたりするこの場所なら、私の種子がまた誰かの心に留まるかもしれない。

 涙を流した彼の顔を思い返す。「梅田で歌ってみようと思う」と伝えた時、彼は驚いていた。また遠慮がちな笑みを浮かべて「絶対上手くいきますよ」なんて励ましていたから、きっと彼はまだ見に来たりはしないだろう。 
 でも、私がここで歌い続けていれば、人気が出るようになったりしたら、いつかは──。

 ううん、彼だけじゃない。いつかは私も、こんな街を、大阪を、愛せるようになるだろうか。なれたら……いいな。


 よし、と一言呟いて私は大きく息を吸い込んだ。ひどく濁った空気が肺に溜まっていくのを感じてから、それを歌声に変えた。

 最初は勢い任せで、殆ど目を瞑っていた。ただ、歌うのを楽しむように歌えるように。コードを弾き間違えても、気にしないで済むように。でも段々慣れてくると、徐々に周りを見る余裕も出てきた。

 待ち合わせかもしくはナンパ待ちか、若い女の子は私の歌なんて気にせずスマホをいじっている。信号待ちのサラリーマンは、ちらちら私の方を見ては同僚に何か言っている。大半の通行人も、歩みこそ止めないが何度か私の方を見ては過ぎていく。

 歌うのは楽しかった。バンドで歌った時のことを思い出した。こんなに多くの人に囲まれているのは、通勤でも同じなのに。ひとたびステージに上がれば、私という存在は都会でも透明に感じない。そんな至極当然のことを、改めて思い知っていた。

 まだ二か月くらいしか経っていないのに、ビルの屋上に立っていた私は遠くの方にいる。もうしばらくは、そっち側に乗り越えはしないだろうな。だって私は──。


──だって私はシンガーソングライターだから


 そんなことを想いながら、私はサビを熱唱する。大阪に出てきて初めて作った歌。死の淵に立って初めてできた歌。何曲目かも覚えていないけれど、ようやく私の前に一人、また一人と通行人が立ち止まり始めていた。
 ほんの少し動揺したものの、それを隠すように私は熱量をさらに高める。ラスサビを歌う頃には、聴衆の輪ができていて、なかにはスマホで動画を撮る人もいた。

 そうか。私の種子は、世界にばらまかれるのか。
 大阪という街の中心から歌えばそんなことも起こるんだ。

 歌っている。それを見られている。聴かれている。ちゃんと届いているんだ。そう思うと、より一層、全身に力が込もった。

 ここにいるのは私だ。
 紛れもなくかけがえのない私。

 シンガーソングライターの私なんだ。


「危ない!」


 歌唱を終える寸前、観客の一人が上を見ながら必死の形相で叫んだ。何事かと私も空を仰いで──

 鈍い音が夜の街に響き、梅田の街はどよめいた。慟哭と悲鳴。シャッター音とサイレン。
 水面に石を落とすように波紋は広がっていく。誰もがその揺れに慌てふためく中で、柱の陰で肩を寄せ合うカップルだけが、ただ夢中で口づけをしていた。















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