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掌編『活性化エネルギー』

 その手をもう、私は知りすぎた。

 彼は私の身体をゆっくり撫でながら、首筋を舐める。唾液が乾いたら臭うなと思いながら、私は声を漏らした。
 彼の手が胸からお腹を経由して徐々に下っていく。ごつごつした人差し指を咥えた私の身体がちゃんと湿っているのを確認して、彼は避妊具をつける。身体が覆い被さるにつれて、ミシミシと軋めく音がした。
照明を付けていない真っ暗闇の中でも、私たちの行為に障りはない。まるで組体操をするかのように、二人は滞りなく身体を動かす。もう2年だ。慣れ切った手順。慣れ切った手際。慣れ切った快感と倦怠感。この灰色の壁に囲まれた1Kに、未知はもうどこにもなかった。
「やばい、もう」
「うん。いいよ……」
 彼が腰を振る速度を上げるにつれて、少しだけ身体の奥深くが痛む。しかし、それも慣れたことだった。私は声を徐々に大きくしながら、これが人生最後になるかもしれないのかと、他人事のように考えていた。

          *

 
 初めて触れた時、私の中身がまるきり変わってしまうんじゃないかと、そう錯覚した。

 派遣社員として働いていた書店で、彼に出会った。互いに恋人と呼べる間柄の人がこれまでいなかったから、ちょうどよかったのだろう。私も死ぬまでに一度くらいは、恋というものを体験したいと思っていた。異性に触れて、異性に触れられてみたかった。これ以上生きていても私の価値は下がる一方だと思っていたから、私は急落する株を急いで売り払うように、彼に抱いてと請うた。
失礼なことを言えば、彼の顔や性格を特別いいと思ったことはなかった。悪い人ではないと思っていたが、彼に対する感情が恋と呼べるものだったのかも、甚だ怪しい。しかし、彼とした初めてのキスは、人生初めてのキスは、とても心地が良かった。家族以外の異性と初めてバクテリアを交換する行為が、私にとってはビッグバンのように感じられた。

彼に素肌を触れられるたびに、くすぐったい気持ちになった。
 掌を通して彼の熱が私の身体に侵入する。コーヒーにミルクが混ざって茶色くなっていくように、二つの異なる体温はゆっくりと均一に近づいていく。エントロピーが増大していく。

「……今日のご飯、どうしようか」
 私に腕枕をしながら、上裸のままスマホを眺める彼。ブルーライトに照らされたその横顔も、その野暮ったい一重に覆われた瞳も、日常の再放送。
「いつものでいいんじゃない?」
 主体性のない恋がいつまでも漂う。最初に漕いだ推進力と、その慣性、そして時間の流れを頼りに、私たちはこの恋をいつまでも漂っているのだ。

 ふたりはひとつになろうと互いの心を混ぜ合って、徐々に互いの色が似通って、でも決して同じ色にはならなかった。そこには、ただ退屈で、でもこれ以上分かり合えない、溶けかけのふたつが残った。

宇宙の膨張速度は、すぐに緩やかになっていく。そして、開くことも閉じることもなくなった平坦な宇宙は、ただ停滞して、やがて熱的死を迎えるのだ。

 一年も経たないうちに、彼の手は私をくすぐる力を失った。

          *


 これが最後。だからすべて持ち帰ろうって、私は決めていた。 

未だスマホを見ている彼を横目に、私はそっと部屋を後にする。洗面所に向かうと、鏡に大して凹凸のない裸体が映った。何の感動もなく私は自分のそれを一瞥してから、洗面台に置かれた歯ブラシや化粧水を手に取る。化粧道具を入れたポーチも鞄に仕舞う。
始まってしまえば、すべて下り坂の2年だった。振り子が少しずつ最下点へ近づいていくさまを眺めるかのような。お互いそれを分かっていて、それでも別れを切り出さなかったのはなぜだろうか。

 長く一緒にいて情でも湧いたか、というとそうではない気がする。かといって、この関係に依存している訳でもない。そんな時期も確かにあったにはあったが、今はもう煩わしさや消耗が上回っている。二人で一緒にいるのは、確かに楽だ。心の半分くらいは彼と溶け合って、会う約束も、行く場所も、話す話題も、性行為も、滞ることがない。それでも、だからこそ、彼と抱きしめ合うほどに二人の溝は意識される。混ざりきらない、二人の相容れない部分が許せなくなる。
 人は結局、一人でいる時が一番安定しているのだと気付く。二人でいくら絆を結ぼうと、そこにはコストがかかっているのだと知る。それでも、私たちは一人に戻ることを選ばなかった。なぜなら、それは面倒だからだ。コストを嫌って一人になろうとしても、今ここに結ばれた二人を引き裂くのはもっとコストがかかる。体力や気力が要る。

 だから二人は、こうして二人のまま、いつまでも澱んでいる。
しかし、それも今日で終わる。私は彼の部屋に預けた私の残骸たちを搔き集めた。ゆっくり、ゆっくりと、心と心に縫われた糸を断ち切るように。

            *


 彼が寝室から出てくる。台風一過のような寝癖も、今日で見納めだ。
「すきだよ」
 洗い物をする私を、彼は後ろから抱きしめた。これも彼のよくやる癖だ。
「わたしも、すき」
 全部知っている。ただ相手の「すき」を引き出す為だけの「すき」の軽さ。そんなオウム返しでなんとか維持している、この関係の軽薄さ。
自動化された、マニュアル化された会話に滞りはない。
彼が「すき」と口に出すのは決まって、電話を切る前と、行為をした後。

  
 前に、中学生の女の子ふたりが騒がしく話していたのをスタバで聞いて驚いた。
 彼女たちはお互いの話など一切聞かずに、ただ自分のしたい話をぶつけあっては、でも「それなー」「わかるー」と共感し合っていた。会話をしていないのに、会話が成り立っていたのだ。
 私たちの会話も、実はあれに近いのだと最近気付いた。互いが話している時は、「うん」「そうだね」「確かに」と適当な相槌を打ち、一通り言い終えたらターン交代。今度はその逆をやるだけ。互いの話など興味もない。中学生と違うのは、互いに話を聞いている体を守ろうとしていることだけだ。

 そして今日もそんな会話をだらだらとしては、日が暮れる。
 私はスマホで時計を確認するフリをして、「じゃあ、そろそろ行こうかな」と腰を上げる。彼もだるそうに立ち上がり、パーカーを羽織った。律儀に駅まで送るつもりなのだろう。もう習慣になってしまったそれを断るのは、この安定した関係に波風を立てることになるから。私としては、正直もう来てくれなくてよかった。今日だけじゃなくて、ずっとそう思っていた。別れ際の言葉もまたマニュアルめいていて、電車が来る二分前にハグをするとか、視界から外れるまで手を振るとか、そんな強制めいた習慣が面倒だった。

「送ってくれてありがとね」
 マニュアルの冒頭を私は読み上げる。次に彼が「ううん、楽しかった。また来てね」と返す手順だ。しかし、彼は無言で黙っていた。学芸会で台本を忘れた子供を見守るような気持ちになりながら、彼の顔を覗く。
「なんか、荷物多くない?」
 彼は思いもよらないことを言った。
「何か持って帰った?」
「あ、うん……化粧水とか、結構なくなってたから、取り換えようかなって」
 私はとっさに嘘をついていた。ここで別れを切り出すはずだった。
「そう」
 彼は興味をなくしたように呟いたのち、二分前のハグをした。私はしっかりと車内に入っても、彼に手を振り続けていた。

 
              *

 
 縫われた糸がほどけるより先に、私の心が千切れてしまっていた。

 私は次の週も、彼のアパートに向かうべく電車に乗り込んでいた。きちんと替えの化粧道具やヘアブラシ、寝間着、歯ブラシを携えて。
 一通り済んだのだから、後は一言「さよなら」とメッセージを送るだけでよかった。それでブロックでもすれば、すんなり別れることができた。支払うコストはそこまで大きくなかったはずなのに。なぜ私はそれができなかったのだろうか。
 地下鉄の窓に映り込む、左右あべこべの私に問う。彼女は答える。
「私が失われてしまうのは、なんか勿体ない気がして」
 私の心の片割れが、彼と混ざり合ってひとつになった半分が、そう気だるげに言った。
 
彼女の気持ちは全く理解できなくて、そして痛いほどよく分かった。
 彼を失うこと、彼から離れることは何もこわくない。むしろ早く一人になりたいくらい。しかし彼と離れれば、彼に預けた私の半分は失われてしまう。
 結局、どんなに私の私物を回収しても、溶けあった二人の心をほぐすことなどできなかったのだ。茶色く濁ったカフェオレを、二度と黒と白に分離できないのと同じように。
「それに、あんなに軽くて機械めいた言葉でも、欲してしまう時だってあるんだよ」
 そう諦めたようにこぼす声を、呆れたように聞く。
「とどのつまり、彼と離れるだけのエネルギーを、私は持ち合わせていなかっただけでしょう」
「そうかもね」
 決断すること、変わること、誰かに気持ちを分かってもらうこと。
何かを諦めていくうちに、私は他者や社会とチューニングを合わせるための力を衰えさせてしまったのだろう。
だから、なんだか閉塞的だなんて曖昧な理由でこの関係を終わらせることなど、私にはできなかったのだ。

           *


 しかし、彼はそうではなかった。

「ごめん、別れよう」
 辿り着いた先。行き慣れた家で彼に言われたのは、私が前回言えなかった言葉だった。
「そっか」
 私が自分の私物をすべて持ち帰ったことで、彼にも何かしら思うことがあったのかもしれない。もしくは単純に、ケリをつけるいい機会だと考えたのかもしれない。
「今までありがとね」
 私は彼にお礼を言って、
「さよなら」
 彼と私の半分に別れを告げた。
「こちらこそ、今までありがとう」
 彼のやけに清々しい顔が妙に心をざわつかせる。彼が何を考えているのか、久々に覗きたいと欲望していた。なんだか今までの彼とはどこか違うような気がしたのだ。
「これからも、元気でね」
 そう言って差し伸べられた手を握る。その感触がなんだか知らない人の手のように感じられて、私は思わず手を離せないでいる。
「さよなら」
 彼が手を引っ込めようとして、私の手は名残惜しそうに宙に投げ出された。

 きっと私と彼の距離は、最小値ギリギリの限界まで近づいた。それ以上近づくことは、ましてや同じ座標に居座ることなど、到底できなかった。
 そしてこの時点をもって、二人の距離がまた開いていくのがわかった。これから彼は、徐々に私の知らない彼になっていくのだ。

 ひとりぼっちで帰りの電車に乗った私は、ひとりぼっちの部屋に向かう。
彼の家に置くはずだった荷物と、少しの安堵と解放感、どうしようもない淋しさを携えて。

 






 
  

  



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