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神仏の造詣,奈良国立博物館にて

 僕は小学6年生の時、「信仰の対象が多すぎる」と思った.
これは自分の主観だけで物を考えたつもりは全くなくて、「地球上に信仰の対象が多すぎるのは、大きな分断に繋がるのではないか」と、若干12歳にして、青ざめていたのである.

先日、奈良国立博物館で開催された
”奈良博三昧-至高の仏教美術コレクション”という展覧会に行ってきた.

一口に仏教と言っても、多くの宗派や宗門があり、中には対立的なものも存在する.
この展覧会はそういった宗派の違いなどを認めつつも、あえて同じ空間内に配置するという展示方法をとっており、あくまでも中立の立場を保持しながら見て回ることの重要性が感じられた.

命に関する死生観や、善悪などの人道的価値観など、仏教のみならず多くの宗教が思想を提示している.

仏教は「静」と「動」のような緩急がある宗教だと思う.
仏教の教えはとても深く、そして極めて繊細で、多くの人の心をえぐり、また癒すからである.

修行をするにおいての身分や条件で、その内容や過酷さがガラリと変わる.
更に興味深いのが「物事をとらえる際の価値観や考え方をも変えることを要求される」という部分である.

2000年以上前、インドにてゴータマ・シッダールタとして生まれ、悟りを開きブッダとなったシャカは、数えきれないほどの教えを説き、人々を導いた.

「出家の者は、火の柱を抱いても女人を抱いてはならない」
「在家の者は、妻と子を何よりも愛し、大切にしなければならない」

シャカはこのような内容を説いている.
出家者とは、いわゆる修行僧のことである.
在家者とは、出家はしていないが仏教の教えを学び、一般人としての日常の中で修行する者のことである.
「妻と子を大切にする」の内容には、もちろん妻との肉体的なコミュニケーションが含まれており、それをも含めて「大切にしなければならない」と説いているのである.

在家者と出家者に対し、全く違う内容を説いており、価値観や考え方を変えることを要求していると言える内容はとても興味深い.
これは大衆的な教えと、各個人に当てはまる教えが同時に存在していることを間接的に説いているとも言える.


今回の展覧会に参加して最も感じ、考えたことは「死に対する意識」だった.
これは僕が持つ意識ではなく、仏像や曼荼羅マンダラに対して、これまで多くの人々が恐怖を乗り越えるため、何らかの願いをかなえるために、多くの望みと敬意を抱いて手を合わせ、祈ってきた意識である.

宗教は「死に対する恐怖を克服するためのもの」と言われることが往々にしてあり、宗教の役割や目的はそれだけではないものの、これは間違いではない.

仏像や曼荼羅に対して祈りを捧げてきた在家の人々は、恐らく生まれた意味や前世のことよりも、死ぬ際のこと、死んだ後のことをより大きなものとして捉えていたのではないかと思う.

それはつまり、仏教を「死の恐怖を克服するためのシステム」として無自覚に捉え、活用していたということである.

数百年以上も昔から手を合わせる対象とされてきた仏像や曼荼羅を目の前にして考えたことは、死の恐怖を克服するシステムを使おうとする際、死の恐怖としっかり向き合わなければならないという条件に対する人間の感情や思考などであり、それは僕という一人の人間から発せられる、ある意味「配慮」と呼ぶことが出来るものだった.

死の恐怖を克服するものでなくても、信じることで初めて効果を発揮するシステムは、いつの時代においても人類にとって不可欠なものである.
そのシステムを探す目的としても、自分が恐れていることや目を背けたいと思うものと真剣に対話していきたいと思っているし、それをやることぐらいしか自分にできることが無いのも理解している.



「神仏の造詣ゾウケイ,奈良国立博物館にて」

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