狼狽と散漫

何か有意義なことをしようと、晩御飯は外に出て健康的な定食を食べることにした。

外食はあまり得意ではない。以前は一人で店に入ることが出来なかったが、最近は少しずつ一人でも出来るようになってきた。

外はとても怖い。様々なルールがあり様々な人間がいて様々な音がして様々な視線が行き交う。あまりにも沢山の刺激がある。外食は特にそのような刺激の中でずっと同じ場所に留まっていなければいけない。これはなかなかの苦痛である。

人と一緒に入ったお店なら多少は安心して行けるようになってきたので、お馴染みの定食屋に入った。

寒くなってきたのでショウガ入りの鍋を頼んだ。定食なので勿論ご飯や味噌汁もついてくる。おそらく取り分けるための皿とれんげのようなものもついてきた。

ここで困るのは食べ方だ。何から食べ始めるのがいいのだ?この取り皿は本当に鍋を取り分けるものであっている?れんげで取り分けてそのままれんげで食べても良いのか?ご飯はご飯のみで食べる?鍋と一緒に食べて良い?しめとしてご飯を入れることもあるし、このご飯は鍋とともに食べて良いのか?何から何まで事細かにルールを記載して欲しいと思った。

このようなはっきりとしたルールが分からず、うやむやのままで食べることとなった。しかしこれらの食べ方が果たしてあってるのかも分からず、そればかり気になってしまった。

村田紗耶香さんのエッセイ『となりの脳世界』に似たような話が載っていた。定期的に読んで似たような仲間がいたのだという事実に救われないと、私はきっといつまでもこの苦しさに捕らわれてしまうなと思った。

とにかく周りに怯えながら自分は何か間違ったことをしているのではないかと気が気でないまま、しかし手を止めてしまってはそれこそおかしな人間に思われるような気がしてもはや機械的に鍋をすくって口に運ぶ動作を繰り返した。水を飲みたいと思った。しかし水を飲んで顔を上げた場合、視線はどこに持っていけばよいのか分からず少しためらった。幸い目の前に人はいなかったのでなんとか飲むことが出来た。目の前に人がいると自分の挙動をみられている気がして私は顔を上げることが出来なくなる。

毎日ここまで様々なことが気になってしまうわけではない。調子が悪いとそのような視線やルールが特に気になってしまい、周りの声がやけに大きく耳に入り、思考が止まらなくなる。おそらく今日はあまり調子が良い日ではなかった。

頭の中で思考が止まらなくなることは頻繁にある。(このような頭の中の言語のことを心理学で内言と呼ぶことを最近学んだ。もう少し深くこのことについて学んでみたいと思う)文章としてアウトプットすればこのような内言は減るのではないかと考えnoteを始めた訳だが、今度は逆にnoteに書くために更に細かく思考が言語化され文章として成り立ってしまいあまりに頭の中がうるさくなってしまった。鍋を食べながらひたすらルールについて考え内言についても考え書きたいなと思ったネタについても考えさらにそれが派生して余計なことまで考える。周りの視線に怯え思考は止まらずと言った状態だ。勿論味なんか感じられる余裕はなかった。

もしかすると思考がここまで文章化されてしまったのは調子が悪いせいかもしれない。そうであって欲しい。

ようやく完食し店を出るかと思ったときに初めて自分の足がしびれていることに気付いた。どうやら本当に体が緊張してしまっていたらしい。別に正座などをしていたわけではなく、一般的な椅子に座っていただけだがそれでも緊張し体がこわばると足は痺れるものなのかもしれない。

ご飯を食べて少しリフレッシュしたかっただけなのにここまで疲れるとは想定外だった。

今まで人と話すと疲弊してしまっていたので、私は人と話すことがあまり得意ではないし向いていないんだなと思っていたが、このような特性を理解してくれる相手に自分の中に渦巻いている思考を外言としてアウトプットすると恐ろしいくらい楽になると最近気づいた。このような日は人と一緒に食事をしに行った方がよかったのかもしれない。

そういえば知り合ったばかりの人に、たまにあなたは宙を見つめている、と言われたことを思い出した。自覚はないが、そのようなときは恐らく頭の中で何か思考が止まらなくなっているのだろうなと思った。そこまで調子が悪くない日でも私は宙を見つめてしまっているのだろうか。思考を止めることはできないが、かといって宙を見つめる人間として認知されるのも如何なものだろうか……。

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