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自分主体のコミュニケーションへ ーアサーション/アサーティブネスから学んだことー

社会的動物、人間として生まれたからには、人とのコミュニケーション無しに社会生活が存続でない…いち一人間として、コミュニケーションにおける悩みは一生尽きず、学び続けるものなんだろうなぁと思います。

人とのコミュニケーションについて考えることが多い私は、

アドラー、NVC、メンタルモデル…などなど、いろいろ学んできました。

そして、昨年出会い、とても助けられたのが、アサーション / アサーティブネスでした。

この書籍、多くの方に読んでほしい…!!今日は自分のコミュニケーションが、アサーションを学んだことでどのように変容を遂げたか、書いていきたいと思います。

▼救われたのはこちらの書籍

(日本におけるアサーションの第一人者・平木先生の論文がネットで読めましたので、こちらから引用していきます。)

アサーションとは…

そもそも、アサーションとは…

「自分も、相手も大切にした自己表現」

そんな夢のようなことが現実に可能なのか…!?と恐る恐る読み進めていきました。

歴史的に、アサーションは1960年代、アメリカの公民権運動の中で生まれてきたもの。特に社会的弱者とされていた人々のための自己表現のトレーニングが、広まっていったようです。

アサーションは誰もが持つ、基本的人権である

書籍の中で、私がまず助けられたのがこの一文でした。

アサーションは基本的人権の一つです。

「自分も、相手も大切にした自己表現」アサーションは、基本的人権なんだよ、と言い切ってくれているのを目にしたとき、心がほっと軽くなりました。

それでは、その誰もが持つアサーションの権利とは?

詳細は、書籍を読んでいただきたいのですが、箇条書きにするとこんな感じです。

アサーション権Ⅰ: 私たちは誰からも尊重され大切にしてもらう権利がある。
アサーション権Ⅱ: 私たちは誰もが、他人の期待に応えるかどうかなど、自分で行動を決め、それを表現し、その結果について責任をもつ権利がある。
アサーション権Ⅲ: 私たちは誰でも間違い、それに責任を持つ権利がある。
アサーション権Ⅳ: 私たちには、支払いに見合ったものを得る権利がある。
アサーション権Ⅴ:私たちには、自己主張をしない権利もある。

他人の期待に応えないといけない…と自分で勝手に考え込んでしまっている自分の癖に気づきました。

コミュニケーションにおいて、相手との間に葛藤を感じることは、当たり前なことである

そして更に、この文章たちに助けられました。

何よりも大切なことは、人権はあなたも相手も同等にもっていることを忘れないことです。ただ、相手が自分の考えや欲求をもってよいように、あなたももってよいわけなので、葛藤が起こる可能性はあります。したがって、葛藤を怖れていては、希望や欲求は述べられないことになります。逆に、私達の日常には小さな葛藤やもめごとは当たり前であり、お互いに一致することの方が少ないこと、だからお互いの希望を述べ合う権利を大切にし、相互の確認をして、歩み寄ろうとする覚悟が必要なのです。
私たちは相手の自由を支配することができませんから、伝わるかどうかはわからないし、それを怖れても仕方ないのです。

「葛藤」って当たり前、特別なことではないのか。それを怖れていては、前に進めないんだ…。

勝手にネガティブなことを想像し、それを避けようと自分が我慢する手法を選びがちな自分の癖に気づきました。

そうすると、私の中に意識の変化が芽生え…

自分主体のコミュニケーションへの変化

葛藤が当たり前ならば、他人の期待に応える方法を考え葛藤を避ける前に、まず自分はどうしたいのか、自分の気持ちを探ることを大切にしました。そうして、それはどう表現したら達成できるのか、相手にどう伝えれば良いのか、まず自分主体に考えることを意識するようになりました。

自分の気持ちをまず第一に確かめて、それを表現し、相手と折り合いをつけていこう、とコミュニケーションが「自分主体」になっていったわけです。

いつも、心の片隅に、「相手を傷つけないためにも、必ず応えなければならない、自分が我慢すればいい(もちろん、全てじゃないです😅)」

って、思いがちであった自分にとっては、大きな、大きな変化でした。

コミュニケーションに悩む、多くの方が、この誰もが持つ基本的人権を知り、主体的なコミュニケーションを取れるようになったらいいな、少しでも、共感を得てくれる方がいるといいなぁと思い、シェアさせていただきます。

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