【掌編】夜に染み込む “小さな口福”
急な冷え込みに体がついていかない。
すっかり桜も散ったし、このまま夏になると思っていたのに、なぜかこのところひどく寒い。そのせいで衣替えも出来ずにいる。とはいえ、厚いコートはさすがに重苦しく、冬物の上にスプリングコートを羽織るというチグハグさ。
仕事は予定外のタスクが入り、何かとバタバタ忙しかったし、久しぶりに会った取引先の相手は、何だか妙に苛々していた。
焦りとか苛立ちとかは伝染する。
並木道の葉桜の青さが眩しすぎて、妙に寒々しい。
せめて桜の季節であれば、花冷えだ、花がもっていいじゃないかと自分を誤魔化しもできるのに。
こんな日は早くお風呂でも入って寝てしまおう。
2時間位前に「今日は遅くなるかもしれないから、ご飯適当に食べといて。」とLINEもしたから、きっと適当に済ませておいてくれるだろう。
こういう時、大人二人暮らしだと気楽で助かる。子供がいたらとてもこうはいかない。
子供がいてもちゃんとできる人もいるのに。
ふと浮かんでしまったその考えに、またため息が出た。
きっと今日はろくなことを考えない。多分この季節外れの寒さのせいだ。体も頭も心も縮こまってしまう。
「ただいまー」
小さく声をかけ、ドアを開けると、控えめな暖房のぬるさと共に、懐かしい温かさが鼻をくすぐる。
「おかえりー、ご飯出来てるよ」
喉元まで出かけた「食欲ない」の言葉を覆すように、お腹が小さく音を立てた。
そういえば、今日は昼ごはんもろくに食べられなかったっけ。
「着替えてくる間に盛ったりしておくよ、先にシャワー浴びてくる?」
寒いから湯船に浸かろうかと思っていたけど、よく考えたら、そんな気力もない。それにこの匂いには正直そそられる。
「じゃあお言葉に甘えて…。」
そう言ってお風呂場に向かった。換気扇の関係で、むしろ脱衣所の近くでその匂いは濃く香る。
こってりとしているのに、優しくて、甘やかしてくれるようなこの匂いは何だっけ。
温かいお湯を頭から浴びて、外の埃をすっかり流し終えたら、ようやく息ができるような心地がした。
大きく吸い込んだその匂い。
「シチューだ!」
「当たりー。」
いわゆる白いもったりシチュー。
赤いにんじんが彩りを添え、ごろっとじゃがいもが存在感。この濃い香りは舞茸かな。そういえば、冷凍してあった。
「なんかさ、寒いし、LINEでお疲れ気味っぽかったし、こんな日はシチューかなって。」
「あー、いいねぇ、そういえば、最近作ったことなかったけど、ルーとかわざわざ買ってきたの?」
「いやいや、もうバターで炒めて、あと入れで牛乳と生クリーム入れた簡易版よ。でも結構美味しくできたよ。あ、冷蔵庫の鶏肉使わせてもらった。で、期限今日までだったから、残りは小分けにして冷凍庫入れといちゃったけどよかった?」
「あー、助かる、そういえば、気になってたんだよ、ありがとね。」
「ま、あんまり遅くなっちゃうとなんだし、食べよ、食べよ。せっかくだから一緒に食べようと思って待ってたし。」
食卓には、厚手のシチュー皿が2つ並んでいる。
「時間も遅いし、シチューライスも魅惑的だけど、今日はシチューだけでいいよね?」
「じゃがいもも入ってるし、炭水化物としては十分でしょ。美味しそ、いただきます!」
食欲ないと言っていたのが嘘のように、お腹がぐうぐうとなっている。
早速ひと匙口に運ぶと、その温かさ、とろみ、柔らかさが口の中にとろける。鶏肉のこってり感、人参の甘さ、舞茸の深い香り、乳製品のコクが渾然一体になって、体に一気に溶け込んでくる。
半分くらいまで一気に食べた。
そこでふと中身に普段見慣れないものが入っているのに気がつく。妙にしんなりくったりとした緑の褪せた葉っぱのようなもの。
「これって?」
「あ、葉玉ねぎの葉のところ。柔らかいからいいかなっと思って入れて見たけど、合うと思わない?」
この間の買い出しの時に衝動買いした、この季節にしか食べられない、新物の葉玉ねぎ。
その後、忙しさに紛れ、すっかり野菜室の奥底にほったらかしになっていた。数日前までは気にしていたのに、今日はそれすらすっかり忘れていた。
「新しいうちに食べたいかなと思って入れてみたんだけど、身のところも、普通の玉ねぎより柔らかくなりやすくて、甘くていいよね」
「うん、美味しい、忘れてたの、救出してくれたんだ、ありがとね」
「へへ、良かった。うん、美味しい、上出来上出来。」
自分で作ったもの、自分で美味しいって言ってちゃダメだよね、と言いながら、次の瞬間にはまた美味しいと自画自賛。その様を見ながら、自分も口に運ぶ。
温かい食べ物は回復呪文だ。
舌に、喉に、お腹の中に、じわじわと染み込んでいった。
ーーーーー了
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