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【掌編】こんな日だからこそ食べるのだ “小さな口福”

「よし、やるか!」
台所に立ち、エプロンを締める。

テレビのコンセントを引っこ抜き、スマートフォンの通知も全てオフにする。仕事の連絡も今日は聞かなかったことにすればいい。

ふた昔前、お互いまだ小学生だったあの時は、よく意味もわからず、それでもいてもたってもいられなくなって、「コンビニ行ってくる!」と叫んで、財布も持たずに家の前まで自転車をぶっ飛ばした。
遅くなって家に帰って、こっぴどく親に怒られたっけ。

ひと昔前、お互い一人暮らしと言いながら、ほとんどどっちかの家に入り浸っていたあの時は、やはりテレビもスマホも電源を切って、ただ2人怯えていた。
でもそういえばあの時に、一緒に住むことを決意したんだったけ。

数年前に世間が騒がしくなってきた時は、一緒に暮らしていてよかったと思った。
関わる範囲の単位が最小になって、元々人付き合いがそれほど得意ではない自分達は不謹慎ながらも、関わり合いが少なくなったこと自体に小さく安堵の息を漏らしたものだ。

今。
世間が信じられないように動いている。
これまで自分たちが知っているものじゃないようになってきている。

職場でも、経験年数はそれなりについてきた。
後輩ができたり、ちょっとした役職を振られるようになったり。
いつまでも若者のつもりではいられなくなりつつある。

でも扉を隔てて眠る君と一緒にいると、いつでも気持ちは高校生にも中学生にも小学生にだって、ひとっ飛びで戻ってしまう。
それくらい同じ時間を過ごしてきた。
もう世の中の誰よりも、一緒に過ごす時間は長くなっている。

だからわかるんだ。
こういう時は、いや、こういう時だからこそ、当たり前のように当たり前のことをしなくちゃいけない。
世界は大きいし、考えなくちゃいけないことは多いのかもしれない。
若者のつもりでいてはいけないのかもしれない。

でも自分にできることは、この小さな2DKの世界を守ることだけなのだ。
圧倒的な自然の脅威にも、エゴイスティックな暴力にも、何者にも揺るがせない。
全てがひっくり返りそうなことが、これまでにもたくさんあったけれど、それでも世界はここまで続いてきてくれた。
そして自分たちの小さな世界も変わらずに、ここにある。
扉の向こうに君がいる。
だからこの世界を、全力で守るのだ。

強い決意を胸に手に持つは、泡立て器とボール。
それだけが自分の闘う道具だ。

卵を割って、砂糖と豆乳を混ぜる。
滑らかに、卵の黄色が全てに馴染んで優しいクリーム色になった。
こんなふうに全てが優しく溶け合えばいいのに。

粉を入れてさらに混ぜる。
ダマになりそうなところを気をつけて、手早く。
最初は下手くそでダマだらけの代物になって、君に散々笑われたっけ。

フライパンを熱してバターを溶かす。
小さな泡を出しながら溶けていく。
だいぶこのフライパンも使い込んできているな。
今度の記念日のプレゼントはフライパンセットにでもしようかな。
いつからかそういう色気のないプレゼントでも喜んでくれるようになってきた。
それが大人になるということなら大歓迎だ。

ジュワ

フライパンに生地を落とした時の柔らかな音。

もうひとつジュワ

火を少し弱めてしばらく待つ。
生地の中からふつふつと小さな泡が生まれては、音もなく弾ける。
世の中のいろんな怖いことや悲しいことがこんなふうに消えてしまえばいいのに。
そんなことを思いながら、絶対焦がしたくないから、じっと見つめる。

表面が少し乾いてきた頃合いを見計らって、慎重にフライ返しでひっくり返す。
よしよし上手く裏返った。
我ながらなかなか綺麗な狐色。
あ、こっちは少し狸色か、まぁ、自分が食べればいいや。

同じ手順でもう1枚ずつ焼いて、お皿の上に重ねる。
うんいい出来。
少しでも冷めないように火を消した後のガスコンロのそばに置いておく。

扉を開けると、君はまだ布団にくるまり丸くなって寝ていた。
幼い頃から変わっていないその寝姿。
嫌なことや怖いことがあった時には、余計に小さくなっていたっけ。

「おはよう」

タオルケットの上から、そのまま抱きしめる。
もぞりと動く気配。静かな呼吸音。温かな体温。

「パンケーキ、焼けてるよ。冷めないうちに一緒に食べよう。」

こんな朝だからこそ。
こんな世界だからこそ。

ふかふかのパンケーキを、一緒に、食べよう。




#2000字のドラマ #あざとごはん

書きかけのものを手直ししました。

何を書こうかなと思っていたところで、ぎりぎりになって知ったこちらのコンテスト、そして今だからこそ書き上がったお話かもしれません。

若者というにはちょっととうが立っている気もしますし、趣旨にあっているか、いま出していいものか、正直迷いました。

でも自分の半径内の幸せを守る大切さを伝えたいと思いました。
優しい物語になっていれば幸いです。

最後までご覧くださり、ありがとうございました。

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