**.毒親育ちでも幸せになろうよ.**

先日のノンフィクションで目黒虐待死事件の特集が組まれていた。
「親になろうとしてごめんなさい」
放送を見てその言葉の重みを感じた。
元々面倒見がよく優等生だったお父さん。
始まりは「理想の家族になるために頑張る」という気持ちだったそうです。

私は、いわゆる毒親育ちです。
でも、母親は「生きるため生かすために必死だった」だけだった。
そんな中でも「よい家族に見られたい」と思って頑張ってくれていた。
そう、ただ、頑張っていただけだった。

それが、どうして今私にとって「毒親」と表現されることになったのか。
そして目黒虐待死事件との差はなんだったのか?
そんなことを感じたので、noteにまとめようと思いました。

**.他人にいい顔をしたがる心理.**

誰にでも「~すべき」という理想がある。
でもそれを理想から規範にすり替えてしまった瞬間、
高い壁となって自分に圧力をかけ始める。

夢だったものが、自分の敵となっていく。
そこにしがみつこうとすると、
「すべき」と思っている自分を演じ始めて実際と乖離し始める。
本当の自分がダメなもののように思えてくる。
そして更にあるべき姿、正しいことをする姿を他人に見せようとする。
それが、いい顔をしたがる心理。

**.~すべきを他人に求めはじめる、それが毒親の始まり.**

親が教えるべきことは多岐に渡り本当に大変だと思う。
教える「べき」範囲って本当に家庭によっても違うだろうし、
SNSが普及した現代、なるべく足並みをそろえて家族・子供共に攻撃されないようにと、不要な気遣いも多いんだなあ、お付き合いも大変だなあと感じる。
毎日ご苦労様ですと、子連れの方を見るたびに思う。

あくまで、カウンセラーとして感じたことのお話ですが、
「理想」と「~すべき」の境目はなにか?
そこが、毒親になるかならないかの差だと思います。

**.本当にそれが正しいと言える?絶対に正しいことなんてこの世に早々ない.**

理想は大事だと思うんです。
夢や理想、目標は自身が活力をもって生きる糧になる。

ただ、「~すべき」になった瞬間一気に世界が狭くなる。

なにを「~すべき」で縛るのか?
日本にいれば違法なことでも、世界に出れば違法じゃないこともある。
私は貧民の出なので世界なんか全く目指せる環境じゃなかったけど、
もし子供の時知識があったなら、怒鳴られたことに対して
「でも〇〇ではこうだよ!」って言えたなあと今となっては思うのですが
多くのことが、移り変わるんです。

法律も変わるし、憲法だって変わるし、国が違えばそもそも決まりは違う。
原理原則だって、世紀の発見で変わるかもしれない。
そうなったら、もう「理想」を「理想」として伝えるだけでいいんじゃないかなと。

「〇〇してもらえたら嬉しいな」
「〇〇してくれてありがとう」

子供はきっとそれだけで十分なんだと思う。

**.子供の心を蝕むのは母親の無関心.**

**.子供の心を強くするのは見守る母親の反応.**

例えば子供が何かをこぼした時。
無関心な母親は何をこぼしたかわからないから、とにかく叱る。
見守る母親は、その中身がお湯だと知っていたら火傷がないか心配する。

もしその子供が母親に渡したくて途中でこぼしてしまったのなら

無関心な母親はそんなことにも気づかず
見守る母親は火傷がないことを確認し、持ってきてくれようとしたことを感謝するだろう。

「もう持っていくのはやめよう」と思うか
「次はちゃんとお母さんのところまで運んでもっと喜んでもらおう」と思うか

その差は大きい。

前者が悪いと言っているわけではない。
現代のお母さんはとても忙しい中子育てをしてくれていて、
ずっと見守っていられるはずはないのだ。

**.毒親が無気力な子供を作り出す瞬間.**

というのも、私は圧倒的前者のもとで育った。
とても忙しく働き、自分の身を削って育ててもらった。
感謝「すべき」なのはわかっている母親がどうして私にとって毒親になってしまったのか。

「自分がチャレンジすることで、母親の仕事を増やしてしまった」
「失敗して怒らせてしまうくらいなら、何もしない方がいい」
その積み重ねが無気力な何もしない子供を作り出し、
母親にとっては「どうしてお手伝いもしてくれないのできないの」と新たなストレスになりうるし、
「自分がいなければ母親は笑っていられる」と思うのだ。
そんな気持ちを、子供はいい大人になってもひきずり続ける。

**.毒親の始まりはほんの些細なすれ違い.**

ほんとうに、びっくりするほどそんな単純なことで、そういうことになるのだ。
今でこそ「毒親」という言葉が日常に表れるようになったが、
わたしがこの気持ちの正体に気付いたのは27歳の時だった。
それまではひたすら生きづらさや自分のことが嫌い、自分のことが好きな人が気持ち悪い、そんな違和感を抱え続けて生きてきた。

原因の多くが、子供の頃の経験だったなあと、今思う。

**.毒親にならないために必要なことは、自分自身が気楽に生きる事.**

子供がどのような思考過程でどうなっていくのか。
それを知っているのと知らないので結果は違うと思うんです。
我が家のように、そして結愛ちゃんのように、ほんのすれ違いからありがとうも言えないところまで行く前に、どうか気持ちを楽にと思っています。

絶対に正しい指標なんて、そうそうないんだから。
それなら子供と一緒に理想を探してみようくらいの気持ちでいいと思うんです。

**.毒親から脱出したいあなたへ.**

私の例を書かせて頂きましたが、私の母親は一生懸命だっただけでした。
そうではないお母さんのもとで頑張ってこられた方もいるかと思います。
大変さは人それぞれ、比べようもありません。

母親の大変さを知って少し気が収まる方もいるかもしれないし、
私のように頭と心の反応が分離し続ける方もいるでしょう。

「そんなことで?」と誰が言おうとも、
つらかったと感じた事実は消えることはありません。
消えなくても、みな一様に生きていかなければならないのです。
死んだ方がどれだけ楽かと願っても、生きていかなきゃいけないのです。

何年も悩み続けて、生きていかなきゃいけないことを受け入れて
やっとどうせそれなら楽しく生きようと思えるようになりました。
恨んでるなら恨んでてももういいんだ。
楽しいと思うことを探すんだ。
そう思えるようになった自分の成長を、自分が喜ぶことで少しずつ変わってきました。

どんなことでもいい。
考えて何かを変え、それを喜ぶ。
小さなことの繰り返し、少しずつ、少しずつ。

**.家族といえども、別の人間.**

逃げたっていいの。
責めたっていいの。
「家族なんだから」が呪いの言葉に聞こえていた私。

「家族って言っても私の人生は私のものだ!」

そう思えたときに、呪いが解けた気がしました。

教えられてきたこと、本当に信じなきゃだめなの?
「あんたはほんとうにかわいくないね」
そう怒鳴られて育って、本当にかわいくなくなっちゃったけど(笑)
別にかわいくなったっていいよね?

「あんたは人を怒らせる天才だね」
と言われて育ったけど、私のこと好きって言ってくれる人がいる。

家族は初めて出会う一番大切な人。
そんな人が教えてくれたことだから、
「そう思わないといけない」と思い込んでいた。
でも、人間は嫌でも成長し、たくさんの人に出会い、いろんなことを知る。

アップデートしたっていいの。
自分も、母親も。

私はもう可愛がられて愛されても怒られない。
今でも違和感を感じて完全に克服はできていないけど、
そうやって少しずつ少しずつ自分を大切にしていくの。

きっと楽しくなるよ。愛しくなるよ。

**.誰かが「もっと気抜いていいんじゃない?」と声をかけていたら結果は違っていたのかな.**

冒頭、虐待事件の話に戻りますが、被告の友人が言っていた言葉です。

人間は、自分の無力を合理化するために、周囲のことを考えているように見せる生き物です。
自分の無知を隠すために結果や世の中を知ったようなふりをする生き物です。
誰もが理想の生活を思い描いて、現実との乖離に苛立ちを感じることがあると思います。

私たち家族も、たまたま助けてくれる人がいて、家族に余裕がなくなったタイミングなどがよくて乗り切れただけで、もしかしたら同じような事件に至っていたかもしれない。
だって、毒親と被告の虐待の始まりは同じ「すべき」を求めるということからだったんだから。
本当にそんなちょっとの差だなと思い、背筋が凍りました。

たくさんの人がこの事件に色々な意見を投げかけたけど、ノンフィクションを見て本当に他人ごとではないというのが私の印象でした。

**.世の中のお母さんと、毒親で悩む方々へ.**

ホッと気が抜ける瞬間を大切に。
今日も誰かの息抜きになれますように。