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格差社会における教育格差、貧富の差の正当性と不当性。

現代社会においては「教育格差」「経済格差(貧富の差)」といった『格差』が何かと話題になることがあります。

それらを総じて「格差社会」と言う場合もありますが、世間一般的に言えば、これはどちらかと言うとネガティブなイメージを伴うワードになっているはずです。

ただ、社会に存在する『格差』は、本来、能力主義、成果主義を前提とする、いわゆる「資本主義社会」においては、存在して当たり前なのが実情です。

仮にあらゆる『格差』が全て無くなるのであれば、それは能力主義、成果主義に基づく社会(資本主義社会)が、そもそも機能していないことを意味します(そういう社会を目指していたのが、いわゆる「共産主義者」です。)

そういった視点で言えば『格差』は「正常に資本主義社会が機能している証に他ならない」という見方もできるということです。

「格差」の正当性。


ただ、現代の社会に存在している『格差』の全てが、必ずしも「正当なもの」と言えるかどうかは、また別の問題です。

「格差」はあくまでも「結果」であり、その「結果」が公正な形で生じたものなのであれば、それによって生じている『格差』も正当なものと言えるかもしれません。

ですが、その『格差』が、決して「公正とは言えない前提」や、そのような要因に伴う形で生じているものなのであれば、それは決して正当なものとは言えないと思います。

例えば、秀でた能力や、より多くの労働量などに伴う「公正な成果」に応じる形で生じた『格差』は、少なくとも「成果主義」「能力主義」に基づくものとしては正当なものと言えます。

ですが、それが決してそうとは言えない「公正さに欠ける要因」によって生じた『格差』なのであれば、それは公正な資本主義社会の前提を揺るがし兼ねない不当なものである可能性があります。

つまり『格差』には、このような「社会的正義」の観点において、公正さを伴う正当な格差と、そうではない格差があるということです。

それが社会的な「公正さ」に基づくか否か。


ここで言う「社会的な公正さ」は『国が定めた法律や制度に沿っているどうかのみが、その判断基準である』と考える視点が1つ。

他方で『たとえそれが国が定めた法律や制度でも、それが公正さに欠けるものであるならば是正しなければならない』という考え方もあると思います。

ただ、前者のような「法律や制度に沿っているものは全て公正である(正義である)」という考え方では、社会をより良い方向に発展させることができなくなってしまいます。

過去を遡れば、奴隷や身分制度が法で認められていた時代などがあり、現代の価値観において、明らかに公正さ(正義)に欠ける制度は、民衆や世論によって是正されてきた歴史があります。

よって、ここでは「社会的な公正さ」を『国が定めた法律や制度に沿っているかどうか』ではなく『社会理念(社会正義)に基づく是非』を基準として考えます。

その社会理念(社会正義)を『資本主義社会』を前提として考えるなら、全ての人が公正に能力や成果に応じた対価を得られることを前提とする『公正な能力主義・成果主義に基づいているか』が、実質的な基準になるのではないかと思います。

資本主義社会の正義=公正な成果・能力主義。


よって「正当な格差」と「そうではない格差」の境界線は、その『格差』が「公正な成果・能力主義によって生じているものなのかどうか」ということになります。

例えば、生まれ持った能力や才能などの優劣(格差)は、それがそのまま、あらゆる物事の「成果」を大きく左右する要因になるものだと思います。

ただ、このような「生まれ持った能力の優劣」は、言わば『自然の産物』であり、宗教的な言い方をするなら『神の手によって生み出されている格差』にあたるものです。

よって、このような優劣そのものは「どうすることもできないもの」という点で、それをそのまま受け入れるしかありません。

ですが、このような格差(能力差)がある事を前提とした上で『生まれ持った能力に差がある分は何らかの形で埋め合わせなければ公正ではない』という考え方もあると思います。

とは言え、生まれながらの能力や才能を持つ人が、それらを活かしてスポーツ、芸術、ビジネスなどの世界で成功を手にしていくことや、そのような人達が生まれ持った才能を生かして社会に貢献し、それに応じた対価を手にしていくことを、そこまで否定的に捉えているような人は、おそらく少数派ではないかと思います。

つまり、公正な能力・成果主義という視点において、生まれ持った才能を活かしてより多くの対価を手にすることは「公正である」と解釈されるのが、現代人の多数派を占める価値観ということです。

公正か否かの境界線。


そんな「生まれ持った才能」の次の段階に来るものとして、幼少期からの教育水準に伴う「教育格差」があります。

教育格差を巡る議論としては、幾つもの学術論文で述べられている以下のような相関関係が、ほぼその全てを物語っています。

親の所得と子供の学力には正の相関がある(資料1・資料2)
所得階級が高い家庭の子供であるほど学力が高くなる傾向がある
学歴と所得には正の相関がある(資料3・資料4)
高額歴であるほど所得、生涯賃金も高くなる傾向がある

資料1:国立大学法人お茶の水女子大学(H26.3.28)
「学力調査を活用した専門的な課題分析に関する調査研究」より
資料2:国立大学法人お茶の水女子大学(H26.3.28)
「学力調査を活用した専門的な課題分析に関する調査研究」より
資料3:厚生労働省「省平成28年賃金構造基本統計調査」より
資料4:厚生労働省「省平成28年賃金構造基本統計調査」より

親の所得と子供の学力の相関については、その要因、原因などを別途、考察している記事がありますので、興味があれば、こちらも併せて参考にしてください。

また、以下のように大学別でも、かなりの差があるようです。

引用:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO15805150X20C17A4000000/

このような「親の所得と子供の学力」の正の相関、および「学歴と所得」の正の相関は、日本のみならず、どこの先進国でも共通して見られる傾向となっています。

これは「富裕層は子供の教育にお金をかけられる(水準の高い教育環境を与えられる)」という側面だけではなく、幼少期からの両親と子供のコミュニケーションの頻度や時間の長さなども関係していると考えられています。

貧困層に属する子供は、両親が共働き、またはひとり親世帯である割合が高く、そのような世帯の子供は、幼少期から保育所などで過ごす時間が多い傾向にあり、どうしても幼少期の両親とのコミュニケ―ション頻度や時間が短くなります。

これは「愛情が知能を育てる」というような非科学的な話などではなく、幼少期における第3者(両親)との一対一のコミュケーションは、幼少期の子供の知能の発達に寄与するという研究結果があります。

Bernal and Keane (2011)は、1996年の米国の福祉改革を利用して、シングルマザーの子どもについて、0~2歳における母親の養育時間のばらつきを生み出す実験を行った。0~5歳の子どもに焦点を当てると、母親と一緒にいる時間が短いほど3~6歳の就学前学力テストの得点にマイナスの効果があることがわかった。

0~2歳の保育にかかる認知的・非認知的コスト
https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=2737370

少なくとも、0~2歳児までの保育所では、基本的に子供が第3者と頻繁に一対一のコミュニケーションを取るような環境は与えられないため、これが共働き世帯、ひとり親世帯の子供の知能、および学力の低下に寄与している可能性があるということです。

教育水準の格差から生まれる「学力格差」「学歴格差」は公正か。


共働き世帯、ひとり親世帯においては必然的となってしまう「経済的な問題」が、幼少期からの知能の発達に影響を及ぼし、更にそこからの教育水準の差異によって、更に学力に差が生まれ、義務教育後の選択肢においても、各家庭の経済力の優劣が、その選択肢を大きく制限します。

より専門的な高等教育や、海外留学という選択肢の有無など、まさに貧富の差(富の不平等)が、子供の教育水準を大きく左右し、それが「学力格差」「学歴格差」を生み出し、それがそのまま「所得格差」にまで連鎖していくということです。

更に問題なのは、この「連鎖する負の格差」は、世代さえも跨いで同じ「負の格差」と「負の連鎖」を生み出し続けることです。

低所得層の家庭の子供が統計的に低学力・低学歴・低所得となってしまう以上、当然、このような「負の連鎖」は、世代を跨いで継続してしまうことになります。

逆に高所得層の家庭の子供が統計的に高学力・高学歴・高所得となる以上、これも世代を跨いで受け継がれる形になってしまうということです。

この議論はあくまでも統計的なものであって、個別的な事例を挙げれば、低所得層の子供が高学力・高学歴になることもあれば、高所得層の子供が低学力・低学歴になることもあります。また、高学歴でも低所得になる人もいれば、低学歴でも高所得になる人もいます。ただ、そもそもの「統計」は、そのような個別的なケースも含めての「統計」ですから、総体的には、上述したような「負の連鎖」が、現実に世代をまたいで「格差」を生み出し続けることを表しているということです。

学力と学歴、そして所得・生涯賃金の水準は「親の経済力」で決まってしまう。


生まれ持つ才能や能力を選ぶことができないように、生を受ける家庭、親を選ぶこともできません。

ゆえに、生まれつきの能力や才能に優劣があるように、親の経済力に優劣があるのも、ある意味では「自然の摂理」と言えるものだと思います。

ですが、幼少期からの「家庭環境の格差」および「教育水準の格差」は『そのような格差が生じてしまう社会に責任がある』という見方もできると思います。

生まれ持った能力の優劣は、自然的な『神の手による格差』にあたるものですが、その後の教育格差などによって生じる能力の優劣に関しては、形成された「社会」による『人為的に形成されている格差』と言える側面があるからです。

少なくとも、このような「教育格差」などは、社会における「教育制度」などを改めることでも、その格差自体を無くすことが不可能というわけではありません。

このような社会的、人為的な要因に基づく格差は、少なくとも「是正の余地がある格差」に他ならないため『それを是正する方がより公正である』という場合、それは実質的に「現状が公正さに欠けている」ということを意味します。

つまり、公正とは言い難い格差(是正しなければならない格差)は『是正することで、より公正になると考えられるような原因によって生じている』ということです。

現行の制度が本当に「公正なのか」を考える。


全ての人が「公正」に、能力や成果に応じた対価を得られることを前提とする「公正な能力・成果主義」において、親の経済力の優劣に伴うあらゆる格差が存在することは「公正」と言えるのかどうか。

これを異論の余地なく「公正」と考えるのであれば、世代を跨って連鎖する「負の格差」も『公正な社会の上で生じている正当なもの』ということになります。

ですが、上述したように、この「格差」に関しては実質的に「是正できる余地」があるため、それが『公正ではない』という声が大きくなれば、現実に社会やその制度の変革は、いわゆる「民主的な手段」で十分に可能なものになっています。

例えば、親の経済力に伴う教育格差や学歴格差の是正という点では、以下のようなものが考えられるかもしれません。

・幼少期からの教育制度の導入(義務教育の拡大)
・高校教育、大学教育の義務化または無償化(無償教育の拡大)

いずれも、仮に実現する場合には「教育」という部分への支出(歳出)の拡大が伴います。

ですが、そもそもの「義務教育」というのは、社会全体の秩序や発展において、社会を構成する全構成員の知的水準、学力水準の最低限の底上げが必要という観点も含め、日本では「教育の義務」が国民の三大義務の1つにもなっています。

この「義務教育」の制度において『社会全体の秩序と発展』という視点がある以上、現代の義務教育の範囲で規定しているであろう「最低限の水準」が、現時点の水準が「最善であるかどうか」は大いに疑いの余地があります。

仮に義務教育や無償教育の範囲を広げることで、そこに伴う支出以上の「社会的な利益」が生じるなら、このような対象にこそ「税金」を充てるべきということです。

現実に幼少期からの格差意識や貧富の差が重犯罪の「動機」や「遠因」の1つになっているケースは、決して少なくはありません。

法務総合研究所「無差別殺傷事件に関する研究」より

上記のように「自己への境遇への不満」を犯罪の動機とする犯罪者が最も多いという事実は、社会における「格差」を無くすことが、犯罪発生率の低下と治安の向上に寄与する可能性が十分にあることを表しています。

社会を構成する構成員全体の学力、学歴、所得水準の向上を図るような制度変革は、社会の「公正さ」と「秩序」そして「発展」にも、そのまま大きく寄与する可能性さえあるということです。

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富の連鎖と貧困の連鎖、そして、それが世代を跨いで受け継がれてしまうような社会や制度が果たして「公正」と言えるのか。

富裕や貧困が、本当に自分自身の努力の結果であるなら、それは現代社会の宿命かもしれませんが、実際にはそうではない要因で貧困から抜け出せていない人達がいる可能性は否定できません。

上述したような「教育制度」は、富裕層が富裕層であり続け、貧困層が貧困層であり続ける『連鎖する負の格差』を生み出している「氷山の一角」に過ぎないのが実情です。

そんな現代社会における貧富の差、富の不平等の原因について、もしご興味があれば、以下のような記事も併せてお読みいただければと思います。

世襲権力の正当性、不当性の考察(準備中)
租税における富の再分配についての考察(準備中)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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