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挫折 #2(後編)

この後編では、前編の続きを書きました。
ぜひ、最後まで読んでくださると嬉しいです。


怪我をした私にとっては、少し助けられた気持ちになりました。怪我でできない自分とチームメイトの差が少しでも離れないようにしたかったからです。
そうはいっても、なかなか怪我の症状は重く、くしゃみをするだけでも激痛が走るくらいでした。当時、3月4月だったこともあり花粉症である私にとって最悪の時期でした。最初の何週間かは安静にすることが最善だったと思いますが私は毎日午前中、違う高校に通う陸上部の友人と5〜10kmのランニングを行い、午後は近くの公園で友人とサッカーをするという生活を送っていました。そんな生活を4月5月と送り6月あたりから学校や部活が厳しい制限の中で再開するようになりました。そのタイミングで復帰を試みたのですが、サイドステップを踏んだ際に痛みがまだあったこともありさらに1ヶ月、復帰を伸ばすことになりました。
復帰をしてから私は高校の伝統番号である10番をつけさせてもらうことになりました。しかし、体が思うように動きません。また、チームの戦い方は大きく変わり、私が苦手としている空中にボールが飛び交うことが多くなっていました。徐々に私は自分の存在価値を感じなくなってしまい、しまいにはスタメンからも外されてしまいました。途中から試合に出ても何もすることができず、何もかもが上手くいかなくなり、サッカーを辞めたいと本気で考えることが増えました。


最高学年になり、10番は引き続きつけさせてもらうことができましたが、サッカーに対する悩みも変わらず消えることは全くありませんでした。時には父親にサッカーを辞めると言い、大喧嘩をしたこともありました。私は人生のどん底を味わい、「死んだ方が楽だな」と本気で思うことも多々ありました。選手権前にはスタメンどころか10番も外されてしまい散々なところまで突き落とされました。ただのクロスでヘディングしただけで脳震盪になり、鼻の骨と手の骨にヒビが入る怪我を立て続けにしました。今の私でも当時の私がどのように過ごしていたのか考えられないくらい辛かったと思います。自分が自分とは思えない。生きてる心地がしなかったことを覚えています。高校サッカーを機にサッカーから離れようと思っていました。
しかし、すぐに進学先の大学の活動が始まり私はサッカーへの悩みを持ち続けてたまま参加していました。入学してすぐに辞めたいと父親に帰り道、泣きながら電話しました。しかし、唯一私の心を踊らせる環境がありました。同期の仲間たちです。サッカーの実力で勝ち上がってきた化け物みたいなやつらが全国各地から集まりました。私は同期にこんなリスペクトの気持ちを持ったことは1度もありませんでした。こんなすごい奴らと一緒にできてる自分もここにいれるのはそれなりに頑張ってきたからだという自信を持つようになりました。そこからサッカーを辞めるという気持ちはなくなり、楽しくサッカーをすることを決めて日々、打ち込むようになりました。


私はこの経験から何を伝えたいかというと、今の環境に苦しめられている人は思い切って環境を変えることだと思います。環境を変えれば新しい自分を知ることができる。縛られた環境に固執する必要はない。環境を変えることが逃げだと考える人もいることが事実ですが、環境を変える勇気を持つ人の方が強い人間だと私は考えます。

最後まで読んでくださりありがとうございました。
これからも何か一つでも伝えられるよう頑張ります。

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