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Vivienne Westwoodを纏った少女の無防備さについて――『世界の終わりという名の雑貨店』小論

 記憶が定かならば、たしか私が十代のときであるから、二十年前近くになるが、深夜に映画がテレビで流れていた。そのころのテレビは、深夜にわりあいに良い映画を流していたと思う。
 北野武監督の映画も録画した。それは『TAKESHIS'』であったのだが、今DVDで買っても結構値段は、高くつくだろう。
 私は、「高橋マリ子」という女優さんが好きで――また、嶽本野ばらという作家が好きである。
 『ミシン』も読んだし、近作の『純潔』も愉しんで読めた。と書くと、若干偉そうになるが、単純に高橋マリ子のファンで(写真集も少年の時に買った)嶽本野ばらさんのファンなのである。

 何より深夜に放送されていた、『世界の終わりという名の雑貨店』には、色々な意味でびっくりした。まず、音楽がとても良くて、サウンドトラックを探したのだが、販売されていないようであった。
また、Vivienne Westwoodという、私にとって未知のファッションを身に纏い、ひらりと一回点する姿に単純に、ドキッとした。
 また、不可解な「こんにちは」と、急に挿入される発語の瞬間や、暴力的に挿まれる不可解なシークエンス――それが、日常的な場面の中で、急に起こるものだから、とても感銘を受けた記憶がある。

 この映画と(本稿は主に映画の感想だが)小説『世界の終わりという名の雑貨店』を考え直して、思うことは、単に「何処にも行けない」ということなのだな、ということである。
 まだ、インターネットが一般にそれほど普及していない時代であったが、日常的に挿まれる絶望とか、悲しみとか「暴力(の象徴のようなもの)」は、それからの時代の、予見的な気もする。
 主人公の少女が、Vivienne Westwoodの洋服を纏って、無邪気に少し微笑む度に、とても危ういバランスで、生きる日常が成り立っているのだということを、感じるのだ。

 日常と暴力の狭間──そして間隙。

 これは、村上春樹作品の、『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』などのシステムと人間に通じる部分があるのかも知れないが(?)ここでは、論を改めることにして触れないで置き、擱筆したい。

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