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ジェイラボワークショップ第65回『科学と倫理』【物理学部】[20231002-1015]

物理学部WSの第65回のログです。
『科学と倫理-AI時代に問われる探求と責任』(金子務・酒井邦嘉[監修]、日本科学協会[編])という本を題材にしました。
各章ごとに著者や話題が様々であり、「科学と倫理」という言葉を並べたとき、どの範疇のものをそう言うのか、時代が変わり考えられなければならないものはどう変わってきたのかなど、各部員が選んだ章を元に伝えました。

以下定型文。
「■」がついたものだけで読み物としては完結しているので忙しい方は「■」だけ読んでもらっても構いませんが,「■」以外も含めて全部読んだ方がより実際の空気感を味わえると思います.参加者のコメントについては,発言者の頭に「★」をつけ,その返信には発言者の頭に「・」をつけています.


DAY1

■Naokimen

皆さんおはようございます。今日から物理学部のワークショップが始まります。今回のWSタイトルは「科学と倫理」です。『科学と倫理-AI時代に問われる探求と責任』(金子務・酒井邦嘉[監修]、日本科学協会[編])をベースとして4つのテーマを扱います。その4つのテーマの分野は物理に限らず様々です。学問における倫理の問題はどの分野においても重要で、考えないといけないものだと思います。この2週間、一緒に「科学と倫理」について考えていきましょう。いつも通り、途中で質問を出すのでぜひお答えください。質問・コメントはいつでも受け付けますので、気軽にしていただければありがたいです。なお、座談会は10/10(火)の22:00から行います。ぜひご参加ください。それでは2週間よろしくお願いします。

■Yuta

Yutaです。今日から4日間は『科学と倫理ーAI 時代に問われる探求と責任』の第 10 章「科学の創造性と倫理―ベーコン的科学の行方」(村田純一)を元にやっていきます。

「科学と倫理」という表現を見ると、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。どちらも抽象的な言葉なので、より具体的なことを考えるために例えば科学者の研究活動の倫理問題などを思い浮かべる方もいるかもしれません。研究資金の不正利用や、データの捏造などはよく明るみに出て話題になったりしますね。しかし、これらの問題は、結局公務員の公文書偽造と同様に、「うそをついてはいけない」という倫理原則に反しているとみなしうるので、科学との関係で取り立てて新しい倫理問題が登場しているわけではなさそうです。

それに対して、「応用倫理」という名のもとに、科学が技術と結びついてもたらされるさまざまな新たな倫理問題を思い浮かべられる方もいるかもいるでしょう。医学の発達によって脳死という新たな状態が実現し、脳死状態の身体からの臓器移植といったこれまでなかった選択肢が登場したのは生命倫理の中心問題の一つです。あるいは産業社会、文明社会が引き起こす気候変動などの環境問題から、人類と地球の持続可能性にまで関係する問題は二十一世紀最大の環境倫理の問題になっています。ハンス・ヨナスはいちはやく、わたしたち人間が強大な力を獲得することによって、これまで自明な所与であった人間や地球の存在自体が脅威にさらされ、新しい義務と責任が生じるようになったと述べています。科学が力を持つという点では、「科学者の社会的責任」の事例として取り上げられる原爆製造にかかわる科学者の活動の場合も同様だといえるでしょう。たとえば、「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマー(夏に彼の映画が公開されたようですが)は、原爆実験が成功したときに「物理学者は罪を知ってしまった」と述べたといわれています。この場合、核物理学というもっとも基礎的な科学にもとづく知識が、さまざまな媒介要因を通してであれ、原子爆弾という巨大な破壊力を持つ兵器を生み出すうえで決定的な役割を果たすことになりました。ここでこの事例に大きな倫理的意味を持たせているのは原爆の破壊力です。これが、科学者の活動に対して、銃のようなほかの兵器の開発の場合とは違って、兵器開発自体は目的から独立して価値中立的にとどまることを許さないような意味を持たせています。そして、先にみた生命倫理や環境倫理の場合と同じように、新しい倫理問題を突きつけているように思われるのです。

こうしてみると現代では、科学が技術や様々な社会的状況を媒介としながら、わたしたちが活きている世界の在り方に決定的ともいえる影響力をもつ要因の一つとなっている点が、「科学と倫理」の問題を考える場合の中心問題の一つといえるでしょう。

ここまでが本題に入る前のイントロでした。明日から3日間は、それにしても科学がなぜこのような力をもつことができたのか、時代をさかのぼって近代科学の特徴を「知は力なり」という言葉で表現したフランシス・ベーコンの科学観、学問観を取り上げて検討していきます。

本日は以上です。4日間よろしくお願いします。

DAY2

■Yuta

Yutaです。2日目以降はベーコンの「知は力なり」の話から。

1 知は力なり―理論知と製作知の一致

ベーコンの言葉としてよく知られた「知は力なり」という言葉にはさまざまな意味が含まれていて、理解するのは必ずしも容易ではありません。そのため歴史的にもさまざまに解釈されていますが、ここでは基本的な論点に絞って考えます。まずは、ベーコンの主著の『ノヴム・オルガヌム』の中のもっとも有名な以下の文章をご覧いただきましょう。

「人間の知識と力とは合一する。原因が知られなければ、結果は生ぜられないからである。というのは、自然は服従することによってでなければ、征服されないのであって、自然の考察において原因と認められるものが、作業においては規則の役目をするからである。」

ここでは、まず知識と力は一致するというテーゼが述べられ、続いてその理由があげられています。目標を確実に実現するためには、目標の状態を結果としてもたらす原因を特定することが重要であり、そのうえで原因となる出来事を引き起こすことが重要である、つまり世界の中に普遍的に成立している原因と結果の関係を成り立たせている法則連関を知らねばならない、ということを言っています。自然をうまく利用し支配しようとするには、自然の在り方を無視せずに、むしろそのあり方を利用しなければならないという主張です。

しかし、ありきたりに見えるこのような主張のどこに新しさがあるのでしょうか。

これを考えるにあたって、ベーコンが「成果をもたらす実験」と対比して「光をもたらす実験」について述べていることが参考になります。ベーコンは、古代ギリシャで最も高く評価されていた学問的な知識は子供の知識であり、何も生むことができないと批判し、むしろ、職人たちが蓄えてきた有用な知識の重要性を強調している。しかし他方で、伝統的な職人の知識は、たしかに役には立つが、なぜ役立つのか明らかにあっていない点で不十分だとみなす。職人たちは経験にもとづいて有用な方法を身につけてはいるが、それらは偶々ばらばらな盲目的な知識に留まっており、普遍的に利用可能になっていないというわけである。この点を改善するための方法が、「光をもたらす実験」である。神が創造の第一日にただ光だけを作ったところからこのように名付けていますが、ここでいう「光」とは、さまざまな経験を通して得られる普遍的な因果関係のことです。

このようなベーコンの言葉を聞くと、すぐに思いつくのは、経験を解釈する理論的仮設の役割かもしれない。ポパーをはじめとする科学哲学者は、実験で得られる経験的データから新たな知識を獲得するためには、経験に先立って、それらを理論の光によって解釈できるようにしておかねばならないことを強調してきました。したがって、「光をもたらす実験」においては理論の役割が強調されていると考えるのはごく自然といえるでしょう。実際、新しい知識の獲得に関して、ベーコンは経験の収集のみに固執する経験論に見方を蟻に例えて批判しています。しかし他方で、合理論のように、経験は人間の知性にもとづいた理論の光のもとで解釈されねばならないことを強調する見方も、自らの理論に都合のよい経験のみを取り上げ、反証例があっても、それを無視してしまうという独断的傾向をもつ点で、やはり批判しています。ベーコンの言うところの帰納法は、たんに理論のレベルに属する論理ではなく、自然自身に備わる法則性と自然を利用するための作業の規則の両者を同時にもたらすような論理なのです。つまり、ベーコンにとって「光をもたらす実験」によって取り出されるのは、最初から自然を利用する作業の規則となるような法則性であって、実践と切り離されたたんなる理論的知識と考えられているわけではありません。したがってここでは、科学と技術のあいだに応用と呼ばれる仕方で結び付けられる必要のあるギャップが存在しているようには思われません。別の箇所では、「作業においてもっとも有用な支持は認識においてもっとも真なる指示である」という言い方までしています。したがって、ベーコンに自然哲学、つまり自然科学観のなかには、なぜ自然の探求に価値があるのか、あるいはそもそも、科学は自然に関して知るに値する知識をもたらすのだろうか、といった疑問の入る余地は最初からないようにできているのです。

明らかにここでは、アリストテレスが認めたような、理論知(エピステーメー)と製作知(テクネ―)との区別は解消されているようにみえます。

DAY3

■Yuta

Yutaです。3日目も張り切っていきましょう!

2 知は力なり―事実の製作
ベーコンは、『学問の進歩』のなかで、自然の歴史を三種類に分けています。すなわち、正常な自然の歴史(被造物の歴史)と、異常な自然の歴史(驚異の歴史ともいわれ、迷信や作り話などと区別がつかず役に立たないとみなされる)と、人工によって変えられた自然の歴史(技術の歴史)です。そして最後の技術の歴史を自然科学のために最も重要なものとみなしました。それは自然の真の姿を明らかにするためには、自然に介入して人工的な状況を作る必要があるという考えがあったからでした。

ベーコンによれば、アリストテレスは、生物学にみられる業績が示すように、大変優れた学者であるが、その学問は第一の意味での自然の歴史にのみもとづいており、第三の技術の歴史を全く考慮していない点で、自然哲学としては不十分であるとしました。

実際ある出来事が生じた場合、原因を特定するには多様な要因のなかからたんなる付随現象や偶然的な相関的出来事を排除して、実際に働いている要因を取り出す必要があります。そのためには人工的な状況を作り上げて、条件を制御しながら実験を繰り返す必要があるでしょう。
「光をもたらす実験」をするにはアリストテレスのように自然の「観想」にとどまっていたのでは不十分であり、むしろ自然を操作し人工的な状況を作り上げる製作活動が不可欠と
いうことになります。ここではアリストテレス的な理論知と製作知の区別の解消のみならず、むしろ逆転が生じているということもできます。自然についての真の姿を知るためにこ
そ、自然に介入して人工的状況を製作する技術が必要になるからです。

近代科学の成立の過程である科学革命を象徴する出来事としてガリレイの落下実験や望遠鏡による天体観察などが挙げられる場合に、そこで見いだされるのは、人工的に作られた実験装置や望遠鏡のような観測器具を用いることによってはじめて可能になった人工的現象であり、そしてまさに人工的に可能になった現象こそが自然本来のあり方を示しているとみなされるようになった点が注目されてきました。

注意深く作られたものこそが真の自然の姿、真の自然の事実というこの逆説的に見える事象を解釈する課題には多くの哲学者が取り組んできました。

ここでは、アクターネットワーク理論の提唱者の一人として知られるブルーノ・ラトゥールの見方を参照しておきましょう。

ラトゥールの見方では、人間は最初から世界の中に位置づけられていて、自然と社会が重なった場所で多様な要素と相互作用しているとみなされます。そしてその相互作用のあり方を形成する要因が全て一種のアクターとみなされます(人間以外のアクターは非人間)。科学の活動もこうした相互作用のあり方の一つとして成立しているものです。たとえばラトゥールは、パストゥールによる乳酸発酵をめぐる実験を題材にして実験をめぐる逆説的な構造を描いています。
ラトゥールによると、パストゥールがいくつもの実験で試みたのは、新たな人工的な舞台装置を構築することによって、乳酸発酵の酵母という新たなアクターをこの舞台に登場させることでした。このときにパストゥールが克服しなければならない困難は、「状況設定がどれほど人工的な者であろうとも、新しい何ものかは、状況設定から独立して出現しなければならない」(ラトゥール 2007:159)という点にありました。ラトゥールによれば、この逆説的に見える事態の解明に多くの哲学者たちが取り組んできたが、困難を避けられずにきた理由の一つは、実験をゼロサムゲームとみなし、科学が実験を通して新しいアクターを獲得することによって成長することに注意を払わなかったからだということになります。ただしこのとき、実験によるアクターの製作活動を通常の人工物の製作と同じように考えてはいけません。というのも、実験ではまさに人工的に作り上げられてきたという理由であらゆ
る生産、構築、製作からの完全な自立性を獲得するということが起きているからです。

実験者であるパストゥールが注意深く懸命に働くからこそ、発酵素が自らの平面で自律的に生きることができる、という構造になっています。その意味で行為の枠組みが実験者から非・人間の発酵素へと「外向推移」しているというわけです。この移し替えが上手くいくと、実験者の行為は表舞台からすっかり消え去り、あたかも非・人間が自立して働いているかのように舞台上で演じることができます。つまり、原因と結果の関係が(客観的法則として)自然自体の中に成立しているように見えるのです。この実験者の作業のあり方によて、まさに原因が結果を生み出す安定した連関が作り上げられているので、ここでは実験者にとっての作業の手順は、明るみに出された原因と結果の連関と一致していることになります。そうでなければ、発酵素は原因物質として働いているようには舞台に登場できないでしょう。こうして、乳酸発酵を可能にする製作の規則と原因と結果の規則は一致しているといいうるでしょう。

このように考えると、ベーコンがなぜ自然の歴史ではなく技術の歴史を自然の歴史とみなさねばならないと考えたのかも理解できます。技術の歴史は、人間が自然を単に対象として眺めて認識するのではなく、最初から、自然のなかで対象と相互作用することによって新たな人工物を製作するあり方の歴史であり、これは、自然のなかで働く原因と結果の関係を暗黙の仕方で利用してきた歴史と考えることができるからです。そしてベーコンが「光をもたらす実験」によって目指したのは、この暗黙の仕方で作業の規則として蓄積されてきた知識を顕在的な仕方で舞台上に取り出して(外向推移)光を当て、自然自体の働く姿を示すことだったのです。

逆説的に見えた実験科学の在り方が広まることによって、実験がゼロサムゲームではなく、新たな知識をもたらすという創造性を持つと考えられるようになりました。ただしこの活
動は直接的な「成果をもたらす実験」ではなく、あくまでも「光をもたらす実験」に従事するといいうるかぎりでは、社会に役立つ技術とは一線を画する活動という意味を持つことになります。しかし、成果を求めない活動であるにもかかわらず、得られた知識はかえって体系化され、普遍化される可能性を獲得し、個別的、盲目的な伝統技術とは違って、積み重ねによる進歩が可能となりより大きな力を人間にもたらすことが期待されます。実際、ベーコンは、未完に終わった『ニュー・アトランティス』という一種のユートピア物語のなかで、創造的な自然科学が社会の中で制度化され、社会の進歩の推進力となっているような社会を描いたのです。

3日目は以上です。本日は質問があります。実は座談会でも10章と以下の質問について語る予定です。
できるだけ回答していただきたいので、よろしくお願いします。

質問

この世界は何かしらの創造主が作ったものだと思いますか?思いませんか?良ければ理由もお聞かせください。
A. 創造主はいる
B. 創造主はいない

投票結果

A. 創造主はいる 3票
B. 創造主はいない 7票

★コバ

なかなか難しいクエスチョンですね。私自身の感覚としては「この世界は何かしらの創造主が作ったものだと思うが創造主がいるかどうかまでは断言はできない」ですね。

・Yuta

ありがとうございます。いるかどうか断言できないという方のために、「どちらともいえない」を選択肢として入れておくべきでした💦

★Hiroto

ここまでの話を聞いて、
「観測問題は、そもそも観測するという事象自体が相互作用なので、そこまで含めて考えれば問題ではない」みたいな話を思い出しました。観測する装置や自分と切り離して事象を観察しようとするからこんがらがってしまい、観察しているという物理現象をも考慮に入れれば良いわけです。自然の歴史は技術の歴史というのも納得です。
「創造主はいる」と断言できないので、消極的に「いない」と言っている感じです。この問題に限らず、「存在・非存在」についての問題は、それをまだ誰も観測したことがない場合、「存在する」よりは「存在しない」の方が言うのに抵抗がないです。

・Yuta

「自然の歴史は技術の歴史」には、僕も初めて読んだときは納得しました。私としては事象が「ある」ことよりも「ない」ことをいう方が難しいという感覚だったので、存在するしないどちらを言うかは個人差があるようです。

★けろたん

目に見える現象からノイズを排除し本質だけを取り出す技術が必要で、それにはなにがノイズでなにが本質かを区別する理論が必要で、その区別こそ実験によって調べたいことで、、、、という循環があると理解しています。Yujinさんのまとめを読むと、ベーコンは技術と理論が一致することを技術の歴史として定義し素直にこれを肯定しているように思いました。

(以下思ったことを書きます)
対象が認識をつくるのか、認識が対象を作るのか、文字だけで書くとニワトリタマゴ問題で決着がつかないように思えます。実際には、観察を行ったり理論を作ったりする人たちの間では、仮説を検証する際に、どのようなしかたで正当化されれば妥当だと言えて、どのような場合では却下されるか、という共通了解があり、それに応じて都度データを切り捨てたり、仮説を修正したりしているのではないかと推察します。
「可能性がないとはいえない」という言い回しに見られるように、明確に間違っているといえないものは留保する姿勢が科学的な態度だとみなされているような気がします。一方で、工学的な応用においては、何らかの目的が明示的に達成されなければならないので、理屈はともかくすくなくとも経験的に正しいとわかっている知識でないと使い物にならないと思います。
科学という営みがどのようなものであるか分析するには、正しいとされている科学知識がいかに正当化されているか探るよりは、「間違っているものがどうして間違っていると言われているのか」から攻めるほうが近道なのではないかと思いました。 

「創造主はいる」に投票しました。実際に見たことがあるからです。

・Yuta

確かに正しいとされている科学知識の正当化の過程で既に切り落とされているデータだったり仮説だったりがあるわけなので、間違っていることのなかから科学とは何かを探る手掛かりが見つかりそうなのは僕もそう思いました。納得です。
創造主様、私もお目にかかりたいです。

★イヤープラグさざなみ

考えなしに「私が創造主かもしれません」と答えようとしていました。

・Yuta

そういう考え方も昔聞いたことがあります。

★Takuma Kogawa

創造主はいると思います。そっちの方が面白いじゃないの!(ハルヒ脳)

科学的な興味は「○○があるだろう」という仮定から始まることが多いと思います。これまでに示されていないものはないものとして扱う、は確かに科学的な態度ではあるものの、そこに切り込もうとするのもまた科学的だと思います。

・Yuta

僕も創造主(ハルヒ)に振り回されたい人生でした…
存在が示されていないものでも、科学的なアプローチを取ってみる意義はあると僕も思います。

DAY4

■Yuta

4日目です。

3 知は力なり―科学と社会
ベーコンが『ニュー・アトランティス』のなかで描いた制度化された科学の進歩に導かれた社会の実現という夢は、ベーコン自身には果たせませんでしたが、ベーコンの死後、ロンドン王立協会の成立運営やフランスの百科全書の規格などの実現に大きな役割を果たすことになりました。そして現代では、科学技術の振興を社会の発展の基礎に据えるという考え方はほとんどあらゆる社会に受け入れられるようになっています。しかし同時に、科学技術のもたらす成果が、地球環境の変化を及ぼすまでの力を持つことになったり、ゲノム編集やクローン人間の政策のように人間の尊厳をも脅かすように思われる事態を生じさせるまでに
なってきました。こうした解決困難な問題を引き起こす力を持つに至った遠因もまた、ベーコンの考え方の中に潜んでいたと考えられます。

前節でみたように、ベーコンの提唱した実験科学は、人工的に作り上げられればあげられるほど、自立した事実が作られる、という逆説的な性格を示すものでした。そしてこの逆説的性格のために、一方では自立した科学の発展が可能になると同時に、他方では、その科学の発展がそのまま技術の発展に結びつき、さらに技術の発展による社会の進歩が実現しうるようにみえるのです。しかしながら、この論理が成り立つのは大きな前提が支えとなっているからです。

実験において自然の真の姿が現れるためには、その舞台を注意深く制作しなければならない、というのが出発点でした。しかし、これが意味しているのは、注意深く制作された人工的な状況の中でのみ自然はその真の姿を現すのであり、それ以外の場面では、かならずしもそうはならないということのはずです。つまり、自然についての知識は限定的、制限付きの知識であるはずです。にもかかわらず、この点に関してベーコンは全く注意を向けていません。

さらに、実験を可能にしている行為の方も、いわば制限付きの行為ということになります。というのも、自然法則が成り立つ実験状況を作り上げる作業は再現性があり(科学においては重要)、いかなる場所でも成り立つことが前提とされていますが、一般の製作というのは、個別的で撤回不可能な再現性がないものだからです。だからこそ人間の行為には責任が問われることになるのです。

それではなぜベーコンは、このように実験にまつわる条件に関して触れていないのでしょうか。それはベーコンが人間が相手にしている自然は神が作ったものであるという前提のもとで考えているからです。自然の斉一性(「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という仮定)を前提としているのです。ベーコンからすると、科学の発展による技術の発展が、地球の生態系のバランスを崩したり、人間や生物の生存を脅かすまでになるといったことは思いもよらなかったのでしょう。彼の文章にも「我々は神の奴隷である」
といったようなことが書いてあります。このことが科学技術に基づく進歩という楽観的な見方を可能にしたのです。

こうして科学的知識と科学的活動の意味と価値をめぐる問いは端から排除されることになりました。

しかしいずれにしても現代の私たちは、ベーコンの場合のように神による保証と保護を与えられてはいないし、神によって作られた自然が人間の活動を制限し導いてくれる保証もありません。こうしてわたしたちは、ベーコンの見出した逆説的な科学の在り方の帰結を自ら引き受けなければならなくなっているのです。

この事態を哲学者の加藤尚武氏は以下のように書いています。
「素朴な自然主義への復帰はもう不可能である。人間は自分で自然を設計し直さなければならない。本当の自然らしさを設計しなければならない。この逆説に耐えて実践的に切り抜けることが、科学/技術の行方にまつ人間の責務である。」(加藤 2019:304)

ここで問題になっている「自然」は、もはや実験室のなかで姿を現す自然ではありません。そうではなく、わたしたちがそのなかで生きている「生活世界」のなかで、わたしたちが生きることを支えている自然です。このような広い意味での自然を基本にする支点をとることによってはじめて、科学のとらえる自然の姿が制約を伴った一つの現れ方であることが明確になり、科学と価値、知識の進歩と倫理性とが不可分な形で取り上げられ、自然について「知るに値すること」は何かを問うための舞台設定が可能となるはずです。現代の私たちは、ベーコンが切り開いた地平の先に進むために、知の新たな「大革新」が求められる時代に生きているのかもしれません。

以上です。4日間ありがとうございました!

「どちらともいえない」の選択肢を作っておくべきでしたね。まだ投票されていない方はよろしくお願いします。

DAY5

■チクシュルーブ隕石

チクシュルーブ隕石です。ここから3日間で「人類の生存と宇宙進出の問題」について取り扱います。よろしくお願いします!!

人間の宇宙に対する関心は、現在となっても高まり続けている。その中で、宇宙開発や研究を行う技術者・研究者が人文社会科学や社会学の観点の必要性を認識するようになった。具体的にはスペースデブリや宇宙環境、宇宙資源についての問題に加えて軍事的な利用、宇宙ビジネスによる倫理的な問題も発生することが考えられる。これらの観点から「人類が宇宙の開発を行うという事自体の是非や、宇宙開発がいかに行われるべきか」といった問題提起を行う。この提起についてより詳細に考察する為に、1/8原則という概念を用いる。

1/8原則とは、トニー・ミリガンとマーティン・エルヴィスの共著論文で提唱された原則であり、その中身は「経済成長が指数的である間は、太陽系に存在する開発可能資源の1/8を人類の利用して良いものと見なし、残りの7/8は太陽系の原生自然として残されるべきである」という主張である。さて、この主張は二つの主張が混ざっているため二つの部分に分けて理解をする必要がある。それは、太陽系での資源開発に上限を設定すべきであるという主張と上限が1/8であるという主張である。これら二つの主張について詳しく検討していく。

DAY6

■チクシュルーブ隕石

こんばんは、今日も2日目の内容を引き続き投稿していきます。

1/8原則の1つ目の主張「太陽系での資源開発に上限を設定すべきである」は、地球上での資源問題を宇宙開発をする際にも延長した考えである。つまり、宇宙開発でも資源の過剰利用を予防する策としての主張である。太陽系の次にアクセスできる惑星系が存在せず、太陽系の資源を使い果たしてしまうことで、開発可能な資源が枯渇してしまうという事柄がこの主張の前提・根拠の一つとなっている。
ところで、1/8原則は宇宙開発において指数的な経済成長が続いている期間に適用される原則である。このことから1/8原則の主張の中には上限を設けるべきというだけでなく、1/8という上限に達する前に、資源を循環的に活用する社会及び持続可能な発展が可能となる定常状態の経済が作られねばならないという主張も含まれている。

引き続き、2つ目の主張「上限が1/8である」に
ついても検討する。この1/8はエルヴィスにより試算されたもので、具体的に次のように導かれた。
資源の枯渇が起こる前に循環型経済への移行が必要であるが、資源の利用の上限は余裕を持って設定することにする。この期限を半世紀として、成長率が倍になる時間の3回分を設定するとすれば、上限が1/8となる。

この議論から筆者は1/8原則について不十分であるとしながらも、宇宙開発に抑制的態度をとることを評価している。

DAY7

■チクシュルーブ隕石

こんにちは、本日も引き続き3日目の投稿を行ないと思います。本日は質問もありますので、お読み頂けると嬉しいです。

1/8原則はその根拠が不十分であるが思考法としては有効であるという話を2日目でもしたが、1/8原則を通じて抑制的態度を地球上での資源開発のみならず宇宙開発にも適応しようとする姿勢は重要であると筆者は説いている。
私自身も本書の内容を一通り読んだ結果筆者とほぼ同様の考えに至った。1/8原則の1/8という数字はフェルミ推定的算出を感じ得ない為、数字自体に大きな意味は無いと推察する。しかしながら使用する上限を一切考えずに資源を際限なく使用する事は防ぐべきであると考える。その意味で、ある一定の上限の値を決めるという点、宇宙開発にも地球上と同様に抑制的態度を取るという点では1/8原則という指標は非常に有効であろうという事だ。
今後人類の宇宙へのアクセスはより簡単なものになっていく。それに加えて昨今さまざまな環境問題が取り上げられている中、宇宙の倫理を考えることに意味はあるだろう。

質問あなたは1/8原則を有効な指標だと思いますか?

私の担当の投稿は以上となります。3日間ありがとうございました!

★Hiroto

1/8指標について。

理論として有意義ではあろうと思いますが、実際それを強制するくらい強く主張する何かしらの力がないと、「SDGs」にすら及ばない空虚な文字列になってしまうのではないかと思います。どこかが強くこれを打ち出しているのでしょうか、、。

★Takuma Kogawa

指標が適切でないと思うなら、指標を改良するか、異なる指標を持ってくるという方法があります。暫定的に1/8にする→やっぱり1/16かもしれない、とするなどでしょうか。異なる指標はすぐには思いつきません。
世界大学ランキングなどは暫定としてもダメかもしれません…。

■けろたん

宇宙開発について:
石油枯渇するする詐欺と同じ感想を持ちました。ある時点での技術で開発できる資源の残りが少なくなってきたら、それまで未開拓だった資源を探索、利用するためにさらなるテクノロジーが開発されるのではないでしょうか。1/8以前に、全体でいくらあるかという総量がある時点の技術に依存しているので目標設定が難しいと思います。
仮に世界政府のようなものができたとして、人類存続のために資源の利用を控えなければならないとなったら、存在している資源とその消費ペースを目標にするよりも、人口や一人あたり消費エネルギーなど、人間要因の要素のほうがコントロールしやすいのではないかと思います。

(以前読んだうなぎ絶滅問題を扱った本には、ヨーロッパの何処かの国が漁獲量を制限して水産資源が復活した的な話がありました。宇宙資源はおそらく生き物ではないと思いますが、やりようによってはコントロールできるのかもしれません。)

DAY8

■Yujin

おはようございます。Yujinです。

本日から、3日間(明日は座談会です)はYujinのターンです。よろしくお願いします。

明日の座談会、ぜひお越しください!

僕が担当する章は第6章です。遺伝病の治療に関するお話です。

第 6 章 遺伝病医療の倫理 (鈴木邦彦)

要約(Day1)

「健康」とは、生物を構成する物質が動的な平衡状態を保ち続けている状態のことであり、その平衡状態を妨げられた時、その状態を「病気」と呼ぶ。この章では、多々ある病気の中でも、特定の遺伝子が正常に機能しないことが原因となって引き起こされる「遺伝病」について考える。

20 世紀に「酵素学」が進歩し、多くの遺伝病は、遺伝子の異常により、正常機能を持つ酵素や構成タンパクが生成されないことが原因であると判明した。その後、「分子生物学」の発展により、原因遺伝子の異常を核酸のレベルで理解することが可能になった。それ以降遺伝病の研究目的は、原因究明・病理機序の理解から、患者の治療へと向けられるようになった。そして現在までに、保因者の素早い確実な診断、遺伝カウンセリングなどの技術が大幅に向上し、ありとあらゆるレベルでの遺伝病の治療の試みが行なわれている。

ここでは、遺伝病の中でもとりわけ筆者の関わりが深い「ライソゾーム病」に焦点を合わせる。細胞にはライソゾームと呼ばれる細胞小体があり、そこでは酸性加水分解酵素によって、新陳代謝における分解が行なわれている。その酵素が遺伝的に欠損すると分解が正常に行なわれなくなり、分解されずに残った物質が異常に蓄積することで、 細胞、臓器、個体の機能を阻害する。これがライソゾーム病である。酵素学や分子生物学の発展により多くのライソゾーム病の原因となる遺伝性の酵素異常が同定されており、患者の診断だけでなく、保因者の同定も可能となっている、現在では、保因者テストや出生前(後)診断、 新生児マススクリーニングが行なわれている。

DAY9

座談会

座談会を開催。議題は以下。
・今回の本を読んだ感想
・大学で科学倫理をどのように学んでいるか、学ぶべきか
・10章の内容について話し合う(この世界は何かしらの創造主が作ったものだと思いますか?思いませんか?)

DAY10

■Yujin

こんにちは、Yujin担当の2日目です。質問ありです。

第6章 要約(Day2)

マススクリーニングの成功例として、ライソゾーム病に分類される「テイ・サックス病」が挙げられている。テイ・サックス病は特にユダヤ人が発症することが多く、そのことに注目したMichael Kaback は、特定の地域内のユダヤ人を片っ端からスクリーンし保因者を同定、遺伝子カウンセリングを受けさせた。結婚相手に診断を受けさせたり、出生前診断にて胎児が病気に侵されていると判明すると中絶させた。この活動により、その地域のユダヤ人の保因者の頻度を元の 10 分の 1 にまで下げ、一般人口と同じレベルになった。

長年の研究のおかげでライソゾーム病の診断法は確立した。一方で、それに伴う社会的、倫理的な問題も無視できない。例えば、診断で保因者であると判明した場合、日本の地方にある閉鎖的な社会では「あの家は悪い病気を持っている」などの風評の原因になりうる。これは個人情報の漏洩と解釈され得る。あるいは、出生前診断で胎児が発症することが判った場合、結果を受け入れて出産するのか、中絶するのかという苦しいを判断に迫られる(中絶が認められない地域もある)。西欧では特に宗教が介入するため、より大きな問題となる。また、もし根本的な治療が可能になったとして、人為的に遺伝情報に介入できるとなると、究極の個人情報とも言える遺伝情報を保護するための法が必要になるかもしれない。

筆者は対処できないジレンマを抱えている。Michael Kaback の取り組みを用いると、根本的な治療法がなくとも、将来的には遺伝病を人間社会から根絶することができる。具体的には、患者の家族を診断して、保因者同定、出生前診断、中絶などによって 2 人目の患者が生まれないようにしつつ、既に存在する患者の治療を諦めてなるべく安楽にするというものだ。しかしこれでは、現時点で存在する患者を犠牲にすることになり、それは医師としての責務、「患者を社会の一員として意味のある生活が出来るレベルまで戻す」、を放棄していることになるのではないか。

質問

診断法は確立されていているが、治療法が確立しておらず 、深刻な症状をもたらす病気は、Michael Kaback のアプローチを用いて強制的に根絶するべきか?
A. 根絶するべき
B. 根絶するべきでない
C. その他(治療法の確立を待つ、など)

投票結果

A. 根絶するべき 2票
B. 根絶するべきでない 0票
C. その他(治療法の確立を待つ、など) 1票

★Takuma Kogawa

日本だと優生保護法、海外だとプロライフ/プロチョイスの争いがテーマとして近いと思います。
MKの取り組みに似ているものとして、ジョン・スノウのコレラ研究を思いつきました(詳しくは調べてください)。医学以外のアプローチで健康に関する問題を解決したスノウの功績は今でも語り継がれていますが、MKのように現在ある生命の犠牲(間接的には、遺伝子異常を持つ人を生まれる前に殺すこと)を必要とするものだと反発があるのかもしれません。不思議なのは、遺伝子病の治療にあたる人や家族の負担が減るという利点が語られていないことでしょうか。
根絶するべきかどうかは、問題に今向き合うか先送りしつづけるかということであって、魔法少女まどか⭐︎マギカの主人公まどかの葛藤みたいですね(適当)

・Yujin

ジョン・スノウについて調べました。感染源を取り除くという手法でコレラ禍を抑えるというのは、治療ではないアプローチだという点でMKに似ていると感じました。
MKの強制的な手法が反発されるのは仰るように生命の犠牲を必要とするからでしょうし、いずれ治療法が確立するかもしれないという期待を裏切ることにもなるからというのもありそうです。
今根絶しなければ将来苦しむ人が出てくる、ならやるべき事は一つだと思うのですが……これは当事者じゃないからこそ言える無責任な意見なのでしょうか。
まどマギは未履修ですすみません

DAY11

■Yujin

こんにちは、Yujin担当の3日目です。2日目の質問に対する、僕の意見を置いておきます。

(意見)
このアプローチを社会全体を巻き込んで大規模に行なうことは、組織的にも、経済的にも非現実的である。また、保因者を完全になくすまで、多くのの人々の権利を制限するのか、出生前診断で胎児が病に侵されていると判明すると中絶するのか、など倫理的な問題も多い。この疑問は、そういった倫理的、社会的、経済的な解決策が見えない問題を(可能な限り)無視してでも、将来の人間のために病気を根絶するべきか、ということであると捉える。

僕の意見としては、このアプローチが適用できる病気ならば、根絶するべきであると思う。このアプローチは、確かに一時的に(恒久的にも)権利が制限される人間が多少出てくるが、病気を残しておくのと根絶させるのとでは、その後に影響する(権利が制限され得る)人間の数が異なってくる。つまり、未来の子供達のために一部の不幸な大人は我慢しようということである。まあ、それ
が嫌だという意見があることこそが問題なのだが、数少ない大人の犠牲で未来永劫その病気に罹るかもしれなかった人々を救うことができるならば我慢するのも美徳じゃないかと…という提案である。

「だが、こうは思わないかね。人間の行為のなかで、もっとも崇高なものは自己犠牲だ。(中略) その生きかたを最後まで貫徹することが、後世、きみにたいする評価をいやがうえにも高めるだろう」と、銀英伝のレベロ議長も言ってます。

DAY12

■Naokimen

今日から3日間は『科学と倫理ーAI時代に問われる探求と責任』の第12章「宗教由来の倫理は科学の倫理に応用できるか?ー嘘(捏造)をめぐる考察」(正木晃)をベースとして、そのタイトル通り、

「宗教由来の倫理は科学の倫理に応用できるか?」

という問題について、特に嘘(捏造)に焦点を当てて考えたいと思います。上記の問いについて意見を言える方は、この3日間のうちいつでもいいので意見を述べていただけると嬉しいです(今回は「嘘(捏造)」に焦点を当てていますが、「嘘(捏造)」に関することでなくても構いません)。

それでは、具体的な内容に入っていきたいと思います。今日は倫理と宗教の関係について概観し、2日目は各宗教での嘘の捉え方について述べ、3日目に上記の問の結論を出したいと思います。

1 倫理の源泉としての宗教

倫理とは「より善く生きる」ための評価基準のことであり、「より善く生きる」ための評価基準を研究の対象とする学問の分野を倫理学と呼びます。しかし、倫理は倫理学という枠組みの中で論じられるとは限りません。なぜなら、人間が社会生活を営む上で、倫理学はなくても何とかなりますが、倫理そのものは欠かせないからです。

では、その倫理はどこから供給されるのでしょうか?その答えは、おおむね宗教から、です。

例えば、仏教は、自発的戒な誓い・行動の規範としての「戒」、および戎を守れない者に対する他律的な罰則規定としての「律」を設定しました。仏教を信仰する者は、原則として、聖職者にあたる出家と出家者を支援する在家に分けられ、前者には250以上もの戒が、後者では5つの戒が、それぞれ設定されました。

また、儒教や道教は、宗教と政治の境界が曖昧で、時に政教一致の傾向を持ち、それゆえに、社会とのかかわりを重視する「人倫の道」というかたちで、倫理を提唱してきた歴史があります。儒教の例をあげれば、孔子の「仁」、孟子の「義」、朱子の「性即理」、王陽明の「知行合一」などがあります。道教の例だと、老子あるいは荘子の「黄老の道」、「無為自然」などです。

なお、儒教は、原則として、聖職者を必要としないので、聖職者のための倫理と一般人のための倫理という区別はなく、その代わりに、階層によって求められる倫理が異なっていました。特に、10世紀以降になると、支配階層に当たる士大夫と被支配階層に当たる庶民とでは、与えられる倫理に大きな違いがありました。極論すれば、庶民には倫理が求められなかったのです。

DAY13

■Naokimen

2 仏教と嘘

現在活動中の仏教の中で最も原点に近いテーラワーダ仏教の罰則規定に当たる律蔵では、8段階の罰則規定が設けられています。そのうち、正式な出家僧として戒を授かった僧侶に対する最も重い罰則は「波羅夷罪(はらいざい)」と呼ばれ、教団から永久追放されます。仏教では死刑がないので、これ以上に重い罰則はありません。

その項目は淫戒・盗戒・殺人戒・妄語戒の4つあり、嘘は妄語戒の対象領域となります。妄語戒とは、自身が悟りの境地に達していないことを知っていながら、悟りの境地に達したと嘘をつくことです。また、自ら嘘をつき、他人にうそをつかせ、あらゆる人々を偽りの言葉や正しくない見解、正しくない行為に導くことも、妄語戒の対象となります。

ただし、故意ではなく、思い違いに基づく発言である場合は、波羅夷罪に該当しません。また、波羅夷罪にあたる罪を犯してしまっても、財物を提供すれば、執行猶予が得られる場合もあると、「僧残法」と呼ばれる罰則規定に記されています。したがって、妄語戒に抵触しても、教団から永久追放されるとは限りません。さらに、第5段階の「波逸提法(はいつだいほう)」と呼ばれる罰則規定には、二枚舌くらいの嘘は、3人の出家僧の前で告白懺悔すれば、許されると記されています。

このように、テーラワーダ仏教の罰則規定は、嘘に対してそれほど厳格ではありません。嘘に寛容な傾向はテーラワーダ仏教だけではありません。実際、大乗仏教でも、人々を結果的に悟りに導けるのであれば、嘘は認められてきました。

3 キリスト教と嘘

キリスト教でも、嘘は厳禁されています。『旧約聖書』の冒頭近くに位置する「出エジプト記」第20章第3~17節の「モーセの十戒」に、その9番目として「隣人に関して偽証してはならない」と定められています。また、『新約聖書」の末尾に位置する「ヨハネの黙示録」第21章第8節に、「臆病な者、不信仰な者、忌まわしいもの、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、全て嘘を言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である」と記されています。

ただし、嘘が全面的に否定されたわけではなく、状況次第では、嘘も許されるとも説かれています。その状況とは、生命にかかわる場合、ならびに地上の支配者に従うか、それとも神の心に従うかを選ばなければならない場合です。

具体的な例は、「出エジプト記」第1章第15~21節に記されています。エジプト王から、2人のヘブライ人の助産婦に、「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」と命令された時、助産婦は神を畏れていたので、エジプト王の命令に従いませんでした。そして、男の子を生かしておいたことがバレてしまったとき、助産婦は「ヘブライ人の女はエジプト人の女とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」と嘘をついて、エジプト王の追求から逃れたと説かれています。しかも、神は助産婦の行為を褒めて、恵みを与えたとも説かれています。

DAY14

■Naokimen

4 宗教由来の倫理は科学の倫理に応用できるか?

昨日見たように、どの宗教も、嘘に関して、意外なくらい寛容なことが分かります(分量の関係で省略しましたが、本にはイスラム教と嘘の容認についても述べられています)。建前としては厳しく禁じているものの、状況次第では許されている場合が少なくありません。宗教にとって最も重要なのは、信仰を守ることであり、そのためであれば、大概のことは許されます。嘘についても、同様です。

もともと、宗教に由来する倫理には、致命的な難点があります。それは、その宗教に対する信仰を持つ者にしか正当性が担保できない、言い換えればその宗教に対する信仰を持たない者には、従わなければならない理由がない、ということです。善と悪、神がいるのかいないのか、神の定義、生命観、歴史観をはじめ、重要な課題にまつわる思想や判断基準は、宗教によって、著しい差異があります。

そして、科学の倫理に宗教に由来する倫理を応用するには、次のような別種の難点があります。

まず、17世紀の西ヨーロッパで起きた科学革命の全段階におけるキリスト教と科学の関係を除けば、宗教と科学の熾烈な葛藤はどこにも生じていません。つまり、宗教と科学が真に向かい合う機会は他になく、ほとんどの宗教で両者の関係は曖昧なまま現在に至っています。

次に、宗教における真理は、科学と違って、客観的な証明とは縁がありません。信仰心が何より優先され、文字通り「信ずるものは救われる」からです。ゴータマ・ブッダが悟りを開いたことも、ムハンマドがアッラーから教えを授かったことも、本人がそう主張しているのにすぎず、誰にも証明できません。

以上から、宗教に由来する倫理をそのまま科学の倫理に応用するには無理があり、私たちは科学の倫理を新たに構築しなければならない、と筆者は結論づけています。

僕自身も、筆者と同様に、宗教由来の倫理を科学の倫理に応用するのは不可能だと思います。確かに、量子力学と仏教の「空」の考え方が似ているといったように、宗教と科学には多少なりとも繋がりがあるとは思いますが、宗教と科学とでは使われている手法・考え方が根本的に異なります。科学では、再現可能性が根本の原理にありますが、宗教にはそのようなものはありません。逆に、宗教では信仰心が重視されますが、科学ではそんなことはなく、客観的なデータが重視されます。このように、宗教と科学とでは根本的な手法・考え方が大きく異なり、したがって、「倫理」を宗教と科学で共有するのは不可能です。実際、昨日見たように、どの宗教も嘘に寛容ですが、そのことを科学に持ち込むと、捏造に寛容になることを意味しますが、捏造に寛容になることは、科学の根本の原理である「再現可能性」抵触してしまいます。筆者が述べているように宗教と科学は基本的に別々に発展して来たものであり、ほとんどの宗教で両者の関係は曖昧なままです。もし宗教と科学が共に発展してきたのであれば宗教由来の倫理を科学の倫理に応用することはできたのかもしれませんが、別々に発展し、根本的な考え方が違う以上、それは不可能に思います。


WSの内容自体は以上になります。まだ終了まで時間がありますので、これまでに出てきたクエスチョンの回答やコメント等、お待ちしております。

■Naokimen

これにて今回のWSを閉じたいと思います。座談会やこのwsルームでたくさんのコメントをいただき、とても楽しめました。返信しきれていないコメントについてはws掲示板で返信します。2週間ありがとうございました。また次のWSでお会いしましょう。


以上。

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