又春廓🌸奴

ゆうしゅんかく・やっこ。近代史、特に大正時代が好きで奈良県にあった四遊廓の奈良市木辻町…

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ゆうしゅんかく・やっこ。近代史、特に大正時代が好きで奈良県にあった四遊廓の奈良市木辻町、元林院町、大和郡山市東岡町、洞泉寺町(旧川本楼/町家物語館)を研究しています。「近代奈良の遊廓と性売買-新聞報道にみるその諸相-」『女性史学第33号』2024。

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  • 自己紹介、目的、私見

    Noteを始めた理由や、自分について、意見や考え方などを書いた記事を集めました。 奴について、興味をもたれた方はこちらから😊

  • 大和郡山市東岡町遊廓の歴史(近代史)

    東岡町の遊廓跡は、一部のマニアにとっては全国的にも有名な場所であるが、その歴史については、きちんとまとめられたことがなくベールに包まれている。そう、東岡町は奈良四遊廓の中でも最も史料が残されていない近代遊廓跡である。ここでは2018年からさまざまな文献調査を行なった筆者が、これまで通史としてまとめられることのなかった東岡町の歴史を紐解く。

  • 昭和30年代 赤線消滅 岡町・洞泉寺遊廓の終焉

    昭和33年4月の売春防止法施行とともに、近世から続く奈良県大和郡山市にあった二つの遊廓、岡町と洞泉寺の紅灯もその灯火が消える。行政と業者のせめぎ合い、さまざまな思惑に翻弄される接待婦(娼妓)そして、その行方を見守る周辺住民の眼差し。売春防止法の法案成立から施行後の様子を新聞記事をもとにまとめた。

  • 大和郡山洞泉寺町の旧遊廓川本楼(町家物語館)について

    旧川本楼は奈良県大和郡山市洞泉寺町に残る旧遊廓建造物(国登録有形文化財)です。現在、町家物語館とよばれ町の人々に親しまれています。正しい情報を是非とも多くの来訪者に知っていただきたいと思い、現在わかっている情報をまとめました。

最近の記事

  • 固定された記事

未来のためにできること。洞泉寺遊廓旧川本楼 上棟百周年記念イベント令和6年11月23日(土・祝)開催!

   【NEWS】本イベントが毎日新聞奈良版で紹介されました! (2024年9月16日更新) 未来のためにできること 大和郡山市洞泉寺町にかつて存在した「洞泉寺遊廓」。大和郡山市が買取り、平成30年(2018)より公開している「町家物語館」は、この地に現在も残る貴重な旧遊廓建造物です。 ここは昭和33年の売春防止法施行前まで、洞泉寺遊廓「川本楼」という屋号で営業していました。  2024年現在、市による公開が始まって6年を経過しましたが、「町家物語館」は、その名前からもわか

    • 奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓について④新開地編

       ①②③に引き続き、これまで通史としてまとめられることのなかった東岡町の歴史を紐解く。④では大正末期に行われた東岡町の新地開発とその後の発展について記す。その過程で、岡町遊廓廃止の危機もあったのだが、これを食い止めたのは大和郡山市の名産「金魚」であった(※1)。 (ヘッダ部の写真は昭和初年初恵比寿の寶恵駕籠、背景に現在もあるトキワ写真館が写っている『ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 大和郡山』より) 前回のおさらい 大正後期、大阪電気軌道奈良線(現在の近鉄)開通に

      • 【近代新聞記事紹介】#1 明治・大正の奈良三条通り

         筆者はnote執筆を始めて3年になるが、執筆を地道にしかも頻繁に続けると、アクセス数や「スキ」が増えるということがわかってきた(当たり前)。逆にいうと更新しなければ誰も来なくなる。しかし、ネタは大量にあっても執筆スピードが遅いので全然更新できない。現在連載の「奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓について」の執筆もなかなか進まない。  そこで、もっとライトな単発記事を間に差し込んでみてはどうかと考えた。私の手元には近代奈良の新聞記事(複写)が大量にある。遊廓の記事ばかりではなく、奈良住

        • 奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓③生駒芸妓との競合

           ①②に引き続き、これまで通史としてまとめられることのなかった東岡町の歴史を紐解く。③では大正後期の東岡町(岡町遊廓)の状況と芸妓の待遇について記す。ヘッダーの写真は、岡町遊廓芸妓の稽古風景。 前回のおさらい 大正前期の好景気で、全国的に芸を売らずに身体を売る「大正芸妓・不見転芸妓」が増えたことは前回書いた。その背景的要因には、好景気によって農村部から男女ともに多くの若者が都市に憧れ、都市部へ流出し労働者が増えたことが挙げられる。彼らの多くは都市に設置された歓楽街の誘惑に抗

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        未来のためにできること。洞泉寺遊廓旧川本楼 上棟百周年記念イベント令和6年11月23日(土・祝)開催!

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          5本
        • 大和郡山市東岡町遊廓の歴史(近代史)
          3本
        • 昭和30年代 赤線消滅 岡町・洞泉寺遊廓の終焉
          13本
        • 大和郡山洞泉寺町の旧遊廓川本楼(町家物語館)について
          3本

        記事

          奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓② 浪花節芸妓の流行

           前回の①に引き続き、これまで通史としてまとめられることのなかった東岡町の歴史を紐解く。②では大正前期の東岡町について書こうと思う。 大正前期における芸妓の隆盛 明治期の主な遊客は政財界の高等官や富裕な商人だったことは①で述べた。そう、まだ明治期において花街や遊廓で遊興するのは富裕層のみに限られていたのである。よって芸娼妓の数も少なく、明治20年(1887)奈良県内の娼妓数は183名で芸妓は31人しかいなかった。  しかし、明治後期〜大正期には第一次世界大戦時の好景気の影響

          奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓② 浪花節芸妓の流行

          奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓① 幕末・明治期編

           また、東岡町遊廓繁栄の生き証人が消える。2024年7月31日付の毎日新聞に東岡町遊郭建物解体のニュースが飛び込んできた。記事のタイトルが「明治期の」とあるが、この建物は大正後期〜昭和初期の建物である。そもそも、明治期の建物は残されていないと思う。  東岡町の遊廓跡は、一部のマニアにとっては全国的にも有名な場所であるが、その歴史については、きちんとまとめられたことがなくベールに包まれている。そう、東岡町は奈良四遊廓の中でも最も史料が残されていない近代遊廓跡である。 地元の人で

          奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓① 幕末・明治期編

          明治・大正・昭和の奈良四遊廓 #2明治維新頃

          はじめに #2では明治維新前後の奈良の遊所がどのような様子だったのかを概観します。まずは、前回のおさらいです。  かつて奈良県には、奈良市と郡山町(現在の大和郡山市)に計四カ所の遊廓がありました(奈良四遊廓)。これらは明治5年(1872)11月発布の奈良県令によって営業を許可された奈良県の公認遊廓(貸座敷指定地)で、奈良の木辻(瓦堂)・元林院、郡山の洞泉寺・東岡町をいいます。  上の変遷図にあるように、江戸時代、幕府に遊所として公認されていたのは木辻のみであり、それ以外は

          明治・大正・昭和の奈良四遊廓 #2明治維新頃

          女性の視点で見る近代遊廓と朝ドラ「虎に翼」

          近世の遊廓と近代の遊廓 みなさんが、遊廓という言葉を聞いて思い起こすのはどういうイメージだろう。艶やかな遊女の着物姿や、吉原の花魁道中のような光の部分?それとも、借金のかたに売られる貧困家庭の少女や、一般社会と隔絶された裏の世界といった陰の部分だろうか。そういえば、2024年春の朝ドラ「虎に翼」でも、山田よねの姉が遊廓に売られ、当人も15歳になる前に売られそうになり逃げ出すというエピソードがあった。この様に貧困に起因する「身売り」を連想する方は多いだろう。また、遊廓のイメージ

          女性の視点で見る近代遊廓と朝ドラ「虎に翼」

          明治・大正・昭和の奈良四遊廓 #1 江戸時代

          はじめに -奈良四遊廓とは- かつて奈良県には、奈良市と郡山町(現在の大和郡山市)に計四カ所の遊廓がありました。これらの遊廓は明治5年(1872)11月発布の奈良県令によって「これまでのしきたりで営業していた所に」営業を許可されたものでした。具体的には奈良の木辻(瓦堂)・元林院、郡山の洞泉寺・東岡町のことで、これらが明治以降、奈良県の公認遊廓(貸座敷指定地)となり、奈良四遊廓と呼んでいます。  図1のように、奈良四遊廓は奈良県の北部にあり、古くから大阪京都への街道筋に位置し

          明治・大正・昭和の奈良四遊廓 #1 江戸時代

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          ちょっとむかしの大和郡山市洞泉寺町~元遊廓街のおもかげ~#01 メインストリート編

          ちょっとむかしの大和郡山市洞泉寺町~元遊廓街のおもかげ~#01 メインストリート編

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          #13 まとめ〜新聞から見えた赤線終焉の時代 〜

           12回にわたり、みなさんと一緒に見てきた「新聞で見る昭和33年の奈良赤線地帯のようす」ですが、いかがでしたか?  当初わたしは、二つの赤線を抱える大和郡山市の市民が「この法案をどう思っていたのか?」ということを調べたくて連載をはじめたのでした。知りたかったのは、赤線地帯と共存する一般市民のまなざしで、身近に存在していた当時、一般市民は赤線をそれほど蔑視していなかったのではないか?という考えでした。  そしてその時代の社会はどうなっていたのかも知りたかったのです。  この回で

          #13 まとめ〜新聞から見えた赤線終焉の時代 〜

          #12 赤線廃業後の奈良木辻、郡山岡町、洞泉寺はどうなったのか

           昭和33年3月15日、奈良県では3箇所の赤線地帯が最後の営業を行なった。翌日には解散式を行い、それぞれが新たな人生のスタートを切ることになった。4月1日には「売春防止法」の施行、一切の性売買が禁じられた。その後、芸妓街などの歓楽街はどのような影響を受け、赤線地帯はどのように変化し、懸念だった接待婦はどうしているのか。それぞれ見ていきたい。 さびれたバーやスタンド人声もない11時過ぎ 風俗営業法が効く  木辻特飲街の廃止、南市検番が明かし花を廃止して営業時間を午後11時まで

          #12 赤線廃業後の奈良木辻、郡山岡町、洞泉寺はどうなったのか

          #11 奈良三赤線の終焉 一斉に解散式 洞泉寺特飲街組合は伊勢参りで“慰労会“へ

           ついにこの日が来た。大和タイムスは連日一面トップで大きく赤線最後の日について報じている。それだけ世間の関心が高かったことを表している。業者や接待婦たちはどのように最後の日を迎えたのか、以下で紹介する。 県下三特飲街 従業婦も人生の再出発 今日15日で県下三特殊飲街の街灯が消える。過去三百有余年、日本女性の悲しみを秘めて性売買した公娼制度が売春防止法の全面発効でついに姿を消すことになったわけだ。必要悪の名のもとに女性の紅涙を絞った歴史に終止符を打つ県化の赤線地帯、奈良市木辻

          #11 奈良三赤線の終焉 一斉に解散式 洞泉寺特飲街組合は伊勢参りで“慰労会“へ

          ここの内容の転載は事前にお知らせを!無断は厳禁。

           いつも沢山の方に見ていただいてとても嬉しいです。ありがとうございます。今まであまり知られていなかったことをたくさんアップしているため、関心が高いことに驚いています。ですので、このページのリンク、シェアは大歓迎です。その際、ここで紹介している内容、文章及び画像のみを無断使用することはお断りします。もし使用されたい場合は必ずご連絡いただき、転用先にこのページのURLをご記入ください。 実は、現在いくつかのサイトで、無断転用を確認しています。新聞記事ですのでバレないと思われてる

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          #10 紅い灯もあとすこし、廃業を待つ県下の赤線地帯

           昭和33年3月。4月1日の売春防止法施行にさきがけ、15日で一斉廃業することを決めた奈良県の赤線地帯。営業できるのもあと数日と、終わりへのカウントダウンが始まった頃の木辻、岡町、洞泉寺の様子をサンデー郡山(郡山町の週刊誌)と、大和タイムス(奈良県全域の地方誌)から紹介する。  他地域では名古屋の中村遊廓のように、すでに転廃業したところもあり、その後の状況はあまり良くないとの噂も流れる。この時期、新聞の三面記事に「遊廓」に関する話題が立て続けに掲載されていることから、世間で

          #10 紅い灯もあとすこし、廃業を待つ県下の赤線地帯

          大和郡山市旧遊廓「東岡町」の惨状に思うこと

          東岡町の現在 奈良県大和郡山市の二つの遊廓、洞泉寺遊廓と岡町遊廓を研究し始めて4年目めになるが、まだ聞き取り調査が不十分である。特に岡町は、様々な大人の理由でどこから手をつけたら良いのかも、まったくわからないままだ。  そうこうしているうちに、いまの行政区分でいう「東岡町」はかつての遊廓建造物がどんどん解体され、集合住宅が立ち並び新しい町に生まれ変わりつつある。この流れはどうしようも無いと自分に言い聞かせてはいるのだが、先日久しぶりに訪れて驚いた。  かつて「料理旅館京富」が

          大和郡山市旧遊廓「東岡町」の惨状に思うこと