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奈良四遊廓・郡山東岡町遊廓について④新開地編

大和郡山市東岡町の廃墟と化していた遊廓建物の建築年代について、筆者が毎日新聞の取材を受けました。(2024/09/25追記)



 ①②③に引き続き、これまで通史としてまとめられることのなかった東岡町の歴史を紐解く。④では大正末期に行われた東岡町の新地開発とその後の発展について記す。その過程で、岡町遊廓廃止の危機もあったのだが、これを食い止めたのは大和郡山市の名産「金魚」であった(※1)。
(ヘッダ部の写真は昭和初年初恵比寿の寶恵駕籠、背景に現在もあるトキワ写真館が写っている『ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 大和郡山』より)


前回のおさらい

 大正後期、大阪電気軌道奈良線(現在の近鉄)開通によって、東岡町の芸妓町は新しい生駒の芸妓町と競合することになった、この時、生駒町がどのように発展したのか、東岡町はどのような影響を受けたのかを新聞記事を中心に紹介した。そして同時期に明らかになった東岡町の裏の部分、すなわち芸妓置屋が不法な帳簿で客や芸妓から搾取し、女児を芸妓見習いや養女と称し、人身売買を行っているといった問題と、郡山町民が心待ちにしていた大軌畝傍線(橿原線)開通の際の盛況な祝賀会についても紹介した。

岡町遊廓廃止の危機

 少し話はそれるが、かつて大和郡山市豆腐町に住し、奈良女子大学の前身である奈良県女子師範学校で教鞭をとっていた水木十五堂(1865-1938)は、大和史や地誌の研究者でもあり、『奈良県史蹟勝地調査会報告書』をいくつか執筆していた。

水木十五堂についての記事 大和郡山市のホームページより

 十五堂は漢詩、和歌、俳句、書画、狂歌から茶道、演劇等にも通じ、ラジオにも出演するほどの教養人である一方、郡山の岡町遊廓や奈良の元林院を出入りし、特に岡町遊廓では「岡町小唄」を作詞するなど、岡町芸妓衆と大変懇意にしていたようだ。そんな十五堂は、南都馬角斎なんとばかくさいというペンネームで、昭和8年(1933)「大和の遊廓」というエッセーを『郷土研究上方』28に寄稿している。この中に東岡町の歴史が記載されており、本連載でもたびたび使用しているのであるが、実はこの中に大変気になる一文がある。

(中略)娼妓は段々なくなるにつれ一時遊廓区域の廃止せられんとする機運に迫ったので両家連合して京咲楼といふ娼妓店を経営したこともあったが都合よく行かず、京咲縁邉の人が藤近楼を経営して僅に遊廓の残瑞を保ち後に発展する新遊廓との繋ぎとなった。

「大和の遊廓」 南都馬角斎1933

 東岡町は、「一時、遊廓区域の廃止」になりそうだったというのだ。「遊廓区域」とは公認された公娼がいる遊廓のことなので、つまり「東岡町が公認遊廓ではなくなりそうだった」ということである。
 実は統計によると、大正11年(1922)末時点の貸座敷は6軒になっており、娼妓数は10人であった。翌大正12年も貸座敷6軒に娼妓12人と変わり映えなかった。下図のように、同時期の洞泉寺遊廓や奈良の木辻・瓦堂遊廓に比べ圧倒的に少なく、10人前後を推移している。

奈良四遊廓の娼妓数の変遷(大阪府統計書・奈良県統計書より)

 ③で述べたように、大正10年(1921)3月1日の新聞に「郡山岡町遊廓を生駒へ移す魂胆」という報道があり、当時「遊廓指定地」という経済的な特権を生駒町に取られてしまうかもしれないことが懸念となっていた。同年、大軌「郡山停留所」の開設で娼妓数が増加するかと思いきや、その後、数年経っても娼妓の数は増えなかった。すなわち十五堂が記した「一時、遊廓区域の廃止」「京咲楼といふ娼妓店を経営したこともあったが都合よく行かず」とは、これらを指すものだと思われる。

 十五堂はその続きに「京咲縁邉の人が藤近楼を経営して僅に遊廓の残瑞を保ち」と記している。これは、大正13年(1924)のことと考えられ、10月13日に「芸妓置屋兼貸座敷兼業廃止の問題」という新聞記事がある。要約すると、①在籍する娼妓数が少なく、花代もそれほど多くない、②不見転芸妓が増えるなどの風紀の悪化を防ぐ、といった理由で郡山警察署長が「芸妓置屋と貸座敷の兼業廃止」にする意向であるというのである。
 記事によると芸娼妓数は、大正13年9月末の段階で、京咲、京富、京縫、竹島楼に芸妓141人、娼妓25人であった。大正13年末の奈良県の統計書を見ると、東岡町には貸座敷が9軒、娼妓18名となっている。貸座敷は前年より3軒増えており、この中に「藤近楼」が入っていたと考えられる。しかし、大して娼妓数は増えていない。なぜだろうか。

旧川本楼(町家物語館)3畳板間付娼妓部屋

大正10年大軌道開通以降の数年間、娼妓が増えなかった理由

 娼妓が増えなかった原因は、建物の問題が考えられる。そもそも芸妓置屋として発展した東岡町遊廓の各貸座敷には、洞泉寺遊廓旧川本楼のような3畳板間付程度の広さを持つ娼妓居稼ぎの部屋は多くなかった
 そのため、娼妓数を増やすことができなかったと考えられる。上の「兼業廃止」とは、このような建物の構造問題を解決しなければならない、という意味もあったのではないだろうか。
 また、十五堂は「後に発展する新遊廓」と述べている。上のグラフを見て分かるように、東岡町は大正14年、娼妓数が激増している。下に示す、各駅(停留所・停車場)の乗降者数グラフでも、大正14年の大軌郡山停留所の乗降者数は飛び抜けて多い。新遊廓が発展したということは想像できるが、この時一体何があったのか。

各駅(停留所・停車場)の乗降者数

郡山における新地開発

 結論を先に述べると、大軌開通の4年後、大正14年(1925)までの間に郡山停留所から東岡町にかけて新地開発が行われたのである。下の地図は、本連載①で近世・明治期の東岡町の位置図を示していた略図に、大正10年に開設した大阪電気軌道畝傍線「郡山停留所」と、これに伴い開発が行われた箇所を加筆し示したものである。新地開発の前は、駅周辺は金魚池や田地が広がっていたといわれている。

大正末期の新地開発の様子/大軌畝傍線郡山停留所周辺図(奴作成/無断転載厳禁)

 新地開発がどのように行われたかというと、上図のように国鉄郡山停車場と大軌郡山停留所を結ぶ道路の整備が行われ矢田筋と名付けられ、大軌郡山停留所から東岡町方面へ伸びる道路(のちの銀座通り)を拡張した。そしてその道路の周辺に玉撞(ビリヤード)場をはじめ温泉や飲み屋、料理旅館、カフェー等の店が多く立ち並び、一大歓楽街が出来上がったのである。
 大正14年(1925)ごろに東岡町に作られた新地を「岡町新地」と言い、旧武家地であった台所町と下箕山町付近は「箕山新地」と呼ばれていた(行政区域は「大字南郡山」である)。
 また下の写真は、大軌郡山停留所開設の3年後、大正13年(1924)に撮影されたもので、上図の郡山停留所前(★印)から南方面を写したものである。黄色く塗りつぶしている部分がのちの銀座通りで、南方には玉撞(ビリヤード)場や料理屋の花のが写っている以外、建物が何もないことがわかる。

『ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 大和郡山』国書刊行会掲載の写真に加筆

 下の写真は昭和35年ごろの近鉄郡山駅以南を郡山病院の屋上から望んだものであるが、駅周辺に多くの建物が立ち並び、大正時代とは大きく様変わりしていることがわかる。黄色く塗りつぶしている箇所が、上の写真でも示した銀座通りである。

『ふるさとの思い出 写真集 明治・大正・昭和 大和郡山』国書刊行会掲載の写真に加筆

 このように、大正10年(1921)の大軌郡山停留所の開設によって、停留所から東岡町へかけての新地開発が行われ、町の様子は一変したのである。

郡山町の経済を発展させた金魚養殖と新地開発

 では、この新地開発の主導者は誰であったのか。これについても、水木十五堂が前述の「大和の遊廓」で触れている。

 以前、郡山の金魚会の中心であった小松氏は、好況時代の後を受けて新遊郭開発を計画し、米田氏の所有に帰してゐた遊廓敷地の買収に盡力し、大正4年一旦大阪角芝居(道頓堀角座)裏橋君の手に渡り、(大正)8年小松、本田両氏の手に帰し、百万円資本の会社組織にせんとせしも、思ふやう運ばず苦心惨憺の結果、暫く地面は浅田氏のものとなり。14年一月清月楼開業翌月には、小松氏の錦水楼開業の運びに至り、今は妓楼25軒、娼妓280人あり、数に於て洞泉寺木辻を凌駕し新開地気分を発揮して漸次盛況を呈してゐる。猶近時漸く残りの地面も売却処分済となり小松氏多年の苦心努力も目的を達することができたやうである。

「大和の遊廓」 南都馬角斎1933

このように、「金魚会の中心であった小松氏」が主導したというのである。小松氏とは一体誰なのかというと、昭和30年(1955)に発行された『大和郡山人物志』に、詳しく記載がある。

小松直之
氏は大正14年(1925)、有志と同町(東岡町)に温泉土地会社を計画したのが動機で、岡町遊廓を開業。同時に組合を設置して副会長に任じ、大正十五年以降は組合長に推され27ヵ年にわたってその要職にあった。昭和28年4月引退。

「小松直之」『大和郡山人物志』サンデー郡山社1955

 水木十五堂がいう小松氏とは、農家に金魚養殖の技術をおしえ、金魚の生産技術向上につとめ、金魚の大量生産・海外への出荷により、当時の郡山町に大きな経済的影響を与えた旧郡山藩士・小松 春鄰はるちか(大正3年没)の子息である。2024年9月22日に開催される「金魚サミットin大和郡山」では、小松春鄰が記した文献資料が展示されるという。

 ここでわかることは、大正後期、郡山町では金魚養殖・大量生産、そして海外への輸出が好調であったため町の経済的基盤が確立し、生駒町の歓楽街に負けじと大軌郡山停留所周辺を開発に乗り出したことである。もちろん、郡山町の財政基盤は金魚養殖だけでなく、他の要因(紡績やメリヤス等の繊維業)もあったであろう。しかし、金魚養殖・輸出を推進していた小松氏の尽力がなければ、生駒町に公認遊廓地が移転されることになったかもしれないのである。すなわち、郡山町の金魚がなければ、この新地開発はこの段階で行われることも困難であったし、この後、東岡町が公認遊廓地として隆盛したかも定かではなかったのである。

ちなみに、現在の大和郡山市のキャッチコピーは「金魚とお城のまち」である。

まとめ

 大正10年(1921)以降、大正10年(1921)の大阪軌道畝傍線(現在の近鉄橿原線)および、郡山停留所の開設によって、停留所周辺および東岡町に新地開発が行われ歓楽街が誕生した。この時開発された岡町新地は、現在の行政区でいう東岡町の西側であることが地籍図等の検討で分かった。これまで芸妓街であった岡町遊廓は、この東側にあったことも分かった。
 生駒町歓楽街の隆盛により、公認遊廓地としての機能が東岡町から生駒町に移される話が浮上し、娼妓数の少ないことを理由に東岡町の貸座敷(娼妓)と置屋(芸妓)の兼業廃止という話も出ていたが、金魚養殖で財を成した小松氏が停留所周辺および東岡町の新地開発を推進した。
 現在、大和郡山市の顔とも言える金魚が、東岡町の公認遊廓廃止の危機を救ったのである。

 このように、歴史はその時間軸の中で地続きであり、金魚のみで大和郡山市の近代を語ることも、遊廓のみを語ることもできない。さまざまな要因が地域の歴史を形作っていることを見逃してはならないと、改めて感じた次第である。

大正10年(1921)以降の大軌郡山停留所周辺の概略図と東岡町の貸座敷・娼妓数の変遷
(写真は2010年頃撮影の東岡町3階建物・正脇良平氏提供)

次回は、2024年度中に解体されるという東岡町の3階建ての遊廓建物が、いつごろ建てられたのかを検証するとともに、新地開発された東岡町遊廓の隆盛について述べたいと思う。


※1 この連載で、隆盛、廃止の危機、存続できたなどの表現がありますが、これは筆者が公娼制度および人身売買を肯定するものではありません。公娼制度が存在した当時の人たちがどのように考えていたか、当時の歴史叙述として執筆したものです。あらかじめご了承ください。

※ここで紹介した新聞記事は大正時代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。

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