僕の普通、あなたの特別【言の葉Cafe】
誰かの「視点」に触れること。
それは、こうした誰かが書いた文章を眼にすることもまた
そのひとつだと想います。
「私は文章を書くような特別な人ではない」と
そういえば僕が起業コンサルタントをしている時のクライアントは
そう言います。
私は特別ではない。
そう言ってしまうと、僕自身もまったく特別ではない。
高卒で社会に出て、バブル経済の中で何の苦労もなく大企業に勤め、
それに違和感を胸の中に溜め込んで、会社を辞めたときにバブルが弾け、
ごく自然にバーのカウンターの中で人の「視点」を視る事を仕事にしてきたと思います。
まったく普通。特別ではない。
もちろん、これを読んでいるあなたが目玉焼きに塩コショウを軽くかけた後にめんつゆとしょうゆをかける僕を特別だというのであれば従うしかありません。
誰もが普通だという「普通」は、その出逢う人の経験からくる統計的なものでしか計れない。
福岡で育った僕としては、焼き鳥を食べに行くとキャベツが出ないのは特別です。
ブラック・モンブラン(アイスクリーム)が無いコンビニは特別です。
ある若い日、その当時に付き合っていた女性と行為に及ぶときに、
どうしても穴の位置が合わなくて焦ったことがあり、
結局、出来なかった。それは若い自分にとって初めての経験。
出来た初めてではなくて、出来なかった初めて。
その日は特別。
その女性とは、数か月でフラれてしまい、彼女は僕の「特別」ではなかったと知る。
とても普通。
いまも、そうした視点の違いによる悩みを毎日聴いています。
ある「視点」はセックスをするのが「普通」
ある「視点」はセックスをするのが「特別」
これだけ「普通」と「特別」が同じ条件で並んでいると、誰もが特別で誰もが普通だと思う。
風俗の女性のプロデュースをする僕は「特別」なのか、
そうでないのか?
仕事そのものはとても普通。
ブランディングとマーケティング。
「視点」が少し違うだけ。
だから、企業で新規事業のコンサルティングをしている時と姿勢は同じ。
ごく「普通」
「視点」によって、誰もが「特別」で「普通」
特別なことをする人が特別ではなく、
普通の中に生きている人が普通でもない。
旅に出ても、ロバは馬にはならないと映画のセリフにあったように
自分を変えるのは
「視点」
自分は「普通」で「特別」
あなたは自分の「視点」で見たら普通。
あなたは別の「視点」で見たら特別。
だから、あなたの物語が書かれることを僕という「視点」は望んでいます。
余談ですが「特別」という言葉はいいですね。
「異常」と言うよりも、なんだか素敵に聴こえます。
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