この町にさよならを告げる | 湯河原日記
1つの町を出るとき、次の場所に行くことへの楽しみの気持ちの方が、いつも大体大きい。でも、今回はちょっと違った。寂しくて、寂しくて、1か月と少し住んだ家を出てから駅まで向かう道すがら、何度も振り返ってしまった。大事な友ができたからか、好きな味をみつけたからか、たった1カ月半しかいなかったのに。この町が消えて無くなることはないはずなのに、もう戻って来られないような、一度出たら全て、幻になってしまうような気さえした。
1DKの小さな部屋で、小さな小さなテーブルと最低限の家電が揃った家はどうにも愛おしかった。決して華やかではなかったけれど、それでも色濃く、わたしにとってはどんな豪華な場所よりも贅沢を感じられる場所だった。それがなぜなのか、今はまだ断片的にしか言葉で説明ができない。
わたしはいつも「わたし」を探している。よく言う自分探し、とか自分と向き合う、とか。そういう綺麗なものではなくて、わたしという危うさや脆さをどうにか保つために必死に自分の輪郭を探しているのだ。わたしの断片を手探りで集めて、なんとか保たれているのがこのわたしなのだ。いつも逃げ道を探しては、楽なほうに、生きやすいほうに、苦しくないほうにどうにか身をやる。わたしはそんなずるいわたしが憎くて、情けなくて、そして愛している。
家を出て、道路を渡って、一本道を入ると、川が流れていた。川は山の上流からやってきて、町の下まで流れていく。川の水はずっと、ずっと流れていた。朝も昼も夜も、雨の日も晴れの日も、嬉しい日も悲しい日も流れていた。
次の町へ、夢見てきた旅へ、一歩踏み出したというのにどうしてこんなにも寂しくて切ないのだろう。これから旅をする中で、こんな気持ちになることもきっとあるのだろうか。こんな風に後ろ髪引かれながら、それでも移り住まなければならないことがきっと、これからの人生で何度かあるのだろう。全部自分で決めているはずなのに、それでも時々自分の選択に自信を無くし、これでいいのかと夜な夜な悩み、もがく日々はまだまだやってくるのだろう。
ここで出会った少ないけれど、心に残る人たちを、一体いつまで忘れずにいられるのだろう。
喫茶店の明るいご夫婦、モーリシャス料理のオーナーと奥さん、その少し先にあるコーヒースタンドの地域を愛するマスター、あと3回くらい行けば仲良くなれそうなワインバーのママ、あともう1か月あれば顔を覚えてもらえそうな日帰り温泉のフロントのおじさん、駅まで車に乗せてあげたきっと二度と会えないおばあちゃま、隣の部屋に住む心優しい友のこと。
確かにこの町で生きて、確かにこの町を愛した。抱かれ、安らぎ、癒された。この日々を愛した時間はずっと続くし、この場所でわたしたちが幸せだったのならば、きっとずっと幸せだ。
わたしたちがいなくなっても、ここに住む人々の生活はずっと続いていく。川は流れていく。海は波打ち、刻一刻と季節が変わってゆく。
また必ず戻ってきたい場所なのに、なぜか「またね」よりも「さよなら」のほうがしっくりくるような気がした。それは決して後ろ向きな意味合いではないことは分かっている。
この町に来て良かった。ただただ、ただひたすらにそう思う。