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ほとんどの人はどうでもいい

 これは偏見などを無くす一つの考えだと思います。

感情は自分が選択しているものである

世界で今、誰かが寂しさや孤独を感じているとしましょう。でも私にはその遠い知らない誰かが孤独や寂しさを感じていても関係ないのです。
私はその人に物理的にも精神的にも何かすることは出来ないのですから。

ネットで、「自己肯定感がない」「今日はあの人とこういうことがあってイライラした」等を見ても、どこか知らない誰かのその感情を読んでも自分の人生に影響はありません。

それを自分に置き換えると、自分の「寂しい」とか「自信がない」等のネガティブな感情は他人にはどうでもいいのです。
じゃあ、ネガティブに考えたりネガティブなことを書いたりするだけ意味ないと思うようになりました。

私が孤独を感じたとしてもそれは私が選択した感情や主観で、他人にはどうでもいいのです。じゃあ感じるだけ無駄だよなあ、とか。

私は結局自分の事は自分で決めると考えているので、私がどうこうしたところで相手のことは相手が決めるのです。だから温かい言葉は書けるけどその人の感情はその人が決めるので、関係なく、どうでもいいのです。


ほとんどの悩みは人間関係だというように、悩みは大体どうでもいいものなんだなと思うようになりました。

そういう感情は主観であり、他人の目には見えないので、どうでもいいのです。
ここまでは他人と自分の感情の見え方に感じ方にどうしようもならないことがあるからどうでもいい理由を話しました。


最初に書いた、偏見をなくすと考える核となる理由を話します。
他人が自分を嫌おうが嫉妬しようが恨もうがどうでもいいのなら、自分が他人を嫌おうが嫉妬しようが恨もうがどうでもいいのです。

なので、「高卒は○○だから嫌い」「韓国人は○○だから嫌い」「障害者は○○だから嫌い」と身近なことで考えても国際的な視点で考えても、何も恨む必要はないのです。
また、「中卒」「アメリカ人」「障害者」「年収1200万」「HSP」「起業家」「工場勤務」などは、その人に取り巻く何かでしかありません。
私にとって重要なのはそういうプロフィールではなく、“今私と場所を共有しているその人”でしかないのです。

しかし、そういうことは分かりつつも人間とは色眼鏡で見てしまう物です。
例えば、高学歴なのか=努力家なのだろう、
障害者なのか=周りと違う事を感じて生きづらいだろう、
外国人なのか=あまり関わったことがないから少し怖い、
年収3000万なのか=それを自慢するという事は何かこじらせているんだろうか…

という色眼鏡で見てしまうことは誰にでもあります。
大体、その人の何も知らないのにその人のプロフィールと自分の経験則で分かる部分もあるとは思うのですが、それは自分の中でしかない主観や固定概念であり偏見に繋がると思うのです。
なので、自分が主観や固定概念を持って人と接してしまうことを十分に考慮しつつ、その場にいるその人を見るという技術をより身につけていきたいです。

どんなプロフィールを持とうが、自分に害が無ければいいし、その人に中身があればどうでもいいのですよね。(害と思う範囲を小さくしていければもっと生きやすいのですが。)


結論は、自分の固定概念や感情が偏見に繋がる可能性もあるし、感情を他人に向けても、自分が他人に向けられた時を考えたらどうでもいいこともある、という事を私は頭の片隅に入れておこう、と言う話でした。

私はこの考えを他人に適応はしないし強制しません。なぜなら、他人の考えは他人が決めるからです。私は他人の決めたことを尊重します。しかし、他人のネガティブな気持ちは私には直接の関係ありませんが、事実として受け止めることはします。

ありがとうございました。

冬譜

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