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「幻の光」(1995) 〈映画Vol.3〉


2024年1月1日、
お正月気分を吹き飛ばすように能登半島で最大震度7の大地震が発生したのは皆さんも記憶に新しいかと思います。
そして半年が経ち、この記事を書いている今もまだ石川県輪島市では1000人以上の方が避難所や2次避難先での生活を余儀なくされています。

 今から29年前の1995年、奇しくも阪神・淡路大震災が起きたこの年に石川県輪島を舞台にした一作の映画が公開されました。
それが今回ご紹介する「幻の光」です。
 この映画を通して、輪島市に少しでも恩返しをしたいとの思いで、
2024年8月2日よりBunkamuraル・シネマ渋谷宮下にて「幻の光」が限定上映されることが決定しています。
 29年前、当時高校2年生だった自分に、それまで観た事のなかった“映画のもつアート性や表現”を感じさせ、映画監督や撮影や衣装や音楽に強烈に興味を持つきっかけをくれたこの作品について、記事を書いてみようと思います。
 もし、魅力を感じていただき、劇場に足を運んでくれたらこの上なく嬉しい。

なぜ? 答えのない問いだけを繰り返す


映画監督是枝裕和のデビュー


 映画「幻の光」は、芥川賞作家・宮本輝の同名短編を原作とした是枝裕和監督の第一作目の商業映画作品だ。
是枝監督といえばいまや巨匠といっても差し支えのない第一線級の映画監督である。
だが、そのデビュー作となるとどれほどの方がご覧になっているだろうか?

まずはあらすじを紹介する。
 幼い息子を残して夫に先立たれたゆみ子は、心の整理がつかないまま再婚をし、見知らぬ奥能登の家へ嫁いでいく。
新しい家族との穏やかな暮らしの中で再び心の平穏を取り戻していくが──。
 この映画は前半を神戸・尼崎での ゆみ子と夫・郁男の暮らし、後半を石川県輪島に舞台を移して嫁ぎ先である関口の家での生活が描かれる。
 本作のもつテーマも、尼崎の街並みも奥能登の風景も、終始人物を突き放したようなカメラポジションも、明るいエンターテインメントからは程遠く、とっつきにくいと感じられる方もおられるかもしれない。
だけど、17歳の私にはそれが実に新鮮に映った。
 この映画の放つアート性は実に絵画的で、それでいて宮本輝の原作の持つドスンと腹にくるような死への憧憬は29年経った今でも、私の心と魂を捉え続けている。

尼崎から能登へ嫁ぐ

"物語"だけじゃない表現としての映画

 映画の物語に関してはネタバレ的な要素が絡んでくるので後に回して、まずはこの作品に関わる、奇跡的とも言えるメインスタッフたちによる素晴らしい仕事について触れていきたい。
 まずは撮影に関して。
長年の実相寺昭雄とのコンビネーションで知られる名カメラマン中堀正夫は、本作の撮影に対してヴェネチア映画祭にて金のオゼッラ賞を贈られている。
まるで、テオ・アンゲロプロスの盟友ヨルゴス・アルヴァニティスや侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の片腕 李屏賓(リー・ピンビン)を彷彿とさせるような静謐で艶のあるフィックスショット、そしてロングテイク。夫を失って塞ぎ込むゆみ子を部屋の正面からとらえたシークエンスでの少し低めのカメラポジションは小津安二郎の映画を観ているようでもあり、メランコリックな沈滞を増幅させるような不思議なショットでとても力がある。
 多くのシーンで、ゆみ子が着ている喪服のような衣装はおよそ日常感のないように見える。まるで宗教的な儀式に着る法衣のようだ。この衣装はCOMME des GARÇONSの服を改造したもので、日本を代表する映画衣装デザイナーでありスタイリスト北村道子の仕事。一見するとアンリアルにも見えるこの衣装はしかしとても表現主義的で、強く私の記憶に残った。
 この映画における光と影はその境界が曖昧で、部屋の隅に薄墨が溜まるような暗部と、窓からの淡い光との間でなだらかなグラデーションを描いている。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」に書かれているような日本の建物における陰の美のようだ。
その画面の中で夫の死に耽溺するゆみ子の身体は、フリルや襟を外されシンプルになった漆黒のCOMME des GARÇONSのワンピースを纏っていて、僅かな光沢が尼崎の弱々しい光を映し返している。
 そしてそこに流れる弦楽器によるシンプルかつ異国感のある音楽。これは侯孝賢の作品で知られる台湾の音楽家、陳明章(チェン・ミンジャン)によるものだ。陳は台湾の民族楽器からフォークギターまでさまざまな弦楽器と、ピアノを使って本作のサウンドトラックを唯一無二のものに仕上げている。私は時々このサントラを聴いているが、今はかなり入手が難しくなってしまったようだ。映画のリマスタリングに合わせて、サントラの再発や配信にも期待したい。


"トンネル長屋"の国道駅

 それからロケ地のことにも少し触れておくべきだろう。
映画の後半で舞台を輪島に移すことは先にも述べたが、奥能登という魅惑的な土地の力もあり、曽々木の海の荒々しい姿にも、廃屋に手を加えた関口家のセットにもうっとりとするほど惹きつけられる。
 しかし私が心を掴まれたのはそれだけではなくて、尼崎パートの方にも実に目を見張る風景が多い。
 特筆すべきは幼少期にゆみ子が住んでいた"トンネル長屋"である。
このロケ地は実は、尼崎でもなければ関西ですらない。
神奈川県の鶴見線「国道駅」で撮影されている。
このシーンの持つ、沸き起こるノスタルジックなムードの多くは、この特異なロケーションによるところが大きいだろう。とりわけ原作に書かれているような悪臭漂う土間の長屋の雰囲気は、原作における時代設定の1952年にはそれほど珍しいものではなかったのだろうが、映画が撮られた1994年にはこういった場所はもうほとんど消滅してしまっていて、この国道駅のような"秘境"は、現在はもちろん20世紀末ですら貴重な昭和の遺産だったと思われる。
 ちなみに余談だが、この横浜の国道駅は2024年のいまも現役で、ほぼ当時の姿のままを留めている。
私は時々訪れているがいつまでも解体されないという保証もないので、興味がおありの諸兄は早めに訪問することをお勧めする。



ここから先はネタバレになります!

 さて、ここから先は物語の核心に触れていくので、もしまだ本作を鑑賞前という方はぜひこの機会に劇場へ足を運んでいただくか、blu-rayを購入いただくか、各種配信サービスでご覧になっていただきたい。
とても便利な世の中になりましたね。


 と、その前に原作小説について。
1978年に文芸誌「新潮」に掲載された宮本輝の短編小説「幻の光」は、映画でいえばラストシーンにあたる関口家での穏やかな生活で心の平穏を取り戻したゆみ子による回想を、心の中で亡夫に語りかける形で書かれている。ゆみ子は夫が死んだのちに心を閉ざし、たびたび心の中で郁夫に語りかけ、なぜ彼が死なねばならなかったのかを追求することで、なんとか精神を保ってきたことが描かれている。読者はゆみ子の閉ざされた心に寄り添い、応えることのない郁夫の魂に問いかける旅を共にする構成になってる。
まごう事なき名作である。未読の方は是非、手に取っていただきたい。

畦道を駆ける子供たち

恐ろしい映画監督のデビュー作

 さて、本作をご覧になった方ならお分かりいただけると思うが、この映画と、原作小説は明確に"死への誘い"をテーマにしている。
その中で、ゆみ子と民雄のそれぞれの連れ子である勇一と友子はイノセントな存在で"生"を象徴しているように感じる。その二人が仲良くなって、春の穏やかな能登の自然を駆けていく様子はひじょうに微笑ましく、劇中でも特に和やかなシーンと言っていいだろう。
だけど、その一方で私はこうも感じる。
是枝監督は、なんか怖い。
まあ、観る人によっては全然そんなふうに感じないという方もおられると思うので、ここは一笑に付していただいてまったく構わないのだが、この子らが連れ立って、水を張った田んぼの畦道を走っていくショットは漣ひとつ立たない鏡のような水面がぞっとするほど"あの世"に見え、その境界を"生"の象徴がタッタッタと無邪気に駆けていく様子に、私は少し寒気を覚えたのであった。
さらにその後のシーンで二人は真っ暗な廃線のトンネルを抜け、萌えるように明るい緑のカーテンの向こう側へ走っていく。
ゆみ子の祖母が暗いトンネル長屋を抜けて郷里へ向けて歩いて行ってしまったように。
郁夫が一度も振り返らずに傘を振り回しながら夕陽に向かって歩いて行ったしまったように。
黄泉平坂を通ってあの世へ行ってしまうような、不意にそんなシーンを見せてくるこの監督は本当にこれがデビュー作なのかと、そら恐ろしさを覚えたのである。

 その是枝裕和監督は早稲田大学卒業後、テレビ番組制作会社テレビマンユニオンに参加しドキュメンタリー番組の演出を手掛けている。1995年の「幻の光」で商業映画監督としてデビューした後はカンヌ国際映画祭において2004年の「誰も知らない」で柳楽優弥による男優賞、2013年の「そして父になる」で審査員賞をそれぞれ受賞し、押しも押されもせぬ名監督としての地位を確かにしていく。その後の2018年「万引き家族」で、待望のパルムドールを獲得した頃には名実ともに日本を代表する映画作家となった。
 そして2023年の「怪物」を観たとき私は、ハッとした。
詳しいシーンの特定はネタバレを避けるために伏せるが、「幻の光」を強く想起させる場面があって、私は確信するのだった。いくら世界的に名を馳せても、人間の根っこにあるものはそう簡単に変わりはしないのだと。


緑の光のさす向こう側へ

"幻の光"とは

 映画「幻の光」に話を戻そう。
上でも述べたようにこの映画では、三人の人物がゆみ子の手をすり抜けて“死”へと向かったように描かれる。(原作小説ではもう1人いるが)
1人目はゆみ子の幼少期のトラウマになっている祖母。
2人目は夫の郁夫。ゆみ子と彼は幼馴染で、祖母を失ったタイミングで出会う。ひどい"やぶにらみ"で、感受性が強く、貧しさにも自分自身にも嫌気がさしていた。だが息子の勇一が生まれてこれからというときに、なぜ死ななければならなかったのか。どれだけ考えてもゆみ子にはわからなかった。電車の運転手の話では、ブレーキの音にも警告音にも一切振り返らずに、ただ真っ直ぐに線路の上を歩いていたという。
3人目は嵐のなかで漁にでてしまった漁師の とめの。
とめのに関しては海の素人のゆみ子が過剰に心配してただけで、彼女は漁を早々に切り上げて安全なところにいたわけだが、それでもこの”事件”で祖母と夫のトラウマが蘇るには十分だった。
それから、自らも“死”に取り憑かれ、偶然見かけた葬列についていくゆみ子。海岸での火葬を目の当たりにしたゆみ子はそこから動けなくなってしまう。
いったい、郁夫を魅了した“死”とはなんなのだろう?
私もそこへ行けばわかるのだろうか──

そのとき、そこに民雄が現れる。
「前に親父が言っておった。海に出ると時々、遠くの方に“光”がきらきらと輝いている。その光を見ているとすうーっと引き寄せられるんだと。でもそこには光なんてない。幻みたいなもんなんやと、言うておった。
人間生きてると、誰でもそういうことはあるんと違うか。」

このシーンと台詞はその後、何年経っても私の心を捉えて離さない。
 人は理由なんかなくても、魔が差すように死にたくなる時があるんじゃないだろうか。
私はいつもそれを肝に銘じている。
人間という生き物は常に不完全で、絶対なんてあり得ないし、いつどうなっても不思議じゃない。だからいつでも後悔のないように生きたいと願う。
仮に「はい、明日で人生終わりです」と死神か何かに言われたら、ああそうかと、いい人生だったなと思って終わりたい。
 “幻の光”はいまも私の身体か、頭の中のどこかできらきらと妖しくゆらめいているんじゃないだろうか。

荼毘に付される海辺


終わりに

この記事の冒頭でも書いたように本作は2024年の8月2日のBunkamuraル・シネマ渋谷宮下を皮切りに順次全国の劇場で上映される予定です。公開規模は決して大きくはないかもしれないけど、ぜひこの機会に映画館で綺麗にリマスタリングされた「幻の光」を観てください。
 この上映にあたり、利益から諸経費を除いた全額が輪島市に届けられるそうです。

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