俺がTwitterからnoteに移行している訳
なんでも投稿できるnote、このフリースタイル感とプラットフォーム感がたまらなくいい。
そんな感じでべた褒めしているnoteだが、その中でも好きな文化がある。
投げ銭制だ。
Twitterでは面白いと思ったツイートに「いいね」するが、noteの投げ銭制では「100円」するのだ。ただ、noteの投げ銭制は、機能では無くて文化なので、投げ銭制かどうかは筆者が決め、書く必要がある。
noteでは記事を有料化することが出来、記事を有料記事にすると「有料領域」を設定することができる。noteを利用していない人でもイメージできるだろう、
「ここから先は有料です」というものだ。
投げ銭制の記事では、記事の主題は全て無料で公開してしまって、読み手に価値を判断してもらうというものだから「100円」しなくても読める。
だがここで面白いのが、投げ銭制記事で「100円」した後の世界だ。
主題を消化してしまった筆者が、有料領域で書く事というのは下らない事が多い。だがこれでいい。下らないというのはつまらないということではなく、筆者が書くほどの事でも無いと思っているような、どうでもいい事である。しかしこれは筆者にしか書けない文章だったりする。
昨今のライティング技術というものは洗練されている。昨今と言っても私は18だから昔の話はよく知らないが、その比較的若い自分でもそう思うくらいに同じような文章をよく見る。
そして私でもそう思うくらいに読み手も洗練されている。
そういう洗練された文章というものはもはや面白くない。読み手は面白い文章ではなく、面白い人を探している。その人にしか書けない文章が求められているのだ。人間臭い文章が求められているのだ。
そしてそれは本来、書き手が書きたかったものでは無いだろうか。
だから下らない文章というのは面白い。以前にもnoteで書いたように「コンテンツはB級でいい」のだ。
その人にしか書けない文章を書く方法は、その人自身を書く事である。だからコンテンツはB級でいい。人間臭くていい。
そして投げ銭制とは、その人間臭さを許容する文化である。
と、私は解釈している。
その文章ではなくその人に投げ銭をしていると読み手に思わせれば勝ちだ。別に戦っている訳では無いのだが、著者は英語で「author」、これは「権威:authority 」という言葉から来ているらしい。元来著者は権威性を持っていたのだ。しかしインターネットが普及した事で、書き手は読み手のための文章を書くようになり、書き手の権威は衰え、読み手の力は強くなった。
しかし、もう読み手はその立場に飽々している。強気な受動態は素直に楽しむことが出来ないのだ。だから再び権威性を持った書き手を探し始めている。
その人自身を表現できる芸術家こそが、これからのクリエイターになるのでは無いだろうか。そして、noteはその為の一歩になる。
そう考え、私はTwitterからnoteへ移行している。
そしてこの記事は投げ銭制である。
是非「100円」して欲しい。
断っておくが、「100円」した先に書いてあるものは下らないし、つまらないかもしれない。文体はゆるいし、関西弁になる。
それではひとまずここまで読んで頂き、誠にありがとうございました。
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