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文章装飾の進歩 犯罪/シーラッハ

もう10年以上も前の話だが、ドイツ文学の教授に前の期のレポートに関して「もう少しザッハリヒに書いたらどうか」と言われたことがある。ザッハリヒというのは、ドイツ語で事とか物とかを意味する名詞Sacheに形容詞化させる働きを持つlichをくっつけたものだ。直訳すれば「事的に」となるだろうが、「物事に即した」と訳すのが正しい。

また、僕はしがない詩書きでもあるのだが、昔、とある詩の投稿掲示板に女性が失恋をする詩を女性の振りをして書いたことがある。そこである方に言われた言葉を未だに覚えている。その詩の最後では、元カレと一緒に暮らしていた部屋に、まだ付き合っていた頃に注文した壁掛け時計が届く。語り手である女性は「同じ時間で生きていくんだもんね、とかそういう/正しさに裏付けられた言葉は強いね」と溢す。その方は「その独白要らない」と伝えてくださった。当時は分からなかったが、今でははっきりと「要らないな」と思う。

これら二つのことに共通して言えるのは、僕が「物事」や「事実」では何かが足りない、と感じていたということだ。当然レポートなどは事実に即して書くものではあるが「かくも汚れなきトラークルの魂は、現世の煩雑な色彩をもって描かれた風景画に、ただひたすら青を塗りたくったのだ」なんてことを書いていた可能性はある。恥ずかしい限りだ。(トラークルはドイツの詩人)

1920年代のドイツでは「ノイエザッハリヒカイト」という絵画や文学の運動が巻き起こった。新即物主義と訳されるのが普通だ。一方アメリカではヘミングウェイに代表される「ハードボイルド」が花開いた。ハートボイルドと言うと気障な探偵をイメージしがちだが、ヘミングウェイの報告書然とした無骨で飾らない文体に起因するところが大きい。

この二つの事柄から類推できるのは以下のようなことだ。初めに簡素なものがあり、そこから文章装飾の技術が発展して、華美な文章や、目新しい文体が次々と発見されたわけではないらしい、どうやら。そうではなく、文学の歴史というのは文章装飾のなかで埋もれていた事実や物事の圧倒的な質量に気付く歴史だったのではないか、ということだ。

以下の文章はそれがたどり着いた先かもしれない。

レンツベルガーの前科はわずか四回だったが、新品の金属バットを持っていた。ベルリンでは、ボールの十五倍も多く金属バットが売れる。
フェルディナント・フォン・シーラッハ. 犯罪 (創元推理文庫) (Kindle の位置No.1483). 株式会社 東京創元社. Kindle 版.

そもそも、なんでこんな文章を書いているかと言うと、シーラッハの「犯罪」がとても面白かったからである。何故今シーラッハが受けるのかは簡単で、それは彼がごつごつした岩のようにくっきりとした事物だけを書くからだ。繰り返しになるが、文学は生というものが持つ圧倒的な質量を測りかねていた。洒落た言い回しや、通り一遍の定型文ではその重さが失われてしまうのだ。それが今、文章装飾の時代は背景へと後退し、我々の肉体が持つどうしようもないほどの質量が明らかになってきた。

ドイツ人はもはや情念を好まない。これまでうんざりするほど大量に生みだされてきたからだ。
フェルディナント・フォン・シーラッハ. 犯罪 (創元推理文庫) (Kindle の位置No.2475). 株式会社 東京創元社. Kindle 版.

このセリフはあくまで法廷における弁論に関するセリフだ。それが事実でありザッへであるのだが、これを読むものにはそれ以上の射程を持って突き刺さってくる。もしあなたが世間で騒がれている「よい物語」にどうしても満足できずに、自分の感性を疑う経験をしたことがあるのなら、是非シーラッハを試して見るといい。


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