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夏野雨さん『明け方の狙撃手』 感想 1

夏野雨さんの詩集、アマゾンで注文してあったのが先ほど届いたので読むのですが、せっかくだから何かその記録を残したいな、と思い、書かれているのがこの文章であります。
それはいわば読書の実況のようなものになるのかも知れません。ただ僕自身、詩の批評というのはたくさん書いてきましたが、これまで解説や、アカデミックな分析などには縁遠く、ただこの可愛らしい詩集の頁をひとつひとつめくるときに、僕の心に積み上がったり、ぎゃくに、流れていったりしていくものをただただ記録することが、これまでの僕のやりかたと似ていて、やりやすいのではないか、ということです。
なので、もしあなたがこの詩の内奥に隠された真実を知りたいと願うならそのお役に立つことはできないかもしれません。というかむしろ僕の心の記述であることがあなたのその真っ直ぐな心情にいやーな感触を残すかもしれません。それはどうか、お許しください。

詩集のタイトル「明け方の狙撃手」について

実のところ、僕はかつて「明け方の狙撃手」であったことがある。なんて書いてしまうと、とても大仰になってしまうのだけれども、プレイステーションでバトルフィールドという様々な戦争を舞台にした有名なFPS(ファーストパーソンシューティング)で文字通り明け方まで迫ってくるプレイヤーを遠くから狙撃し続けた。使っていた銃はだいたいスナイパーライフルだったと思う、スコープが嫌いだったので、アイアンサイトだけを使って、キルレシオ(一度デスする間に何人敵を殺せたかの比率)を1から2へ、2から3へ上げようとする試みの中で決まって朝日というのは顔を出すことになっていた。

もちろん、作者である夏野さんがそのような生活に身を浸していたに違いない、だのと申すつもりはなく、ただただこの文章は僕とこの一冊の詩集とのとてもプライベートな、逢瀬であるからして、ひつぜん的に自分語りが多くなってしまうことも、どうか許してほしい。
そうやって遮光カーテンの隙間から差し込む光によって、ときの経過というもの実感すると、決まって体の中からニコチンがなくなってしまっていることに気付き大慌てでベランダに出て、たばこを吸うのだ。
そのとき、まだ幼い光をみつけて、すこしだけ面映い気持ちになりながら、煙の行方と、雲の行方を追いつつ、まるでこの世界には自分ひとりしかいないんじゃないか、と少し大袈裟な気持ちになってしまうあの瞬間。
あれは、僕を包み込む世界、現実、或いは社会、そういうものが僕という存在から剥離している、そういう時間なのだと思う。
では、その世界やら社会やら、そんな大層なものが剥がれ落ちて、それでも今、目の前に映っているこの風景はいったいなんなのだろうと考える。
でも僕はそれを「詩的現実」なんてしみったれた言葉で表したくないし、少なくとも、この一冊の詩集と、「罌粟と記憶」のように逢瀬を重ねていくうちに着心地の良いシャツみたいな言葉を見つけられたら、と思う。
まだこの文章が書かれている段階では、最初の数編の詩にしか目を通してはいないけれども、それらの詩を読んで、ふと「明け方の狙撃手」というタイトルに立ち返った時、「まだ、もっと、潜りたい」という気持ちと、上に書いたような、現実が存在から剥がれ落ちたとき(あの、自らの心の中の言葉がなぜだかとても活き活きとするとき)のことをとても強く予感している。
二重写しの現実。


くまのはなし The Tale of a Bear について

最初にことわっておきたいのだが、このように自分語りが多くなってしまうため、この詩集を僕の日記のダシに使っているような印象は与えたくない。だから、詩文からの引用は(できるだけ)少なめに、今この詩集と同じものが手元にある人だけに伝わるような音量で話せればいいな、と思っている。

さっそくだが作品を語る前に自分語りをする

実のところ、僕は非情で冷酷な男である。以前同棲していた彼女が大切にしていたペンギンのぬいぐるみ(それは二人で行った水族館の帰りに、僕が買ってあげたものだった)を「それは綿の詰まった布だよ」と言い放ったことがある。かくも残忍な男であるからして、この作品に書かれているひとつひとつの感情の流れを余すことなく堪能することはできないのかもしれない、と最初は思っていた。
ただこれまで生きていた時間を振り返ってみると、ひとつだけ、この作品に書かれたる現象を知っていることに気が付いた。驚くべきことに、僕はぬいぐるみを名前で呼んでいたことがある。
僕の実家では猫を飼っていた。雄なのだが、名を「にゃんこ」という。ある嵐の夜に、当時中学生だった妹が拾ってきた猫なのだ。最初は飼い主を捜しているつもりだったが、いつの間にか、うちで飼うか、という話になっていた。
集合住宅であったので、自由に外出させてあげることが出来なかったのだが、彼は家のなかで、とても仲の良い友達を見つけた。名をにゃん蔵という。(我が家の命名のセンスの無さよ)僕がたぶん子供のころから家にあった猫のぬいぐるみである。
彼はその友達をとても気に入っていた。他にもぬいぐるみは(妹が二人もいたので)たくさんあったのだが、その友達にだけ自らの寝床の半分を許したし、その友達を手でもって少し左右に振ると嬉しそうに飛びかかってきた。そしてその「戦い」の後には決して毛繕いを欠かさなかった。
いつしか、最初は名前などなかったその猫のぬいぐるみに名前をつけたのはあまりにも毎晩一緒に寝ているのを見て、家族の誰かが、名前をつけねばなるまい、と考えたのだろう。僕もずっとそう呼んでいた。

とうめいなくま、とうめいなねこ

まぶたをとじて
いなくなることが
あらかじめ決まっている
とうめいなくまである

彼にとってもその友達は「とうめい」であったのかもしれない、と思う。まぶたを閉じれば目の前からいなくなる、というのは当然の話であって、それがイコール、とうめい、であることは少しおかしな話である。
けれどもまぶたを閉じたときに、そいつがそこにいるかどうかは物理法則、生命の原則、そういうものが存在から剥がれているとき、確かにいるかどうかなんてわかりっこないということもまた事実なのだ。二重写しの現実。
とうめい、というのはもしかしたらそんな心細い想いが浮かべた言葉なのかもしれない。

いるな
くま

だからこんなふうに確かめる。それは目を開けずとも、或いは指で触れずとも、引用した箇所とは違うが、まったく別の用法として別の個所に使われた「あらかじめ」という言葉を支えとするかのように。
猫がそんな高尚なことを考えるはずがないって?
それはたぶん猫が目をぎゅっとつむりながら鼻をくんくんさせたりしているところを見たことがないのだと思う。

でもこの詩はそんな少女趣味な詩ではないのである

ひかり、についてこの作品を読んで考えていたことを話したいと思う。

よるによるのひかり

ひかり、というのは明かすものである。太陽の光だけがこの世のすべてのものを明かしているわけではない。夜には夜にだけ明かされるものがある。そんなことを言うとあまりにポエミーにはぐらかしている印象を抱かれるかもしれないが、少なくとも僕は、夜通しFPSをやり続けて、まだ幼いはずのひかりのなかでしか、明かされなかったものを知っている。

目の前に光のなかで視覚情報としている、くま。
目を閉じたときにはじめてよるのひかりに明かされる、くま。

あたたかい
せつげんに
ねむる

例えばこんな言葉はこれまで嫌になるほど読んできた、やわらかい鉄球、だとか、色のない虹、だとか。
けれどもこの詩の本当にすごいところは、その「あたたかさ」にはちゃんと光のなかでたしかにそのくまのいる部屋の温度を感じるし、「せつげん」にはよるのひかりのなかで佇むくまの周りに充満している、手もかじかむような寒さをともなっている。

まぶたのうらには?

さて、にゃんこの話に戻ろうと思う、なんせこれは僕の自分語りなのだから。
彼は、僕が家を出た直後に亡くなった。だから僕は彼の臨終を見届けることはできなかったが、聞いた話によると死の間際も隣にはにゃん蔵がいたらしい。
陽の光も、よるのひかりも、現実も空想も、物理法則も、そのすべてに境を設けることに意味がなくなってしまう、死、という事柄のそばで、目を閉じることが出来る生物は、だいたい目を瞑ってその時を迎える。
僕はその時、彼のまぶたのうらに、何かしらのひかりが宿っていたこと願う。真っ暗闇はとてもさみしいから。


もし、僕と同じようにこのかわいらしい詩集を手にもって、この文章を読んでくれた人がいるならば、最後の一行にどんなことを思い描いたのだろうか、教えてくれまいか。


引用は全て
『明け方の狙撃手』 著 夏野雨   思潮社
より


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