瞬間最高幸福度を記録するのが怖い
こんばんは、ゆのまると申します。
今週も、あっという間にお休みが終わってしまいました。悲しい。
私はもうすぐ、29歳になります。
子供の頃、誕生日とクリスマスは、好きなおもちゃを買ってもらえる特別な日でした。大体は、ゲームソフトかジグソーパズル。黙々とピースを組み合わせていくのが性に合っていたようで、実家の自室の壁はパズルで埋め尽くされています。
社会人になって、自分で好きな物が買えるようになると、私は誕生日に「特別な時間」を過ごすことを望むようになりました。時には有給まで取って、お気に入りのお店で、いつもは頼まない価格帯のワインをオーダー。『イルマーレ』という映画に触れた時にも話しましたが、あえてひとりで、おいしいお酒をじっくりいただくのが好きでした。
ところがここ数年、「誕生日どうしたい?」という、大切な人が聞いてくれる、優しい質問に答えるのが難しくなりました。
ある程度お金が自由に使えるようになると、欲しい物は自分で、しかもすぐに買えてしまいます。ゲームソフトはクレカで決済してすぐダウンロードが始まるし、バンドリのCDも遊戯王全巻セットも、「購入」ボタンを押したら数日中にポストに届きます。「欲しい物」は自分で買うから、あえて、「プレゼントとして欲しい物」を選ぶのが難しく感じます。
さらに厄介なことに、これは本当に人としてよくない傾向だと思うのですが、「とても幸せな時間」を過ごすことに抵抗を感じる自分がいるのです。
幸せを感じること自体は、難しいことではありません。
駅前のお花屋さんで買った、好きな花を部屋に飾る。大好きな人たちと、安くて美味しいお酒を飲んで笑う。横文字のケーキ屋さんで、たっぷりフルーツが乗ったタルトを選ぶ。これらのことは、私が普段70くらいに感じている幸福度を、100、時には120にも押し上げてくれます。瞬間最高幸福度を記録する出来事です。
でも、それらはやがてなくなります。楽しい集まりには解散があるし、ケーキは食べればなくなる。花はいずれ枯れてしまう。
すると、120もあった幸せな気持ちは、だんだんしゅるしゅるしぼんで、やがていつもの調子に戻ってしまいます。日付が変わって、誕生日終わっちゃった、とため息をつくのと共に。どうせなくなってしまうのなら、最初から知らなければよかった。そんな子供のようなことさえ思います。
楽しい時間は終わりがあるからこそ。花はいずれ散るからこそ。だから鮮やかなまま心に残るのだと、わかってはいるのですが……。
私はいつも、友人の誕生日の際には、「素敵な一日になりますように」というメッセージを送ります。
今の自分にとっては、何が「素敵な一日」なのか。その日を心待ちにできるように、もう少し考えてみたいと思います。
(「ああ、今日は誕生日だっけ」いつか、それくらい執着しない人間になりたい)
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