退廃抵抗【全編公開版】

 わたしは孤独だ。普通に話す友達はいる。家族ともそれほど仲が悪いわけではなく、それなりに会話する程度には普通だ。そう、わたしは普通なのだ。それゆえにわたしにはわたしという存在を特別足らしめる事柄がない。そしてその悩みを共感してくれる人がいない。話せるような相手もいない。だからわたしは、孤独だ。

 この世界はつまらない。つまらなすぎる。退屈で辟易している。代わり映えのない日常にうんざりしている。家族との他愛無い会話も、友達との世間話も、鬱陶しいとすら思っている。面白いイベントやアクシデントなんてそこいらに転がっているわけがない。かといって自分からなにかをするような気は起きない。
 ごく普通の女子高校生であるわたしにとって、そうした退屈な日常というのは面白みのない映画を延々と観させられているようなものだ。そりゃ中にはためになる話や役に立つ知識もあるだろうけど面白くないのだから興味はほとんどない。心の底から面白いと思えることは中学の頃に観たアニメ映画以来とんとない。そのアニメ映画をきっかけにそっちの道――友人のツグミ曰くオタクに堕ちる道――もあったのかもしれないが、そこまでの熱量はわたしにはなかった。
 なので今のわたしはアニメにちょっと関心がある普通の女子高校生だ。友人のツグミはよくアニメの話をするのでそれに付き合ってアニメを観たりするが、それほど嵌るアニメには出会っていない。わたしはずっとそうなのだ。なにか興味のあることや関心のあることに触ってみたりはするけれど、そこまで熱心に心血を注ぐことはない。どこかちょっと冷めた俯瞰で見てしまうところがあるのだ。あぁ、きっとこれもわたしの心を揺れ動かすほどの力はないのだな、とか。だからきっと、わたしの人生はこのままずっと退屈なまま生涯を終えるのだろう、と思っていた。

 あの日、彼女に出会うまでは。


1-1


 高校二年生に進級した4月8日。わたしは始業式を終えた教室で友人のツグミと駄弁りながら先生が来るのを待っていた。
「クラス一緒になってよかったね」
「ほんとにね。ツグミみたいな話し相手がいてくれてよかった」
「ハルカは人見知りで初めて会う人には話せないだろうから心配してたよ」
 いきなりわたしの図星を突かないでほしい。友人のツグミとは中学からの付き合いでずっと話し相手になってくれているが、わたしにとって親友と呼べるほど心を許しているわけではない。ツグミには悪いけど。
「そんなことないし。わたしだって新しいクラスメイトと友達になったりできるし」
「じゃあ誰かに話しかけてみる?」
 わたしは教室を見回して話せそうな相手を物色し始めた。クラス替えで生徒が入れ替わったのでまだ同じクラスに友達を作れていない子がいるはずだ。と思ったのだが、すでにみんな誰かしらと話して友達になっているようだ。おかしい。友達ってそんな簡単に作れるものなのか。ひょっとして新しいクラスで新しい友達を作れていないのはわたしだけなんじゃないのか。不安になってくる。友達ってどうやって作るの。
 と、わたしは一人の女子生徒に目がいった。その女子生徒は窓際の席に座って窓の外を眺めていた。艶っぽい長い黒髪が風に靡いてとても綺麗だ。端正な顔立ちといい、とても画になっている。絵画に描いたら大賞を取れそうだ。茶髪気味でボブカットのわたしから見れば羨ましい限り。
 わたしの視線がその女子生徒に止まった事に気が付いたのか、ツグミが小声で囁いて来た。
「あの人、一年生の時はずっと一人でいたんだって。変わり者らしいよ」
「一人……」
 わたしと同じだ。あの人も孤独なんだ。きっと心を許せる相手に出会わなくてずっと独りだったに違いない。勝手な決めつけだが、わたしにはあの人の気持ちが痛いほどわかった。だからなのかわからないが、私はあの人にとても関心が湧いた。
「わたし、話しかけてみようかな」
「え、ほんとに?」
 ツグミは意外そうな顔をしていたが、わたしはもう止まる気はなかった。ツグミに話し相手がいないと言われて腹が立ったわけじゃないし、意固地になったわけでもない。ただわたしはこれまでに感じたことがないほどあの人に興味があった。自分から話しかけてみたい、そう思えたのだ。
 これまでわたしはずっと受け身だった。なにか面白いことが、退屈を紛らわしてくれるものを待っていた。でもそれじゃあなにも変わらない。自分から動かなければなにも変えることはできない。自分から働きかけなければなにも変わらない。思い切って、飛び出してみよう。
 わたしは席を立つと、真っ直ぐあの人の席まで前進していった。ツグミは一瞬止めるような仕草をしていたが、わたしが脇目も振らずあの人のところへ行ったので見守ることにしたようだ。わたしはあの人の席の前まで行くと、思い切って話しかけた。
「ねぇ。ちょっとお話しない?」
 わたしは努めて優しい笑顔でそう言った。第一印象を良くしようとしてそうしたが、果たして効果はあっただろうか。するとあの人はわたしのほうを振り向くと、微笑んでこう言った。
「ずっと待っていた、あなたを」
 意外な返答だった。この人はわたしを待っていた。でもどうして? 理由は? 聞かずにはいられなかった。
「待っていた、ってどういうこと?」
「あなたは私と同じだから」
 わたしはまだ意味を理解しかねていた。この人はなにを言っているのだろう。
「わたしとあなたが同じ? どういう意味?」
「あなたは毎日が退屈で、そんな日常がつまらないと思っている。そうでしょ?」
 わたしは自分の内心を言い当てられて身震いした。表面上はそう見えないようにしていたけれど、心臓は高鳴って頬が紅潮して背中を汗が伝っていた。この人とわたしは今日初めて会ったはずなのに、なぜここまでわたしの思っていたことがわかるのだろう。ひょっとして一年生の時にこの人はわたしのことを知っていたのだろうか。だとしてもわたしはわたしの心の内を誰にも話していないのだからこの人がそれを知っている筈がない。わたしは確認することにした。
「わたしとあなたは今日が初めましてだったよね? 違ったらごめん」
「そう、あなたと私は今日初めて会って今日初めて会話した。それで合っているわ」
 だとしたら尚更わからなくなってくる。わたしが混乱しているとこの人は微笑みながら言った。
「私はキョウコ。タチバナキョウコよ。あなたの名前は?」
 そういえばわたしとこの人は自己紹介すらしていなかった。自分の失念を恥じながらわたしは自分の名前を伝える。
「わたしはアライハルカ。よろしくねタチバナさん」
「キョウコでいいわ。私もあなたのことをハルカと呼ぶから。いいわよね?」
「う、うん」
 この人のあけすけな態度に少し戸惑ったが、そのほうが遠慮が無くていいのかもしれない。そんなわけでわたしとキョウコは今日初めて出会い、話した。
「それじゃ改めて聞くけど、どうしてキョウコはわたしが来ることを知っていたの?」
「知っていた、と言うより予感がした、と言った方が正しいかもしれないわね。私はずっとあなたのような人が現れるのを待っていた。そしてもし出会うならクラス替えでクラスメイトが入れ替わる始業式の日だと予測していたの。半分は当てずっぽうだったけれどね」
 なるほど、つまり始業式に初めて会う人を待っていて、それがたまたまわたしだったわけだ。でもそうだとしてもわたしの心の内まで知っている理由にはならないだろう。
「それじゃあどうしてわたしが普段考えていることがわかったの? 誰にも言ったことがない、わたしの秘密だったのに」
「そう、それは悪いことをしたわね。でも私にはわかっていたの。あなたが退屈していて、刺激を求めて私に話しかけてきていることをね」
 それはつまりわたしが面白半分でキョウコに話しかけたみたいじゃないか。わたしはわたしの思いがあってキョウコに話しかけたのに、少し心外だった。わたしが不機嫌そうな顔をしていたのか、キョウコは私を見てクスリと笑った。
「ごめんなさいね。ちょっとあなたを試してみたの。本当に私に興味があって、私の話し相手になれるかどうかをね」
 なるほど、ツグミがキョウコを変わり者だと言っていたのはあながち間違いではなかった。少なくとも初対面の人を試すような言い方をするのは普通の人ではない。
「そうね。今日はホームルームが終わったらすぐに下校でしょ。後でまたお話ししましょう」
 丁度その時担任の先生が教室に入ってきて生徒を着席するよう促した。わたしは自分の席に戻る途中キョウコの方を振り返ると、キョウコはわたしに手を振っていた。また会いましょう、と。その仕草がわたしには可愛らしく思えた。

 ホームルームが終わって放課後、わたしはキョウコのもとへ行こうとしたが、ツグミに呼び止められた。
「ねぇ、ほんとにあの人と友達になるつもり?」
「まだわかんないけど、話した感じいい人そうだったよ。ちょっと変わってるけど」
「気を付けてね。あの人変な噂が立ってて危ない人みたいだから」
 ツグミの忠告は大袈裟なように聞こえたが、一応気に留めておくことにした。キョウコの席へ行くと、キョウコは学生鞄を持ってどこかへ行く様子だった。
「それじゃ行きましょうか」
「行くってどこへ?」
「私達の話を誰にも聞かれない場所」

 わたしはキョウコについて行くと、キョウコは迷いなくスタスタと歩きある場所へと向かっていった。階段を下り、渡り廊下を出て辿り着いたのは誰も寄り付かないような校舎裏の倉庫。キョウコは誰に断るでもなく堂々と倉庫に入っていった。
「一年生の時に下調べをして誰もいないスペースを見つけておいたの。誰にも邪魔されない、五月蠅くされない場所。普段はここで本を読んでるわ」
「本好きなの?」
「読書は好き、というより習慣ね。時間を有効に使うために読書は必須となっているわ。どんな人にとってもね」
 倉庫の中は意外なほど明るかった。窓から日差しが倉庫内を照らし積み上げられた資料やなにに使うのかわからない小道具の詰まった段ボール箱が鎮座している。
「ここって勝手に使っていいの?」
「すでに校長先生の許可は取ってあるわ。私が『教室に居づらいので校舎裏の倉庫に居てもいいですか』と言ったら快く了承してくれたわ」
 そういった言い難いことも臆面なく言えるのはキョウコの長所であろうか。いや短所でもあるだろう。キョウコは自分が孤独であることを臆したりしないのだろうか。
 キョウコは勝手知ったる我が家のように倉庫の机と椅子を運ぶと埃を払って綺麗にした。
「ここがあなたの席ね。自由にくつろいで」
「あ、ありがとう」
 わたしは遠慮がちにおずおずと椅子に腰を下ろした。くつろげと言われても会って間もない初対面の人と二人きりで倉庫の中にいるのだから、居心地は悪い。
「それじゃ本題に入りましょうか」
 キョウコは自分専用の椅子に座ると、机の上で手を組んでこちらを真っ直ぐ見据えてきた。
「本題?」
「あら、私はてっきりあなたが退屈な毎日を少しでも変えたくて私に話しかけてきたのだとばかり思っていたのだけど、違ったかしら?」
 まただ。またキョウコはわたしの心の内をズバリと言い当ててくる。そんなにわたしは隠し事ができないタイプだろうか。表情に思ったことが出ているのではないか。そんなわたしのことは今はどうでもいい。今はキョウコと一対一で対面して話す時間だ。
「そうだよ。わたしはつまらない日常が嫌でキョウコに話しかけた。それで合ってる」
「そう、ならよかった。やっぱりあなたは私と同じね」
「どういう意味?」
 わたしはキョウコと初めて話した時と同じ質問をした。あの時はなんとなくはぐらかされてしまった気がしたが、今なら二人きりだから答えてもらえるだろう。
「私もあなたと同じように、毎日に退屈して、この世界を変えたいと思っているということよ」
 やっとキョウコの本心が聞けた。キョウコもわたしと同じことを考え思っていたということだったのだ。
「私は私と同じ考えを持つ同志を待っていた。でも学校でも街でも誰も私に共感してくれる人はいなかった。あなたが現れるまでは」
 キョウコはわたしに人差し指を向けると、わたしの鼻先をちょこんと触った。
「やっと会えた。私と同じ渇きと飢えを持っている人。それがあなた」
「ずっと気になってたんだけど、どうしてそこまでわたしのことがわかるの? わたしは誰にもそのことを話してないのに」
 気になるついでにわたしはどうしてそこまで言い当てられるのか聞いてみた。するとキョウコは嬉しそうに微笑むと人差し指を自分の唇に当ててみせた。妙に色っぽい。
「言ったでしょ、私とあなたは同じだって。だから感じるの。同じ波長、同じ匂い、同じ雰囲気……同じだからこそ感じられる同調の空気。私にはそれがわかった。だからあなたが私に話しかけてきた時、すぐにあなたが私と同じだと気付いたの」
 なんと空気で同じだと感じることができるのだという。わたしはそれがなんだか恥ずかしく思えてきた。口に出さないでも、匂いとか雰囲気でそれとなく外に発信していたのだと思うと、街に出るのも恥ずかしい。顔が赤くなっていそうだ。
「わたしって……そんなオーラ出てる?」
「大丈夫よ。同じ人間にしかわからないシグナルなんだから、他の一般大衆には感じ取られたりしないわ」
 キョウコに気休めなのかなんなのかよくわからない励ましをされて、少し恥ずかしさが薄らいできた気がする。
「落ち付いて来たならそろそろ本題に入りたいのだけど、いい?」
「うん、大丈夫。始めて」
「そう、なら始めるわね」
 キョウコは姿勢を正して真っ直ぐにわたしを見据えてきた。真面目な雰囲気になってきたのでわたしも緊張する。面接されている気分だ。
「あなたはこの世界が退屈でつまらない日常だとうんざりしている、という認識でいい?」
「はい」
 わたしは率直に頷いた。もう心の内を言い当てられて戸惑ったりはしない。どんなことでもどんとこい、という気持ちだ。
「そう、ではあなたは退屈な生活を変えたい、ありきたりな毎日を変えたい、そう思ってる?」
「はい」
「そう、ではあなたはこのつまらない世界を変えるためならどんなことだろうとできる?」
「う~ん、はい」
「そう、それじゃ……ここからもっと踏み込んだ質問をするわね」
 するとキョウコは学生鞄から一冊のノートを取り出すと、開いて机の上に置いた。今時紙のノートを持っているなんて珍しい。わたしの目線からは逆さまで中身が読めない。キョウコはノートの項目を見ながら質問を続けた。
「あなたは自分が特別な人間ではない、ありふれたごく普通の人間だと言われて、受け入れることができる?」
「え、それはどうかな。それを認めるとわたし自身がつまらない人間だということになっちゃう気がする」
「そう、ならそれでいいわ。では次、あなたはこの世界が私達のような存在を排除する世界だったとして、それを受け入れることができる?」
「うう~ん、それってどういうこと?」
 キョウコはだんだんと質問の意図がわかりかねる事を聞いてくる。キョウコの問いが難解過ぎて今のわたしの脳みそでは理解するのに時間がかかりそうだ。
「そうね、まずはその説明からしなければならないわね」
 キョウコはノートのページをめくると、解説が載っているページをわたしに見せてきた。こうなることを予測して事前に用意してあったのだろうか。
「私達の世界の人間社会は普通の人間とそうじゃない人間に分けられている、っていうのは知ってるわよね?」
「まぁ……なんとなくは」
「そう、でもそもそも普通の人間という線引きは誰がしているのかしら。なにが定義で、なにが決め手なのか。誰が決めたのかもわからない普通の定義に人は悩み、苦しみ、痛みを感じている。誰が言ったわけでもない幻想に惑わされている」
「え、哲学?」
「そう、哲学は常人には難しい学問。けれど誰もが一度は疑問に思うことのはずよ。自分の在り方、生き方、存在論と認識論。答えは簡単には出ないのにいつも考えてしまう禅問答ね」
「はぁ」
 思わず気のない返事が出てしまう。これはまた難しい話になりそうだ。
「ハルカ、あなたはこの世界の日常が退屈でつまらないと言った。間違いないわよね?」
「それは、うん」
「世の中にはあなたのような毎日をつまらなく生きている人間は大勢いるの。でもだからといって悲観する必要はないわ。だって実際に退屈だと感じているのだもの。生きる目的も目標もない、改善しようにもどうすればいいかわからない、そもそもやる気が起きない、だから怠惰にならざるをえない。どこか達観した見方をすることによってあなたは人生ってつまらないものなんじゃないかと気づいてしまった。そうよね?」
「うん、そうだね。大体合ってる」
 わたしはキョウコの推察に肯定した。やはりキョウコはまるでわたしの心を見透かしたようなことを言ってくる。多分キョウコも同じことを考えているからだろう。
「私もあなたも、諦めに似た視線で世界を視ている。だって世界には私達の興味を引くような面白いことがあまりにもなさ過ぎて退屈なのだもの。それは当然の反応であり思考なのよ」
 わたしはうんうんと無意識に頷いていた。キョウコの話はとても共感出来てわたしに合っている。きっとわたしとキョウコは視点や価値観から同じなのだ。
「人間は向上心がなければ退屈から抜け出すことはできない。現状で妥協して、それ以上の目標を持たず、人生が退屈でつまらなくてただ過ぎ去る時間をどうやって暇つぶしするか考えているだけ。でもそれでなにが悪いというのかしら。なにかの罪になるのかしら。そういった自己弁論のような言い訳で正当化しようとしてみても、世間はそう簡単に許してはくれない。人間社会というのは怠惰を許さず、献身と勤労を強いてくるものなのよ。学生時代は遊んでだらけてよくても、大人になれば働かなければならない。そうなると学生時代に勉強して知識と経験を積まない人間は社会から取り残されてしまう。だらけ者の末路はひきこもりかニートへの道ぐらいしかない」
「世知辛いね」
「そう、人間社会というのは生き辛い。遊びたくて働かない人間ばかりじゃない。働きたくても働けない人、心的外傷(Post Traumatic Stress Disorder)があって働けない人、働くことが嫌になった人、働きたくて就職活動しているのに企業が採用してくれない人、家族の介護のために働くことができない人、いろんな事情があって働いていない人が大勢いる。にも拘らず世間の評価は一括して『働かない人間は社会不適合者だ』という。『働かざる者食うべからず』の精神が根付いている人間社会にとって働かない人はお荷物、邪魔でしかない。だから迫害する。おかしいと思わない?」
「うん、それはわたしもおかしいと思う」
「でしょう? 現実の社会は理不尽で不平等で自由がない。彼等のような一般大衆――マジョリティは私達のような少数派の変わり者――マイノリティを迫害して、忌み嫌い、拒絶して、排斥して、彼等だけに都合のいいディストピアを作っている。そうして迫害を受けた人々は自責の念に駆られ、自らを苦しめて鬱になり、そして最後は……死んでいくのよ」
 わたしは背筋がゾッとした。そんなことが現実に起こっているというのか。いや、本当は現実に起こっていることを見ないようにしていただけなのかもしれない。
「そんな社会状況でどうやって将来に希望を持てというの。どんなに夢を持っても現実が厳しいままでは絶望しかない。社会の問題を個人の責任に押し付けるなんて間違っている。私達は抵抗(Resistance)するべきなのよ。私達の自己を守らなければならない。社会に殺されるなんてまっぴらごめんだわ。私達は『退廃』してはならない」
「退廃?」
 聞き慣れない言葉が出てきたのでわたしは聞き返してしまった。そんなわたしにキョウコは優しく教えてくれる。
「『退廃』とは、社会の圧力に屈して自己の同一性(Identity)を退化させて個人の意志(Originality)を廃すること。自分が自分であることを忘れること。普遍的な一般人の一員になること。自分を他人と同じレベルに後退させること。マジョリティに屈すること。社会のために自己を殺すこと。夢を諦めること。それを私は『退廃』と呼んでいる。退廃とはすなわち、社会に敗北する事なの。迫害に屈した者の行き先は地獄よ」
 怖ろしい。わたしは素直にそう感じた。
「退廃した人は生きる目的を見失い、生きる意味すらわからなくなる。自分はなんのために生きているのか。なにをすればいいのか。自分はなにもできない人間なんだ。そうやって自分を追いつめて、自分で自分を苦しめて、殻に閉じこもって、逃げ出したくて、楽になりたくて、最期には自分で自分を殺す。誰だってそうなりたくはないでしょう」
 キョウコの話は現実なのか非現実なのかわからなくなってきた。あってほしくない、あっていいはずがないと自分に言い聞かせて、現実の話じゃないと思い込みたい。目を逸らして見ないふりをしたい。でもきっとこの世界のどこかには同じような悩みを持つ人がいて、わたしは残酷な現実から目を背けているだけなんだ。
「一部の人間が退廃するだけならマイノリティの問題だけで済む。マジョリティにとっては関係のない話。けれど私が危惧しているのは、いずれ人類すべてが退廃してしまう未来の話なのよ」
 キョウコは熱心に自分の導き出した推論をわたしに説いて聞かせる。
「インターネットと携帯端末の普及によってそれまでマイノリティとされてきたナード(Nerd)やギーク(Geek)等の迫害されてきた人種が一般的なマジョリティの中にも現れるようになってきた。いずれマイノリティとマジョリティの境界線は無くなり、誰もが少数派の意見を持ちながら多数派として生きていく時代が来る。そうなると、なにが起こると思う?」
 キョウコからの問いかけにわたしは理解できてない頭をフル回転させて考え出した。
「う~ん、みんなが多数派であり少数派だったら、なんでも同じになっちゃうね」
「そう、境界が無くなるということは怖ろしいことなの。ただでさえ少数派は多数派に流されやすいのに境目が無くなったら少数派の居場所は無くなってしまう。そうなればより退廃が進むわ。個人と大衆の境界が無くなりみんなが社会のためだけに生きる世界。それが退廃が進んだ世界の未来よ」
 キョウコの熱弁にわたしはついていくのがやっとだった。ただでさえ難しい話は苦手なのに専門用語を混ぜられたらちんぷんかんぷんだ。その上まだ不確かな未来の話まで持ち出されたらいよいよもってお手上げである。
「信じられないって顔してるわね」
「……うん、正直まだ飲み込めてないかな」
「そう、じゃあ見せてあげる。百聞は一見に如かずって言うしね」
 キョウコはそう言うと左腕に着けているウェアラブル・デバイス(Wearable Device)を操作し始めた。3Dタッチパネルにスワイプしてウィンドウを選択している。
「WDのVRSJ機能は知っているわよね」
「うん、一応」
 VRとは仮想現実(Virtual Reality)の略称である。コンピュータグラフィックス(Computer Graphics)で造形した現実には存在しない仮想世界を脳内に投影(Projection)して、そこに意識を飛ばす(Sense Jump)ことであたかも仮想世界に自分がいるような感覚を味わうことができる、という機能が仮想現実意識跳躍(Virtual Reality Sense Jump)である。SJをすると人間はうたた寝している状態になり意識が仮想世界へと転送される。そうすることでその人は仮想世界にいる夢を見ている感覚になり、そこでさまざまなゲームやシミュレーションができるというわけだ。
「今からあなたの脳内にVRSJするから、目を閉じて集中して」
「わかった」
 わたしは少し警戒しながらキョウコに言われるがままに目を閉じた。するとすぐにVR世界とわたしの意識がリンクして脳内に投影されていく。意識が虚ろとして微睡みの中で自分が空中に浮いているようなふわふわとした感覚がわたしを夢見心地にさせてくる。光の眩しさを感じて目を開けると、そこはもう校舎裏の倉庫ではなかった。
 わたしは目を疑った。今わたしが見ているのはコンピュータで作ったVR世界のはずだ。それなのにどこか現実的で空気が違う。それもそのはず、わたしが見ているのは空想的なSF世界でも無機質なシミュレーション世界でもない。現実でもありそうな重々しい雰囲気の……葬式の光景だった。
 葬儀に参列している人達は皆黒い喪服を着て悲し気な表情を浮かべている。悲痛にすすり泣く人もいる。とても作り物の世界とは思えない現実的な空気。ふざけているわけでも演技でもない、本当の悲しみに包まれた空間。ここはある意味で日常とはかけ離れた異質な場所だった。
 葬儀場を見渡して、わたしはまた目を疑った。喪主の席にいるのは見間違いようのない、よく知る人物――わたしの両親だった。父も母も悲しみをこらえた顔でじっと座っている。嫌な予感がわたしを襲ってくる。まさか、そんなはずはない。ありえないはずのことが頭をよぎる。怖かったが、確かめなければいけなかった。わたしは意を決して葬儀場の祭壇を見た。
 遺影に写っている人物。それはまぎれもない――わたしだった。
「なにこれ……」
 わたしはただ茫然とするしかない。受け入れ難い光景に言葉が出ない。信じられない。信じたくない。けれどわたしの目に映っているのは見紛いようのないわたしの顔だった。他人の空似ならよかったが、喪主はわたしの両親だし、葬儀に参列している人の中には見知ったわたしの親戚の姿もある。つまりこれはわたしの葬式だ。
「どう? 自分の葬式を自分の目で見た気分は」
 声のした方を振り返ると、そこにはキョウコの姿があった。制服の上着を脱いだ白いワイシャツ姿のキョウコは、喪服の人だらけのこの葬儀の場に一際目立って見えた。
「なんなのこれ……」
 わたしは動揺して答えられなかった。目の前の光景が信じられなかった。誰も自分の葬儀を見せられて冷静でいられる人間なんていない。いたとしたらよほど度胸のある人か、異常者だ。
「これはあなたのありえたかもしれない未来のイメージ。可能性のほんの一部」
「だって、じゃあこれ、わたし死んで……」
「そう、この未来のあなたは死んだ。現実はいつだって理不尽で残酷。あなたは現実の辛さに耐え切れなくなってこの世界からドロップアウトすることに決めた。これはその結果どうなるかを表した未来予想図」
 キョウコは淡々と無感情にわたしに告げる。この非現実的なのにまるで現実のような光景がわたしの未来予想図だというのか。わたしがいずれこうなるとでも言いたいのか。
「でもこれ、VRなんでしょ。キョウコが作った仮想世界なんでしょ。悪趣味なことやめてよ。本当にこうなるわけじゃないんでしょ」
 わたしはわかっていた。この光景はキョウコによる幻で、必ずしも未来で起こる現実ではないということ。きっとキョウコの悪ふざけに違いない。
「そう、これはまだ現実ではない。でもあなたはこれに似た光景を想像したことがあるはずよ。だってこれはあなたのイメージから創り出した仮想世界ですもの」
 キョウコはまたしてもわたしの痛いところを突き刺してきた。そうだ、わたしはこの光景をイメージしたことがある。でもきっとそれは誰しもが一度は想像したことがある未来予想図のはずだ。もし自分が死んだらどうなるか……ありうるかもしれないの未来の姿。死のイメージ。命の終わり。
「これはあなたのイメージした光景を投影した仮想世界。それをあなたのWDと私のWDとで接続(Connect)させてSJさせたの」
 キョウコがWDを操作すると、葬儀の光景は一瞬で消え去りわたし達は現実の世界に帰ってきた。今見たイメージはSJしたVR世界であった証明だ。しかし原理を説明されてもいまいち腑に落ちない。キョウコはわたしの心を見透かしたようなことを言うと思っていたが、本当にわたしの心の内まで覗かれているのではないだろうか。そう考えると少し気味が悪い。
「キョウコはわたしのどこまでを知っているの……」
「さすがにすべて知っているわけではないわ。でもそうね、ある程度の予想はできる。だって私とあなたは同じなのですもの」
 キョウコは左手の人差指でわたしを、右手の人差指で自分の唇を指差した。私とあなた。キョウコとわたし。今日初めて会ったとは思えないほど互いの心がシンクロ(Synchro)している。それはとても奇妙な感じがした。
「言ってみればさっきのはあなたが『退廃した』未来の姿。退廃を受け入れたら近い将来こうなるというイメージ。退廃した者の多くは自死すると研究結果が出ていて、実例も出てしまっている。これは虚構ではなく現実に起こっていること。あなたにも起こりうることなのよ」
 わたしはそれを聞いて怖ろしくなった。ただでさえ死後のイメージを見せられて気が滅入っているのに、退廃した後にこんな未来が待っていると言われたら誰もが嫌だと思うだろう。誰だって死にたくはない。それなのに自死に至ってしまうというのは、どういうことなのだろうか。
「自分で自分を殺すなんて愚かで悲しいことだわ。誰だってそんな苦しみを味わいたくはない。けれどそれ以上に現実が辛く苦しいと、人は逃げ場を求めて自らを傷つけ、自害してしまうこともある。それをよくあることなどと傍観することは決して許されることではないわ。もちろんそんな状況に追い込んでしまうこの世界の環境というものも重大な問題よ」
 キョウコはまるでこの現実の世界に恨みを持っているかのように怒りを露わにしていた。そしてその怒りは自死せざるを得なかった多くの人達に代わって断罪しなければならないと言っているようだった。キョウコは意外と感情的になりやすいようだ。
「この世界のマジョリティは自分達の創った社会にそぐわないもの達を外側(Outside)に追いやり拒絶してきた。社会に馴染まない者は社会不適合者の烙印を押され、退廃した未来を生きていくしかない。私はそんな生き方まっぴらごめんだわ。私は私であり私として生きて死にたいの。マジョリティに屈するなんて絶対に嫌よ」
 キョウコの言葉に徐々に熱が帯び始めてきた。言葉に気持ちが入って語気に力が入っている。
「私達マイノリティは外側の人間(Outer)としてこれからもマジョリティに抵抗し続ける。自分の首を掻き切るくらいならその刃で抗ってやる。ノイジーマイノリティになんてなるものか。私達は退廃に抵抗するもの(Decadence Resistance)として戦うのよ」
 これはキョウコの宣戦布告だ、とわたしは思った。反社会的ともとられるかもしれないがキョウコは本気で社会から逸脱しようとしている。それは迫害されてそうなったのか、それとも自分で想い過ぎなだけなのかはわからない。だが、自分をマイノリティだと卑下し、マジョリティを嫌悪するその姿は、キョウコが現実の人間社会にどれほど忌み嫌われ拒絶されてきたかを物語っているようだった。
「さて、ずいぶん熱く語ってしまったわね。ここまでの話は理解してくれた?」
「うん、一応」
 本当はまだ理解できていない部分もあったが、わたしはうんと答えた。
「では最後の質問。私は退廃したくない。あなたは?」
「わたしは……」
 わたしはここでなんと答えるのが正解なのだろう。退廃するのは正直嫌だ。でもキョウコの言ったことがすべて真実とは限らない。キョウコがわたしを騙してなにかの勧誘に巻き込もうとしているとも考えられる。ツグミが言っていた「気を付けて」とはつまりそういうことだ。でもわたしにはキョウコが嘘を吐いているようには思えなかった。キョウコは本当に同志を求めていて、わたしに自分と同じ素質を見つけた。キョウコは自分と同じわたしを信じてくれた、だから自分の心情を吐露してくれたのだ。その気持ちを、わたしは裏切ることはできない。かといってキョウコの話を鵜呑みにするのは危険すぎる。わたしはキョウコを信じたいけど、まだ信じ切れない。だって今日初めて会ったばかりなのだから。答えを出すにはもう少し時間が必要だ。わたしはそう結論付けた。
「今すぐ決めなきゃ駄目?」
「別にいつまでもいいわよ。あなたの今後を決める運命の選択なのだから」
「じゃあ一回持ち帰らせて。家でゆっくり考えるから」
「どうぞ。じっくり考えて決めてくださいな」
 キョウコはありがたいことに猶予期間をくれた。一度家に帰ってゆっくり考えよう。キョウコの言う通り、わたしの今後を決める運命の選択になりそうだ。それに、今のわたしは冷静な判断を下せそうにない。まだ心臓がドキドキと激しく脈打っていた。

 キョウコと別れて下校したわたしは、寄り道することなく真っ直ぐ帰宅した。他のことを考えている余裕がなかったからだ。その後晩御飯を食べてお風呂に入っている間もずっと頭の中はキョウコの話のことで頭がいっぱいだった。家族に話しかけられても曖昧な返事をするだけで話の内容は耳から抜け出て行ってしまう。家族には悪いが、とてもキョウコのことを相談する気にはなれなかった。この問題はわたし一人で答えを導き出さなければならない。そうしなければいけない気がした。
 お風呂から上がって自分の部屋で髪を乾かしている時、ツグミからわたしのWDにメッセージが届いた。WDに搭載されているチャットアプリ『ツインテイルズ(Twin Tales)』はWDを利用しているほとんどの人がインストールしているアプリだ。メールや通話だけでなく画像や動画の共有、ライブ配信やブログなんかもできるソーシャル・ネットワーキング・サービス(Social Networking Service)の一つである。おそらく世界シェアトップクラスの普及率を誇っている。「私とあなたの二人を結ぶ物語」だとCM(Commercial Message)でそう言っていた。
 ツグミからのメッセージはこんなことが書いてあった。
『大丈夫だった? なにか勧誘されなかった?』
 やはりツグミはそういう勧誘的なものを警戒してわたしに忠告していたのだ。しかしそれは的外れなものではなく、むしろ半分くらいは当たっていた。わたしはキョウコに勧誘されていた。『退廃抵抗の同志にならないか』と。わたしは詳細を省いてツグミに返信した。
『友達にならないか誘われた』
 嘘ではない。キョウコはわたしと友達になりたがっていた。小難しい言い方をしていたが要するにそういうことだ。ツグミからのレス(Response)はすぐに来た。
『やめといたほうがいいって。絶対やばい人だよあの人』
 ツグミのこの文面にわたしは少しムッとした。直接話してもいない噂だけ耳にしたツグミにそこまで言われる筋合いはキョウコにもないだろう。わたしは苛立ちをレスにぶつけようとも思ったがそれでは印象が悪くなってしまい喧嘩に発展する恐れがある。わたしはできるだけやんわりとツグミの忠告を否定しながら返信した。
『悪い人じゃなさそうだから、明日また話してみるよ。友達になるのは悪いことじゃないでしょ』
 送信すると、何分か経った後にツグミからレスが届いた。
『気を付けてね』
 お節介だなぁ。わたしはそこまででツグミとのメッセージのやり取りを止めた。キョウコのことは実際に会って話した人間でないとわからない。それは今のところあの校舎裏の倉庫に入ったわたしだけのはずだ。ひょっとしたらキョウコはわたし以外の人間にも似たようなことを言ったことがあるかもしれない。でも今日のあの様子からして本当の同志とはまだ巡り会っていないはずだ。そうでなければわたしにあんなことは言わないはずだ。はずだばかりでほとんど希望的観測だが、わたしの予想は外れていない、はずだ。
 わたしは髪を乾かし終わって寝る準備を済ませると、ベッドに潜り込んだ。今日はもう寝てしまおう。答えはまだ導き出せていないが、明日また考えればいい。それに珍しく頭を回転させて考え事をしたからか脳が疲れて眠かった。今夜はよく眠れそうだ。
 部屋の明かりを消して瞼を閉じると、すぐに眠気が襲ってきてわたしは眠りに落ちた。VR世界にSJするのと同じ感覚だ。人間が夢を見るのと仮想世界に意識を飛ばすことは理論的には同じなのだそうだ。詳しくはよくわからないけど、感覚でなんとなくわかる。夢を見るのとSJは変わらない。それはキョウコに見せられたわたしの死後のイメージと似たようなことなのだろう。
 わたしはそこで夢を見た。それは今日VRで見せられた葬式のイメージだった。喪服の人達が悲しそうな顔をしてわたしが入った棺桶を見送っている。ちょうど出棺するところだ。喪主であるわたしの両親が先頭に立って遺影と位牌を持って涙を堪えている。これからわたしは火葬場に送られて遺体を焼かれて骨と灰だけになって骨壺に入れられるのだ。それで葬儀はひとまずおしまい。あとは四十九日とか法事があるけれどあとは親しい家族や身内だけでやればいい。
 すると、参列している喪服の人達から外れた所に一人だけ学生服姿の少女がいた。制服の上着を脱いで白いワイシャツ姿の少女。見紛いようのない、キョウコがそこにいた。
「あなたはこれでいいの?」
 キョウコはその場にいる誰でもない、わたしに話し掛けてきた。だからわたしが答えるしかない。
「よくはないよ。わたしだってこんな人生の結末なんか迎えたくない」
 するとキョウコは否定するように首を横に振った。そうじゃない。私が聞きたいのはそういうことじゃない。とでも言いたいのか。
「じゃあなんだって言うの。わたしにどうしろと言いたいの」
 わたしは胸が張り裂けそうだった。キョウコに葬式のイメージを見せられていた時からずっと胸にあった苦しみ。それが今にも胸を突き破って這い出てきそうだった。胸の中のそれは一体なんなのか。それはわたしにすらわからない。
「私が聞きたいのは一つよ」
 キョウコは自分の唇に人差し指を当てて囁いた。
「私は退廃したくない。あなたは?」
 それがキョウコが聞きたいことで、わたしが答えるべき質問だった。それがわかった時、わたしの頭の中で光が輝き出しこれまでの記憶が走馬灯のように頭の中を流れだした。わたしが悩んでいたこと、胸の奥で痞えていたものが解消していくような、そんな感覚がわたしを駆け巡った。たったわずか、今日会ったばかりのキョウコの言葉がわたしを暗闇から救い出してくれた。それはとても幸せなことだった。

 わたしは目を覚ました。すぐにWDの時計を見ると、午前6時を示していた。ちょっと早起きだが、もう朝だ。4月9日。わたしがキョウコと初めて会った日から翌日になってしまった。ベッドから出て洗面所に行く途中、わたしはさっきまで見ていた夢を思い出していた。夢は目覚めると忘れていってしまうものだが、なぜか今日の夢はぼんやりとだが思い出すことができた。わたしの葬式とキョウコ。わたしがVR世界で観たのと同じ光景。偶然とは思えないが、夢はその日見た強い記憶を整理するものだそうだから当然のことなのかもしれない。
 顔を洗って食卓に着くとお母さんが朝食を出してくれた。焼きシャケにオムレツとお味噌汁とプチトマト。白いご飯によく合うおかずだ。わたしが朝食を食べているとおばあちゃんが食卓に着いてわたしに話しかけてきた。
「たくさん食べて大きくなるんだよ」
 おばあちゃんはわたしが赤ちゃんの頃から一緒に暮らしていて、いつもわたしに大切なことを教えてくれる。わたしにとっておばあちゃんは『格言製造おばあちゃん』だ。『亀の甲より年の劫』というやつだ。長く生きているから、わたしの気付かないことにもすぐに気付いて教えてくれる。そんなおばあちゃんだからこそ、わたしの『異常』にもすぐに気付くのだ。
「ハルカ、あんた悩み事でもあるのかい?」
「ん?」
 わたしはお味噌汁を飲み込みながら驚いた。まだなにも話していないし顔にも出したつもりもないが、おばあちゃんにはお見通しなのだ。おそるべしおばあちゃん。そのことをわかっているから、わたしは隠さず正直に話した。
「昨日初めて会ったクラスメイトと友達になりたいって言われたんだけど、なんて答えればいいのかなって」
 するとおばあちゃんは一切の迷いもなくズバリと言い放った。
「ハルカがしたいようにすればええ。友達になりたいならなればいいし、なりたくなければならなければええ。それだけのことさ」
 さすがおばあちゃんは簡潔に的確なアドバイスをくれる。わたしは胸の痞えが取れたようにご飯を飲み込んだ。
「それともう一つ。友達はいるに越したことはない。学生の内に友達をたくさん作っておいて、その中から自分と心が通じる友達を見つければええ。その友達がいずれ親友となるのさ」
「うん、わかった」
 わたしは納得した上で自分の頭におばあちゃんの言葉を深く刻み込んだ。こうしてわたしの頭のメモ帳におばあちゃんの格言が残っていくのだった。

 わたしが登校して教室に入った時、キョウコは教室にはいなかった。まだ登校していないのかと思って待ってみたが、キョウコが教室に入ってきたのはホームルームギリギリ直前で、わたしがキョウコに話しかける余裕はなかった。その後も休み時間に隙を見てキョウコに話しかけてみようとするが、キョウコはいつも姿を消していて教室の自分の席にいなかった。まるでUMAのように神出鬼没なキョウコに話しかけることができたのは昼休みの時間になってからだった。授業終了のチャイムと同時にわたしはキョウコの席に急いで向かい、席を立つ前のキョウコを捕まえることができた。
「話があるんだけど、いい?」
「そう、ここではなんだから、あそこに行きましょう」
 そういうとキョウコは自分の分のお弁当を持ってスタスタと教室を出て行ってしまった。わたしは慌ててお弁当を持ってキョウコの後を追う。そんなわたし達をクラスメイトは奇妙なものを見る目で見ていた。
「キョウコ、わたしのこと避けてたでしょ」
 わたしは早歩きでキョウコに近づいて問い質した。キョウコは薄笑いを浮かべて楽しそうに答える。
「そんなことないわ。ただちょっとあなたが本気かどうか試してたのよ。昨日の話をどのくらい信じてどんな行動に移るか観察させてもらってたわ。ごめんなさいね」
 キョウコはどうやら人を試すのが好きなようだ。どこか悪趣味な面を持つキョウコは間違いなく変人だ。わたしはそう確信した。
「じゃあわたしが授業の合間の休み時間にキョウコを捜してたのも見てたんだ」
「そう、あなたが授業中に私の方をチラチラ見てたのも気付いていたわ。あなたってかわいいところもあるのね」
 それを聞いてわたしは恥ずかしくなってそっぽを向いた。キョウコはいつもわたしを見透かしてからかうのだ。初めて会ってわずか二日でキョウコの変人ぷりをこれでもかと味わうことになるとは思わなかった。それにキョウコのお茶目な部分を垣間見ることができた。かわいいって言われたし。
「さて、せっかくだからここで食べましょう。倉庫は埃っぽくて食事場所には向かないわ」
 キョウコは花壇の側のベンチに腰掛けるとお弁当の包みを開き始めた。わたしもならってキョウコの隣に座る。
「お弁当は自分で作ってるの?」
「いいえ、母に作ってもらってるわ。私が料理するとどうしても無駄と思える工程を省いて失敗することが多いの。味付けを間違ったり火が通ってなかったり」
「あはは、わたしもそうかも。おばあちゃんに教わることもあるんだけど昔の独特な調理法だから現代っ子にはわかりづらくてね」
 お弁当を食べながらわたしとキョウコは他愛ない話で盛り上がった。といってもキョウコの話は普通の女子高生とは少し、いや結構変わっていて、それがまた面白かった。
「料理はレシピ通りに作れば上手くいくと言われているけれどそれは間違っているわ。一般のレシピ本には必要なスキルをマスターしていることが前提で書かれていることがあり過ぎなのよ。じゃがいもの皮をむくだけでも包丁でやるには難しい工程だし、調味料を適量といわれても具体的に何グラムか書いておいてもらわないとわからないじゃない」
「そうだね、難しいよね」
 それからこれは話しをしてわかったことだが、キョウコは自論を確かに持っていて、それに反したりそぐわなかったりすることに反論するのが好きというか論さずにはいられないようだ。それがキョウコのポリシーなのかもしれない。
「つまり今の若者が料理が下手なわけじゃなくて教える側がちゃんとしたマニュアルを提示していないことが問題なのよ。料理研究家が素人の家庭の味を再現できるレシピを作成できなくて誰が作れるというのかしら」
 そしてキョウコは自論を展開する時は熱が入りやすいこともわかった。教室での授業中のキョウコは凛と澄ました知性を感じる美少女だが、わたしと話してくれるキョウコは自分の心を包み隠さず表してくれる。それはキョウコがわたしに心を開いてくれている証拠に他ならなかった。それが今はとても嬉しい。
「さて、結論が出たところで、本題に移りましょうか」
 キョウコは食べ終わったお弁当を畳んで片付けると、隣のわたしに向き直った。距離が近い。春風が心地よくキョウコの長くて綺麗な黒髪を揺らしている。そうだ、わたしはキョウコの質問に答えるために昨日ずっと考えていたのだった。本当はまだ決めきれずに今日もずっと考えていたのだけれど、今朝のおばあちゃんの言葉とキョウコと話したことで決心がついた。
「これが最後の質問。私は退廃したくない。あなたは?」
「わたしは――」
 ここでもう一度確認する。本当にそれでいいのか。後悔はしないか。心の中の自分に問い質す。運命の選択。ここで間違えばどうなるか。おばあちゃんの言葉が思い起こされる。わたしの葬式のイメージ。退廃した未来。絶望よりは希望がある方がいい。わたしの心はもう決まっていた。
「わたしは、退廃したくない」
「……そう、これからよろしくね。ハルカ」
 キョウコは頷くと右手を差し出してきた。
「よろしく、キョウコ」
 わたしはキョウコの右手をわたしの右手で握り返す。ここで改めて同志となった硬い握手を交わした。キョウコの手は冷たさの中に体温の温かみを感じて、キョウコの心そのものを表しているようだった。
「さて、それじゃあ契約を交わしましょうか」
「契約?」
「口約束では後で反故にされると困るわ。きちんと契約書にサインしてもらって初めて私達は同志となることができる。異論はある?」
「ないけど……」
 わたしは了承したが、友達になるだけでそこまで堅苦しい契約が必要だろうか。キョウコにしてみたら待望の同志なのだからそれくらい慎重になるのも仕方ないことなのだろうか。
「ならいいわね。これをよく読んでサインして」
 キョウコは制服のポケットから折りたたまれた一枚の紙を広げて出した。わたしの目が確かならノートを切り取った紙に手書きで書かれた手作り感に溢れる契約書だった。
「これなに?」
「だから契約書よ。安心して。使ってないノートの綺麗なページを鋏で切り取ったものだから」
 やっぱりノートの切れ端だった。仕方なく言われたとおりにわたしは契約書に書かれた文面に目を通す。そこにはこう書かれていた。

『私達は苦なる時も辛き時も二人手と手を取り合い、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣き、このつまらなくて退屈な世界で退廃に抵抗することを誓います。』

 まるで結婚式の誓いの言葉みたいだ。他になにか書かれていないか契約書の隅々まで見たが、署名の欄にキョウコの名前が記されている以外は他になにも書かれていなかった。というかこれでは婚姻届けのようなものではないだろうか。わたしの考え過ぎか。
「読んだ? そんなに難しい文面にはしていないつもりだけれど」
 わたしがなかなか決めかねているのを待ちきれないのかキョウコがわたしの顔を覗き込んできた。距離が近い。わたしはなぜか顔が熱くなるのを感じながら理解したことを伝えるために何度も頷いた。
「そう、ならここに署名して。私の署名の下にね」
 わたしはキョウコに言われるがままにボールペンで契約書に署名する。
「じゃあ次は、契約の印を押しましょう。といっても印鑑は持ってきてないだろうから、これで済ませましょ」
 そういうとキョウコはポケットから小さなケースを取り出すと、そこから細長い裁縫用の針を出した。
「針?」
「そう、針。これをこうして……」
 キョウコはライターを取り出すと針の先端を炙り始めた。針に煤が付着すると、今度は薬品が沁み込んでいるガーゼで針を綺麗にしている。なにをする気なのだろう。わたしがぼうっと眺めていると、なんとキョウコは自分の親指にその針を突き刺した。といっても針の先っちょをほんの少し刺しただけなのでそんな大袈裟なことではないのだが、突然のことにわたしは驚いてしまった。針を抜くと、キョウコの親指から血がじわりと滲み出てきた。痛そうだ。
「そうしたらここに押す……」
 続いてキョウコは血の出た親指を契約書の自分の署名が書かれた横に押し付けた。指を離すと、契約書には真っ赤なキョウコの親指の指紋がくっきりと印された。
「さぁ、あなたもやって」
「え?」
 キョウコはケースから新しい針を取り出すと、わたしに差し出してきた。わたしにもその針で親指を突き刺せというのか。
「これじゃまるで血判書だよ」
「そう、血判書よ。そのほうが契約の効果が固そうでいいでしょ」
 キョウコはそう言って微笑んでいる。本気で思ってそうなのがかえって怖い。わたしは怖気づきながらも恐る恐る針を受け取った。ライターで先端を炙り、エタノールを沁み込ませた滅菌ガーゼで消毒する。なんでこんなことになっているのだろう。契約ってここまでしなければならないものだったとは。それでもわたしはキョウコの言うように退廃したくない。私は意を決して針を自分の親指に突き刺した。
「痛っ!」
 思わず声を上げてしまった。針はほんの少ししか刺さっていなかったが、痛いものは痛い。わたしが針を抜き離すと、親指からじわりと血が出てきた。わたしは思い切って血の出た親指を契約書の自分の署名の横に押し付けた。血が指に広がっていく感触が生々しい。指を離すと、契約書に血判がくっきりと印されていた。
「これでよし。契約は完了したわ」
 キョウコは満足げに契約書を見るとうんうんと頷いている。わたしは望んでも覚悟もしていなかったのに痛い思いをしているというのに。わたしが若干不機嫌になっていると、キョウコはわたしの手を取って血の出た親指を覗き込んできた。
「念のために水で指を洗った方がいいわ。保健室で消毒してもらいましょう」
 キョウコは案外優しいところもあるのか。保健室でなんて言い訳をするのだろう。また顔の距離が近い。指がまだ痛い。複数のことが一度に頭に浮かんでどれを優先するべきか悩むが、まずは先に言っておくことがあった。
「これからよろしくね、キョウコ」
「よろしく、ハルカ」
 今日からわたしとキョウコは友達になった。これはその契約なのだ。

1-2

 その日の放課後。わたしはキョウコに呼び出されて校舎裏の倉庫に来ていた。わたしが倉庫に入った時には既にキョウコは椅子に座って机の上にノートを広げて待っていた。わたしも倣ってキョウコと対面に自分の椅子に座る。
「さて、これからの方針を決めていかないといけないわね」
「方針?」
 わたしが聞くと、キョウコはノートをめくってなにか書かれたページを見ながら答えた。
「もちろん私達のこれからの活動の方針を決めるのよ。まさか契約しておいてなにもするつもりがなかったなんて言わないわよね?」
「言わないよ。ただなにをするつもりなのかってことを聞きたかっただけ」
 もちろんわたしもキョウコのしたいことについていくつもりでここに来たのだ。これでなにもする気が無かったらかえって拍子抜けだ。
「私達のすること、それはもちろん『退廃への抵抗』よ。解りやすく言うならつまらない毎日をどう過ごしていくか、ということになるわね」
「どう過ごすか……って具体的になにするの?」
「それをこれから決めるのよ。まずはあなたがしたいことを教えて。なんでもいいわよ」
「したいことねぇ……う~ん」
 したいことと急に言われても咄嗟に思い浮かばない。そもそもわたしが毎日を退屈に過ごしていたのも興味のあることが見つからなくてぼけっと暇を持て余していたのだ。改めて聞かれても普段から意識していないことを言えるわけがない。
「ごめん思いつかない」
「そう、それも仕方ないことね。だってすぐ思い浮かぶようなことなら既に行動に移しているもの。あなたはめんどくさがって行動しないタイプではない。そうでしょ」
 なんだかフォローされた気がするが、わたしは意外とめんどくさがりなのであまり行動に移すタイプではない。でもここで否定するのもめんどくさいので黙っておく。
「そう、目的を果たすためには行動が不可欠だわ。行動しなければなにも始まらない。なにも変わらない。これはあらゆる啓発本に書かれていることよ」
 キョウコはその言葉が書かれたノートのページをめくって私に見せてきた。確かにそこには似たようなことがいくつか書かれている。キョウコは本で学んだことをノートにメモしているのだろうか。
「じゃあ次は私のしたいことね。私のしたいこと、いや、むしろ私がすべきこと、使命とでもいうべきかしら」
 キョウコはまたノートをパラパラとめくると、該当するページを開いて見せた。
「私の使命、それは……この世界の『パラダイムシフト』よ」
 パラダイムシフト――キョウコの説明によると、ある時代において当たり前となっていたものが劇的に変化すること、なのだそうだ。よくわからないが、実際に起こったら大変なことになりそうだ。
「私はこれからの活動によってこの世界の常識とされてきた腐った価値観や社会のシステムそのものを変えたいの。これまで冷遇されてきた私達のようなマイノリティが力を持ってマジョリティに対抗できるようになれば、私達の社会的地位は飛躍的に向上するはずだわ。それだけじゃない。マイノリティが生きやすい世界を創れれば、多くの同志の命と生活が救われるのよ。これを使命と呼ばずになんと呼ぶのかしら」
 なんだか大それたことのように聞こえるが、熱弁するキョウコの目は本気だ。キョウコがその気なら、わたしも乗らない手はない。
「それで、具体的になにをするの?」
「そうね、まずはその話し合いからだわ。私達学生個人ができることは限られている。でもだからこそ、時間を自由に使える時期であるわ。力と知識を蓄えて、退廃する世界に抗うのよ」
 キョウコは楽しそうだった。きっと同志が見つかってやっと行動に移れたことが嬉しいのだろう。そう考えると、わたしがキョウコと契約して良かったと思える。
「まずはなにから始めようかしら。爆破テロのハウツー本でも読んでみる?」
「それは流石にまずいでしょ。ていうかそんな本あるの?」
 わたしとしてはもっと穏やかなことを想像していたのだが、キョウコは一体何をしでかすつもりなのだろうか。
「半分冗談で半分本気よ。私はやると決めたらやる女なのよ。ハルカも付き合ってくれるわよね?」
「そりゃOKしたからには付き合うけど、もうちょっと穏やかにいこうよ。武力に訴えるのは最終手段にしよ」
 わたしの案にキョウコは渋々納得したように頷いた。これで強行手段に出られたらわたしはテロリストの片棒を担がされるところだった。
「そうね、いきなりテロは先を急ぎ過ぎたわ。まずは地盤を固めてこちらの勢力の拡大から始めなければね」
 どちらにせよいつかは強行手段に出そうだ。できる限り穏便に済ませるようにわたしはキョウコの気を逸らさなければならない。
「ねぇキョウコ。地盤固めをしたいならこの学校での活動を明確化して先生達の許可をもらったほうがいいと思うのだけど、どう?」
 わたしの提案にキョウコは少し意図が汲み取れない表情でこちらを見てきた。その目はなんだ。
「なにを言っているのハルカ。私は教師共に私達の活動を認可させる気はないわ。だって端から受け入れられると思っていないもの。私達の活動は言ってしまえば反社会的なもので、一般人からすれば社会を壊そうとするテロリストよ。そんな人間の言うことなんて信じてもらえるわけないでしょ」
「えぇ……」
 本当にキョウコはなにをやらかすつもりなのだ。頼むから警察沙汰とかだけはやめてほしい。
「だからこそ、表向きは健全な活動を装って水面下で暗躍すべきなのよ。蹶起の時まで邪魔されずに準備を進めて隠し通す。そうすれば私達は勝利を手にすることができるのよ」
 だめだ。キョウコは本気で危ないことをやらかすつもりだ。ここはわたしがなんとかしてキョウコの気を逸らして考えを改めさせなければ。せめてもうちょっと穏便に済ませる方法に安着してもらわなければならない。
「えぇっと、わたしはもうちょっと平和的な活動がいいかな。誰かが怪我するようなのはやめといたほうがいいよ、うん」
 わたしの必死の説得にキョウコは幾ばくか考えを巡らすと、
「ふむ、それもそうね。過激な手に出て余計な反感を買うのは避けたいところだし。ただでさえ少ない味方を減らす結果にもなりかねないわ」
 と答えた。どうやらキョウコは思い直してくれたようだ。まずはホッと一安心。わたしは胸を撫で下ろした。
「それじゃあ平和的な手として、まずは私とハルカの意識改革から始めましょうか」
「へ? なにそれ」
 キョウコから意外なことを言われてわたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。意識改革……一体なにをやらされるのやら。
「だってハルカはまだ退廃のことについても抵抗活動についても知らないことが多いでしょ。まずはそこから覚えていってもらわなくちゃ」
「あぁそういうこと。要するに勉強しようってことね」
 よかった、洗脳教育とかじゃなくて。キョウコなら本気でそんなこと言ってきそうだったから。
「勉強と言っても難しいことをするつもりはないわ。楽しいことや興味のあることを探していくのよ。退廃に抵抗する。私達がその先陣となるのよ。ハルカ、あなたと一緒に」
 キョウコは手を差し伸べてわたしに誘いをかけて来た。もちろんわたしはその誘いに乗るつもりだ。ここまで来て断るのなら、契約までした意味がない。
「お手柔らかに頼むよ」
 わたしはキョウコの差し出された手を握り返した。ほのかにキョウコの暖かな体温が伝わってくる。キョウコは冷たい性格の人間ではない。そう感じることが出来た。
「ではまず退廃について理解を深めましょうか。退廃は私が意味を付け足した造語的単語なのだけど、ハルカは元々の退廃の意味を知っている?」
 キョウコはノートを捲って退廃について書かれたページを開いて聞いてきた。元々の意味と言われても、退廃自体そんなに聞く単語ではないのでそんなに知らない。
「なんだっけ、なんかこう荒野に乾いた風が吹いてる感じの、建物が錆びれたやつ?」
「それはどちらかと言えば荒廃ね。退廃は辞書によると『衰え廃れていくこと』、それから『道徳的に乱れ、健全でない状況のこと』ということらしいわ。芸術の世界にも退廃というジャンルがあるらしいのよ」
 らしい、ということはキョウコもそこまで詳しく知らないのではないだろうか。そんな感じがわたしには見て取れた。
「私はそこに人類の進化の行きつく先を見たの。未来のイメージね。みんなが生きる意味を見失った世界。私はその世界こそ退廃した世界であると定義付けたの。ここまでわかる?」
「う~ん、もうちょっと詳しく」
 キョウコはその突拍子もない発想がわたしにもできると思っているようだ。わたしは期待されて嬉しいような期待に応えられなくて悲しいような複雑な感情になっている。
「私の未来予想としては、先も言った通りこの世界はディストピア化が進み人類はどんどん精神が衰退していく。人々が関心や興味を失い、誰も彼もが一律の無個性な量産品のようになってしまった世界。私はその情景こそが『退廃』であると考え至った」
 キョウコのノートには退廃を中心として解説や関連語が図形で表されていた。わたしが逆さに見ているせいもあるだろうが、なにが書かれているか全然理解できない。わたしの頭が悪いせいだとは思いたくない。
「ハルカはまだわかってなさそうね」
「ばれた?」
「顔を見ればわかるわ。あなたって思ってることが表情に出やすい正直者なのね」
 一時褒められたような気がしたが、すぐに単純な人間だと馬鹿にされたのではないかと気付いた。
「いいわ。それなら『百聞は一見に如かず』よ。私のイメージを見せてあげる」
 そう言うとキョウコは自分の腕のWDを操作し始めた。今度はなにを見せられるのだろう。不安半分とちょっとの期待がわたしの心を揺れ動かす。
「じゃあVRSJするわね。目を閉じて」
 わたしは言われるがままに目を閉じてVR世界に意識が飛ぶのを待った。すると浮遊感と共に意識がふんわか曖昧になっていく。SJで夢を見ているのと同じような状態になったのだ。浮遊感が終わり地に足がつくのを感じて、わたしは目を開いた。そこには――
「……なにこれ」
 そこにはいつもと変わらない日常的な街の光景が広がっていた。街を行く人も、車も、ビルも、電車も、わたしが普段見ているのと変わらない当たり前の光景だ。ただ違和感があるとすれば、静かなことだ。誰もおしゃべりをしていない。黙って街を歩いている。WDで音楽を聴いたりメッセージを送ったりチャットをしたり電話をすることも可能なはずだが、誰もイヤホンをしていないし目で文字を読んでいるわけでもない。その目はまるで生気がなく表情も笑顔が消え失せている。みんな疲れてやつれているようだ。
「ここがキョウコが見せたかった退廃した世界?」
「そう、退廃した世界は言うなれば管理社会のディストピアよ。人々は管理者の指示通りに働いて社会を動かしている。だから本人達に退廃している自覚はない。だってマジョリティにとっては当たり前のことをしているだけなのだもの。一見して普段通りに見えるのは見間違いじゃないわ」
 どうやらわたしが見ている光景は退廃した未来で間違いないらしい。でもこれを見せたところで退廃の理解が深まるものなのだろうか。わたしが疑問に思っているのを感じ取ったのか、キョウコは次の行動に出た。
「それじゃあ劇的に変わったところを見せるわね。これはVRの非現実だからなにも気にする必要はないわ、と先に言っておくわね」
 キョウコがWDを操作すると、光景に変化が表れた。街行く人の内何名かが人混みから外れてうずくまったり壁に手をついて休んだりし始めた。異変に気付いた近くの人が声をかける。
「大丈夫ですか?」
 声をかけられた人は苦しそうに呼吸しながら言った。
「もう無理です。これ以上働けません。仕事を辞めさせてください」
 すると優し気に声をかけた人は急に険しい顔になってその人に無感情に告げる。
「あなたは働かなければいけません。甘えは許されません。なにか病気になっているわけではないのでしょう。健康ならば、働きなさい」
 無慈悲なことを言う人がいたものだ。わたしはそう思ったが、それだけではないらしい。苦しそうにしている人達は助けを求めるように縋った。
「このままの生活を続けていたら私が私でなくなってしまう。もう疲れました。休ませてください」
「いけません。あなたは国の定めた規定に違反しています。社会は甘えを許しません。働きなさい」
 いつの間にか周りにいた他の人達も苦しんでいる人を取り囲んで険しい顔で見つめている。四面楚歌状態だ。周りの人々も同じように無感情な声色で苦しんでいる人に迫る。
「社会のために働きなさい」
「みんな働いているんだ。あなたも働きなさい」
「甘えは許されません」
「もう嫌だ! 助けてくれ!」
「やめてください!」
 悲痛な叫びをあげるその人の前に、別の男の人が割り入ってきた。見るに見かねて飛び出してきたように見える。
「この人はもう働きたくないと言っているではないですか! なぜそこまで彼を責めるのです!?」
「働かない人間は社会で生きていくことを許されていません。働かないならばそれ相応の理由が必要です。彼等はその規定に該当していません」
「現実に苦しんでいる人達を考慮していない、政府に決められた規定に何の意味がある!」
「今の発言は政府への反逆とみなします。委員会に通報しなければ」
 周りの内の一人がWDでどこかへ通信し始めた。助けた男の人は苦しんでいる人に手を貸して立たせようとする。
「逃げなさい。ここにいたらあなたは委員会に捕まってしまう。そうなれば、もう個人の意思に関係なく社会の一員にされてしまう」
 しかし助けを求める人達は周りの人々に取り囲まれて身動きが取れなくなっていた。逃げ場はどこにもない。
 あまりにも悲惨な事態に、わたしはキョウコに聞くしかない。
「ねぇ、これどういうこと? 委員会って?」
「見ていればわかるわ」
 するとサイレンを鳴らした車が数台、近くに止まってきた。パトカーに似ているが少し違う、真っ黒な車体に変な目玉のマークが貼られている車だ。車からは警察官とも違う、制服に身を包んだ人達が降りてくる。その人達は人混みの中へと割り入っていくと、中心の助けを求めていた人達のところへと進んでいった。
「社会管理委員会の者です。あなたですね、通報にあった反逆者というのは」
「署まで来てもらおうか」
 委員会の者を名乗る人達は助けを求めていた人達の腕を掴んで強引にでも連れて行こうとした。助けを求める人達は悲鳴をあげて抵抗する。
「やめて! 離してくれ!」
「行きたくない! 私が私でなくなるのは嫌だ!」
 わたしは彼等が可哀想過ぎて目を背けたくなった。あんなにも嫌がっているのに無理やり連れて行かれるのは誰だって嫌に決まっている。それが大人の人達によって行われているのだから、見ている側としても嫌な気持ちになるものだ。
 その光景を見ていたキョウコは、わたしの肩に手を置いて呟いた。
「さて、そろそろ私達の出番よ」
「え?」
 わたしが聞き返すより速いか、キョウコは真っ直ぐに連れて行かれようとしている人達の元へと歩いていった。わたしも慌ててキョウコについていくしかない。委員会の人達はこちらに気付くと、不審なものを見る目で聞いて来た。
「なんだ、君達は?」
 そう問われたキョウコは、腰の後ろに手を回すと、こう答えた。
「退廃に抵抗する者よ」
 そう言うとキョウコは腰の後ろに回していた手を前に向け、突然光を放った。光は委員会の人の一人に命中すると、なんとその人を消し去ってしまった。わたしにはまるでその人が光によって掻き消された影のように見えた。キョウコはさらに手を他の委員会の人に向けると、次々に光を放って消していった。よく見るとその手に持っているのは拳銃のように見える玩具だった。何故玩具に見えるかというと、デザインが玩具屋に売っているサイケデリックな水鉄砲等の銃そのものだったからだ。わたしが驚いている間に、キョウコは委員会の人達を全員消してしまっていた。早業だった。
「さてと」
 するとキョウコは今度は手に持った銃を先程取り囲んでいた周りの人達に向けた。
「次はあなたたちの番ね」
 キョウコの標的にされた人達は、身の危険を感じたのか我先にと四方八方に逃げ出していった。後に残ったのはさっきまで助けを求めていた人達と助けた男の人、それとキョウコとわたしだけになった。
「あ、ありがとうございました」
 助けを求めていた人達は戸惑いながらもキョウコに礼を述べる。さすがの彼等もこんな形で助けられるとは思っていなかったようだ。キョウコは腰の後ろに銃を仕舞うと、
「大したことはしてないわ。ただ彼等のことが気に食わなかっただけ」
 と至極当然のことのように答えた。助けられた人達は無事に解放されると、それぞれの帰路に着いていった。後にはキョウコとわたしだけ。この状況に取り残されているのはわたしだけとなった。
「……質問タイム、いい?」
「どうぞ」
 キョウコの許しを得たので、わたしは矢継ぎ早に問い質す。
「さっきの人達はなに? なんで苦しんで助けを求めてたの? なんで周りの人はあんなに冷たいの? 委員会ってなに? 光はなに? なんで銃持ってるの? 消えた人達はどうなったの? てかこの世界はなんなの!?」
 一呼吸で言い終えると、わたしはぜいぜいと肩で息をしながら呼吸を整えた。キョウコはわたしの質問攻めに耐え切ると、平然とした顔でこちらを向く。
「終わった? なら一つ一つ順番に答えるわね」
 キョウコは人差し指を立てて一つ目の質問に答える。
「まずさっきの人達。彼等は退廃を受け入れた一般市民と退廃を受け入れられていない異端者のイメージよ。NPC(Non Player Character)に役割を与えて劇を演じてもらったの。あなたにわかりやすいようにね」
 さっきの人達はいわば小さな演劇をしていたというわけか。確かに言葉で説明されるよりはわかりやすかった。キョウコはわたしのためにあんな大掛かりな劇を用意してくれたのだ。
「二つ目、なぜ苦しんで助けを求めていたか。彼等はこの世界で生き辛く苦しんでいる人達よ。日常生活で摩擦が生じて今のように生活に支障が出る状態になってしまった人。彼等のような人達は実際の現実世界にもいるのよ。彼等の中には精神を病んでしまう人も少なくない」
 わたしは現実世界で実際に精神を病んでしまってさっきのことと同じようになる様を想像した。本当なのだとしたら、とても気の毒に思う。
「精神病、心の病気と一口に言ってもその事例は様々。とても一括りにはできないわ。人には人それぞれの人生があって、悩みがあって、生き方がある。それが権利として守られている。けれど退廃した世界にはその権利すらなくなる。退廃した世界は個人が精神を病まなくなるという利点があるようにも見えるけど、その末路はアイデンティティクライシス、自己の喪失よ」
 個人が個人でなくなる。社会の一員として生きていく。それが社会に生きていくものとして必要なことなのだとしても、キョウコには納得がいかないようだった。わたしもどこか間違っていると感じる。
「三つ目、周りの人達は社会に生きるマジョリティのイメージよ。マジョリティの彼等は周りの人間と同じように生きている。周りに合わせるのが正しいことなのだと信じてね。だから周りと違う人間には冷たく当たる。ときに罵声を浴びせたり仲間外れにする。わかりやすく言えば、いじめと同じことをしているのよ。大人になってもね」
 キョウコの言っていることは誇張のように聞こえるが、わたしには現実でも同じだと思えた。具体的になにかがあったわけではないが、わたしにも似たような感覚があったからだ。小学校高学年から中学校に渡る思春期の真っ只中、独特の空気感が教室を包んでいたのを覚えている。まるでお互いの顔色を窺っている疑心暗鬼の空気だった。
「彼等はそれが当然とばかりに異端者を傷つける。直接暴力は振るわなくても言葉で人を傷つける。異端者を迫害してもいい空気を作って居場所を失くさせる。そうして彼等は自分達の生きる場所を守っている。実に愚かだわ。生命の本能に基づいた合理的なやり方? 馬鹿馬鹿しい。汚い連中だわ」
 キョウコはわかりやすいほど嫌悪感を露わにして罵り始めた。余程腹に据えかねた言い分があるらしい。わたしはなにも遮らず静かに聞くことに決めた。
「私はそういった連中が大嫌いなのよ。空気を読んだ振りをして見て見ぬふりをする連中がね。糞喰らえだわ」
「なにかあったの?」
 わたしは聞かずにはいられなかった。キョウコになにかがあったから、そのような考えに至ったのだと推測したからだ。
「具体的になにかがあったわけではないわ。それが表面化すれば当然騒ぎになるし、被害者が出たなら大人達も動いただろうし。でもなにもなかった。なにもなかったのよ」
 キョウコが嘘を吐いているとは思えない。ということは本当になにも問題は起こらなかったのだろう。表面的には、だが。
「問題はなにも起こらなかった。表面上は平和なクラスだったでしょうね。でもその実はいつ崩れるかわからない砂上の楼閣。裏では他者を蔑み妬み恨みドロドロの感情が渦巻いてとても仲の良いクラスじゃなかったわ」
 表面上は笑顔で繕いながら腹の内で他者を蔑む人の闇。その怖ろしさはわたしでも理解できた。人は常に他者を気にしながら生きている。
「まだ清純だった私は僅かな空気の違いを敏感に感じ取っていた。それで……クラスメイトが怖くて遠ざけるようになっていた。傷つくくらいなら最初から仲良くならなければいい。そう思って私は孤独を選んだ。クラスメイトの方も異端者だった私を気味悪がって近寄らなかった。そして気付いた時には、クラスに私と話す相手はいなくなっていたのよ」
 わたしはキョウコの境遇を思って同情を感じずにいられなかった。でもそれを口にすることはキョウコが一番嫌いそうだから、わたしはなにも言えなかった。
「私がクラスから孤立したのはいじめでもなんでもない。自然にそうなっただけ。私が望んで孤独になった。だからそれはいいの。私が嫌っているのは私以外のマイノリティが蔑まれ傷つけられ殺されていることなのよ」
「殺すってそんな……だって実際に殺してるわけじゃないんでしょ?」
 わたしの言葉にキョウコはひどく残念そうに首を横に振った。
「そう、あなたもそんなことを言うのね。ならはっきり言っておくわ。直接ナイフで刺したり首を絞めたりしなくても、人は殺せるのよ」
 キョウコは自分で自分の首を絞めるジェスチャーをする。それがなにを意味するのか、わたしでもわかった。
「人はコミュニティを作る。仲良しグループとくだらない共感や都合のいい無駄話で一緒の時を過ごすことがステータスだと勘違いしている。私から言わせればそんなのクソ以下の価値しかない腐った価値観だわ。人は群れの中にいることで自分が強くなったと錯覚する。虎の威を借る狐よ。自分が強くなったわけでもないのに粋がって孤独な人間を下に見る。実に愚かだわ」
 キョウコは嫌悪感丸出しでその人達を侮蔑する。キョウコの闇の部分がその人達を恨んでいるのなら、それを晴らす術はどこかにないものか。
「そいつらは群れから外れたはぐれ者を陰で笑い、溝掘りを深くする。仲間外れを作ることで自分達の愚かで矮小な自尊心を保っている。今こうして思い返すだけで胸糞悪くなる連中だわ。その仲間外れ行為――所謂『いじめ』がエスカレートした結果がどうなるか。あなたも予想できるでしょう?」
 わたしは息を呑むことしかできなかった。キョウコが最初にわたしに見せてくれた未来のイメージ。葬式、悲しむ両親、わたしの遺影。わたしはその対象になっていないと思っていたが、わたしがいつそういう結果になるかはわからないのだ。
「残念なことにこの世界の大多数――マジョリティがその愚かな連中のなれの果てで、孤立したマイノリティは社会からすれば爪弾き者として扱われている。そういう空気が世界を満たしている。その空気はマイノリティからすれば毒ガスも同然で、この世界で生きていくだけでも息苦しい。マイノリティが生きていくにはまだまだ辛い世界なのよ」
 キョウコの言うことが100%真実かどうかはわたしにはわからない。わからないけれど、キョウコは嘘なんか吐いてないし、現実にもそういう問題が埋まっているのだ。
「人間社会には他者を貶し陥れ自分が得をしようとする連中ばかり。そんな奴等が社会の大多数を占めている。だからマイノリティは生き場を失い、孤立して、死んでいくしかない。マジョリティの数の暴力でマイノリティは嬲り殺されている。これが『社会が人を殺せる』根拠よ」
 キョウコはここまで言い終えると、大きく深呼吸した。ここまで捲し立てるようにして言い切った言葉は、わたしには深く突き刺さっていた。とても信じたくはないが、キョウコの言うことは真実で、現実に起こっていることなのだ。だからこそ、わたしにはキョウコが助けを求めているように聞こえた。現実の世界は辛く苦しく生き辛い。だからこれはキョウコのSOSなのだ。どこにも逃げ場がなくて今にも社会に殺されそうになっているマイノリティの悲鳴。それをキョウコは代弁してくれたのだ。それを聞いた今のわたしにできることは、一つしかない。
「キョウコは、辛かったんだね。頼れる相手がいなくて、ずっと独りで苦しくて……」
 今のわたしにできることは、キョウコを慰めることしかない。下手に反論しようものなら、キョウコは心を閉ざしてしまうだろう。折角わたしにSOSを出してくれたのに、それを無意味にしてしまうなんてことはしたくない。今のわたしにできるのは、キョウコの気持ちに共感してあげることだけだ。
「私はそんなありきたりな慰めの言葉が聞きたかったんじゃない」
 でもキョウコは苦虫を噛み潰したような顔で不快感を露わにしていた。わたしの言葉が求めていた言葉と違ったのか、期待を裏切られたように感じたのか。
「私は一緒に戦う同志を探していたの。ただカウンセリングの相手を探していたのならこんな舞台を用意したりはしない。マイノリティを殺すマジョリティと戦うため、退廃に抵抗するための同志、それがあなただと思っていたのに」
 キョウコは心底失望したように今にも泣きそうな顔をしていた。悲しいのか、悔しいのか、怒りなのか。わたしには計り知れない心の動揺がキョウコを襲っているのだろう。
「マジョリティに殺されるくらいなら、私が先に引き金を引いてマジョリティを殺す。どれだけ多くを敵に廻そうが構わない。いずれにしろ私の敵は人間社会そのもの。さっきの演劇はその縮図。社会が組織として市民を守って監視しているのなら、私がまず戦うのはそいつら委員会の連中。銃を手に取り一人ずつ撃ち消して粛清していく。そしていつかはマジョリティ共にも粛清を与える。今までマイノリティが受けて来た苦しみを倍にして返してやるのよ」
 わたしは悲しかった。キョウコがそんな言葉を言わなければいけないほど追い詰められているなんて思わなかった。
「そんなこと、言わないで」
 だからわたしがキョウコにしてあげられることは慰めじゃなく、寄り添いなんだ。
「そんな物騒なこと口に出して言うくらいなら、わたしに全部ぶちまけて。不満があったら吐き出してしまえばいい。自分の中に溜めこまないで。苦しいだけだよ」
「あなたなら、私の苦しみをわかってくれると思ってた」
 そっぽを向いて立ち去ろうとするキョウコの手をわたしは引き止めて握りしめた。逃がさない。キョウコの顔を見て、目を見て、わたしは話しかける。
「わかるよ。すごくよくわかる。キョウコがどれだけ辛い思いをして、どれだけ苦しかったか、わたしわかるよ。わかるから、わたしに相談して。全部打ち明けて。自分を責めたりしないで」
 今のわたしはキョウコに話していながら自分自身にも語り掛けていた。自分の心に話しかけるようにキョウコにも諭す。
「わたしもずっと独りだった。話す友達がいても、心の中は孤独を感じてた。心を許せる相手なんて誰もいなかった。だからわかるんだよ、キョウコの気持ち。キョウコが孤独を感じて苦しんでるなら、わたしが助けになりたい。助けにならせて。お願い」
 わたしはキョウコの手を強く握りしめていた。想いのぶんだけ強く、しっかりと力を込めて。そんなわたしの必死の語り掛けにキョウコはようやく気付いてくれたのか、伏せていた目をわたしの目に合わせてくれる。
「そう、ね……私も言い過ぎたわ。ごめんなさい。少し感情的になり過ぎた。でも言ったことは本心よ。私は本気でこの社会に復讐する気でいるし、同志を求めている。あなたにもそうであってほしいと願ってた。でも違った。そうじゃないのね。あなたは私の孤独に共感して私に付き合ってくれた。私の心に向き合ってくれた。だから友達になってくれたのね」
 キョウコの中でなにか納得したようにキョウコは頷いている。自分に言い聞かせるように言葉にしている。わたしが期待に応えられなくて残念そうにしているのはわかるが、キョウコの心の中ではなにが自問自答されているのだろうか。
「友達と同志は違う。そうよね。わかった。でも私はハルカを同志だと思ってるわ。それはこれからも変わらない。そのつもりでいい?」
「いいよ。契約したもんね。でもわたしもキョウコを友達だと思ってるよ。だからなんでも話して。隠し事とか悩み事は全部わたしに話してね。友達なんだから」
「わかったわ。善処する。私が頼れる友達はハルカだけだもの」
 キョウコは握りしめていたわたしの手を握り返してきた。了承の意だとわたしは解釈した。
「……それで、質問はどこまで答えたかしら」
「もういいよ。重要なのはそこじゃない。キョウコの心を明かしてくれればそれでいい」
「そう、ならもう帰りましょう。いつまでもこのVR世界にいるのは静かすぎるわ」
 そう言うとキョウコはVR世界をシャットダウンして意識をログアウトさせた。夢から覚めるようにわたし達は元の現実世界に戻ってくる。
「もうこんな時間ね。続きは明日にしましょう」
 そう言われてわたしはWDの時計を見る。デジタル時計は5時5分を示していた。もう下校時間だ。キョウコの言う通り続きは明日にして帰宅した方がいい。
「ねぇキョウコ」
 わたしに呼び止められて、キョウコはこちらに振り向いた。
「わたし、キョウコが友達になってくれてよかった」
「そう。わたしもよ、ハルカ」
 キョウコにそう言ってもらえて、わたしは嬉しかった。

1-3

 翌日。わたしとキョウコはもうお決まりとなった倉庫の椅子に座っていた。
「さて、昨日の続きを話しましょうか」
「どこまでいったっけ」
「私達がVR世界で委員会の連中と戦って、あなたの疑問に答えている途中だったわね」
 そういえばそうだった。昨日は途中でお互いに感極まって話が流れてしまっていたからだ。
「と言ってもあれにそれほど深い意味はないわ。あの仮想世界の出来事は私が演出した舞台上の演劇のようなもの。ノンフィクションをフィクション風にアレンジしてあなたに見せた。私のイメージの具現化の一つよ」
「じゃあ委員会ってのはなに?」
 わたしの質問にキョウコは面白おかしいかのように笑いながら答えた。
「委員会はそれこそ私の空想上の組織よ。社会を監視する上位の存在。警察よりも意地汚くて最悪最低な奴等。世界に住む人間達を監視して組織の意にそぐわない言動をしたものは処罰される。あなたに見せたのはマジョリティによるマイノリティの迫害の一部。その処罰を実行するのが『委員会』と呼称される悪の組織。っていえばわかるかしら」
 キョウコの説明にわたしは頭を捻りながらも頷くしかなかった。わかったような、わからないような。でもこれ以上説明を受けてもわたしには理解できそうになかった。
「委員会を倒すことがいわばあのVR世界での私達の役割。退廃抵抗の活動よ。その戦うための武器が、これ」
 キョウコはWDを操作すると、周囲にARDF(Display Field)を展開させた。AR(Augmented Reality)とは拡張現実とも呼ばれるもので、VRが現実とは違う世界をコンピュータで作るのと違い現実を見たままCG等で情報を拡張して表示する技術のことを言う。と学校で習った。詳しいことはわたしにはわからない。このARDFは現実世界の至る所で利用されている。看板や地図、道路標識や信号、スーパーやコンビニの商品説明、等々にも使われている。立体映像を見るようなものだ。ARDFに表示されているものはWDを通して触れたり操作したり情報のピックアップができる。
 キョウコはARDFに手をかざすと、CGでイメージしたものを現実でも見えるように表示させた。昨日VR世界で見た光を出す銃だ。改めてみると奇抜な見た目をしている。玩具っぽい。
「これが私達の武器。悪い奴等を消し去る『消去銃』よ」
 ネーミングはさておき、これを使ってわたし達は戦うというのか。少し、というかかなり、
「ダサい」
 と思っていたことが声に漏れてしまった。慌てて取り繕うとしたが、誤魔化す言葉が出てこない。
「そう、これが不満なら他にも候補はあるわ。好きなものを選んで頂戴」
 するとキョウコはARDFに玩具の銃とは違うものを次々に表示させて見せて来た。昔の映画に出てきそうなリボルバー、原始的な弓矢でも撃ちそうなボウガン、抱えないと持てそうにないバズーカ、熊でも狩れそうな長いライフル、その他いろいろな銃を並べて来た。どれがどう役に立つのかわたしにはさっぱりわからない。
「この中から選ぶの?」
「この中に気に入ったのがないならもっと出すけど」
「いやいい。この中から探す」
 正直これ以上銃を見たくないというのもあった。やはりわたしには銃が野蛮なもののように見えてしまう固定観念がある。おばあちゃんからそう教わったからだが、今ここでそれが邪魔してくるとは思わなかった。ごめんおばあちゃん。
 とりあえずわたしは目の前にある銃の一つを手に取ってみた。なんとなく見た目が良さそうなものを選んでみたが、銃の違いはわたしにはわからない。
「それはシングルアクションアーミー。リボルバーね。西部劇のカウボーイがよく使っていた銃よ。装弾数は6発。シリンダーに弾を込める必要があるから現代では使う人はほとんどいないわね。一部の愛好家には大人気らしいけど。悪くないんだけど、時代遅れの骨董品ね。『こんな彫刻(Engrave)には何の戦術的優位性(Tactical Advantage)もない』ってやつね」
「へぇ」
 わたしは相槌は打ったが、意味は全くわかっていなかった。
「私のオススメはこれ」
 キョウコは銃の一つを手に取ると、宝物を扱うかのように手で撫でた。
「これはM1911A1のカスタムモデルで、とあるゲームの主人公が愛用していた銃を再現したものよ。ほらここを見て。シリーズ50周年の記念マークが印されているでしょ。限定品で買うのは苦労したんだけど、どうしても欲しくて親に頼み込んで買ってもらったのよ。もちろん性能は折り紙付きよ。実弾は撃てないけれどVRやARのシミュレーションなら実際に撃つ感覚を味わうことができるわ。45口径の威力はやっぱり最高ね」
「すごいね」
 重ねて言うがわたしには銃の違いがわからない。キョウコの熱の入った解説も耳から流れ出ていってしまっている。
「試射してみる? 大丈夫よARだからどこにも当たらないし器物破損もなにも起きないから」
 そのままわたしはキョウコに半ば強引に試射させられることになった。ARDFが倉庫全体に展開され、人型の的が距離を取って表示された。
「握り方はこうよ。教えてあげる」
 するとキョウコはわたしに寄り添うように銃の持ち方をレクチャーしてきた。吐息が肌に感じるほど体が密着している。心臓の高鳴る音が響いてくる。それがわたしの心臓かキョウコの心臓かわからないくらい体がくっついていた。
「さぁ、そのまま撃ってみて」
「う、うん」
 わたしはキョウコに言われるまま目の前の的に向けて銃口を合わせ、引き金を引いた。パンッと破裂音がして弾が発射され的の肩らへんを貫通した。その瞬間、腕に痺れるような感覚が襲ってくる。
「な、なに?」
 驚いたわたしをキョウコは支えるようにまた体を密着させてきた。
「反動も再現されているからほとんど実銃を撃つ感覚と同じものを体感できたはずよ。どう?」
「どう、と言われても、あ、あんまりよくわかんないかも。腕がびりびりするし、発砲音はでかいし、驚いちゃってなにがなんだか……」
「そう、まぁいいわ。慣れていけばその内楽しさもわかってくるでしょう」
 つまりそれは慣れるまでやらされるということか。楽しそうにしているキョウコに反し、やや落胆気味のわたしであった。

1-4

 それからわたしとキョウコはよく二人で話をするようになった。といってももっぱら話をするのはキョウコのほうで、わたしは聞き役だった。キョウコはこう見えてお喋りなのだ。
「ねぇハルカ、ルネ・デカルトの『我思う、故に我あり』って言葉知ってる?」
 キョウコは時折哲学の話をよくする。普段から哲学書を読んで知識を蓄えているキョウコにとって、知識を話すことはインプットしたものをアウトプットする一つの頭の回転の練習なのだ。
「聞いたことはあるよ。意味はよくわからないけど」
 わたしには哲学の知識はないのでいつも聞き役に徹する。
「『我思う、故に我あり』はラテン語で『コギト・エルゴ・スム(Cogito,ergo sum.)』と言うのだけれど、デカルトは哲学の一つの答えとしてこの理論を導き出した。これは『我』つまり自分がこの世界に存在する証明となる一つの考え方なのよ。この世界のあらゆるものは不確実で現実に存在するかの証明ができないものであるとデカルトは考えた。では『我』の存在を証明するにはどうすればいいか。あなたは考えつく?」
「え、そんなの無理だよ。キョウコの話を頭で理解するので精いっぱいなのにそこから哲学者と同じ答えを出せなんて無茶だよ」
「そう、普通は考えつかないわね。デカルトは哲学者であり数学者でもあった。彼は哲学においても数学のような明晰な原理を追い求めていて、基礎から自分で考えを導き出していた。哲学は存在論(ontology)と認識論(epistemology)の二つからできていて、存在論は『それは何(what)であるか』を問い、認識論は『それはどのよう(how)であるか』を問うているわ。彼は『我』の存在を『思う』ことで『我』が存在する証明になると考え出したの。ここまででわからないことある?」
「……なんで『我』が『思う』だけで存在の証明になるの?」
 わたしの頭はオーバーヒート寸前だった。ただでさえ詳しくない哲学の話についていくだけでいっぱいいっぱいなのに専門用語を持ち出されて理論の話をされても理解が追い付かない。
「そうね。じゃあハルカ、あなたは自分が今現在この現実の世界に生きている、と思っている?」
「え? それはまぁ、うん。生きてるよ」
「そう、それだけでいいの。デカルトの理論としては『自分が今ここにいる』と思うだけで存在している証明になるのよ」
「え、それだけでいいの?」
 わたしには意外だった。もっと難しい話だと思っていたのに、そんな簡単な――それでも専門家からしたら難しい理論でできているのかもしれないが――方法で説明できてしまうものなのか。
「要は自己を自分が認識していればそれでいいのよ。他の誰かが証明する必要なんてない。自分が自分を認めてあげればあなたがこの世界に存在している証明になる。そういう意味でロジックとしては成り立っているの」
 キョウコの言っていることはわたしにはいまいち理解し辛かったが、そういうことと言われればそうなんだと納得するしかない。
「だけどね。私はそれだけでは足りないと思うの」
「えっ」
 急にキョウコは真逆のことを言いだした。今まで解説していたのはなんだったのか。
「『我』が『思う』だけでは存在の証明としては不確かだと私は思ってるの。だってもし仮に『自分がここにいる』と『我』が『思って』いても他の周りの人間がその『我』が『ここにいる』と『思って』いなければ、その『我』が本当にそこにいるかどうかはわからなくなる。『我』の存在証明には不十分ということになるの。わかった?」
「……わかんない」
 わたしは素直にそう答えた。
「そう、なら仕方ない。例題を出しましょう。ハルカ、刑事ドラマで『アリバイ』って言葉聞いたことある?」
「それなら知ってる。殺人現場にいるかいないかで論点になってるやつでしょ」
「そう、これはある意味で容疑者の存在証明を論じているの。例えば殺人事件が午後9時に起こったとして、容疑者がその時間に現場にいることが証明できれば逮捕することができる。だから容疑者はあらゆる証言や証拠でアリバイを立証しようとするわけ。ここまでわかった?」
「うん」
 ドラマに例えられたことでわたしでも理解しやすくしてくれている。キョウコは教え上手だ。
「ここで容疑者がどれだけ口でアリバイを主張しても、それを立証する証拠や証人がいなければ存在の証明にはならないわけ。これが『我』が『思う』だけでは存在の証明にならない理由よ」
 わたしは聞いた話をわたしなりに解釈して吐き出してみる。
「でも証明されていなくても人間は存在してるよね。自分の部屋に引きこもってても生きてる人はいるし、消えちゃうわけじゃないし」
「そうね、そのあたりもしっかり話しておかなればいけないわね」
 そう言うとキョウコは違うページをめくって出した。可愛らしい猫の絵が描かれたページだ。
「ハルカは『シュレディンガーの猫』って知ってる?」
「なにそれ、猫の種類?」
「シュレディンガーの猫というのは量子力学における思考実験の一つよ。箱の中に猫を入れて、その箱の中に電子と電子に反応する毒ガス発生装置を一緒に入れるの」
「え、それだと猫がかわいそうだよ」
「実験だからそこは仕方ないと割り切って。それで箱の中の猫は生きているか死んでいるか確認しないとわからない、不確かな状態になる。猫が生きているか確かめるためには箱を開けて猫の様子を観測しなければならない。この時、猫は確認するまで生きている状態にも死んでいる状態にもどちらにも考えられる、と量子力学の世界では言われているの」
「……生きているか死んでいるかの二択ってことは、2分の1の確率ってこと?」
 わたしは頭を振り絞ってそう答えるしかなかった。それ以上は頭から零れ落ちそうだった。
「そう、単純にそう考えておいていいわ。ここでミソなのは猫の生死ではないの。箱の中の猫が観測されるまで、猫は生きているか死んでいるかの重なり合った二つの状態にある、ということよ。量子力学的にはこの二つの状態が同時に存在する、というのが重要で、先に言った『我思う、故に我あり』にも繋がっているのよ」
「……どゆこと?」
 ついにキョウコの話はわたしの思考能力を超えてしまった。
「つまり、これはあくまで量子力学の世界で『箱の中の猫は観測するまで生きている猫と死んでいる猫の二つの状態の猫が同時に存在する』というマクロな現実ではありえない仮説を皮肉った話ということ。私達のいる現実世界では全く同じ個体の猫が同時に二つ存在するってのはコピーでも作らない限り不可能なのよ。でも量子の世界には観測するまで二つの猫が同時に存在してしまう。それって違うよね、と言いたいのがシュレディンガーの猫の思考実験なのよ」
「……キョウコはなにが言いたいの?」
 わたしにはなにがなんだかわからなくなってきた。つまりになってない。
「私が言いたいのは、『我思う、故に我あり』も『シュレディンガーの猫』のように存在証明には不確実だということよ。だって観測しなければ生きているか死んでいるかわからない、しかも量子力学的には二つの状態が同時に存在してしまうなんて、不確定で不十分でしかないわ。私はシュレディンガーの猫にはなりたくないの」
 キョウコはすっとわたしの手を握ってきた。わたしは訳がわからないまま大人しく握られるしかない。キョウコの体温が伝わってくる。温かい。
「私は観測不可能な猫よりもタチバナキョウコでいたい。そのためには、『私』の存在を確定しなければならない。『我』が『思う』だけでは不十分なの。『私』の証明には第三者である『あなた』が必要なの」
 キョウコはわたしの手を握る力をさらに込める。痛くはないが、しっかり握り締められているので動けない。それにキョウコの目が真っ直ぐにわたしを見てくる。目を逸らすわけにもいかず、わたしはキョウコの視線を目で受け止めるしかない。
「もしも私の存在が不確定なことになったら、あなたが観測して、ハルカ。『あなた』が『私』を観測すれば、『私』はこの世界に存在する証明になる。これが私の理論よ」
 キョウコの目は真剣そのものだった。だからわたしも真摯に受け取らなければならない。それが友達の役目だ。
「わかった。キョウコの存在はわたしが観測する。いっぱい観測して、キョウコの存在をいっぱい証明してあげる。約束するよ」
「ありがとう、ハルカ。持つべきものは同志よね」
 そこでキョウコが友達と言わなかったのは照れ隠しなのかわからないが、キョウコと握り合った手はとても温かいものだった。

1-5

「ハルカ。あの世とこの世の境界線に興味はない?」
 あくる日。今日のキョウコはいつにも増して唐突にそう聞いて来た。当然わたしにはなんのことだかわからない。あの世とは。
「それはわたしが知ってるあの世とこの世のことでいいの?」
「あなたがどの程度知識として蓄えているかは知らないけど、概ね合致していると私は予想するわ」
 ではわたしが知っている限りの知識で答えよう。つまりあの世とは死んだ後の世界のことであり、この世とはわたしが今生きているこの現実世界のことだろう。
「う~ん、実際あるかどうかもわからないあの世のことはわかりようがないし、死んだらそれまで、ってことじゃないの」
 わたしの答えにキョウコは頷くだけで肯定も否定もしなかった。どっちよ。
「そうね。それが所謂一般の意見ということでしょうね」
 なんだか貶されたようで釈然としないが、そんなわたしを放っておいてキョウコは自分のノートのページをめくって広げた。
「ここに私の仮説があるわ。聞きたい?」
 キョウコはもったいぶってそう聞いて来た。ここで断るのも負け惜しみのようで悔しいし、興味もある。わたしは聞きに徹することにした。
「聞きましょうか」
「そう、では話すわね。そもそもの定義として、あの世とはなにか、ハルカはわかる?」
 先程知っていると言っておいてなんだが、わたしは死生観について詳しいわけではない。漠然と死んだらあの世に逝く、とだけしかおばあちゃんからは聞かされていない。
「死んだら逝く世界、じゃないの」
 それを聞いてキョウコは満足げに頷いている。なんだというのか。
「そうね。死後の世界。限りある生命がいずれ逝くべき世界。霊界ともいわれる霊の集う場所。信仰している宗教にもよるけれど、共通して死んだ人間は死後の世界に逝くとされている。でもねハルカ。私はこう思うのよ。『死後の世界』と『仮想世界』は似たような世界なんじゃないかとね」
「……ん?」
 ここまで聞いていて、わたしは疑問が湧いた。
「いやいや、キョウコおかしいよ。死後の世界と仮想世界が似たような世界だったら、わたし達はVRSJで臨死体験してるようなものになっちゃうよ」
 現代ではVRSJの搭載されたWDの普及率はかつてのスマートフォン普及率をはるかに超える数字を叩き出しているらしい。操作が簡単で利便性が高いことから老若男女に親しまれている。そんな誰でも使える機能で臨死体験ができるなら、かなり危険なことになるのではなかろうか。
「あなたの疑問も尤もよハルカ。だから私はあくまで『似たような』と仮定したの。全く同じなわけではないし、それが真実なら重大なVRSJの欠陥だわ。私が似たようなことだと考えたのは、VRSJが意識を飛ばす精神世界での出来事だからなのよ」
 だからなのよ、と言われてもわたしにはいまいちまだ納得できない。そもそも精神世界ってなに。わたしは挙手して提言する。
「精神世界の説明を求めます」
「いいでしょう。それではあなたでもわかりやすいように説明するわね」
 若干馬鹿にされた気配を感じたが、大人しく聞くことにする。
「精神世界とは、人間が持つ『意識』を存在するものであると仮定してその『意識』だけが肉体を持たずとも存在し続けられる世界。『意識』とは『魂』とか『自我』だとかともいわれるわ。『魂』だけが住む世界って聞くと、死後の世界っぽい気がしない?」
「言われてみればそうだけど……」
 わたしがまだ納得できかねているとキョウコは説明を続けた。
「古来より精神の概念は多くの学者によって研究されてきたわ。現実世界に物質として存在すると言った学者もいるし、精神世界に逝くために人体実験をした学者もいたわ。でも現代になっても明確な正解を提示できる人間は現れなかった。どれも仮説ばかりで実証できない。なにせ精神世界は死後の世界と同じであり、往来が可能ならば生死の境を行き来できる革命的な発明になるからよ」
 そこへきてキョウコはノートを広げたまま腕に装着したWDを差し出してきた。
「でもそれを擬似的に実現する手法が生み出された。それが普段私達が使っているWDの仮想現実意識跳躍(Virtual Reality Sense Jump)なのよ」
 衝撃の真実。しかしわたしは驚きはしたがそのすごさまではわからなかった。
「……それってすごいの?」
 わたしの反応にキョウコはわかりやすく呆れた顔で溜息を吐いた。なにもそんな残念がらなくても。
「言ったでしょ。精神世界に逝くには死後の世界に逝くのと同義なほど不可逆なことだって。それを擬似的にでも実現させたんだから、人類史においても重大な発明なのよ。世間ではあんまり騒がれてないけど」
 確かにすごい発明なのはわかるが、ネットやTVでもそのすごさを取り上げているサイトや番組を見たことがない。単純にわたしがその系統の番組を見ていないだけかもしれないが、それでももう少し騒がれてもいいはずだ。
「VRSJはアメリカの大学で世界中の研究者が一堂に集って開発されていたんだけど、その中に日本人がいてね。しかもその日本人は、私の従姉なのよ」
「へぇ。それはすごい」
 そこは素直に感心した。身内にそんな偉業を達成した人がいるなら鼻も高々だろう。
「でも従姉はそのことを自慢したことはないし、あまり明るく話してくれなかった。きっと私達の触れてはいけない真実、禁忌に気付いてしまったのね」
 キョウコはもう自分の世界に入ってしまっている。こうなるとなかなか抜け出してくれないのでわたしが引っ張り出すしかない。
「説明を求む」
「あら、そうだったわね。それでVRSJは死後の世界との行き来を擬似的に再現した機能ということよ。コンピュータで作った仮想世界を死後の世界に見立てて、夢を見る睡眠状態の人間の意識をデータ化して仮想世界にジャンプさせる。そうすることで当人には夢を見ているのと同じ状態で仮想世界で過ごすことができる。というのがVRSJの仕組み。言葉で言うのは簡単に聞こえるかもしれないけど、これを実現するために多くの大人が頭を捻って考え出した努力の結晶がこの偉業を発明させたのよ。もっと自覚を持って」
「はい、すいません」
 怒られたわけではないが、何故か謝ってしまった。それだけ熱弁するキョウコの圧が強かったということだ。
「それで死後の世界との親和性だけど、私の仮説ではかなり類似性が高いと言えるわ。死後の世界も仮想世界も現実には物質として存在しない精神世界。そこに意識を飛ばすのだから魂が死後の世界に逝くのと同義のことが起こっていると仮定できる。そこに私は進化の糸口が潜んでいると思っているの」
「なるほどね。つまりキョウコはVRSJと死後の世界に逝くことが似てるから同じことができるんじゃないかと言いたいわけね。理解した」
 わたしは自慢の理解力でキョウコがなにを言いたいか導き出した。
「そうね。でもそれでは私の考えている1%も理解できていないわ」
「えぇ……」
 自慢の理解力がキョウコの考察力の前に切り捨てられた。キョウコはやはり強敵だ。一筋縄ではいかない。だからこそ、わたしも全力で迎えなければいけない。
「私はね、ハルカ。死後の世界は仮想世界のように行き来することができるようになると見ているわ。それも近い未来に可能になるでしょうね」
「本当に?」
 わたしは思わず聞き返した。疑っているわけじゃないが、本当にそんなことが可能なのだろうか。
「本当よ。死後の世界と仮想世界にはほんの少しの差異しかない。もっと言えば、考え方の違いでしかない。だって同じ精神の存在であるなら等しい共通項を洗い出してその部分に焦点を当てて研究していけばいずれ解決策が見つかるわ。VRSJだってその一つだもの」
 キョウコはノートを開いてVRSJについて書かれたページを見せてきた。
「VRSJの仕組みは意識のデジタル化。人間の精神を電気信号でデータ化して、コンピュータで作ったVR世界に送っている。それなら、死んだ人間もデジタルデータ化してVR世界に送れば、生きた人間と同じ環境に置くことができる。VRの世界で、ヒトは死んだ人間と生きた人間とを邂逅させることが可能になるのよ」
 キョウコの力説にわたしは納得しかけるが、疑問点が湧いてふと考えが立ち止まった。
「それは……すごいことだけど、できるのかな。だって死んだ人間の意識をどうやってデータ化するの。脳みそに電極でも刺すの?」
「そんな残酷なことはしないわ。むしろ遺体は必要ない。WDには装着した人間の生活データを蓄積する機能があって、そのデータから最適な利便性のあるサポートがされているの。そのデータを解析できれば、その人物をデジタル上で再現することが可能になる。そうした研究が現に行われているし、成果も出ている。その研究がもっと進めば、人類は死んだ人間であろうとVR世界に再現させて蘇らせることが可能となるのよ」
 キョウコの力説を聞いても尚、わたしには引っかかるところがあった。素直に喜べない、喉の奥に詰まったような、言い知れない不安感が拭いきれない。
「それは……どうなの。人道的にとかさ」
「確かにそうね。擬似的にとはいえ死んだ人間を模したデータで人間を蘇らせようなんて人道的には禁忌のことかもしれない。でもね、それこそ考え方の違いでしかないのよ。技術的に可能かもしれないのに禁忌を恐れて可能性を狭めるなんてもったいないことだわ。それにこれはあくまで再現に過ぎないのよ。デジタルのVRの中での話。生きた人間をどうこうするわけじゃないの。あくまで技術の実験。わかってほしいわ」
「うん……それならいいかもしれないけどさ」
 キョウコに説き伏せられるが、わたしはまだ不安感が拭いきれなかった。そんなわたしの心情を鑑みてか、キョウコは話を戻してくれる。
「話を戻すわね。死後の世界と仮想世界、二つの似て非なる世界を隔てる境界線――ボーダーライン(borderline)。それはなんだと思う?」
 またキョウコからの質問。わたしは無い知恵を振り絞って考えたが正解なんて導き出せるわけもないので、さっきキョウコが言っていたことをまるごと流用することを思いついた。
「キョウコの言葉を借りるなら……考え方の違い?」
 わたしの回答を聞いたキョウコは優しい笑みを浮かべて
「不正解」
 と言った。なんやねん。
「さすがにそこまで単純な話ではないわ。私達現実世界の人間が思っている以上に死後の世界との境界線というのは不可逆の世界で、一度でも向こう側に逝けばもう戻ってくることはできない。それほどにあの世とこの世との境界線は不確かでありながら絶対的なものなのよ」
 わたしより知識のあるキョウコがそこまで言うくらいなのだ。
「ここからは私の仮定の話を含めるわね。死後の世界と仮想世界を隔てる境界線、それは……現実と夢想の境界よ」
「……むそう?」
 ここへきてまた新しい用語が出てきて、わたしは頭がこんがらがりそうだった。キョウコにさらなる説明を求める。
「『夢想』とは夢や空想、頭の中の存在のこと。死後の世界は現実で存在が確実とされていないにもかかわらず古来より存在すると信じられてきた。それは過去の人達が『死んだ人間はどこに行くのだろう?』という疑問の一つの答えとして教え伝えたものが現代でも信じられている、と私は考えているわ。もちろんそれだけじゃない、宗教や学問の関係もあるかもしれないけど、私は死後の世界を『夢想世界』だと仮定しているわ」
「夢想世界……」
 わたしにはそのキョウコの仮定がとても優しい暖かみのある言葉に感じられた。人の心の救いの先にある優しさに溢れた世界。天国や極楽とでもいうべきその世界で、死んだ人達は楽しく暮らすのだろう。そう考えると、悪くない気がしてきた。
「仮想世界もいずれは夢想世界のように現実世界に存在しなくても確かにそこにあるものとして存在を許されるようになる。夢想世界と仮想世界の境界線を超える技術がいつか開発されれば、私達は死を超越した存在に進化することができる。そうなれば……私の懸念も杞憂に終わる」
「キョウコ?」
 キョウコの様子の変化にわたしはすぐ気付いたが、それがなにを意味していたのかまではわからなかった。
「夢想世界との行き来が容易になれば人類は死を越えて楽園へと至ることができる。『死越えの楽園』。夢見た世界が現実になる。そうなれば、死に恐怖することも絶望することも無くなるのよ。それがどれだけ素敵なことか、ハルカならわかるわよね?」
「わかるけど……どうしたのキョウコ、様子が変だよ」
 わたしはキョウコの異変を感じ取っていた。いつものキョウコのような余裕がなく、必死さすら感じる。なにかに焦っているかのような、そんな焦燥感だった。キョウコはわたしの手を掴むと、真剣な様相で迫ってきた。
「ハルカ、お願い。私と約束して。もし私が夢想世界に逝ったとしても、あなたが私を見つけて。私の存在を観測して。そうすれば私は境界線を越えて(Beyond the boundary line)存在を確定することができる。だから……」
「キョウコ、それって……」
 その時、下校時間を伝えるチャイムがスピーカーから鳴り、わたし達の話はそこで中断された。キョウコは何事もなかったかのようにノートを鞄にしまって帰り支度をしている。こう見えてキョウコは時間を厳守する人間なのだ。
「ハルカ、私との約束、忘れないでね」
 そうだけ伝えると、キョウコはスタスタと倉庫を出ていってしまった。忘れるわけがない。あんなに真剣なキョウコの顔、脳裏に焼き付いて離れる気がしない。その時のキョウコはまるで、死期を悟って言ったかのようだった。

1-6

 その時は突然訪れた。いつものようにわたしとキョウコが校舎裏の倉庫に向かおうとしていると、担任のシライワ先生から呼び止められた。
「タチバナさんとアライさん、ちょっと職員室まで来てくれる?」
 ついに来た。教師からの呼び出し。いつか来るとは思っていたがこんなにも早くその時が来るとは。ここで逆らうわけにもいかず、仕方なくわたし達は大人しく職員室のシライワ先生の席へと連行されていった。シライワ先生は大人しめの女性教員で、厳しくない優しい先生だからそれほど恐くはない。だが油断は禁物だ。
「ごめんね急に呼び出して。二人が倉庫でなにやってるか、お話し聞かせてもらおうと思ったの」
 単刀直入に問い質された。こちらとしてはまだ言い訳も揃っていないうちでの呼び出しで答えに窮する。
「校長先生から許可は貰っている筈ですが」
「それは知ってるんだけどね、担任教師としては一応二人でどんなことしてるか把握しておかないといけないの」
 黙ってやり過ごせる状況ではない。どうするのかわたしが考えあぐねていると、キョウコが冷静な口振りで答えた。
「退廃に抵抗する活動です」
「たい……はい?」
 思わずわたしは噴き出しそうになった。ちょっとキョウコ、教師には活動のことは隠しておく話じゃなかったのか。
「たい……たい……退屈な人生を廃れないよう改善する部、略して退廃部の活動です。部活です部活!」
 咄嗟にわたしが急ごしらえで思いついた言い訳で助け舟を出す。これで難を逃れられればいいが。
「部活ねぇ。どんなことする部活なの。具体的に教えて?」
 助け舟は荒波に呑まれてしまった。具体的に話せるような内容ではない。万事休すか。
「簡単な話です。退屈でしょうがない日常をいかに有意義に過ごすか話し合い実行に移す。そのための部活です。要するに暇潰しです」
 そこへキョウコが簡潔に要点だけを抽出して答えた。嘘は言っていない。ただ大目的が伏せられているのだが。
「暇潰しねぇ。それなら教室でもできない? 先生としてはなにやってるか可視化できない倉庫での活動は監督しきれないというか……」
 シライワ先生からの要求にわたしとキョウコは苦い顔をする。教室で出来ない話を倉庫でしているのにそこを教室に戻されたら話し合いをする場所がなくなる。
「先生は私がクラスメイトからなんと陰口を言われているかご存知ですか」
 キョウコからの唐突な質問にシライワ先生はきょとんと困り顔をする。まさか知らないわけではあるまい。
「えぇっと……」
「オブラートに包めば、『変人扱い』ですよ。そんな私が教室で意味のわからないことを話していれば偏見はエスカレートするばかり。クラスでの孤立化も進むでしょう。そうなれば誰の監督責任になるのでしょうね」
 まさかキョウコが自分を人質に脅してくるとはシライワ先生も思ってもいなかっただろう。
「クラスのみんなと仲良くするって方向の努力はしてもらえないかな……?」
「私が働きかけても向こう側が拒否してくれば水泡に帰しますよ。それとも先生は私が憐れにもクラスメイトに媚びへつらって下僕にでもなったほうがよろしいと仰るのですか」
「そこまでは言ってないです。ごめんなさい先生の考えが及ばなかったわ。クラスに溶け込めないのなら、せめて倉庫以外のところで部活動をやってもらえないかな?」
 シライワ先生の譲歩した要求にもキョウコは難色を示した。キョウコとしては誰にも邪魔されないあの倉庫が一番居心地がいいのだ。なにせわたしと出会う前からあそこで過ごしていたのだから。さてどうするか。
「そうですか。先生はあくまで私の唯一の居場所を奪おうと言うのですね」
「そこまでは言ってないですよー」
 先生の訂正も聞く耳持たず、キョウコはWDを操作してウインドウを表示させた。なにをするつもりなのだろう。
「ではこちらも切り札を出しましょう。こちらをご覧ください」
 キョウコはシライワ先生にだけ見えるようにウインドウに小さい画像を表示させた。わたしからもよく見えない。だがその画像を見てシライワ先生の顔が真っ青に変色したのは見えた。
「これはとあるSNSに残っていた画像です。他愛もない海ではしゃぐ学生の写真です。この写真に見覚えはありますか?」
「……ナイデス」
 絶対嘘だ。シライワ先生は目が泳ぎまくっているし急にカタコトになってるし顔色が青から紫に変色している。ここまで動揺する大人の人をわたしは初めて見た。
「ではこの画像は先生ではないと仰るのですね。それは結構。ではこの画像と同じアルバムに残されていたハメ撮り画像も先生ではないと?」
 ハメ撮り?
「チガイマス……消したと思ってたのに」
 先生が小声で呟いたのをわたしは聞き逃さなかった。キョウコの言う画像が先生のものでないのなら、こんなに動揺するのはおかしいはずだ。
「この学生は随分とネットリテラシーに疎いようですね。自分の素顔の写真をネットに上げるだけに及ばず性行為の写真までネットのアルバムに保存しているなんて。これでは全世界に自分の裸を見てほしいと言っているのと一緒ですよ」
 シライワ先生の顔が真っ赤になって頭から煙が出ている。もうやめてあげてほしい。見てるこっちが恥ずかしくなってきた。
「しかもこの写真、日によって写っている男性が違いますね。この学生は男をとっかえひっかえ抱かれまくって遊びに遊びまくっていたようですね。いやぁ羨ましい。ご本人に会ってみたいな~」
 まるで感情のこもってない上辺だけの羨望の言葉にわたしは目も当てられなくなってくる。もう先生を直視できない。
「……消してください」
「なんですか尻軽ビッチ先生」
「尻軽じゃないです! それは教師になる前の学生時代のちょっとした出来心で疚しい気持ちがあったわけじゃなくてただひと夏の思い出なだけで!」
「そんなに大声出すと他の先生に聞かれますよ」
 シライワ先生は慌てて口を塞ぐがもう手遅れな気がする。
「現代はネット社会人類総SNS社会ですからね。匿名の投稿だろうと簡単に個人を特定できるんですよ。不用心な出来心であっさり人生破滅なんてしたくないですよね」
「……なにが、望みですか」
 要求を聞き入れる用意はある、と言いたげだ。あくまで表向きは無関係。だからこれは取引などではない、と。
「私達はただ今まで通りあの倉庫を使わせてもらえばいいだけです。それ以上はなにもいりません。邪魔もいりません。それだけです」
「わかりました……ただし、先生もたまに見に行きます。経過も聞かせてもらいます。それでもいいですか」
「いいでしょう。それで手を打ちましょう」
 いつの間にか話の主導権を握ったまま交渉は完了した。あくまでシライワ先生は教師として監督責任があるので様子は見に来るが、あとは自由にやらせてもらえそうだ。
 職員室を出て、わたしはキョウコに苦言を呈した。
「やり過ぎだったんじゃない?」
「先生は体制側なんだから私達が戦うべき相手よ。叩くなら徹底的に叩かなくちゃ」
 徹底的に叩いてペシャンコになっていた気がする。
「それにビッチ先生の情報もクラスの裏アカで仕入れたものよ。だからクラスの半分はもう知っているわ」
 キョウコは怖ろしい事を口にした。なにが怖ろしいって、それでも平然としていられるクラスメイト達が怖ろしい。とわたしは肝を冷やした。

1-7

 翌日。いつもと変わらず平然としているクラスにわたしも相変わらずの退屈を感じながらわたしはキョウコと一緒にいた。キョウコは読書に耽っている。書籍も多くが電子化された現代で紙の本を所持しているのは珍しい。それでも紙の本が無くならないのは愛好家と本屋の絶え間ない努力の成果だと聞いたことがある。きっとキョウコも紙の本が好きなのだ。
「つまんない」
「そうね」
「今こそ退廃に抵抗すべきじゃない?」
「そうね」
「なに読んでるの?」
 キョウコは本のカバーを外してわたしに見せてきた。どれどれ。
「『デカルトにさえ予期できなかった観測理論』?」
 どこかで聞いたことのある用語のタイトルだ。キョウコの話に出てきた気がする。
「以前話した存在の証明に関する本よ。元々はとある歌の歌詞の一節に出てきた思想なんだけど、その歌詞がとても哲学的で、実際に学者がその内容について考察した学術書がこれなの」
「へぇ」
 途中で言ってる意味がわからなくなったが、要するにすごい本なのだ。でなければキョウコがここまで熱中して読まないだろう。
「私があなたに話した観測理論もこの本を基に私なりに考察したものを解説したの。我が思うだけでは確立足りえない領域の世界。その境界線と越えたいの。私とあなたで」
 時折キョウコはわたしを熱を帯びた視線で見てくることがある。目を合わせるだけで熱さが伝わってきて、こっちが恥ずかしくなってしまう。
「ね、ねぇ。その本の話、もっと聞かせてよ」
 わたしはキョウコの熱視線から逃げるように本に注目した振りをする。実際に本の中身に興味があったし、少しでもキョウコの話についていけるようになりたかったからだ。
「そうね。じゃあこんなのはどうかしら」
 そう言うとキョウコは本のページをパラパラとめくって目当ての項目を探した。おそらく本の内容はキョウコの頭の中に入っているのだろうが、こうして紙をめくる行為自体をキョウコは楽しんでいる節がある。いつもノートをめくっているのも同じ理由だ。
「ハルカ、1+1=の答えは知ってる?」
 これは引っかけなのか。それとも単にわたしを馬鹿にしているのか。後者の可能性が高いとわたしは踏んだ。
「馬鹿にしすぎでしょ。2だよ2」
「そうね。算数としてはそれで正解よ。よくできました」
 キョウコはわたしの頭を撫でてくる。だが小学一年生で習う算数の問題を答えられて嬉しがるほどわたしは幼くない。
「でもねハルカ。この本にはこう書かれているわ」
 キョウコはいつものノートを広げて白紙のページに数式を書いた。
『1+1≒1』
「さて、これはなんと読むでしょう?」
 これはなぞなぞなのだろうか。だとしてもわたしには捻った答えは出せそうにないのでありのままに読むしかない。
「いちたすいちにあいこーるいち」
「そうね、それも数学的には正解。でもこの本にはこう書かれているわ」
 キョウコは数式の上に読み仮名を振った。
『わたしとあなたはふたりでひとつ』
 まさかの数字じゃないとは。わたしの予想とは遥かに超越した次元でキョウコは話をしている。
「これも観測理論の一つよ。もしも『わたし』が消えてしまっても『あなた』が観測した事実は変わらない。何かが二人を分かつまで『わたし』と『あなた』は『ふたりでひとつ』。基となった歌にもそう書かれているわ」
 キョウコはその記述がされている本のページを見せてくれるが、わたしには難解過ぎて読むことすら億劫だ。
「この理論を信用するのなら私達になにがあっても大丈夫になるわ。だって私はハルカを、ハルカは私を観測し続けていればもしも片方が――もしくは両方が――観測できない状態になったとしても、私達が観測したという事実は変わらず残り続ける。観測行為自体が無駄にならず価値あることとして残るのならばこれほど有意義なことはないわ。また一つ私達の活動が証明されたわね」
 キョウコは熱く語っているが、わたしには難解を超えた次元で理解が追い付かないでいた。頭が沸騰しそうである。そんなわたしの手を、キョウコは握りしめた。キョウコの手は視線と同じく熱かった。
「約束してハルカ。『わたしとあなたはふたりでひとつ』。これを忘れないで」
「う、うん。わかった」
 ここで頷いて約束してしまうほどには、わたしは押しに弱かった。
「あとついでに2+2=5というのもあるのだけど」
「もういい」
 新しい数式を提示するキョウコをわたしは止めた。わたしにはもう1+1≒1で頭がいっぱいだからだ。

1-8

 週末の休日。0時を過ぎたのでわたしは布団に潜りながらキョウコが言っていた話について考えを巡らせていた。『我思う、故に我あり』『シュレディンガーの猫』『存在の証明』『観測理論』『境界線(ボーダーライン)』『夢想世界』『1+1≒1(わたしとあなたはふたりでひとつ)』そして『退廃抵抗』。正直ほとんど理解はできていないけど、それらの言葉はわたしの頭の中で宇宙の星々のように巡り巡って光り輝いていた。意味はわからなくても、確かに存在感を放つ星。キョウコの言葉にはそれほどの力強さがあった。
 キョウコはわたしになにを求めているのだろう。本人が言っていたように一緒に戦う同志としてか。それとも言葉の裏に隠された真意についてなのか。友達に求めるもの。それはわたしだったらなんだろう。今まで生きてきて友達になにかを求めたことなんてなかった。そもそも友達なんていらなかった。そのくせに孤独を寂しがってた。だからキョウコと出会って、友達になれて、すごく嬉しかった。そんなキョウコがわたしになにかを求めているなら全力で応えたい。願いを叶えてあげたい。そのためにはキョウコがわたしになにを求めているか気付かなければいけない。キョウコはわたしになにを求めているのだろうか……。
 結局一晩で答えは出ないまま、わたしは眠りに落ちていった。

 週明けの月曜日。わたしは登校してすぐにキョウコの席に向かった。単刀直入にキョウコに直接聞くためだ。キョウコはいつものように自分の席で窓の外を物憂げに見つめていた。朝日に照らされた横顔がまた美しい。わたしはキョウコの目線の先に遮り、注意をこちらに向けさせた。
「なに?」
 わたしは周囲に聞かれないように小声で、でもはっきりと言った。
「キョウコがわたしになにを求めてるか、教えて」
「ちょっとここでは言えないわ。人目があるもの」
 キョウコは照れくさそうにそう言った。今まで散々他人に聞かれたら怪しまれそうな話をしてきたのに今更なにを気にする必要があろうか。
「恥ずかしいことなら今までも散々言ってきたでしょ。今更恥ずかしがらないで」
「そうね。しょうがない、言うわ。私がハルカに求めているもの、それは……」
 キョウコは真剣な顔つきで答える。わたしは思わず身構えてしまった。
「覚悟よ」
「……カクゴ?」
 どこか拍子抜けな答えに気が抜けてしまうが、言っているキョウコの目は本気だ。
「そう。私達が退廃抵抗するために必要なもの、それは覚悟よ。ハルカと出会ってからもうすぐ1ヶ月経とうというのにあなたには退廃抵抗に対する覚悟が足りていないわ。それではダメよ。連中はいつどんな時でもこちらの裏をかこうと躍起になってるんだから常に対策を練っておかなければ。そのためには同志の戦意、つまりやる気が大事になってくるわ。あなたにはそれが足りてない、と言っているの」
「う、うぅ……」
 思わぬ攻守逆転にわたしはたじろいでしまう。確かにやる気らしいやる気を見せてこなかったのはわたしが悪いが、そこまで言わなくてもよかろうに。
「あなたはもっと退廃抵抗の同志である自覚を持ってほしいわ。絶対に負けない、勝つんだという意志を持って準備に当たって。そのために必要なのが覚悟なのよ。おわかり?」
「わかった。これからは覚悟を持って使命に当たります」
 お説教を受けてわたしは敬礼の真似で応えた。おふざけではなく、遊びでもなく、キョウコと同じく真剣な面持ちで。
「本当に……告白を促されたかと思ったわ」
 キョウコのその呟きは周りの喧騒に紛れてわたしには聞き取れなかった。

1-9

 4月30日。これまでほどほどに順調だったわたし達の退廃抵抗の活動に突然嵐がやってきた。しかもその嵐は台風とか大雨の天候ではなく、隕石や槍が降ってくる類だった。
 わたし達がいつものように校舎裏の倉庫へ向かおうと教室を出た時、突然誰かに呼び止められた。
「あ、あの、タチバナさんとアライさんデスカ?」
 わたし達が声をかけられた方に振り向くと、そこには一目でわかるほど異質な女子がいた。髪の毛の色はブロンドで長い髪を後ろで纏めてポニーテールにしている。整った顔立ちに綺麗な肌。欧米の血が入っていると見ただけでわかる鼻の高さに青い瞳。制服を着ていてもわかるスタイルの良さ。およそ日本の一般女子とは比べるまでもないほど美しい欧米女子がそこにはいた。
「そうだけど、なにか用?」
 キョウコはなにも動じる様子もなく淡々と答えた。ちなみにわたしはあまりの美しさに呆気に取られてしまっていた。
「あの、二人がしてる部活、にワタシも入れてほしいな、なんて……」
 欧米女子はしどろもどろな日本語でそう言った。その言葉にわたしもキョウコもハッと目を見合わせる。二人がしてる部活、とはつまり退廃抵抗のことだろう。だがそのことは二人だけの秘密のはずだ。……倉庫以外で話をしていないわけではないが、断片的な会話内容だけでは真相までは知られていないはずだ。
「あのね、二人の噂を聞いたの。校舎裏の倉庫でなにか秘密の部活をしてるって。それがどんな部活なのかなって」
 それはもう秘密でもなんでもなくなっているのではなかろうか。秘密にしていることを周りが知ってしまっているのなら秘密の意味がない。内容を知らなくても「あ、あの子秘密にしてるんだ」と噂になっているなら最早秘密でもなんでもないのだ。
「詳しい話はあそこでしましょうか」
 キョウコはそう言って校舎裏の倉庫に欧米女子を促した。確かに他の生徒もいるここでする話ではない。なんたって秘密の話なのだから。

 校舎裏の倉庫に着き、キョウコはいつもの自分の席に座った。わたしはお客さんの欧米女子の椅子を出して座らせて、自分の席を横にずらして座る。欧米女子は初めて来た倉庫の中を物珍しそうに見渡していた。
「さて、まずはあなたの名前から明かしてもらいましょうか」
 キョウコはいつものノートの白紙のページを開いてペンを走らせた。司会と書記を両方担当するつもりらしい。ではわたしの担当はなんだろう。聞き役?
「は、はい。ワタシはフジヤマレベッカ。ベッキーって呼んでね!」
 欧米女子はそう名乗り星でも飛ばしたかのようにウインクをした。自己紹介のお決まりのフレーズなのだろうか。そんなフジヤマさんを意にも介さずキョウコは話の続きを促した。
「ではフジヤマさんはなんの目的で私達に近づいて来たのかしら?」
「言い方」
 キョウコの不躾な質問にわたしが注意する。わたし達の秘密の活動に割り込まれて腹が立っているのかもしれないけど、遅かれ早かれ誰かに聞かれていたことなのだ。このフジヤマさんが特別悪いわけではない。
「えっと、ワタシ、見ればわかると思うんデスけど、帰国子女なんデス」
 うん、見ればわかるし、たどたどしい日本語も慣れてなさそうに感じる。それでも意味が通じている当たり相当勉強したのだろうと思う。わたしだったら外国に行っていきなり現地の人と会話しろなんて無理に決まっている。
「それでワタシ、クラスメイトとうまくお話ができなくて……クラスに馴染めなくて……友達もまだできてなくて……」
「言語の壁に文化の壁ね。よくある話だわ」
 なるほど、いくら日本語を勉強してきていても文化の違いとかもあるし、いきなり友達になれなんて難しい話だ。できる人はできるのだろうけど、できない人にとっては難しいのだ。わたしもそうだから。
「言葉が通じにくいとクラスメイトから距離を置かれちゃって。それで悩んでたんデスけど、そしたら二人の噂を聞いて、倉庫で変わり者同士で秘密の会合をしてるって」
「変わり者って……」
 わたしとキョウコはお互いの顔を見合わせる。どんな噂をされているか知らないが、キョウコはともかく、わたしは変わり者じゃない。なんだその目は。
「それでよければなんだけど、ワタシもその秘密の会合の仲間に入れてほしいな、なんて思うんだけど、どうかな?」
 どうかな、と言われても応えにくい。そもそもここはそういう誰でも入れる会合じゃないし、クラスメイトと友達になるより遥かにハードルが高いと思う。普通にクラスメイトに話しかけるほうが簡単だろう。それなのに何故わざわざこんな所に入りたがるのか理解に苦しむ。
「先に断っておくけど、私達の会合はただの秘密共有クラブじゃないわ。反社会的な抵抗活動の作戦会議室よ。あなたのような人間が簡単には入れるところじゃない」
 キョウコはピシャリと釘を刺しておく。ただでさえややこしい目的のもとにこの退廃抵抗の活動をしているのだ。部外者は立ち入らない方がいい。そう言っているのだ。
「なにそれカッコイイ! 俄然ワタシも入りたくなってきた!」
 駄目だ、返ってテンションが上がってしまっている。これははっきり断っておかないとどこまでも縋りついて来そうだ。仕方ないとばかりにキョウコはペンを置いて説明することにした。
「そうね、それなら最初から話をさせてもらうわ。私達の、退廃抵抗の活動について、ね」
 そこからキョウコはわたし達が何故ここに集まって話をしているかの説明をした。ところどころは端折りつつ、どんな理由で、どんな目的で、どんな思想を持っているか。誤解のないように言葉を選んで話して聞かせた。その説明をフジヤマさんは興味深そうに頷きながら聞いていた。
「――というのが、私達の退廃抵抗の活動よ。理解できたかしら?」
 一通りの説明を終えて、キョウコは一息ついた。ここまで説明を聞いて、諦めてくれたら御の字なのだが、
「すごい……二人はそんなにビッグなチャレンジをしてたんだね」
 フジヤマさんは尚更興味津々になってしまっているようだ。話をして諦めさせるのが目的だったが、逆効果だっただろうか。
「今の話のどの辺に興味持っちゃったの?」
 わたしはついそんなことを聞いてしまった。藪蛇なのはわかっているが、せめて理由だけでも知りたかったからだ。
「だってワタシも、その、マイノリティだから。日本に来てそのことを強く実感したの。ワタシは異端者(heretic)だから……」
 異端者。その言葉にフジヤマさんがどんな意味を含んでいたかは知らないが、わたしも気持ちはわかる気がする。普通の人とは違う。社会の輪の中からはみ出している感じ。爪弾き者。それがわたし達。その気持ちの共有でわたしとキョウコは話すようになったんじゃないのか。そういう理由なら、フジヤマさんも仲間にいれてあげてもいいんじゃないか。そんなことをわたしは思った。
「キョウコはどう? なにか感じることはなかった?」
 だからわたしはキョウコに聞いてみた。フジヤマさんの異端者という言葉になにか感じなかったか。共感したのか。それともなにも感じなかったのか。キョウコはなにを思ったのか。
「そうね。フジヤマさんがなんの意図でここに来たのかわからないでもないけど、ここに来たのはちょっと不用心だったかもしれないわね。どんな秘密クラブかもわからないこんなところに首を突っ込むべきではなかったわ。そのほうが余計に傷つかなくて済む」
「それは……ごめんなさい」
 あらら、フジヤマさんが塞ぎ込んじゃった。別に今のはキョウコが意地悪で言ったんじゃない。フジヤマさんが傷つかないように忠告してくれた、キョウコなりの優しさなのだ。それをストレートに伝えない当たり、キョウコは素直じゃない。そしてそれを口にしない当たり、わたしも素直じゃない。
「別にフジヤマさんを責めたわけじゃないわ。ただのお説教よ。それで、どうしたいの。あなたは?」
 キョウコからフジヤマさんに対する問いかけ。わたしに聞いたのと同じ。どうするかはあなた次第。選択権を委ねて決断は本人にさせる。キョウコの常套手段だ。さてフジヤマさんはなんて応えるか。
「ワタシは……あなた達と一緒になりたい。ワタシも二人の仲間に入れてほしい。ダメカナ?」
「……そう。私は歓迎するわ。ようこそ、退廃に抵抗する同志さん」
 キョウコは受け入れて手を差し伸べた。その手をフジヤマさんが取って握手を交わす。ここに契約成立だ。
「よかったね、フジヤマさん」
 わたしは素直に祝福する。フジヤマさんは嬉しそうに笑みを浮かべた。とても美しい表情だ。
「アリガトウ。アライさんもよろしく。それから、ワタシのことはベッキーって呼んで」
「わかった、ベッキー。わたしのこともハルカでいいよ」
 こうしてわたしとベッキーも友達の握手を交わした。ここに三人目の同志が生まれたのだ。
「それで、フジヤマさんには契約の血判をもらわないとね」
「ケッパン?」
 不思議がるベッキーの前に、キョウコはノートを切り離した契約書と共にポーチから針と消毒液を取り出して見せた。それ常に持ち歩いてるのか……。

 契約書の血判を済ませてベッキーが水道に指を洗いに行った後、キョウコとわたしは倉庫で二人きりになった。いつもそうしていたのに、急によそよそしい感じになってしまった。
「ハルカはよかったの? フジヤマさんがここに入っても」
 キョウコの他意のなさそうな質問に、わたしは素直に答える。
「いいんじゃないの。ベッキーは嘘ついてるようには見えなかったし、キョウコも同志が増えるのを望んでたんでしょ」
「そう」
 キョウコは素っ気なさげに見せているが、まだなにか引っ掛かりがあるようだった。素直じゃない。
「キョウコは? なにか不満でもあるの?」
 一応聞いてみるが、キョウコが素直に答えるわけがなかった。ただ、言葉の裏になにを隠しているか伺うことはできる。
「不満なんてないわ。ただ……二人だけの世界じゃなくなったなって、思っただけ」
 なんだそりゃ。気難しいキョウコのことはわたしは全然わからない。これまでも、きっとこれからも。

1-10

 翌日。昼休みにあの嵐はやってきた。
「ハルカ! キョウコ!」
 昼休みに入ってすぐ、教室の入り口でベッキーがお弁当の包みを持って手を振っていた。目立つくらい大声でわたし達を呼んでいる。それを見てキョウコが呆れて頭を抱えているのがわたしには見えた。
「ベッキーはいいの? わたし達と一緒にいるところ見られても」
「ほぇ?」
 わたしの質問にベッキーは口に頬張ったサンドイッチを飲み込んでから答える。
「別にいいよ。クラスに親しい友達もいないし、クラスが違ってもハルカとキョウコがいるから寂しくないよ」
「いや、そうじゃなくてさ」
 どうにも言葉の真意というものは他人には伝わりづらい。それが帰国子女のベッキーなら尚更のことだ。はっきり言わないと相手には伝わらない。
「わたし達みたいな変わり者と一緒にいて、変な目で見られてないかってこと」
 正確にはキョウコみたいな変わり者――まぁわたしも変わり者として見られているのは否定しないけど――と一緒にいることがベッキーにとってマイナスにならないかどうかだ。
「全然大丈夫! 気にしないし、元からワタシも変な目で見られてたからノープロブレムだよ」
 それは果たして大丈夫と言えるのだろうか。ベッキー本人が気にしないというのならいいかもしれないが、友達としてどうしても案じてしまう。
「それにしても……」
 ベッキーから噂を聞いたせいか、前よりも周りの目が気になってしまうようになった。噂とはいえ変わり者扱いされていると知ったらあまりいい気分ではない。ベッキーは悪気無く教えたから責める気はないが、正直知りたくなかったことであった。あ、今目が合った人が目を逸らした。
「やっぱり前より視線を感じる気がする。クラスのみんなが自分を異端の目で見てる気がするよ」
「自意識過剰よ。他人の目なんて気にする必要なんてないし、自分が思ってる以上に周りは気にしていないものよ」
 キョウコはそう言うが、気になってしまうものは仕方がない。
「言ったでしょ、覚悟が足りないって。他人の目を気にしてるようではこれから退廃抵抗の活動なんて尚更できないわ。変わり者上等よ。周りからどう見られようと私達は自分が為すことのために邁進していく他ないのよ。いっそ諦めてしまいなさい」
「うぅ……」
 キョウコの意志は強い。周りの視線なんてなんのそのいった感じで縦横無尽に自分の目的を誇って突き進んでいる。わたしはキョウコのようにはなれない。なれないなりに、わたしにしかできないことをするしかない。キョウコを支えることがわたしのするべきことなら、それを信じて付き従うだけだ。
「そうね、いい機会だしあなた達の意識改革をしておかなければならないわね。放課後教授してあげるわ」
 マジか。前にも意識改革の話があったがもっと時間をかけて勉強していくのだと思っていた。キョウコの口振りでは本格的に始めるつもりらしい。果たしてどうなることやら。と、そこへ。
「あの……」
 歓談中のわたし達に、一人の生徒が話しかけてきた。
「その話、ボクも聞かせてもらえないかな……」
 嵐は新たな嵐を呼び寄せていたのだ。

 放課後、いつもの校舎裏の倉庫でわたしとキョウコ、新しく加わったベッキー、そして新たな来訪者の四人がそれぞれの席に座って面していた。
「それで、あなたは何者なの?」
 キョウコが新たな来訪者に問い質す。来訪者の少年(少女?)はおっかなびっくりしながら話し始めた。
「ボクはクライシヒカリ。2年2組です……」
「あっ、ワタシと同じクラスだ」
 ベッキーが今頃気付いたように発言する。名前を聞くまでクラスメイトの顔を思い出さなかったのか。
「一つ聞きたいんだけど……あなた男? 女? どっち?」
 確かに気になっていた。クライシさんの容姿は中性的というか、可愛らしい感じの顔つきで男とも女とも区別がつかない。どっちでもいけそうな気がする。髪は女性のショートボブくらいの長さで、ワックスで整えてある。体のスタイルも痩せ型で細身だ。正直見た目だけでは男とも女とも判別し辛い。そして服装だが、上半身は女子用の制服を着てはいるが、下半身はズボンを着用している。別に今時おかしくはないが、違和感があると言えばそうかもしれない。
「性別は……一応生物学的には女です。でも、自分でもどっちかわからないというか……」
「どういう意味?」
「トランスジェンダーね」
 キョウコの言葉にクライシさんは頷く。トランスジェンダー――わたしも聞いたことがあるが、詳しくは知らない。確か体の性と心の性が一致していない人のこと、だったと記憶している。
「ボクの場合は体も心も女なんだけど、男の部分も持ってるというか……心が男と女どっちつかずでよくわかってないというか……すみません自分でもはっきりしなくて」
 謝る必要はない。クライシさんも自分で悩んでいるのだ。そう簡単に説明がつく話でもあるまい。
「なるほど、ここに来た理由も大体わかったわ。自分の中のどっちつかずの部分を話しに来たわけね」
「それもあります。ただボクはその……フジヤマさんがここに来るのを見て、興味があって、仲間に入れてもらえないかなと思ったもので……」
 なるほど、嵐に引き寄せられてきたと言う訳か。当の嵐本人は自覚がないような顔をしているが、これだけ目立つ容姿をしているのだ、惹かれる人間がいてもおかしくはない。
「ボクもクラスで友達がいなくて、孤立してたんですけど、ここの噂を聞いて、ここならボクでも仲間に入れてもらえるかもしれないと思って、勇気を出して声をかけてみたんです」
 クライシさんもベッキーもそうだが、どうしてクラスメイトには話しかけられないのにこの変わり者の集まりには首を突っ込もうと思えるのか。そりゃわたしもクラスの友達はキョウコとツグミぐらいしかいないが、度胸試しでもない限りこんなところにわざわざ来たりはしない。……と思う。元々度胸試しでキョウコに話しかけたのは内緒にしておく。
「あのね、ここは変わり者お悩み相談所じゃないの。私とハルカの退廃に抵抗するための活動本拠地なのよ。そういうのは他所に行ってちょうだい」
 キョウコが毅然と断りを入れてくる。キョウコとしても突然の二人の来訪者は不本意だったようだ。ベッキーがカッコイイものを見るように目を輝かせているのは無視しておこう。
「あの、実はボクその退廃抵抗についてのことにも興味があって、退屈だと感じている日常を変えたいと思ってます」
「……どこでその話を聞いたの?」
 キョウコが睨みつけるようにクライシさんに詰め寄っている。キョウコとしては退廃抵抗の話は門外不出の事項として扱いたいはずだ。どこで洩れているか確認する必要がある。ちなみにわたしは誰にもツグミにも退廃抵抗の話はしていない。
「シライワ先生に相談したんです。そしたらここのことを教えてくれて……」
 あの学生時代遊んでいた先生か。尻も軽ければ口も軽いとは、救いようがない人だ。
「そう。後でビッチ先生にお話ししておかなければね」
 キョウコは口封じをするつもりだ。憐れ尻軽ビッチシライワ先生。自業自得だと思って観念してください。
「話を戻して、私達の退廃抵抗の活動は簡単な話じゃないわ。反社会的と取られかねない活動だし、辛いことや苦しいことだってある。クラスのみんなから冷たい目で見られる以上のことが待っているわ。それでもいいの?」
 キョウコの問いはクライシさんだけじゃない。ベッキーとわたしにも、そしてキョウコ自身にも問いかけていた。本当にこのまま進むのか。退き返すなら今しかない。
「ボクはもう三人に話しかけた時点で後戻りはしないつもりで来ました」
「ワタシも二人に着いて行くよ」
「そうね。私は元より退き返す気はないわ」
 この場の決意が一つになる中、みんなの視線がわたしに向けられた。
「……何故わたしを見る?」
「いや、ハルカはどうなのかなと思って」
 そうだった、わたしもまだ答えてなかった。当たり前にキョウコに付いて来たからわたしの意志を言うことがあまりなかったからかな。わたしは歴とした顔で答える。
「わたしも戻る気はないよ。ただ待ってただけのわたしとはさよならしたの。あとは前に突き進むだけ」
 わたしの言葉に呼応するように誰からともなく手を差し出し、上から重ね合わせた。試合前に円陣を組んでエイエイオーをするアレだ。
「私達は今日ここに、苦なる時も辛き時もみんなで手と手を取り合い、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣き、このつまらなくて退屈な世界で退廃に抵抗することを誓います」
「誓います」
「誓いマス!」
「誓います」
 キョウコの宣誓にわたし達で同意し誓い合う。今日またここで、新しい友達の絆が生まれたのだ。
「で、具体的になにをするんですか?」
 そう言えば具体的なことをベッキーとクライシさんにはなにも話していなかった。

 あの後クライシさんに退廃抵抗の説明と契約書の血判を済ませ、この日はお開きになった。その後クライシさんからのTTメッセージで
『ボクのことも下の名前でヒカリとお呼びください』
 と送られて来た。わたしはそういうのに遠慮しないたちなので返信で
『わたしのこともハルカって呼んで。よろしくねヒカリ。あと敬語もいらないよ』
 と送った。折角同い年で友達になったのに敬語で話していたら変に壁を作ってしまいそうで嫌だったからだ。そういえば長らく新しい友達というのを作ってこなかったから友達の作り方というのを忘れてしまっていた。そういう意味ではキョウコと出会って変われたことの一つだなと思い返す。折角ついでにキョウコに礼を述べておこう。
『ヒカリに敬語いらないよって言っておいたよ。ありがとねキョウコ』
 とメッセージを送っておいた。その後数分してからWDに返信が届く。
『そう』
 キョウコからの返信はいつもこれだけだ。キョウコは二人でいる時はあれだけ饒舌なのにメールになると途端に無口になる。でもそれがキョウコらしくていいのかもしれない。
 夜は更けていく。四人になったわたし達の退廃抵抗の活動も、嵐が過ぎ去ったことで曇りなく進んでいけばいいのだが……。

1-11

 翌日の昼休み。校舎裏の倉庫でわたしとキョウコ、ベッキーとヒカリでお弁当を食べていた。倉庫は埃っぽいが、誰にも聞かれない秘密の会談をするにはここしかない。
「やっぱさ、部活にしようよ。退廃抵抗の活動って言いにくいし」
 そう提案したのはベッキーだった。確かにいちいち正式名称で言うのはめんどくさいし、他の誰かに聞かれて困るのなら合言葉のような別の名称がいいだろう。
「そうね、対外的にも部活動としてなら怪しまれずに済むし、教師陣の印象もよくなる。ビッチ先生にはその方向で話をしてあるし、人数も集まったし、本格的に活動を始めるためにも、部活動にしたほうが都合がいいわね」
 キョウコも納得して賛同してくれるようだ。どうでもいいことだが、ベッキーとヒカリにはビッチ先生と言われてシライワ先生のことだと理解できているのだろうか。説明をするには……プライバシーに反するから言わないけど。
「じゃあ名前は『退廃部』で。誰かに説明する時は『退屈な人生を廃れないよう改善する部』って説明してね」
「ハーイ」
「わかった」
 ベッキーとヒカリも了承してくれた。これで満場一致で部活動を始められる。あとはシライワ先生に話を通しておけばいいだろう。交渉にはキョウコにちょっと『お話し』してもらえばいいようにするはずだ。これは脅しではない。念のため。
「さて、部活動として始めるためにも、退廃部がこれからなにをするべきが話し合いましょうか」
 キョウコは食べ終えたお弁当を片付けてノートを広げた。
「もうすぐゴールデンウィークだよね。連休でなにかできないかな」
 わたしはそう提案した。といってももう明日には連休が始まるので準備している時間はない。飛び入りでなにができるだろうか。
「じゃあじゃあ、どっか遊び行きたい! 遊園地とか!」
 ベッキーが嬉しそうに挙手して提案した。だがそれを聞いてキョウコが呆れたように溜息を吐く。
「あのねレベッカ。私達は遊びの計画をしているわけじゃないのよ。退廃抵抗の活動は世界の在り方を変える真剣な部活になるんだから」
「わかってるよー。でも折角四人集まったんだから親睦を深めるのもいいんじゃないかなーって思ったの」
 なるほど、ベッキーの言い分にも一理ある。これから一緒に部活動していくのだから仲良くなっておくのに越したことはない。
「わたしも賛成。どこか遊びに行こうよ。」
「ハルカがそう言うなら、いいけど」
 渋々キョウコも賛成してくれた。こういう時多人数だといろんな意見が出ていいことだ。二人きりの時だとこうはならなかっただろう。
「でも連休中はどこも混んでると思う。予約もいっぱいだろうし、あんまり選択肢はないかも」
 ヒカリはWDで調べながら進言してくれた。連休に遊園地や娯楽施設が混雑するのは想像に難くない。むしろ想定できてなかったなら余程の能天気だ。
「えー、じゃあどうしよう。遊び行けないのは困るー」
 能天気なベッキーが不満げに口をとんがらせる。退廃部に入ったのが昨日の今日とはいえ、無計画が過ぎる。
「別に遊びに行けないわけじゃないわ。混雑していないところに行けばいいのよ」
 キョウコが打開策があるとばかりに提言する。混雑していないところ、とはどこ。
「例えば、ハルカの家とか」
「は?」
 突然なにを言い出すのかこのキョウコは。わたしの家は遊園地じゃない。
「あら、ハルカの家は混雑する予定でもあるの?」
「あるわけないでしょ。ていうかそうじゃなくて、なんでわたしの家なわけ。他に遊びに行けるところなんていくらでもあるでしょ」
「他にも考えたんだけど、目ぼしい所はどこも埋まってそうで当てがないのよ。その点ハルカの家なら混雑してないだろうし、いいんじゃないかなって」
 なんつう理由で人の自宅を遊び場所に選定してるのか。
「ハルカはワタシ達を家に呼ぶの嫌なの?」
「そう言うわけじゃないけど、もうちょっと他に選択肢が欲しいというか、猶予が欲しいんだけど」
「私は行きたいんだけどな、ハルカの家」
 キョウコがそんなことを言ってねっとりとした視線を向けてくる。キョウコにそう言われると、なんだか断りづらい。
「じゃあ、じゃあ百歩譲ってわたしの家に来てもいいけど、その前に別の場所で時間潰したい」
 わたしは譲歩して代替案を求める。せめて滞在時間を短くする算段だ。
「じゃあハルカの家の近くの公園辺りで遊んで、終わったらハルカの家に夜までいましょう」
 あれ、何故だろう。百歩譲ったつもりが二百歩くらい踏み込まれた気がする。人の家に夜まで居座るつもりかこいつら。
「ハルカの家に行く前にコンビニかスーパーでお菓子と飲み物買っていこう。何時間でもいられるように」
 ヒカリまでそんなことを言う。計画的にわたしのパーソナルスペースが侵されていく感じがする。
「安心してハルカ。最初はハルカの家だけど、後で他のみんなの家にも行くからね」
 ベッキーが慰めてくれるが、なんの慰めにもなっていない。最初の犠牲者になるのは変わらずわたしなのだ。
「せめて……10時までにしてね」
 わたしの抵抗は虚しく足掻くことしかできなかった。

 翌日。ゴールデンウィーク初日。午前10時。わたしの家の近くの公園でわたしは退廃部のみんなを待っていた。駅から近いし迷うような道でもないので迎えに行かなかったが、みんなちゃんと来てくれるだろうか。いっそ全員ドタキャンして今日の会合が中止になってくれないだろうか。そんな淡い期待も空しく、キョウコ、ベッキー、ヒカリの三人は時間通りに公園にやって来た。みんなそれぞれスポーツできる服装を着て来ている。
「おはようハルカ。よく逃げずに来たわね」
「なんで自分の家の近くから逃げなくちゃいけないの」
 面子も集まったし、さて遊ぶか。といっても公園は危険な遊具はほとんど撤去されて、現在では滑り台とシーソー、ブランコくらいしかない。
「なにか持ってきた?」
「タオルと飲み物と、乙女の四次元ポーチ」
「それだけ?」
 遊びに来たというのにそれしか持ってきていないというのか。他力本願というか、みんな無責任だなぁ。
「他は必要ないわ。だって私達にはコレがあるもの」
 キョウコは腕に着けているWDを操作すると、周囲にARDFを展開させた。わたしの視界に拡張現実の世界が広げられる。バレーのネットにバスケットゴール、ソフトボールのバット、テニスラケットに各種のボール。CGでできた遊び道具がいくつも出現した。あっという間に遊具の少ない公園がアミューズメント施設になったようだ。
「安いスポーツセットを買ってみたんだけど、これでも十分遊べそうね」
 キョウコはWDでAR用のスポーツセットを買っておいてくれたようだ。これなら現物の道具がなくても遊び放題だ。ARの道具でも握った感触や重さも再現できるという。現代人ではARでしかスポーツをしたことがないという人もいるそうだ。ちなみにわたしはおばあちゃんから実物の玩具をもらったりしているからむしろARのほうに馴染みがない。
「ARだけで遊ぶのって、現代人って感じがする」
「そう? ボクはARでしか遊んだことがないから」
 どうやらヒカリのほうがわたしより現代人だったようだ。各々道具を持って遊び始める。わたしもバットを握って振ってみた。現実には存在しないものであるのにしっかりそこにあるように感触があって重さも感じる。バットを振った空気の動きも肌で感じた。どういう原理でそうなっているかはわからないが、開発した人は余程実物との違和感のなさに拘っていたのだろうか。
「さあバッチコーイ」
 わたしはキョウコに向かって煽りを入れてみた。キョウコもボールを持って迎え打つ構えだ。打つのはわたしだけど。
「私に勝負を挑んだことを、後悔するがいいわ」
 キョウコは威風堂々と構えると、下手投げでゆっくりとボールを投げた。遅い。遅すぎる。あまりに遅すぎてタイミングを合わせるのが難しいくらいだ。
「ほっ!」
 しかしわたしは持ち前の運動センスでタイミングを合わせて思い切りバットを振った。ポコンと軽い音がしてボールがバットに当たり、放物線を描いてキョウコの頭上を飛び越えていった。ARDFに飛んだ数値が表示される。飛距離20m。これがわたしの運動センスだ。
「二人ともボテボテだね~」
 そんなわたし達をベッキーが笑っている。わたしの運動センスを馬鹿にするな。今のバット振っただけでもう腕が痛いぞ。
「次はベッキー打ってみなよ」
 わたしは持っていたバットをベッキーに渡す。ARだから実物はそこにないが情報を共有しているのでベッキーにもわたしと同じ光景が見えている筈だ。
「よ~し、勝負だヒカリ!」
「ボク?」
 ベッキーは対戦投手にヒカリを指名した。ヒカリもキョウコからグローブとボールを渡されてマウンドに立つ。ボールは無制限で使えるらしい。飛んでいったボールもDFの外に出たら消えてしまう。この周囲だけのグラウンド。わたし達だけの遊び場。わたし達だけの居場所。今はここがそうだ。
「ほいやー!」
 ベッキーは思い切りバットを振るが、ボールには当たらず空振りで終わってしまう。ヒカリの球は全然速くないのだが、ベッキーのタイミングが合わなかったらしい。
「ご、ごめんなさい」
「全然平気ー。まだワンストライクだから次投げてー」
 その後ベッキーは三振してワンアウトになった。そもそもなんの勝負だっけこれ。
 それからテニスにバスケ、バレーと一通り遊び尽して、疲れたので休憩することにした。もう時間も正午を過ぎている。
「疲れた……」
「汗かいちゃったね」
 遊ぶつもりでドライシャツを着てスポーツタオルも持って来てあるのでいいけど、体力の配分を間違えたかな。ふと、キョウコが胸を押さえて苦しそうにしているのが気にかかった。
「キョウコ大丈夫? 体調悪い?」
「平気よこれくらい。運動慣れしてないだけ」
「無理しないで、休もう。歩ける?」
 とりあえずキョウコに付き添って公園のベンチまで連れて行った。タオルを頭の下に敷いて横にならせる。
「いいって。ちょっと休めばよくなるから」
「無理しちゃダメだよ。ベッキー、自販機で冷たい飲み物買ってきて」
「アイアイサー!」
 ベッキーはすぐさま指示を聞いて自販機にダッシュして行った。ヒカリは心配そうに様子を見ながらうろうろしている。
「ボ、ボクはなにをすれば……」
「タオルで扇いであげて」
「わかった」
 ヒカリは言われるままにタオルで風を送ってキョウコを涼めてあげる。そうしているうちにベッキーが飲み物を持って走って来た。
「はい、お水」
「ありがとう。キョウコ、飲める?」
 わたしはキョウコの体を起こして水を一口飲ませる。どうやら熱中症ではなさそうだが、油断はしてはならない。
「ハルカは頼りになるわね。いいリーダーになれるわ」
「なに言ってるの。退廃部の部長はキョウコでしょ」
「部長が足引っ張ってちゃ世話ないわ」
「私は支える立場でいいの。先頭で旗振るのはキョウコに任せるから」
「私には……できるかしら」
 わたしとしては軽い冗談半分のつもりだったが、キョウコは重く受け止めてしまっているようだ。こういう時なんて言ってあげたらいいのだろう。
「今日はもうこれで帰ろう。迎え呼ぼうか?」
「もう大丈夫。本当に……ごめんね」
 結局それからわたし達はキョウコに付き添って帰宅することにした。帰りの道中ずっとキョウコはわたし達に謝り続けていた。
「ごめんね。本当にごめん」
「もう一回でも謝ったらげんこつだよ」
 さすがにそれからはキョウコは謝らなかった。げんこつが恐かったわけではないだろうが、自分を責めているのは見ているだけでもこっちも辛くなる。公園で遊ぼうと言ったのはわたしだし、責任ならわたしにもある。
「遊ぶのはまたいつでもできるよ。連休だってまだ続くし、その先だっていくらでもある」
「あると……いいんだけど」
 キョウコの声色には、不安が滲み出ていた。未来はまだまだ先がある。でもキョウコは先の未来を恐れているようだった。

1-12

 翌日は特に何もなく過ぎ去り、さらにその翌日の連休三日目。
「来てあげたわよハルカ! 感謝して部屋に上げなさい!」
 キョウコ率いる退廃部軍団(団員三名)がわたしの家に押しかけて来た。この前までの落ち込み様などなかったかのようにキョウコのテンションが高い。いいことだけど。
「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
「おじゃまするデース!」
 わたしの母親がわたしより前に退廃部軍団を歓迎して家に上げている。恥ずかしいから引っ込んでてほしい。あとベッキー、微妙に挨拶を間違えている。
「わたしの部屋は二階だよ。大騒ぎするようなら出てってもらうからね」
「心配ないわ。私達はあくまで作戦会議のためにハルカの家にお邪魔してるだけだから。ひっそり静かにやるわ」
 大騒ぎする心配はなさそうだが、別の心配が湧いたためキョウコにひそひそ声で注意しておく。
「お母さんの前で退廃抵抗の話はしないでよ」
「当たり前でしょ。私がその辺りの常識がない人間だと思った?」
 思ってないけど、突拍子もないことをしそうだなとは思っている。退廃部軍団に階段を上がってもらって、すぐ左のわたしの部屋に通す。他の部屋をジロジロ見られたくない。
「ここがハルカの部屋兼、退廃部の作戦会議支部第一号ね」
 いつからわたしの部屋はそんな大それた名称がついていたのか。わたしの部屋は女子高校生四人が入れるほどの広さはあるが、友達を部屋に上げるためにある程度片付けておく必要があった。ゴミが散らかっていたわけではないが、なんかこう、自堕落しているところを見られたくないという虚勢心とでもいおうか。本棚も見栄えよく整理したし、クッションも綺麗にしておいた。準備は万端だ。
「ベッドに一番乗りー!」
「あ、こら」
 油断した隙にベッキーがわたしのベッドにダイブしおった。この帰国子女には遠慮という概念がないのか。それを見てキョウコが恨めしそうに見ているのも気になる。
「一番は譲ったのよ。別に悔しいわけじゃないわ」
 言い訳がましいが、要はキョウコもこういうノリが嫌いなわけではないということか。ところで、ヒカリがさっきから立ちっぱなしなのも気になる。
「ヒカリも座ったら?」
「ベッドに?」
 キョウコが茶々を入れてくる。
「それは許可しません。それ以外ならどうぞ」
「お、お邪魔します」
 ヒカリはようやくいそいそと床に座った。クッションの上でもいいのに。それでもヒカリは居心地悪そうにそわそわしている。床が堅いのかな。
「クッション使う?」
「え、いや大丈夫。お気になさらず」
「言いたいことははっきり言った方がいいわよ。退廃部は空気を読むなんて愚かなことをする場ではないわ」
 もじもじしていたヒカリをキョウコがバッサリと言い捨てる。
「ハルカが悪いわけでは決してなくて、その、ボクのお、男の部分が過剰に反応してしまうというか……」
「男の部分?」
 そう言われると卑猥な想像しかできないのだがいいのだろうか。ヒカリは体は女の子だったはずだが……まさか。
「あぁいや、そういう意味ではなくて、心の半分くらいが男のボクが女の子の部屋に入っていいのかなと思って」
 なるほど、ヒカリは男の心も持っている自覚があるからこそ遠慮していたということか。
「そんな気にしなくていいのに。わたしは気にしてないよ」
「ハルカはそうかもしれないけど、ボクどうしてもネガティブなほうに物事を考えちゃって……すみません」
 ヒカリが謝る必要はない。思春期の、それもトランスジェンダーを自覚しているヒカリが自ら気を使って遠慮しているのだから返って偉いと褒められることだ。それで気後れしているのならこちらが申し訳がない。
「もう一度言うけど、退廃部は空気を読むなんて愚かなことをする場ではないわ。気を使ってなにもできないのならなんの意味もない。周囲に合わせて自重することはいずれ退廃に繋がってしまうわ。退廃抵抗を志すのなら自己を強く持ちなさい」
 キョウコが説教気味にヒカリに言い聞かす。これもキョウコの優しさと取っていいだろう。
「だからヒカリ、喜んでハルカのベッドにダイブなさい」
「カモーン」
「は、はい!」
 キョウコは変な命令をするな。ベッキーはスペースを空けて誘うな。ヒカリはいい返事をするな。三人で同時にボケるなツッコミが追い付かんわ。
「で、いつまでも終わらないからそろそろ本題に移ってほしいんだけど」
「そうね。前座は終わりにして本題に入りましょうか」
 そういうとキョウコはいつものノートをテーブルに広げた。全員で覗き込んでそれを見る。
「題して『誰でもできる退廃抵抗マニュアル作戦』よ」
 キョウコは胸を張って自慢げに読み上げた。いや意味が解らない。
「なにそれ」
「要するに勉強会よ。退廃部員に必要な知識をあなた達に教授してあげようというの。この私がね」
 キョウコはさらに胸を張って答える。若干偉そうだが、キョウコの知識量は筋金入りだ。これまでも多くのことをキョウコから教わっているわたしが言うのだから間違いない。
「勉強会ってなにするの。中間試験の対策とか?」
「そんなのは各々自習するなりしてれば簡単に点数取れるわ。私が教えるのは退廃抵抗に必要な各種学問の知識よ。まずはこれ」
 キョウコはノートのページをめくって違う項目を見せた。びっしりと文字が書き込まれていることしかわたしにはわからない。
「退廃についての理解を深めてもらうためにまずは理論を学びましょう。ずばり『量子論でわかる退廃のメカニズム』よ」
「わぁ……」
 量子論という用語が出た時点で嫌な予感が的中した。まさか今日まで教わって来たキョウコの話のようなことを本格的に学ばせるつもりなのだろうか。
「今日からみっちりあなた達に量子論の素晴らしさを教え込んでいくわ。覚悟はいい?」
「おぅ……いぇ~い」
 それから夜が更けるまでキョウコによる量子論講義は続いた。わたし達は意識が飛びそうになるまで頭にみっちり知識を叩き込まれた。それが翌日まで憶えていられるかどうかは置いておいて……

1-13

 連休四日目は前日に勉強会で疲れ切ったこともあり休息に費やし、その日の夜。きっかけはキョウコからのTTメッセージでもたらされた。
『二人きりで出掛けない?』
 そういえば4月にキョウコと出会ってから二人きりで外に出掛けたことはなかった。いい機会だし、誘いに乗ることにする。
『いいよ。どこ行く?』
『映画とかどう?』
『いいね。明日でOK?』
『OK』
 そういうわけで、キョウコとわたしで映画を観に出掛けることになった。楽しみだな。

 翌朝。といっても待ち合わせは10時なのだが、わたしは一足先に映画館の前でキョウコを待っていた。どうせキョウコのことだ、時間ぴったしに来るよう計算して準備をしているに違いない。ならばわたしも一秒でも遅れたくはない。先に待っていてキョウコを驚かせてやろうという寸法だ。時刻は9時59分。あと1分で約束の時間だ。
「あっ、来た」
 わたしの思った通り、交差点で信号待ちをするキョウコの姿が見えた。遠くからでも一目でわかるほどキョウコは美人だ。スタイルもいい。長い黒髪がとても映える。これで性格も良ければモテモテだっただろう。余計なお世話だが。
「キョウコ!」
 わたしが呼びかけて手を振ると、キョウコは気が付いたようで一瞬驚いた様子を見せるが、すぐに小さく手を振り返してくれた。うむ、謎の優越感。
「驚いたわ。ハルカが先に来ているなんて思わなかった」
 キョウコと合流し、真っ先に言われたのがそれだった。それってつまりわたしが遅れてくると予想されていたということか。余計なお世話を返された気がする。
「映画なに観る?」
「実はもう決めて来てあるのよ」
 そう言うとキョウコは映画館の入り口に飾られているデジタルポスターを指差した。一際大きく自己主張している映画の広告ポスターが目に入る。
『魔法少女ミラクルスターユウキA's』
 主人公の魔法少女が杖を持って怪物と戦っているポスターだ。
「これは……」
「ネットで評判だったから観てみたかったのよ。こういうのは子供っぽくて嫌?」
 わたしは首を横に振って否定した。嫌なんて思ってない。むしろ……
「これ観よう。わたしも興味がある」
「そう。なら決まりね」
 そうしてわたし達は映画館に入った。受付窓口で高校生二枚の入場券を買う。といっても受付でタッチパネルを操作して観たい映画を選んで、WDで会計すればいいだけなので簡単だ。今時の若い子は財布に現金を持ち歩いていない。全てWDのID認証で買い物を済ませられる時代になったからだ。生体認証で個人を特定して口座から引き落とせばいいだけ。現金を持ち歩くよりよっぽど安心安全だ。一部の高齢者等は未だに現金を持ち歩いている人もいるが、今では町のほとんどでID認証会計システムが普及しているのでいずれ現金での会計は無くなるのだという。わたしはおばあちゃんから現金で駄菓子等を買ってもらっているので馴染みがあるが、それもいずれ無くなるのだろうか。一抹の寂しさがある。
「なにか食べる? 私はどちらでもいいけど」
「飲み物買っていこうよ」
 わたし達は次に映画館内の売店に寄った。流石にここは食べ物を受け渡しする店員がいるが、会計はWDで済ませられる。わたしはオレンジジュース、キョウコはアイスコーヒーを買った。まだ開場まで時間があるので休憩所の椅子に座って時間を待つ。
「今日観る映画、実は前作をツグミに誘われて観に行ったんだ」
 わたしはキョウコに何故この映画に興味を持ったのか話した。中学の頃にツグミと観に行った映画、それが『魔法少女ミラクルスターユウキ』だった。
「最初は期待してなかったんだけど実際に観たら感動しちゃって、ラストの方はもう泣いちゃった。あんなにアニメで感激したのはあれが最初で最後だったなぁ」
「最後って、ハルカはまだまだ未来があるじゃない。諦めるのはまだ早いわ」
 確かにそうだが、その言い方だとまるでキョウコに未来がないみたいじゃないか。
「わたしも一応他の映画も試しに観てみたんだよ。でも全然感動しなかった。ミラクルスターユウキが最高過ぎて他の映画がそんなでもなくなっちゃった。わたしって感性枯れてるのかなぁ」
「そんなことはないわ。たまたまあなたの感性に合う映画がそれだっただけで、他の映画が嵌らなくてもあなたのせいじゃない。感性なんて人それぞれ。全員が全員同じ感性なんて退廃が進行しているわ」
 出た、キョウコの退廃ロジック。キョウコにかかれば全員同じイコールなんでも退廃になってしまうのだ。面白い論理を聞いて、わたしも励まされた気がする。
「今日の映画も面白いといいなぁ」
「そうね。そろそろ時間だわ。行きましょう」
 時間が来たのでわたし達は劇場に入場した。入る時にWDで入場券を提示し、ID認証をしてパスする。入場のおまけでポストカードをもらった。今ではほとんど使い道がない、紙のポストカードだ。魔法少女ミラクルスターユウキのイラストが印刷されている。おそらくコレクション目的のサービスだろう。劇場はほどほどの広さで、人入りもほどほどだった。連休で混雑していると思ったが、映画の公開から日が経っているのもあってか満員とまではいかないようだ。指定された席に座ると、WDが連動してわたしの視界にARDFが展開される。これにより劇場にいながら映画の中の世界にいるかのような臨場感が味わえるというものだ。仮想世界とはちょっと違う、新しい体験空間だ。昔は3Dメガネをかけないと立体感を楽しめないというのだから、技術の進歩とはすごいものだ。
「ちょっとドキドキしてきちゃった」
「そうね。私もよ」
 キョウコとそんな話をしていると、上映が始まった。最初に劇場の注意事項が説明され、次に配給会社の映画広告映像が流れる。ここはただスクリーンの映像を観るだけだが、映画の本編が始まったら世界が一変した。周囲の景色が変わり、わたしはいつの間にか夜景の綺麗なビルの屋上にいた。もちろんARによる擬似的な錯覚だ。スクリーンの真ん中に映る主人公の魔法少女が羽を生やして空を舞うと、それに合わせてわたしの周囲の景色も動く。まるで本当に空を高速で飛んでいるように感じる。大型の怪物が上から落下してくると、魔法少女は紙一重で体を翻して避ける。ARなのでわたしに当たるはずがないのだが、思わずビクッと体が驚いてしまった。魔法少女が杖を振るうと、星の輝きが周囲に瞬き光弾となって怪物にぶつかっていった。そこからはもう臨場感どころではない緊張感で戦闘は進み、わたしはアクションがある度にリアクションを取っていた。
 そこからのあらすじはというと、主人公のユウキが友達の魔法少女と力を合わせて捕らわれた友達を取り返しに行くという王道を行くストーリーだった。ただ戦闘シーンの気合の入りようが尋常じゃなく、アクションシーンがある度にわたしは見入ってしまうのだった。上映時間はほぼ120分ほどで、その間ずっとわたしはのめり込んで観ていた。ラストの展開には思わず感動して目が涙でうるうるしてしまったが、我慢して泣かなかった。上映が終了してARDFも展開を終了する。上映前の劇場の風景が戻って来た。上映中ずっと映画の中の世界にいたような気分だ。余程没頭していたのだろう。席から立ち上がる時どっと疲れが来て立ち眩みしそうになった。
「どうだった?」
「すごかった!」
 キョウコに感想を聞かれてそれしか言葉が出てこなかった。こういう時自分の語彙力のなさを恥じる。映画館を出てわたし達は昼食をとるためにハンバーガーチェーン店に向かった。街のこの辺りは店が密集しているためそれほど歩かずに目的の店についた。店内に入り注文して会計して空いてる席を見つけて二人で座った。わたしはオーソドックスなチーズバーガーとポテトのセット。キョウコはホットドックとナゲットのセットだ。
「すごかったよね映画。キョウコはどうだった?」
「そうね、私も満足したわ。思ってたよりストーリーもしっかりしてて好感が持てたわ」
 お互いにさっき観た映画の感想を言い合う。こうやって友達と興奮して会話するのはいつ以来だろう。ツグミと前作を観に行ったのが最後だったかもしれない。それまでいい映画との出会いがなかった。友達との出会いもなかった。キョウコが幸せを持ってきてくれたのだ。
「ラストのリンが消えちゃうところは泣きそうになっちゃったなぁ。わたしあぁいうのに弱いのかも」
「そうね。ラストの展開に持っていくところに無理を感じなかったし、伏線もしっかり積み重ねていたからこそのカタルシスだったわ」
 どうやらわたしとキョウコでは映画の観方が異なるらしい。わたしは観たまま直情的に観ているが、キョウコは論理づけて一歩引いた視線で観ているようだ。頭の良い観方だと羨ましく思う。
「戦闘シーンいっぱいあって気合入ってたよね。もっとアクション観たかったなぁ」
「わたしはあれでちょうどいいと思ったわ。あまり多すぎても飽きが来てしまうし、スタッフの労力としての負担にもなるしね」
 なるほど、観方が違うとそういう意見も出てくるのか。わたし一人で観ていたらそういう感想は出てこなかった。わたしにはなかった新しい発想だ。
 それからもわたしとキョウコはお互いに可能を言い合って楽しく時を過ごした。わたしにとってはしばらく味わうことのなかった友達との楽しい時間。キョウコと出会ったことでまた新しく得ることができた。これからもきっとこういう楽しい時間が増えていくのだろう。そうだったら嬉しいな。
 ハンバーガショップを出てわたし達は買い物巡りをした。服を見て、本を見て、アクセサリーを見て、鞄を見て……どれも楽しくてあっという間に時間が過ぎていってしまった。終わってほしくない。いつまでもこの時間が続いてほしい。そう願っても、時計の針は止まらず進んでいく。
 午後4時。空が夕焼け色に染まる頃。買い物を終えたわたし達はベンチに腰を下ろして休憩していた。
「一日が終わっちゃうね」
「そうね」
 名残惜しい。こんなにそう思ったのは初めてだった。キョウコと過ごした一日はとても楽しかった。またこんな時間を過ごしたい。
「また二人で遊ぼうよ。退廃部のベッキーとヒカリとももちろん遊ぶけど、二人の時間も作ってさ」
「そうね」
 いつも通りと言えばいつも通りだが、今のキョウコは特に感情を抑えているように感じる。外出しているからだろうか。どうしても気になってしまって、
「キョウコ、なにか言いたそう。っていうか我慢してない?」
 と聞いてみてしまった。すぐに踏み込み過ぎたと反省するが、キョウコは嫌そうな素振りを全く見せなかった。安心したと同時に後悔もした。
「……そうね。我慢もしてるし、言いたいこともある。でもそれは言えない。それを言ってしまったら、この楽しい時間が終わってしまうから」
 楽しい時間が終わってしまう。キョウコの言葉の意図をわたしは汲み取れなかった。
「今日はもう終わるけど、明日がまた始まるよ。明日また会おう?」
 今日が終わってもまた明日がある。明日からもその先も楽しいことはいっぱいあるんだ。その楽しい時をキョウコと一緒にいたい。わたしはそう思っているが、キョウコは違うようだ。
「明日がまた来ても、その先はいつまで続くの。明日はいつか来なくなる。私はいつか来る終わりの時が、怖い」
 キョウコは怖がっていた。いつ来るかもわからない終わりに怯えている。わたしが楽観視し過ぎているからかもしれないが、そんなにすぐ終わりの時は来ないように思うのだが、キョウコは違うのか。
「確かにいつかは終わりが来るよ。でもそんなのずっと先のことだよ。その時が近づいてから考えればいいよ」
「……あなたにはそうでも、私には違うの。終わりの時はすぐに来る。はっきりといつかはわからないけど、終わりの時は近い……」
 キョウコはベンチから立ち上がって夕日の方へ歩いて行った。柵から夕日を見つめるキョウコは、長い髪が風に靡いているのも相まってとても美しく見えた。
「それってどういう意味? キョウコ、言いたいことがあるなら言ってよ。辛いことがあるなら吐き出した方が楽になるよ」
 わたしはキョウコが隠し事をしていると思った。終わりの時が近い。それがなにを意味するのか。わたしにはわからないからこそ、キョウコの口から聞きたかった。
「言いたくても言えないわ。言ってしまったら私とあなたの関係に終わりが来る。これまで通りではいられなくなる。楽しい時も、楽しくなくなる。それは嫌だわ」
 キョウコは尚も拒んでいる。なにをそんなに拒むことがあるのだろうか。わたしにはわからない。だから聞くしかない。
「わたしとキョウコの関係が終わるなんてことないよ。キョウコがなにを言っても、なにがあったとしても、わたしとキョウコはずっと友達だよ。契約したじゃない」
「……ずっと友達、ね」
 キョウコは夕日を背にしてわたしの方へ向いた。顔が影になって表情が見えづらい。だからわたしはキョウコに近づこうとするが、キョウコは拒む仕草をする。
「なにが嫌なの? わたしが嫌なの?」
「違うわ。そんなことない。ハルカは悪くない。悪いのは私なのよ」
「だったらはっきり言ってよ。嘘を吐くのは辛いことだよ。自分に嘘を吐かないで。自分の気持ちを誤魔化さないで。キョウコの本当の気持ちを聞かせて?」
 わたしは踏み込む。空気を読むなんて愚かなことはしない。そう言ったのはキョウコだ。だからわたしは恐れない。わたしだって退廃部の一員だから。
「言えばあなたは私を軽蔑するわ。本当のことを言っても同情して可哀想な目で見るか、蔑んだ目で見るかのどちらかよ。私はそんな目で見られたくない。今までだって、これからだってそうだわ」
「そんなことない。わたしはキョウコがなにを言っても蔑んだりなんかしない。わたしを信じて。友達を信じてよ」
 キョウコの過去にどんなことがあったかなんてわたしは知らない。過去にどんなことを言われてどんな目で見られていたかなんて知らない。察することはできる。想像することだってできる。でもそれは真実じゃない。キョウコの口から聞かない限り、わたしは信じない。
「キョウコの口から本当のことを聞きたい。わたしはすべて受け止めるよ。だからわたしに話して。お願い」
 わたしはキョウコの手を取る。ぎゅっと握りしめて離さない。わたしはキョウコのすべてを受け射止めるつもりだ。だからいくらでもわたしに言いたいことをぶつけてほしい。
「私は……私、は……っ!」
 キョウコはとても苦しそうだ。言葉が出ていこうとしても喉に詰まって出ていかない。とてもよくわかるよ。全部受け止めるから、言って楽になってしまえばいい。
「私は……臆病で、人見知りで、怖がりで、意気地なしで、勇気がなくて、だから、本当のことは……言えないの。ごめんなさい」
「……そう、わかった」
 キョウコがそう決断したのなら、わたしはもう踏み込まない。心の中を土足で踏み荒らされるのはわたしだって嫌だ。だからこれは譲歩じゃない。言えないことを言わないキョウコを受け入れる。これもキョウコを受け入れることの一つだ。
「でも一つだけ、言えることがある」
 キョウコの手がわたしの手を握り返してくれる。キョウコが言えること。勇気を振り絞って言えること。わたしはそれを、受け止める。
「私はね、ハルカ。あの校舎裏の倉庫でのあなたと過ごした時間。二人きりだったあの場所。あそこは私とあなただけの特別な世界だった」
 4月の始業式に出会って、あの倉庫で話して、それから約1ヶ月。わたしにとってもあそこで過ごした時間は特別なものだった。
「レベッカとヒカリが退廃部に入ってくれたのは喜ばしいことよ。でも私は、あなたと二人きりだったあの時間に特別を感じていた。私にとって、あなただけが特別だった」
「だったら、特別を増やしていけばいい。ベッキーとヒカリだってキョウコの特別になれるよ。同志だもん」
「そうね、そうかもしれない。優劣は付けたくないけど、でも私にはあなたが特別なの。特別を手放したくない」
 キョウコは今にも泣きそうな顔でわたしを見る。そんなキョウコをわたしは抱き寄せる。
「大丈夫だよ。わたしたちはずっと一緒。約束したでしょ。わたしがキョウコを観測し続けるって。存在を証明するんでしょ」
「憶えてくれていたのね」
 忘れるわけがない。量子論のことはさっぱりわからないけど、今ここに、わたしの腕の中にキョウコがいる。それは確かなことだ。
「いつまでもこの時間が続けばいいのに」
「続くよ。わたし達はずっと一緒。これまでも、これからも」
 理屈なんていらない。わたしとキョウコがずっと一緒にいたいと望めば、絶対に叶う。デカルトの向こう側へ行こう。そう誓い合ったじゃないか。
「ありがとう。少し心が晴れたわ」
 キョウコはもう泣きそうな顔をしていなかった。できれば心の靄を全て晴らしてしまいたかったが、簡単にできれば誰も苦悩はしない。
「大丈夫?」
「もう大丈夫。今日は終わるけど、また明日学校で会いましょう」
 そうしてわたし達は楽しかった今日の一日を終わらせた。帰り道の間、わたし達はずっと手を握り合っていた。わたし達はずっと一緒の友達だ。

1-14

「二人で映画観に行ったの? いいなー」
 連休明けの昼休み。ベッキーは羨ましそうにわたしとキョウコの話を聞いていた。といっても話したのは映画を観に行って買い物をしたことだけなので、その後のことはわたしとキョウコだけの秘密だ。
「また今度退廃部のみんなで行きましょう。なにがいいかしらね」
 キョウコもすっかり退廃部の空気に馴染んだ様子がある。昨日のキョウコの様子を思い出すと、なんだか微笑ましい感じがするのはわたしだけの秘密だ。
「そうだなぁ。今流行ってるナツコイとか?」
「言っておくけどわたしは一般向けの恋愛映画は観ないわよ。全く感情移入できないし、観るだけで背筋がむず痒くなるわ」
「えー」
 いつもながらキョウコの趣味嗜好は捻くれている。
「私は『流行りのもの』とか『大人気』とかいう文言がどうにも苦手なのよ。それが本当にいいものなら納得はするけれど中には『流行ってるからいいものだろう』と勘違いする輩がいるから厄介なのよね。流行りものに便乗する連中がよくそんなことを言うわ」
 キョウコの捻くれ具合は群を抜いている。そもそもとしてキョウコはマジョリティを毛嫌いしていてマイノリティ側に傾倒している。
「じゃあキョウコはなんの映画が好きなの?」
「そうね、主に洋画やアニメ映画とかを観ているわ。きちんとレビューで高評価のものを下調べしてから観るようにしているの。その映画がちゃんと面白いかどうかをこの目で確かめるためにね」
「へぇ意外。キョウコのことだからB級映画ばっかり観てると思ってた。ゾンビものとかサメとか」
 わたしがそう言うと、キョウコは不服そうな顔をする。
「心外ね。私がマイノリティばかりに傾倒していると思わないでちょうだい。きちんとマジョリティにウケている映画を選定して市場を調査するのも私の役目だわ」
 なるほど、キョウコはきちんとマジョリティの研究もしているのか。映画の趣味はそれこそ人それぞれだが、キョウコはその辺りも考慮しているのだろうか。
「う~ん、それじゃあ次観る映画はキョウコが決めてね。それなら文句言わないでしょ」
「任せておいて。とびきり上等な映画を選び抜いてみせるわ」
 なんにせよ、キョウコの選別眼は確かなものだ。期待していいだろう。

 それからもわたし達退廃部は時に楽しく、時に真面目に退廃抵抗の活動を続けていた。四人で映画も観に行ったし、買い物にも行ったし、遊園地やスパリゾートにも行った。普段学生だけでは行けないところにも、仮想世界にVRSJすれば行くことができる。人が多くて行く気にならない海も、虫が多くて行く気にならない山も、出費が多くて行く気にならない海外も、移動が多くて行く気にならない観光地も、旅費さえ払えば仮想世界でどこにでも行ける。夏休みはそれこそ暇さえあれば集まってあちこちに出掛けて行った。現実ではなくても、仮想世界さえあれば若者はどこにでも楽しみに行けるのだ。
 今のこの瞬間、わたしは最高に学生生活を満喫していた。勉強はそこそこにやって、遊べるときに友達と思う存分遊ぶ。これまでそうしてきたことがなかったから気付かなかったが、友達と同じ時間を共有するというのはとても幸せなことなのだ。少し前までは欲しいとも思わなかった友達が、こんなにも幸せをくれるだなんて思っていなかった。
 こんな楽しい時間がいつまでも続けばいいのに。わたしはそう思っていたが、幸せの時間はいつまでも続かない。有限なものなんだ。この時のわたしはそのことに気付いていなかった。



1-EX

 10月28日。わたし達退廃部はいつものように教室で集まって昼食を取っていた。そこへ声をかける生徒が一人いた。
「退廃部、ちょっといいか?」
 振り向くと、リーゼントっぽいツンツンの尖った髪型の女子生徒が声をかけてきた。わたしと同じクラスのダンジョウアリサだ。
「ダンジョウさん、なにか用?」
「用っていうか、お誘い。ほらこれ」
 そう言ってダンジョウさんはWDの3D画像を見せてきた。ポスターのような画像にバンド名とライブタイトルのロゴ、そしてQRコードが記載されていた。
「これなに?」
「なにって見りゃわかるだろ。ライブの招待コード。お前等にもやるよ」
 ダンジョウさんが言いたいのはこの画像に記されているQRコードが招待券で、それをわたし達にくれるというのだ。いろいろと説明不足だが。
「このライブは誰が出るライブなの?」
「アタシが所属してるバンドのコミュニティがあってよ、そこで合同ライブをやるんだ。もちろんアタシも出るぜ」
 ダンジョウさんがバンドに所属していることは風の噂で聞いていたが、本当にやっているとは。しかも合同ライブに参加するくらい本格的のようだ。
「どうしてわたし達に?」
「客は一人でも多くいた方がいいからな。てかノルマがあんのよ。だからクラスのみんなに配ってる」
 なるほど、わたし達退廃部に特別に招待してくれているわけではなく、クラスメイト全員に招待を配っていただけなのだ。納得はしたが、それで赤字になったりはしないのだろうか。
「冷やかしでもいいから観に来てくれ。絶対後悔させねぇからよ」
 そう太鼓判を押すと他の生徒に話しかけに行ってしまった。わたし達はダンジョウさんからもらったQRチケット画像を覗き込んで見る。
「少し調べたけど、客席が空席ばかりになるのは主催側からすれば避けたい事態のようね。一人でも多くいたほうがいいというのはそういうことらしいわ」
 キョウコはすぐさまWDでネットの情報を探る。ベッキーもヒカリもそれぞれのWDで情報を集め始めた。
「ライブはいつやるの?」
「明後日と書いてあるわ」
 もうすぐじゃないか。ダンジョウさんは余程チケットが売れずに苦肉の策でクラスメイトにバラ撒いたのだろうか。
「絶対来てくれよ。損はしないからさ!」
 ダンジョウさんがクラス中に聞こえる大声で宣伝を回している。あれだけの声量ならライブもできそうだ。
「ダンジョウさんはどのパートなの?」
「アタシはボーカルだぜ。しかもトップバッターだ。よろしくな!」
 ダンジョウさんの爽やかなイケメンスマイルを見ていると、ライブに行ってもいいかなという気になってくる。わたしは退廃部のみんなに聞いてみた。
「で、どうするの。行くの?」
「いいんじゃない? どうせその日は暇だし、冷やかしに見に行くだけでもいいでしょ」
「ワタシもー」
「ボクも」
「じゃあわたしも」
「みんなサンキューな!」
 というわけで退廃部は全員ライブ観戦に行くことになった。わたしも正直、ライブというものに興味が湧いたのだ。

 ライブ当日。駅からほど近い立地にあるライブ会場。開演は4時からなのだがわたし達は午後2時に会場前に着いていた。
「早過ぎない?」
「遅れるよりはいいでしょ」
「早く来た目的は、アレよ」
 キョウコが指差した先には、すでにライブ会場前に行列ができていた。
「もう並んでる。入場って早い者勝ちだったっけ?」
「アレは物販待機列よ。開場前に物販でグッズを買って、後でまた入場前に並ぶのよ」
 キョウコはすでに下調べを済ませていたようだ。てきぱきとした説明がとても頼りになる。
「ワタシ達もなにか買うの?」
「当然でしょ。ライブを楽しむためにはそのライブのTシャツとタオルだけでも買っておかないと楽しめないとネットに書いてあったわ」
 キョウコがネットのどこを参考にしたのかは知らないが、折角見に来たのだから楽しまなければ損だ。キョウコの指示に従い物販列に並ぶ。
「会計をスムーズに進めるために事前に買うものを決めておいた方がいいわ。これを見て決めて」
 そう言うとキョウコはわたし達にWDでリストを送ってくれる。バンドの公式サイトに載っている物販のグッズリストだ。キョウコの言う通りTシャツにタオル、ピックやストラップ、マグカップまである。
「どれを選べばいいかわかんないよ~」
「だったら私と同じTシャツとタオルだけにしておきなさい。欲しくなったら終演後物販でも買えるから」
 とりあえずわたし達もキョウコに倣いTシャツとタオルを購入した。黒い布地に白いバンドロゴがプリントされたシンプルなTシャツとタオルだ。
「物販が終わったら一度解散して入場開始前になったらここにまた集合よ。その間に食事や着替えを済ませてきましょう。ライブは長丁場になるからきちんと栄養と水分を補給しておくのよ」
 最早引率の先生となったキョウコの指示通りにわたし達も行動する。ライブは午後9時ごろまで行われるようなので夕飯分も腹ごしらえしておかなければ。
 午後3時30分。開演30分前に会場入場開始となった。わたし達も招待のQRコードとID認証を済ませて中に入る。ライブ会場はビルの地下にあるためか薄暗く狭苦しい。壁には数多くのバンドのライブポスターが飾られており、このライブハウスにそれだけ多くのバンドと客が利用していた証明となっていた。スタッフの案内に従い会場を進むと、そこには異様な光景が広がっていた。
 まず人の多さ。このライブハウスのキャパシティは200人ほどだったと聞いていたが、もう既に100人はいるんじゃないかと思うほど人が密集していた。ほとんどの人が最前列から隙間なく並び人だかりとなっている。最前列とステージの間には柵が置かれており、柵を越えてステージに上がったりできないようになっている。大型のスピーカーが両脇にドスンと置かれていて、威圧感を放っている。ステージには楽器や機材が置かれており、スタッフがたまに機材のチェックをしていた。出演者の姿はここにはない。裏の楽屋にいるのだろう。
 わたし達退廃部はキョウコに付き従い会場の後方の壁に背中をピッタリつける形で並んだ。
「なんでこんな後ろにいるの?」
「初参加の素人は後ろでのんびり観戦するのがいいらしいわ。特に中央や最前は戦場だからね」
 キョウコの言っている意味はよくわからなかったが、戦場という言葉からやばい感じだけは受け取れた。
 開演5分前。諸注意を告げる案内放送が流れる。撮影録音禁止のため不必要なWDの使用はおやめくださいと言われ、わたしはそっとWDをスリープモードにした。映画とは違ってライブは生の演奏や歌を楽しむもの。今この瞬間を楽しむ。それは人間が人間として生きている証だ。
「いよいよ始まるね」
 わたしは隣のキョウコに話しかけるが、すぐに大音量の音楽が流れ始めキョウコの返事が聞こえなかった。音楽に合わせて観客が手拍子を鳴らし、わたし達もそれに合わせる。するとステージ袖から出演者が次々に登場し、その中にダンジョウアリサの姿があった。髪色を真っ赤に染めていつも以上にリーゼントをツンツンにしている。化粧も派手なメイクをして舞台映えしていた。今ステージに立っているのはクラスメイトのダンジョウアリサではない。バンドのボーカリスト、アリサだ。もうこの時点でわたしはテンションが上がってしまっていた。
「行くぜお前等ぁ!」
 アリサがマイクを持ち叫ぶのを合図に演奏が始まった。両脇のスピーカーから爆音が流れると、ヒカリがビクッと驚いたのが見えた。大音量の演奏に度肝を抜かれつつも、否応にもブチ上がるテンションに抗えず自然と腕が上に上がる。拳が上がる。会場が一つになる。この一体感は現地にいなければ味わえないものだ。今この瞬間、わたし達は同じ音楽で一体になっている。この場に居るみんなが同志であり友達だ。
 そして前奏が終わりボーカルのアリサが歌いだす。正直アリサの声量でこの大爆音についていけるのか不安だったが、杞憂だった。アリサの歌声は演奏に負けず劣らず、その上邪魔にもならずむしろ歌と演奏が一体となって一つの曲となってわたし達に届いている。これが音楽なのだ。わたしは今初めて音楽の本来の姿を知ることとなった。音楽は配信のDLだけで聴くものじゃない。こうやって生の音、声、演奏を聞いて初めて音楽がなんなのか知ることができた。わたしは勝手にそんな答えを導き出していた。
 しかも演奏や声量だけじゃない。歌詞もいい。アリサの喉から出ている歌は十代のわたし達のような若者向けの歌詞になっていた。現実が辛い、負けそうになる、でも負けてられない、明日を向いてがんばろう、やればできる、そんな応援(yell)ソングになっていた。そんな歌詞が心に沁みるほど共感できた。まさに今生きるわたし達に向けた歌だった。
 正直、プロではないアマチュアのバンドなんてたかが知れてると思っていた。でも彼女等の演奏はメジャーバンドの真似事でもない、学生のお遊びでもない、本物の音楽を全力で奏でていた。本物の熱意を感じた。本物の歌が聞こえた。アリサは、アリサのバンドは本物だった。
「すごいね」
 わたしは隣のキョウコに興奮しながら話しかけた。爆音で聞こえなかったかもしれないが、キョウコは口を大きく動かしてわたしになにを言っているかわかるように
「そうね」
 と返してくれた。キョウコもこの曲に感激してくれているのか。退廃部のみんなとも同じ時間を共に過ごすことで同志になり、友達になった。今この瞬間も同じだ。同じ楽しい時間を共有できていることがとても嬉しい。これからもずっとこんな時間を共有していたいな、とわたしは思ったりした。
 それからアリサは何曲も歌を歌い、その度にわたし達の感情を盛り上げてくれた。出演時間は30分ほどだったが、その間ずっと最高の時間をわたし達に届けてくれた。このライブに来てよかった。また退廃部の思い出のアルバムにページを増やせる。私はそんなことを考えていた。この後に起こることも知らずに。

 ライブが終わり、わたし達は帰路に着いた。まだ興奮が冷めやらない。ライブの感想をお互いに言い合い記憶と感情を共有した。あの密閉空間でわたし達は同じ時間を共有し、一体になっていた。
「チョー楽しかった! もう最高!」
「ベッキー飛び跳ねてたもんね」
「ボクもすごく楽しめた……」
「キョウコはどうだった? 最高だったでしょ」
「そうね」
 わたしがそう尋ねたが、キョウコの表情は冷めているように見えた。わたしが思っていたよりキョウコは楽しめなかったのだろうか。
「楽しくなかった?」
「まさか。とても楽しめたわ。特にダンジョウさんの歌、とても感銘を受けたし」
「そっか」
 楽しめたならそれでいいか。わたしはそのくらいにしか思っていなかった。この時のわたしはキョウコの異変に気付けていなかった。ライブで興奮していたのもあったが、同じ時間を共有していた至福感というか昂揚感で勝手にキョウコも楽しんでいたものだと思い込んでいたからだ。
「ねぇハルカ。ちょっといい?」
「うん?」
 駅前でそれぞれの帰路に別れる時、キョウコはわたしだけを呼び止めた。ベッキーとヒカリとはそこで別れて、キョウコの話を聞く。
「どうしたの?」
「ちょっと確認したいことがあって……真剣に聞いてほしいの」
 キョウコの真剣な面持ちに、わたしも背筋を伸ばして真面目に聞く姿勢になる。
「ハルカは……今のこの世界に満足している?」
 キョウコの質問はいつも唐突だが、今日は輪をかけて意図が測りかねていた。てっきりライブの話をされるものだと思っていたから不意を突かれたのもある。
「う~ん、少し前のわたしだったら不満だらけだったけど、今は違うかな。退廃部のみんなと知り合って遊んでる毎日が楽しいし、ずっとこんな時間が続かないかなって思ってる。もちろんキョウコとの時間も大切なものだよ」
「そう……」
 キョウコは少し残念そうな顔をした。きちんと最後にキョウコへのフォローも入れたつもりだったが、足りなかっただろうか。
「私はね、ハルカ。今以上にもっと世界のために行動を起こそうと思ってるの。まだ確証が持てないことだから詳しくはまだ言えないけど、その時が来たら協力してくれる?」
「もちろん。退廃部の活動は遊ぶだけじゃないもんね」
 わたしは快く了承したつもりだが、キョウコは複雑な表情をしている。今日のキョウコはいつも以上に表情から読み取れない。この時既に、わたしとキョウコの『ズレ』は広がりつつあった。
「ハルカ、あなたは……もし私が、『向こう側の世界』に一緒に行こうと言ったら、付いて来る?」
 キョウコの質問の意味がわたしにはよくわかっていなかった。いつものようにわたしを試すために言っているのだと思っていた。だからこう答えた。
「う~ん、どうかな。行って戻って来れるなら行ってみたいけど、戻って来られる保証がないならやめとこうかな」
「そう……わかったわ、ありがとう。ごめんなさいね、呼び止めて。もういいわ」
 キョウコは明るい笑顔でそう言った。どこか迷いが晴れたような、決意のこもった顔だった。
「またね、キョウコ」
「また会いましょう、ハルカ」
 そうしてわたしとキョウコはそれぞれの帰路に別れた。また会える。この時はそう思っていた。結局、これがわたしとキョウコが交わした最後の言葉となってしまった。

 その日の夜、キョウコは亡くなった。わたしにも他の誰にも別れを告げることなく逝ってしまった。この現実世界ではなく、向こう側の世界へと。





2-1

 キョウコが亡くなったと報せが入ったのはわたしがキョウコと最後に会った2日後のことだった。キョウコの家族から学校を通じてわたしの家に電話があって、そこで初めて知った。信じられなかった。受け入れられなかった。予想もしていなかったし、知った直後もなにかの間違いだと思いたかった。でもわたしがキョウコの家に行ったとき――キョウコの家に行ったのはこれが初めてだった――キョウコはすでに顔に白い布を被されて息を引き取っていた。顔を見せてもらうと、綺麗な顔のまま肌が真っ白で血の気がないようだった。亡くなっているから当然なんだけど、それでもまだわたしは信じられなかった。肌に触れさせてもらったけど、冷たくて体温がまるで感じられなかった。わたしはここへきてようやく、キョウコが亡くなったのだと実感できた。
 わたしが来てから少し遅れてベッキーとヒカリもキョウコの家に来た。二人とも信じられないといった表情でキョウコの亡くなった姿を見ていた。ヒカリは悲しみを抑えているような風で、ベッキーはぼろぼろ泣いていた。わたしは不思議と涙は出てこなかった。たぶんまだ受け入れられてなかったからだと思う。キョウコの亡くなった姿を見て亡くなった事実を理解できても、亡くなった現実を受け入れたくないのかもしれない。
 キョウコに面会した後、キョウコの家族と少しだけお話しすることができた。
「今日は来てくれて本当にありがとう……」
 キョウコの両親はひどく疲弊しているように見えた。それもそうだ。大切な娘がある日突然亡くなるようなこと、精神的に辛くないわけがない。
「キョウコは物静かな子で家族との会話もないような子だったんだけど、最近は嬉しそうにしていてね。友達がいてくれてよかった」
 キョウコのお母さんは少しだけ笑みを浮かべて話してくれた。
「あの、キョウコは……キョウコさんはどうして亡くなったんですか?」
 わたしは意を決してキョウコの両親に聞いてみた。辛い質問だけれど、確かめずにはいられない。
「キョウコは生まれた時から心臓の弱い子でね……ずっと入院退院を繰り返していたの。中学生になってから症状も安定して学校に通えるようになったんだけど、いつまた再発するかわからなかった。それでもキョウコは他の同い年の子と同じように学校に行くことを選んだの。病院が嫌いだったのもあるんだろうけど、きっと友達が欲しかったのね」
 キョウコのお母さんから驚愕の事実が告げられる。そんなことキョウコはわたし達に一言も言わなかった。いや、きっと言いたくなかったのだろう。強がりなキョウコのことだから、病気のことを話してわたし達に余計な心配をかけさせたくなかったんだ。
「ここ最近は再発する様子もなくて安心していたんだけど、昨日の夕方私達が見つけた時にはキョウコはもう息をしていなくて。病院で診てもらっても手の施しようがないって……」
 キョウコのお母さんは涙を堪えてキョウコを見つけた時の話をしてくれた。本当に突然のことだったのだろう。キョウコは最近まで普通の学生と同じように学校に通って、わたしたちと遊んで、大丈夫だと思っていた。だから今回のことは予想もしていなかったし、心の準備だってしていなかった。それでも病気というのはいつ起こるかわからないもので、キョウコの場合はたまたま生まれた時から悪かった心臓が元で亡くなったのだ。キョウコの両親にとっても、わたし達にとっても、キョウコとの別れは唐突に訪れた。ただそれだけのことだったのだ。

 キョウコの葬儀は明日行なわれるということで、今日のところはわたし達は一旦家に帰ることにした。これ以上キョウコの側にいてもキョウコは応えてくれないし、ご家族も忙しいから邪魔になるだけだ。わたしは家に帰っても頭の中がもやもやとして落ち着かなかった。友達が亡くなって平常でいられるわけがないが、それでもわたしはいつも通り晩御飯を食べていてもお風呂に入っていても家族に話しかけられても上の空だった。そんなわたしを見かねてか、おばあちゃんがわたしを呼んだ。
「ハルカ、ちょっとおばあちゃんとお話ししようか」

 翌日、キョウコの通夜がしめやかに執り行われた。天気はどしゃ降りの雨で葬儀場までわたし達は車で送ってもらわなければいけなかった。わたしとベッキー、ヒカリは故人の友人として参列した。式の最中、ヒカリは嗚咽を堪えていて、ベッキーはぼろぼろと大粒の涙を流していた。わたしはというと、涙の一粒も零さず昨日のおばあちゃんが言っていたことを思い出しながら考え事をしていた。読経の時も焼香の時も頭の中は考え事でいっぱいだった。
 おばあちゃんが言うには、葬式は生きている人がこれから生きていくために亡くなった人と最期のお別れをするための式なのだという。亡くなった人との思い出を振り返って、悲しんで、いっぱい泣いて、そして明日からまた生きていくためにするお別れの式なのだと。
 死は誰にも平等に訪れる。人が死ぬということはどうしようもなく訪れる終わりであって、人は死にたくないから毎日頑張って生きている。生きる為に勉強して、働いて、世話をして、みんなと一緒に生きている。人は一人では生きられない。例え山奥で自給自足の生活をしていても、一人では生きていけない。誰かの助けがあって、ようやく生きていける。自分一人では限界がある。でも誰かがいれば、不可能も可能になる。
 どんな人間だって死にたくなくて生きている。自ら死を選ぶ人も本当ならもっと生きていたくて、でも生きることが辛くて、死にたくなんてなくて、逃げ場がないから死を選んでしまう。自死とは、自分を殺すこと。相手が例え自分であっても、殺してはならない。それだけはしてはいけないこと。後に残された人が悲しむことなのだと。
 人を殺すということはその人の人生を奪ってしまう。だから大罪なのだと。命を大切にしなければならないのは、その人の生きた時間を大切にしなさいということ。人が生きていれば必ず誰かと関わって、接して、過ごして、そこに記憶が生まれる。その人が生きた時間こそがその人が生きた証になるんだ。生きた長さは重要じゃない。どんな人と関わったか、どんなふうに生きたか、それだけでいいんだ。大切なのはどう死ぬかじゃない、どう生きるかなんだ。
 葬式とは、亡くなった人と、自分の命に向き合う時間なのだと。生きている人が死について、命について、生きるということに向き合うためにある。わたしは今、生きるということに向き合っている。キョウコの葬式で、キョウコの死について、わたし自身の生きることについて、真剣に考える。そのための時間だったんだ。

 式が終わり、会場を出ていく人、棺のキョウコと最期のお別れをする人、通夜振る舞いを頂く人等、みんなバラバラに別れていく中、わたしは誰かに呼び掛けられた。
「君、キョウコの友達だって?」
 声のした方を振り返ると、眼鏡をかけた女性が佇んでいた。どことなくキョウコに似た雰囲気のある女性だ。
「私はキョウコの従姉のツカサ。東ヴァーチャル研究所で働いてるの。キョウコから聞いてない?」
 そういえばキョウコがVRの研究をしている従姉がいるとか言っていた気がする。ではこの人がそうなのか。
「は、初めまして。アライハルカです」
「ハルカさんね。キョウコから聞いてた通りいい子みたいだね」
 キョウコがどんな話をしていたかは知らないが、悪くは言われていなかったようだ。
「今日は来てくれてありがとう。きっとキョウコも喜んでるよ」
「そう……ですかね」
 そう言われてもわたしにはもう亡くなったキョウコがどう思っているか知る由はない。こう思っててくれたらいいな、ぐらいしか思わない。
「今ね、ウチの研究所で亡くなった人の人格を模したAIの開発をしてるんだ。ひょっとしたらキョウコの遺志も再現できるかもしれない。不謹慎かもしれないけどね」
「はぁ……」
 この時のわたしにはツカサさんがなにを言いたいのかわからなかったが、どことなくキョウコが似たようなことを言っていたのを思い出していた。
「私はキョウコの夢を最期まで叶えてあげることができなかった。ハルカさんも友達としてキョウコの夢を手助けしてくれてありがとう」
「いえそんな……わたしもキョウコがなに考えてるかわからないこともあったりして……」
 本当はもっとちゃんとしてお礼なりなんなり言うべきだったのかもしれないが、この時のわたしは精神的に弱っていたせいかまともに会話することすらできなかった。この時もっと話せていたらまた違った未来が待っていたかもしれない。
「キョウコは私達が考え付きもしないようなことを成そうとしていた。私がもっと早くあの子の真意に気付いてあげられていれば助けられたのかもしれない……たらればを言ってもきりがないのだけどね」
 この人はなにを言っているのだろう。キョウコの真意はわたしにもわからないことだらけだったが、従姉のツカサさんにもわからないことだったなら、誰にもわからないのではなかろうか。キョウコは一体、なにをしようとしていたのか。
「ごめんね、呼び止めて。今日は来てくれて本当にありがとう。キョウコのこと、いつまでも友達でいてあげてね」
「はい。キョウコとはずっと友達です」
 そこでわたしはツカサさんと別れた。ツカサさんの言っていることもよくわからなかったが、そういう血筋でもあったのだろうか。いずれにせよ、キョウコとはずっと友達でいることに変わりはない。

 通夜が終わり帰ろうかと言う時に遺族であるキョウコの両親が声をかけてくれた。
「よければ明日の出棺の時も来てね。きっとキョウコも喜ぶと思うから」
 わたしは「はい、必ず来ます」と答えた記憶がある。というのもその時も頭の中は考え事でいっぱいで、口から出た言葉が果たして自分の本心なのか自信がないからである。でも口から出てしまったからにはわたしの言葉なわけで、わたし達は明日も来ることになった。その後すぐベッキー達とは別れたので会話はしていない。したとしても上の空だったことだろう。その日は帰ってすぐ寝た。寝付けないかと思ったが思ったより疲れていたようで寝付きは良かった。頭の中は相変わらず考え事でいっぱいだった。それに明日は朝早くに葬儀場に行かなければならない。無意識とはいえ必ず来ますと約束したのだから。それにキョウコも喜ぶかもしれない。いや、どうかな。

 通夜の翌日、朝9時から告別式が執り行われた。この日の天気も雨で葬儀場に来るのが大変だった記憶がある。
「涙雨だね」
 誰かがそう言った。空がわたしの代わりに泣いている。わたしのぶんまで泣いている。大切な友達の葬儀でも涙一つ流さないわたしは、やっぱり変わり者なんだ。異常者なんだ。そう実感する。
 キョウコ、どうしてわたしを置いて行ったの。キョウコは天国でも地獄でもない向こう側の世界に逝ってしまった。夢想世界。キョウコがそう呼んでいた世界。ライブが終わって別れる前、キョウコはわたしにこう聞いた。
「ハルカ、あなたは……もし私が、『向こう側の世界』に一緒に行こうと言ったら、付いて来る?」
 もしあの時、わたしが「うん」と答えていたら、キョウコの意見に少しでも肯定してあげられていたら、わたしも一緒に向こう側の世界に連れて逝ってもらえたのだろうか。そうでなくても、キョウコが向こう側の世界に逝くのを止められていたのだろうか。そんなことを思っていても、もう取り返しはつかない。盆を戻しても中の水が戻らないように、死んだ人は生き返ったりはしない。キョウコはもうこの世界に戻ってこない。
 最後の別れということで棺に入ったキョウコに触れさせてもらった。キョウコの体は腐敗を防ぐためのドライアイスでより一層冷え切っていた。手が冷たい人は心が温かいというけれど、今のキョウコは心がどれだけ温かいのだろうか。キョウコの手はいつも温かかったのを思い出した。
 告別式が終わり、火葬場へみんなと移動する。わたし達退廃部も一緒に連れて行ってもらった。最後までキョウコと一緒にいたかったから。出棺の時、みんな泣いていたけれど、わたしは泣かなかった。涙が出てこなかった。悲しくなかったわけじゃない。けど、不思議と涙は出なかった。
 火葬場の炉に入れられる最後の瞬間までわたし達は見届けた。これが本当に最後の別れ。わたしはいっぱいいっぱい祈った。キョウコに届くように。キョウコの遺体が焼かれる間、控室で待っていたけれど、わたしは誰とも会話する気が起きなかった。ずっと考え事をしていた。ずっとキョウコのことを考えていた。
 キョウコの火葬が終わり、骨壺へ遺骨を入れていく骨上げの時もわたし達は見守っていた。骨箸で上げられていくキョウコだった遺骨。あれはキョウコの足、あれはキョウコの腕、あれはキョウコの頭……もうキョウコの形ではなくなってしまったけれど、あれはキョウコの骨だったのだ。遺灰も少し前までキョウコの体だったものが燃えたものなんだ。頭では理解していても、心が受け入れきれていない。わたしの頭には未だにキョウコの美しい黒髪と綺麗な顔が鮮明に思い出せる。
 それからの法要まですべて終えて、わたし達退廃部は帰路に着いた。最後まで特に会話らしい会話もなく、みんな暗い面持ちでそれぞれの家に帰っていく。こんな時、どんな言葉をかけてあげたらいいのだろう。そんな気も起きなかった。
 自分の部屋に帰って、喪服を着替えてベッドに倒れ込む。疲れた。結局葬儀の間はずっと考え事をしていた。誰ともまともな会話もしていない。ベッキーとヒカリにはまた会えても、もうキョウコには会えない。そうか、もう会えないんだ。そう思った瞬間、涙が零れ落ちてきた。わたしは泣いた。一生分泣いた。

2-2

 葬儀から二日後。キョウコの両親に呼ばれてわたし達退廃部はまたキョウコの家に伺った。なんでも大事な話があるらしい。
「遺書が見つかった?」
「それってキョウコの、ですか?」
 わたし達の質問にキョウコの両親が頷いて肯定する。遺品の片づけをしている際、見つけたらしい。
「厳密には遺書とは違うかもしれないけど、あなたたちに向けて書いた手紙みたいだから、ぜひ読んでほしくて」
 そうしてキョウコの両親から一枚の手紙を見せてもらう。ノートのページを切り離して書かれた手紙。キョウコのいつものやつだ。わたし達は顔を寄せて遺書を読んだ。

『退廃部のみんなへ。

 この手紙を読んでいるということはおそらく私はもうこの世にいないのでしょう。先に謝っておくわ。ごめんなさい。私の心臓の病気の件、どうしてもみんなには秘密にしておきたかった。気を使われるのが嫌いだったのもあるけれど、退廃部のみんなとは気兼ねなく付き合っていきたかったから。我が儘でごめんなさい。
 私はある挑戦をすることにした。これが成功すれば私は新しい未来を手にすることができる。もし失敗していたら、私の人生はそれまでだった、ということになる。どちらにせよみんなには迷惑をかけることになるかもしれない。本当にごめんなさい。
 もし私がなんらかの理由で向こう側の世界に逝ったままになったとしたら、お願いがあるの。私の遺骨と遺灰をダイヤモンドに加工して退廃部のみんなに持っていてほしい。それが私の生きた証になるから。もちろん断ってもいいわ。
 それではさようなら。またいつかどこかで会いましょう。

 追伸。両親へ。身勝手な娘でごめんなさい』

「……いろいろ衝撃過ぎて理解が追いつかないんだけど……なに、キョウコは心臓が悪くて亡くなったんじゃないの?」
「キョウコの挑戦ってなに?」
「両親への追伸短い」
 いろいろと疑問は尽きないが、当の本人が亡くなっているので答えを知りようがない。キョウコのご両親にもわからないからこそわたし達を呼んだのだろう。
「私達にもわけがわからなくて、病院で診てもらった時は死因は急性心不全だろうと……」
「親戚の子にこの手紙を見せたら血相変えて出ていってしまって……なにかわかればいいんだけど、私達にはもうどうしようもない」
 手紙を見せた親戚というのはツカサさんのことだろう。ご両親も困惑しているようだ。葬儀を終えてキョウコの遺体も火葬してしまった以上、解剖して死因を調べることもできない。いずれにせよキョウコが亡くなった現実は変えようがない。
「このダイヤモンドってなに?」
 ベッキーが手紙の一文を指差す。『私の遺骨と遺灰をダイヤモンドに加工して退廃部のみんなに持っていてほしい』これはどういう意味なのか。
「調べてみる」
 ヒカリがすぐにWDでネット検索をかけた。すぐに情報がヒットして検索結果がARDFに表示される。
「『遺骨ダイヤモンド製造』これだね。『ご遺族から提供いただいたご遺骨やご遺灰から炭素を抽出して人工的なダイヤモンドの製造が可能です』だって。本当にできるんだ……」
 業者と見られるホームページにはダイヤモンド製造の工程が細かに記載されていた。実績もかなりの数があるようだ。少し商売気のあるキャッチコピーが気になるが、あながち嘘ではなさそうだ。
「キョウコはどこからこういう知識を得てるんだろうね」
「いくらでできるんだろう」
 業者のホームページを読み進め、価格表のリストを発見した。そこには……
「ごふっ、高っ!」
 ベッキーが噴き出すのも無理はない。価格表には学生にはとても手が出ない何十万という値段が記載されていた。一番安いカラットでも三十万はある。価格表にはさらに上の桁の値段も表示されている。
「これは……簡単にできる額じゃないよ。キョウコは値段見て言ってたのかな」
 果たしてキョウコはどこまで織り込み済みだったのかは知らないが、この金額を出せと言われてもそう簡単には了承し辛いだろう。いくら故人の遺書に書かれていようともだ。
「『製作期間に最低6ヵ月必要』だって。海外に発注するから時間もかかるみたい」
 さらに時間もかかると言われてはますます実行に移しづらい。おそるおそるキョウコのご両親の顔を伺ってみると、
「費用はこちらでなんとでもなります。納骨までに手続きを済ませられれば、早い段階で製作にかかれるでしょう」
 なんと乗り気だった。さんざん好き勝手言っていたのはこちら側だが、なんだか申し訳がなくなってきてしまう。
「いいんですか?」
「あの子が最期に遺した望みですから。親としてあの子にしてやれなかったことが山ほどあって後悔してもしきれません。せめてあの子の、キョウコの望むままにしてあげたい。お金のことは気にしないでいいですよ」
 なんと子供想いのご両親なのだろう。キョウコの最期の我が儘も叶えるために高価なダイヤモンドの費用を出してくれるというのだ。キョウコに代わって頭を下げる。
「ありがとうございます」
「あの子に友達がいて本当に良かった。少し前まで人生に絶望していたキョウコを変えてくれたのは間違いなくあなたがたです。そのお礼として、親としてできることをするだけです」
 キョウコのことながら、なんだかわたしも自分のことのように嬉しくなった。優しいご両親の家庭に生まれて、キョウコは幸せだっただろう。本人がどう思っていたかは知る由もないが。

 キョウコの家からの帰り道、わたし達退廃部の三人はほとんど会話もなくとぼとぼと歩いていた。意気消沈。すっかり気持ちは落ち込んでいた。
「退廃部もすっかり寂しくなっちゃったね……」
 ベッキーの言う通り、キョウコ一人がいなくなっただけでこれほど会話がなくなるのは寂しかった。もちろんキョウコが亡くなったことは悲しい。でもいつまでも悲しんでばかりはいられない。おばあちゃんも言っていた。生きている人がこれから生きていくために別れの葬儀をするのだと。だったらわたし達も生きる為に前に進まなければ。
「わたしは退廃部を続けていくよ。キョウコの遺志、ちゃんと受け継いで続けていかなくちゃ」
 わたしは決意を口にする。思っているだけじゃ駄目だ。口に出して、行動して、ちゃんとやっていかなくちゃいけないんだ。
「ワタシも退廃部やめないよ! キョウコのぶんも、うんといっぱい遊ばなくちゃね!」
 ベッキーも気合を入れて宣言する。遊ぶのが退廃部の活動と言う訳ではないが、退廃抵抗のためには楽しむことも必要だ。
「ボクは……まだどうしたらいいかわからない。でも二人が退廃部を続ける気なら、ボクも付いて行くよ」
 ヒカリもわたし達に付いて来てくれる。そうだ、わたし達は三人になっても退廃部だ。キョウコ、わたし達やり遂げてみせるよ。だから向こう側の世界で見ていてね。
「そこで一つ提案なんだけど、ダイヤモンドのお金、キョウコのご両親に全額出してもらうのはやっぱり悪いよね」
「うん……でもボク達の小遣いじゃ雀の涙ほどにしかならないし……どうすれば」
「そっか、働いて返せばいいんだよ! 今はまだワタシ達学生だからアルバイトとかパートとかになるけど、いつか就職してお給料もらえるようになったら、キョウコのダイヤモンドのお金返せるようになるよ!」
 言いたいことをほとんどベッキーに言われてしまった。つまりそういうことなのだ。今のわたし達にできることがあるとすれば、働いてお金を稼いで少しでもダイヤモンドの費用の足しにすればいいんだ。そうすればキョウコのご両親の助けにもなるし、自分達のけじめにもなる。我ながらなかなかいい案ではなかろうか。
「よし、そうと決まったら仕事を探しに行こう! 働いてダイヤモンド代を稼ぐんだ!」
「オー!」
「おー」
 かくして、わたし達退廃部の新たなるスタートが切られた。キョウコのぶんまで、目標を持って生きていかなくちゃ。

2-3

 それからわたし達は仕事探しに勤しんだ。求人サイトや求人広告を見てよさそうな仕事を探す。もちろん学業優先だが、空いた時間や休日にできる仕事があればそれに越したことはない。校則でアルバイトは禁止されていないし、先生に事情を話して許可も得た。あとは条件に合った仕事を見つけるだけ。なのだが……
「う~ん、やっぱりコンビニのアルバイトくらいしかいいのないよ……」
 仕事探しは思ったより難航していた。一応学生でもできそうな仕事はあるのだがなかなか踏ん切りがつかない。時間に融通が利いてとなると絞られてくる。
「ワタシはワグドルドにしようかな。接客ならワタシにもできそうだし」
 確かにベッキーにはワグドルド――ハンバーガーチェーン店が合っていそうだ。外国人の店員さんも見たことがあるし、マニュアルもしっかりしてあるだろう。飲食業は大変だと聞くが、ベッキーの持ち前の明るさならきっと乗り越えられる。と、呑気なことを言ってみる。
「ボクはまだなにも見つけられてない……なんだかどれもボクには無理そうな気がして……」
 ネガティブ気質なヒカリには働いてお金を稼ぐというのはハードルが高いのだろう。仕事を任される以上責任が伴う。そのプレッシャーに耐えることも働くためには必要なはずだ。わたしにとっても他人事じゃない。
「もっとハードルが低くてやりやすい仕事があればいいのにね」
 とはいえそんな都合のいい仕事がそこらへんに転がっているわけはない。あったとしても引く手数多だろう。現実はそんなに甘くはないということか。
「ヒカリにもきっといいお仕事が見つかるよ。ファイト!」
 ベッキーも励ましてくれる。そうだ、焦る必要はない。じっくり自分に合った仕事を探していけばいいのだ。

 その後わたしは家から近くて通いやすいコンビニのアルバイトに申し込んだ。面接も受けたがほとんど確認作業といってもいいくらいトントン拍子に進んでその週の土曜日からもう働き始めることになった。手際が早いというかなんというか、こんなものなのだろうか。

 そしてあっという間にアルバイト初日を迎え、あっという間に初日の仕事が終わった。わたしは帰宅後即自分の部屋のベッドにダイブした。
「疲れた。もう無理。辛い。しんどい。働きたくない」
 初日は散々だった。覚えることがあまりにも多すぎる。いきなりレジ打ちを教わったが、覚えきれずしょっちゅう間違えてお客さんを待たせてしまった。商品の陳列も覚えられないし、掃除も手際が悪いと怒られ、挨拶も声が出てないと怒られ、お客さんにも怒鳴られ、帰りに野良猫にも怒られた。
「仕事辞めたいよ、キョウコ……」
 弱音だって吐きたくなる。でもキョウコはもう慰めてくれない。そもそもキョウコのために働いてお金を稼ぐことにしたんだ。ここで音を上げたらキョウコに合わせる顔がない。早く立派になってキョウコと向こう側の世界で会うんだ。気合を入れ直して起き上がる。目的を見失わない。心のメモ帳に刻んでおこう。

2-4

 わたしがアルバイトを始めてから数週間経ち、その間にベッキーもワグドルドでアルバイトを始めた。ヒカリもアルバイトを始めたそうだが、そう上手くは行っていないようだ。
 退廃部としての活動はキョウコが生きていた頃よりは会う機会が少なくなったが、たまに空いている時間が合えばいつもの倉庫に集まるようにしていた。今日も放課後に集まってアルバイト報告会をすることにした。
「わたしのとこはもうだいぶ覚えられるようになってきたけど、まだ間違うこともあるし店長には怒られるし、正直もう辞めたい……」
「コンビニは大変そうだね。ワタシのとこはもうずっと『スマイルを絶やすな』ってきっつく言われてるからさ、顔の筋肉がおかしくなっちゃうよ」
 それぞれのアルバイトにも苦労することが多そうだ。どこも楽な仕事なんてない。給金が発生する以上、大事な仕事を任されているのだから気苦労だって必要な苦労だ。とはいえしんどいものはしんどい。
「ヒカリのとこはどう? 新しい仕事始めたって聞いたけど」
「ボクは……清掃の仕事始めたんだけど、たぶんもうすぐ辞めると思う。きつくてこれ以上続けたくない……」
 ヒカリのところも相当辛そうだ。清掃の仕事と聞いたらトイレ掃除とかゴミ捨てとかをイメージするが、そちらも大変だろう。
「もうこうなったらバイトの不満ここで吐き出しちゃおう! 溜めこんだっていいことなんかない!」
「賛成。わたしも不満溜めこんでるんだから。時給上げろ~! ほらヒカリも」
「う、うん。汚いのもうやだ~!」
 わたし達は溜めこんだ不満を言い合って解消した。たまには息抜きが必要なのだ。

 ふと、働くことについてキョウコと話したことを思い出した。
「私はね、ハルカ。時代が変化している現代にこそ、新たな就職スタイルが必要だと思うのよ」
 それは6月のこと。進路調査として将来どんな職業に就きたいかアンケートに答えるという宿題が出された時のことだ。キョウコがなにを書こうとしているか聞きに行ったところ、キョウコは自論を力説し始めた。
「働くことと退廃には密接な繋がりがあることは先にも言ったことだけど、退廃する人間がすべて悪いとは私は思っていないわ。むしろ雇用する側の企業に問題があると思っているの」
 先に言った密接な繋がり、というのは働く気が起きないニートや働きたくても働けないやむを得ない事情の人が社会から迫害されている、それを助けるのも我々退廃抵抗の活動なのだとキョウコは言っていた。どこまで退廃の範囲が広がっているのかは知らないが、キョウコにとって働くことというのは重要な問題のようだ。
「雇用する企業側だって安くないコストを払って雇用する人材を探している。それはわかっているわ。でもね、だからといって企業側が偉そうに胡坐をかいて上から目線で雇用する人間を選ぶのは虫唾が奔るのよ。就職活動をしている人だって生活が懸かっているわけなのに、面接の印象だけで選り好みをしているのが気に食わないわ」
「キョウコは一発でアウトだろうね」
「そうよ。私みたいな性格に難がある人間だけでなく他の問題を抱えている人達が就職できないなんてそんな社会間違っているわ。現代にはAIが人間の仕事を代用するようになって近しいのに、こんなことでは人間の就職率は下がる一方よ。一企業の問題ではなくて社会全体で協議するべき問題だわ」
「大変なんだねぇ」
「そう。就職とは難しいものなのよ」
 この時はそれほど難しいとは思っていなかったが、実際にやってみると働くというのは大変なことなのだ。そのことをわたしは今更になって身をもって知ることになった。

2-5

 そこからさらに数ヶ月、毎日学業とアルバイトの両立でへとへとになりながらあっという間に年を越してしまった。退廃部のみんなと遊ぶ機会も減り、あのいつもの倉庫にもいつの間にか行かなくなってしまっていた。TTで連絡は取り合っているし学校でもしょっちゅう会っているが、やはりどこか寂しい感じは拭えない。
 そんな折、奇妙な噂を耳にするようになった。学校でVRSJをすると幽霊が出る、という噂だ。なんでもVRSJで仮想世界に行くと、設定していない人間の幽霊のようなものを見かける、というのだ。それだけならただの学校の七不思議くらいにしか思わなかったが、ある一点がわたしの興味を引き付けた。
「幽霊がキョウコに似てる……?」
 その話を聞いたのは昼休みにお弁当を食べていた時のことだ。いつものように退廃部の三人で集まっていたところにアリサがやってきて教えてくれた。
「らしいよ。お前等にもなにか関係してんのかと思ったけど、知らなかったみたいだな」
 そう言うとアリサは行ってしまったが、わたし達は驚愕で箸が止まってしまった。幽霊がキョウコに似ている、なんて冗談にしても気分は良くない。
「そもそも仮想世界に幽霊って出るものなの?」
「出るとしたらシステムのバグのようなものだと思うけど……だとしてもキョウコに似てるってのは気になるね」
 他人の空似だとしても確かめずにはいられない。本当にキョウコの幽霊だとして――そんな可能性はゼロに等しいが――実際に会ってみたい。好奇心が抑えきれなかった。

 放課後、わたし達退廃部の三人はいつもの校舎裏の倉庫に集まっていた。目的はもちろん、幽霊に会うためである。
「本当にやるの……もし、幽霊がキョウコだったとしても罰当たりじゃないかな。怖いよ」
「怖いならヒカリはそこで見守ってて。どっちにしろなにが起こるかわからないし、もしもの時に備えてわたし一人で行くから」
「絶対戻ってきてね。約束だよ。キョウコだけじゃなくてハルカまでいなくなったら、ワタシ嫌だよ……」
 ベッキーとヒカリが泣きそうな顔でわたしを見る。大丈夫、必ず戻ってくる。わたしはWDを操作して仮想世界へと跳んだ。

 意識が浮遊感でふわふわと曖昧になる。ここは現実ではない仮想世界。コンピュータで作られた虚構の世界。そしてキョウコのいる向こう側の世界に近しい世界。わたしはここにいる。キョウコはどこにいる?
 足が地面に着く感じがして目を開けると、そこは見慣れた光景だった。いつもわたし達が集まる校舎裏の倉庫の入り口。ここに跳んだということは、ここに導かれてきたということだ。誰に?
 わたしが入り口を開けて中に入ると、そこには誰かがいた。いや、誰かどうかもわからない今にも消え入りそうな幻――まさしく幽霊だった。像がはっきりしていなく、ノイズが走ったモザイクのような、それでも人だとわかるくらいには見える。長い黒髪。それだけで特定するには情報量が少なすぎるが、わたしの中ではもう確信に変わっていた。
「キョウコ?」
 わたしは幽霊に話しかける。すると幽霊のノイズが激しくなり周りの景色もノイズが走る。これがもしヒカリの言う通りVRSJのバグなのだとしたら説明がつくが、今のわたしにはそれ以上のなにかがこの現象を起こしていると理解できた。今まさに、向こう側の世界からこちら側の世界に『境界線を越え(Beyond the boundary line)』ようとしているのだ。
「キョウコ!」
 わたしは手を伸ばす。キョウコの手を掴もうとするが、なにかがわたしとキョウコの間を阻んで手を掴めない。そうしている間にもキョウコの像はノイズで消え入りそうになっている。
「待って、いかないで、キョウコ!」
 わたしはさらにもがくが、境界線は越えられない。目の前にキョウコの手があるのに触れられないなんて。嫌だ。このまま離れ離れなんて嫌だ。そうしているうちにキョウコの像は消えていってしまった。そしてわたしの意識も朦朧としてくる。混濁。ブラックアウト。すべては闇に消えていった。

「私を見つけて」

 誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえる。意識が戻ってくる。ここはどこ。キョウコは?
「ハルカ! しっかりしてハルカってば!」
 体を揺すられ、否が応にも目が覚める。目を開けると、ベッキーとヒカリがわたしの顔を覗き込んでいた。二人とも目に涙を浮かべている。
「気が付いた? よかった~」
「ハルカ、苦しそうに唸ってたんだよ。なにを見たの?」
 わたしは見たままの光景を二人に話す。確証はなかったが、あの時見たのは間違いなくキョウコだった。
「キョウコは向こう側の世界からこっちの世界に来たがってたってこと? よくわかんない」
「やっぱり幽霊の正体はVRのバグだったんだよ。運営会社に問い合わせすればなにか対処してくれるかも」
「それは駄目」
 折角のヒカリの提案だが、わたしは即却下した。
「もしキョウコがバグとしてVRに遺っているのなら、運営に知られたらバグを消してしまうかもしれない。そうしたら、キョウコが向こう側の世界からこっちの世界に来られなくなっちゃう。最悪の場合キョウコの魂が消えてしまうかも……」
 不確定要素が多いこの現象だが、だからこそ不用意な手は出したくない。ただでさえ成功するかどうかもわからない向こう側の世界からの境界線越えなのだ。キョウコのためにもわたし達でなんとかしたい。
「でもボク達だけじゃどうしようもないよ。VRの専門知識だって持ってないし、キョウコの思想だって伝聞だけで理解だってできてないのに」
「……いや、確かにわたし達に知識はないけど、心当たりならある」
 わたしはWDの通話アプリを作動させてとある番号に電話をかけた。VRの知識があって、キョウコの考えに理解を示せる人物。一人だけだが、思い当たる人がいる。
「アライハルカです。突然で申し訳ありませんが、連絡先を教えていただきたいんです」
 わたしが電話を繋げたのはキョウコの家の電話番号だった――だが、心当たりがあるというのはキョウコのご両親ではない。そこからさらに連絡したい人物がいる。
「はい。ツカサさんの番号を教えてください。あとはこちらでかけ直します」
 キョウコの葬儀で会った従姉のツカサさん。彼女ならVRの専門知識を持っているしキョウコの思想についても知っているだろう。その人物が、キョウコを救う手掛かりになる。

 わたしが電話をかけてから1時間後、日が落ちて空がすっかり暗くなった頃にようやくツカサさんがやってきた。学校にも一応話をしておいて、シライワ先生も付き添ってくれている。
「いやぁごめんごめんお待たせ。機材の準備に手間取っちゃってね」
 ツカサさんは台車で機材を運びながら校舎裏の倉庫に来てくれた。台車にはなんだかよくわからない機材が山のように積まれている。
「すみません急に呼び出してしまって」
「いいっていいって。頼りにしてくれてありがたいよ。話を聞いた時は驚いたけど、こっちもいろいろ助かるからさ」
 ツカサさんは台車から機材を下ろすと、組み上げて設定し始めた。手際がいい。慣れていらっしゃる。
「でも本当なんですか、その、幽霊がででで、出るって」
 シライワ先生はびびりまくっている。それはそうだ。ここまでの過程の話をしないでいきなり「幽霊がキョウコだったんです!」と言われてすぐに信じられはしないだろう。なんのことだかわからなかったに違いない。
「ん~どうかな。私は幽霊とかいう非科学的なものは信じてないけど、キョウコがなにかを遺してるって言うならそっちを信じたいかな」
 ツカサさんはあくまで技術者として現実的な価値観を持っているようだ。それでもわたし達の話を信じてくれたのは、きっとキョウコの話を信じてくれていたからだと推察できる。やっぱり頼りにしてよかった。
「ほい、設定終わり。あとはこの機械がVRSJのログから周囲の蓄積記録をキャプチャしてこっちのディスクに書き込んでいくから、それが終わるまでは機材をこのままにしておいてください」
 うん、専門用語ばっかりでなにを言ってるかわからない。機材のファンが唸りをあげて動き始めた。これがキョウコを救ってくれるのだろうか。
「終わるまで手を出さないでおいたほうがいいってことですか」
「そう。一晩で終わると思うんで、あとはウチの研究所に持ち帰らせてください。結果はいずれ説明します。ハルカさん達も、それでいいかな?」
 ツカサさんから説明を受けてシライワ先生があわあわしている。この人に余計な手出しをさせないようにしよう。
「あ、いえ、その、キョウコはどうなりますか……?」
「結果が出るまではなんとも。でもバグでもなんにしろキョウコが遺したものならなんらかの痕跡のはずだ。やっと見つけた手掛かり、無駄にはしないさ」
 そのツカサさんの横顔は、確かに信頼できる力強さを秘めていた。

2-6

 キョウコの幽霊騒ぎから三ヶ月。未だツカサさんからの音沙汰はない。こちらから聞きに行っても迷惑になるだろうから連絡もしづらい。そうこうしているうちに、あっという間に4月になってしまった。キョウコがいなくなってから約半年。キョウコと過ごした学校生活が約半年だったから、キョウコがいた時間といなかった時間が同じくらいになってしまった。あんなに充実していて終わってほしくなかった時間が、こんなにも恋しいものになるだなんて。あの時はそんな想像すらしていなかった。心配なんて必要なかった頃だった。未来のことなんて誰にもわからない。あのキョウコですら、自分の未来はわからなかった。わからなかったからこそ、不安だったはずだ。いつまた心臓の病気が悪化するかもわからない。いつまでもわたし達退廃部との楽しい時間が続くかもわからない。そんな悩みを、誰にも相談できなかった。その辛さを、わたし達は分け合うことができなかった。後悔してもしきれない。後悔しないためには、今を精一杯生きていくしかない。それがキョウコの葬式で考え出した結論だ。

 そしてキョウコの葬儀から6ヵ月。もう一つの懸念案件がやって来た。業者に依頼していた遺骨ダイヤモンドが届いたという連絡をもらったのだ。それを今日、受け取りに行く。キョウコのご両親の家に、キョウコが半年前まで暮らしていた家に。
「こちらが、キョウコのダイヤモンドです」
 キョウコのご両親から小さな包みを頂いた。恐縮しつつ、包みを開ける。その中には、神社で買えるようなお守りが入っていた。
「保管できるようにお守りに入れて、お払いもしてもらいました。よろしければ、大切にしてやってください」
 ご両親の許しをもらって、お守りの中を確認する。お守りの中には確かに、でもとても小さな輝きがあった。キョウコの遺骨から造ったダイヤモンドがそこにあった。
「ありがとうございます。絶対大切にします」
 これはいわばキョウコの一部。それを預かるのだから、大切にしなければ向こう側の世界にいるキョウコに申し訳がない。
「実はわたし達、キョウコのご両親に渡したいものがあるんです」
 そうしてわたしは鞄からクリアファイルに入れた茶封筒を取り出した。それなりの厚みはある。それもそのはず、この茶封筒にはこれまでわたし達三人がアルバイトで稼いだお金が全額入っていた。自己申告なのでこっそり使っていてもバレはしないが、少なくともわたしは手を付けていない。
「これ、ダイヤモンドの代金の足しにして頂ければ……」
 流石に学生が半年働いただけでは何十万もするダイヤモンドの代金は全額払えないが、少しでもご両親の懐の助けになれれば、というわたし達の気持ちの表れだ。
「そんな……頂けません。これはあなた達が汗水流して働いて稼いだお金でしょう。自分のために使ってください」
 丁重にお断りされてしまった。突き返されたお金をもう一度差し上げるわけにもいかず、ここはわたし達が折れる形になった。元々キョウコのご両親のご厚意でダイヤモンドを発注してもらったのだ。お言葉に甘えて、受け取っておこう。
 キョウコの家からの帰り道。茶封筒のお金を銀行に預けて後でそれぞれのWDの口座に分けることになる。キョウコのご両親に直接渡すためにとはいえ、あれだけの札束を手にしたのは人生で初めてだった。ちょっとした嬉しい体験になった。
「ごめんね、ボクのぶんだけ少なくて……」
 ヒカリが申し訳なさげに落ち込んでいる。ヒカリはアルバイトを辞めたり探したりを繰り返してあまり稼げていなかった。といってもそんなこと学生アルバイトによくあることなのでなにも責任を感じる必要はないのだが、ヒカリは重く受け止めてしまっているようだ。
「ドンマイドンマイ! ファイトだよヒカリ!」
「そうだよ。ヒカリのぶんもわたし達が働くからさ。ヒカリはこれから自分に合ってる仕事を探していけばいいんだよ」
「うん……」
 お金を分配し終わって、今日のところは解散となった。元気なさげにとぼとぼと歩いて帰るヒカリの背中を、わたしは心配な目で見送るしかなかった。

2-7

 5月。わたし達の退廃部が始動してから一年。わたしがキョウコと出会ってから一年と一ヶ月。ツカサさんからの連絡はまだ来ない。そろそろ催促しても怒られないだろうか。三年生になったわたし達だったが、学業もそこそこに相変わらずアルバイトを続けていた。ダイヤモンドのお金を払わなくてもよくなったわたし達だが、働くことは辞められずにいた。お小遣いが増えるのも理由の一つだが、それ以上に今の生活に充実さを感じていたからだ。あれだけキョウコが憎んでいた社会だが、一度その歯車の一員になってみるとなかなか抜け出せなくなる。お金を稼いで自分自身が社会の一員になることで安心感を覚える。逆に社会から外れると途端に疎外感を覚え孤独を感じるようになる。社会の一員でなくなる恐怖が自分を襲うのだ。今のヒカリがそうだった。
 ヒカリはあれから新しい仕事先を決められずにいた。決まったとしても面接で落とされ、面接を通っても仕事でミスをして嫌になって辞める。そんなことの繰り返しでヒカリは疲れてしまっていた。
「もう駄目だ……ボクは駄目駄目人間なんだ」
 ヒカリは今日も頭を抱えて俯いている。ヒカリのネガティブはいつものことだが、ここ最近はそれもエスカレートしていた。
「大丈夫だよー。ヒカリはデキる子だよー」
 ベッキーがヒカリの頭を撫でて慰めているが、肝心の解決策はなにも出てこない。自分の進路先までわからないこの時期に、誰も未来のことなどわからなかった。

 そんな一方で、世間では新たな事件の噂が流れていた。今回は幽霊騒ぎのような冗談で済む話ではない。行方不明事件だ。
「この学校の近くで行方不明事件が頻発しているようです。みなさんも怪しい人にはくれぐれも気を付けてくださいね」
 ホームルームでシライワ先生からそんな忠告を受けたが、学生が個人で出来る対策などたかが知れている。自治体レベルで対策を練ってもらわなければどうしようもない。これも社会の問題の一つだ。
 そんな話を聞いていながらも、他人事のように思っていた。どうせわたしの知らない世界で誰かが解決してくれるのだろうと。あの時までは。

2-8

 予兆はあった。予想もできた。でもわたしはそこに思い至らなかった。他人事の振りをして目を逸らしていた。一般の社会の人と同じように。キョウコがあれだけ嫌っていたマジョリティとわたしは同じことをしていたのだ。だからこれはわたしに与えられた試練だ。

 5月11日。いつものように一緒に昼食を取っていたわたしとベッキーだが、どこか物足りなさを感じていた。箸もなかなか進まない。
「ヒカリ、今日もお休みだね。なにがあったんだろ?」
 そう、ヒカリがこの場に居ないのだ。今日だけではない。連休明けから一回も姿を見ていない。TTメッセージを送ってみても返信はなく、音信不通となっていた。心配は心配だが、ヒカリは時折気分が落ち込んだ時などに学校を休むことは前にもあった。こういう時は放っておくのが本人の心境のためにもいいと思い、過度な接触は避けてきたのだが……それは意外な形で裏目であったことを知ることになる。
「アライさんとフジヤマさん、ちょっといい?」
 ふと突然シライワ先生に呼び出され、廊下のほうへ付いて行くわたしとベッキー。なんのことかと半信半疑な気持ちで行ったが、衝撃の一報はシライワ先生の口からもたらされた。
「落ち着いて聞いてね。クライシヒカリさんのことなんだけど……行方不明になったんですって。ご家族が警察に届け出を出したそうなの」
「えっ……」
 茫然として開いた口が塞がらなかった。ヒカリのことだから仕事探しがうまくいかなくて塞ぎ込んでいるのだろう、と高を括っていたせいもあるが、自分の身近な友達がまさかそんなことになるとは思ってもいなかった。楽観視していた。気を使う振りをして干渉を避けていた。それがこんなことになるなんて。わたしは最低だ。
「事件に繋がることかもしれないからあんまり公けに言えないんだけど、二人は特に仲の良い友達だろうから本人からなにか聞いてたりしてないかな?」
 そう言われても、わたしもベッキーも寝耳に水でヒカリの安否すらわかっていない。しいて言えば最近落ち込み気味だったなくらいしか思い当たらない。友達なのに、なんと無力なのだろう。
「わたし達にもヒカリから全然連絡がなくて、友達なのに力になれなくて……ごめんなさい」
「いいの。気にしないで。きっと警察がすぐにクライシさんを見つけてくれるわ」
 そう励ましてくれて、シライワ先生は去っていった。残ったわたし達はなにもできず廊下で立ち尽くすしかない。
「ヒカリ大丈夫かな……」
「念のため何度かメール送ってみるよ。もしWDを付けてるなら見られるかもしれないし」
 望み薄だが僅かな可能性を信じてやれることをやるしかない。しかしそれ以上は学生のわたし達にできることはなかった。

 その日の夜。事件は大きな動きを見せた。わたしは夕食を済ませてお風呂に入り、湯船に浸かりながらヒカリのことを考えていた。なんの理由があって、どんな事件に巻き込まれたかは知る由もないが、もしわたしにできることがあればなんでもするつもりだ。なにかができたのになにもしないで後悔するのはもう嫌だ。キョウコの時のように手遅れになってからでは遅い。
 わたしがお風呂から上がって自分の部屋で髪を乾かしていると、WDにベッキーからTTメッセージの着信があった。
『ニュース見た!?』
 ニュースとはなんのニュースだろう。テレビなら我が家では食事中は見られないし風呂上りにも自分の部屋に直行したので見ていない。とりあえずWDで手近なニュースサイトにアクセスする。雑多なネットニュースの中に「NEW」と書かれた最新情報が更新されていた。その見出しに目が留まる。
『行方不明事件に関係? 謎の犯行声明がUPされる』
 これだ。根拠はないが確信はあった。その見出しをタッチして内容を表示させる。中にはこう書かれていた。
『本日午後4時頃、突如として人気SNSアプリ「ツインテイルズ」にとある動画が投稿された。この動画には映像がなく、真っ黒な画面に白い文字でなにかのメッセージが書かれているだけだった。動画の再生が進むと10秒辺りで音声が聞こえ始める。音声は発言者の声が加工されたもので特定はできないが、その発言内容が物議を醸している。内容を聞くとまるでテロリストが犯行声明を発表しているかのような主張が論理的に並べ立てられており、理解し難いものであった。今後政府の検閲が入る可能性があるため抜粋は避けるが、削除される前に一度自分の目と耳で確かめてみることをお勧めする。もちろん自己責任で』
 この記事は謂わばフリーのライターによる投稿記事のようだが、信憑性は高いようで「いいね」の数が四桁にもなっていた。わたしはとりあえずニュース記事を見たことをベッキーに伝える。
『ニュースは見た。動画ってなに?』
『これ見て!』
 すぐにベッキーから動画のURLがメッセージに載せて送られてくる。おそらく犯人とみられる人物がアップした動画のURLだろう。ショッキングな内容がそのまま再生されるかもしれない。それでもわたしは、興味以上の感情が高まり、そのURLにアクセスした。ヒカリの手掛かりがあるかもしれない。WDのアプリが起動して動画が再生される。わたしは息を呑んで見ることにした。動画は真っ黒の背景に白い文字で淡泊に『decadence resistance』と表示されていた。わたしがその文字の意味を考えていると、音声が聞こえてきた。

『社会の築いた規範の内側で生活している人類のみなさん、こんにちは(hello)。私達はデカダンス・レジスタンス(decadence resistance)――退廃に抵抗する者達です。私達はこれまで多くの同胞の命が喪われていくのを見送ることしかできませんでした。社会という枠組みの中から弾き出された私達にとってこの世界は地獄よりも辛く苦しい生き難い世界です。みなさんはその罪の意識もなく平穏に暮らしていることでしょう。スラム街のストリート・チルドレンを見棄てるのと同じことをみなさんは日常的に行なっているのです。
 ですが、私達はいつまでも死の時間が来るまで黙って指をくわえて待つわけではありません。みなさんのように社会の圧力に屈して自己の同一性(Identity)を退化させて個人の意志(Originality)を廃する生き方は人類の退廃を招く。その先は滅びの未来です。私達は自己を守るため抵抗します。自分が生きる道は自分で決める。それは退廃ではなく謂わばそう――人類の進化です。
 私達は人類の進化の一歩目を歩みだしたのです。今回の行方不明事件もその計画の一つ。彼等は被害者ではなく、志願者なのです。自分の意志で従来の人間の生き方を選ばず、進化の道を選んだ。私達は彼等のような勇猛な同志を歓迎します。だから心配しないでください。彼等はみなさんのような下劣な生き物であることを辞め、新たな人類として新しい生き方をこれから目指していくのです。
 もし、みなさんが私達を許さないというのなら、私達は戦う用意があります。交渉には応じるつもりはありません。武力を行使するのであればこちらも武力でもって抗います。みなさんの賢い選択を望みます。
 もしも私達のように進化の道を生きたいという人がいれば、私達は歓迎します。共に退廃に抵抗しましょう。私達は退廃したくない。あなたはどうですか?
 それではまたいつか、向こう側の世界で会いましょう。さようなら(See you later.)』

 わたしは動画が終わるまでの数分の間、目を離すことも聞き逃すこともしまいと必死に動画を見て音声を聞いていた。体が硬直していた。わなわなと震える指で動画アプリを閉じる。
 加工されていても、意図的に話し方を変えていても、これは間違いなくキョウコの声だった。わたしが間違えるはずがない。何度もあの美しい顔から発せられた声を、言葉を、聞いていたのはこのわたしなのだ。
 そしてこれをベッキーが報せてきたということは、ベッキーもこのことに気付いたからに違いない。わかりやすく『退廃抵抗』というワードを使ってネットに動画を上げたのだから、向こうにもなんらかの意図があってわたし達に報せようとしたのだ。なにを?
 もし、もしも、もしかしたら、何度も仮定であることを確認したうえで考えを明確化する。もしもわたしの想像が正しければ――

 キョウコは、生きている。





3-1

 わたしが犯行声明を聞いた翌日、わたしはベッキーを呼び出していつもの校舎裏の倉庫に来てもらった。
「なにを話したいかはだいたいわかってるよ」
 ベッキーも例の声明を聞いて察しがついたらしい。わたしは改めて確認するためにWDで犯行声明を再生した。
「この音声の主の話し方、口調の癖、そして『退廃抵抗』……わたしはこの声の主がキョウコだと思ってるんだけど、ベッキーはどう?」
 ベッキーは頭を捻るように首を傾げて考え込むと、覚束無い様子で言葉をひり出した。
「う~ん、ワタシもキョウコっぽいな~とは思ってたんだけど、でもそれだとおかしくない? なんで死んだはずのキョウコがこんなことしたの? そもそもキョウコは生きてるの?」
 もちろんその反応は正しかった。普通に考えれば死んで火葬まで済ませた人間がこのようなことをできるはずがない。
「考えられる可能性はいくつかある。一つはキョウコの生前に録音された音声がネットにアップされたかもしれないこと。でもそれだとキョウコが何ヶ月も先のことを未来予知したみたいに都合よく言い当てられている理由には足りない。もう一つはキョウコが話しているみたいに加工した音声であるかもしれないこと。これなら今時誰がやっても不思議はない。でもそれならなんでキョウコの声を再現したのかという謎も起こる。そもそも他人がキョウコの話し方を再現する理由もわからない。なんで今回の事件にキョウコを引っ張り出してきたのか、理由づけが難しい」
「ハルカは他の可能性を考えてるんでしょ」
 わたしは頷いた。
「わたしが考えているのは一つ……キョウコが生きている可能性」
 わたしの解答を聞いて、ベッキーはさらに頭を捻った。
「でもでも、キョウコは火葬場で骨になるまで焼けちゃってるんだよ? 遺骨のダイヤモンドだってワタシ達が持ってるんだよ? 生きてるのはおかしくない?」
「そう、わたし達はキョウコが亡くなったことを知っている。でもわたしには他の可能性が考えられないの。理由がなんであれ、あの音声はキョウコのものだった。事件にキョウコが関係しているならなにがどうなってるか確かめたい。もう手遅れになるのは嫌なの」
 わたしの想いを聞いてベッキーは難しく顔をしかめてから、無理やり自分を納得させたように意を決した顔でわたしを見る。
「う~ん、わかった。ハルカがそう言うならワタシも信じるよ」
「ありがとう」
 わたしはベッキーの手を取って強く握りしめた。いい友達を持ってわたしは幸せだ。
「で、どうするの。犯人に心当たりあるの?」
「……心当たりなら、ある」
 わたしはWDを操作してツインテイルズを起動すると、登録されているアドレスを選択して、メッセージを打つ。
『あなたに会いたい』
 わたしは祈るように想いを込めて、送信ボタンを押した。メッセージが電波に乗って送られていく。無事に届くだろうか。
「誰にメッセ送ったの?」
 ベッキーに聞かれ、わたしは毅然と答える。
「キョウコのアドレスに送った」
「えぇ!? でもキョウコのWDはもうないんじゃないの?」
 そう、本来なら亡くなった人間のWDは遺族が契約会社に解約を申請している筈だ。キョウコが亡くなってから半年以上経過しているのでアドレスも消滅している可能性が高い。だが、わたしは今もこのアドレスがキョウコに繋がっていると信じていた。
「もしWDが解約されていたとしてもアドレスは無くなってないと思う。でなきゃこの動画をアップした犯人がわざわざキョウコの振りをしてわたし達に気付かせるようなことをしないと思う……ただの願望でしかないけどね」
 すると、わたしのWDに着信があった。わたしもベッキーも体が強張る。慎重に、他の着信であるかもしれない可能性も考えて通知をタップする。着信はついさっき送ったメッセージへの返信だった。内容を読む。
『私も会いたい。今日の夜7時に校舎裏の倉庫に来て』
 背筋に寒気が走った。ぞわっと鳥肌が立つ。亡くなった人間に送ったメッセージが亡くなった本人から届く。本当ならホラーの心霊現象だが、今のわたしにとっては光明だった。
「キョウコに繋がった……」
「ここここれホントにキョウコからのメッセージなの!? 誰かのイタズラじゃないの!?」
「それは7時になったら明らかになるよ」
 約束の時間は夜の7時。すべてはその時に明らかになる。

3-2

 夜の6時50分。約束の時間10分前になってわたしとベッキーは学校に入った。夜になっているので人気はなく校内は静まり返っている。一応シライワ先生に許可は取ってあるが、言い訳をしたためこっそり忍んで行動している。
「いいのかな。シライワ先生にはキョウコに会うって言ってないよ。忘れ物を取りに来たとしか言ってないし……」
「正直に言って理解してもらえるとは思ってないよ。どっちにしろ犯人が来る時に他に人がいたら面倒なことになる。イタズラにせよなんにせよ、わたし達だけで確かめなくちゃいけない」
 キョウコが来ないと疑っているわけではないが、どんな可能性も考えておかなければならない。もちろん犯人が危険な人物であった場合に備えていつでも警察に通報できるようにWDをスタンバイさせてある。
「怪しい人だったらすぐに逃げてね」
 安全を確認し合い、気を付けて倉庫前まで来た。ここまで人の気配はない。誰が待っていたとしても驚かない。そう心に決めてわたしは倉庫の扉を開けた。その中には――

「やぁ、待っていたよ」
 倉庫の中で待っていた人物、それは――ヒカリだった。

「ヒカリ……どうして……」
 わたしとベッキーは驚きで茫然としていた。もちろんヒカリが事件に関わっていることは想定していた。犯人とまではいかなくてもなんらかの形で事件に巻き込まれ、行方不明になっていたと思っていた。それがキョウコのアドレスに送ったメッセージの返信、それにこの倉庫で待っていたのがヒカリだったとは……想像を超えていた。
「ボクも本当ならここに来る気はなかった。でも頼まれたんだよ。代わりにここに来てくれって」
「誰に?」
 ヒカリにここに来るように代わりを頼んだ人物。それがこの事件の裏に潜んでいる犯人だというのか。それを確かめる。
「それはもちろん……キョウコだよ」
 ヒカリの口から語られる真実。それはわたしが望んでいた通りで、でも心のどこかで違っていてほしかった名前。
「キョウコが生きてるの? 本当に……」
「嘘は言っていないさ。ボクも最初は信じられなかった。この目で見るまでは……君達も見たいかい?」
 ヒカリからの誘い。それは死んだ人間にもう一度会いたいか、という禁断の質問だった。答えは決まっている。わたしとベッキーは頷いた。
「そうかい。それじゃあ見に行こうか。そこに君達が求めていた答えがある」
 ヒカリはそう言うと倉庫の外へとわたし達を連れ出した。わたしとベッキーは素直にヒカリに従って行く。校舎の外に出ると、一台の車が停まっていた。黒いワゴン車だ。
「どうぞ乗って。大丈夫、危ない所へは連れて行かないからさ」
 ヒカリのことを信用していないわけじゃないが、用心してWDをいつでも通報できるようにしておく。もし万が一なにかあってもWDの位置情報追跡機能があれば警察が探し出してくれるはずだ。

 目的地に着くまで車の中でずっと沈黙しているのはなんだか嫌だったのでわたしとベッキーは溜まっていた鬱憤を晴らす如くヒカリに質問をぶつけた。
「ヒカリ今までどこ行ってたの? 家族とか学校にまで心配かけて。ワタシ達だって心配してたんだよ」
「それはすまなかったと思ってる。でも今のボクにはやるべきことがあるんだ。ようやくそのことに気付けた」
「ヒカリはどうやってキョウコに会ったの?」
「本当はボクもキョウコが生きているなんて信じてなかった。だけど最近までのボクはずっと気持ちが落ち込んで塞ぎ込んでいてね……助けを求めてた。でもハルカやベッキーには心配かけたくない。それでボクはキョウコのアドレスにメッセージを送り続けてたんだ。キョウコに届くわけがないとわかっていたけれど、そうすることで心の平穏を保とうとしたんだ。そしたらキョウコから返信が来た。『会いたい』って送ったら『私も会いたい』って返信が来たんだ。だから会いに行った。これからボク達が向かっている先に……キョウコはいる」
 ヒカリが語っている間に目的地に着いたようだ。車が停車し、ドアが開かれる。わたし達が車から降りると、見慣れない建物の前にいることに気付いた。看板には『東ヴァーチャル研究所』と書かれている。どこかで聞いたことのある名前だ。
「来ると思っていたよ」
 すると建物から一人の影が出てきた。その人物にわたしはまた驚愕する。以前わたしに東ヴァーチャル研究所で働いていると教えてくれた人物。キョウコの従姉のツカサさんだった。
「ツカサさん! ってことはここは……」
「そう、私の仕事場。そして今はデカダンス・レジスタンスの本拠地さ」
 ツカサさんは呆気なく本性を口にする。あの犯行声明が本当のことで、ツカサさんはその関係者である。そのことが当たり前の真実であると教えてくれていた。そしてそれ以上の真実がこの建物の中にある。それを暗示していた。
「さぁ入って。歓迎するよ」
 ツカサさんは研究所の入り口のセキュリティロックを開けてわたし達を入れてくれた。素直に従うしかない。中でなにが待っているのか想像もできないが、すべて受け入れよう。わたしはそう心に決めた。

 研究所の中を進むわたし達だったが、みんな押し黙って歩むしかなかった。社会科見学で来た時とは違うのだ。中の設備の説明もほとんどない。たまにツカサさんが非常口の場所と避難経路を教えてくれるのでいざという時は大丈夫そうだ。それでも疑いの眼差しはやめられない。この研究所の人達全員でわたし達を騙そうとしているならわたし達にはどうすることもできない。WDだけは手放さないようにしておこう。
「さぁここからは関係者以外には初公開。警察の人には内緒ね」
 ツカサさんが扉のロックを解除すると、中に招き入れた。わたし達も従って中に入る。その部屋は冷蔵庫のように冷たくひんやりと肌寒い。それに冷蔵庫のような箱が何十個も並んでいた。いくつものケーブルが箱から伸びている。なにかの装置だろうか。
「これはなに?」
「これは生命維持装置。中に人を入れて冷凍睡眠のような状態にして身体を保管するためのものだよ」
「なんのために?」
「それはこれから説明するわ。次はこっちよ」
 ツカサさんの指示のままにわたし達は次の部屋に通される。無機質な白い壁が続く廊下を通り、さっきまでとは違う重々しい扉の前に来た。
「ここの出入りには特別なID登録が必要でね。後で二人のIDも登録させてね」
 ツカサさんはセキュリティパネルに触れるとセンサーに目線を合わせて網膜をスキャンさせる。次に顔認証、指紋、声紋を認識させてやっとロックが解除された。何重にもセキュリティロックがかかっていてすべてクリアしないと中には入れないのか。それだけ重大なものがこの中にはある。緊張で冷や汗が出てきた。気を引き締めて、ツカサさんの後に続いて部屋の中に入る。
「ようこそ。ここがコントロールルーム。私達の司令部よ」
 部屋の中はさっきまでと異質な雰囲気を放っていた。いくつもの機械が中身を剥き出しにしてコードとケーブルが刺さったまま並べられている。モニターにはわたしでは読み取れないプログラムのようなものがいくつも表示されている。PCもあちこちに点在している。司令部というより、機械室だ。
「ここにキョウコがいるんですか?」
「どこにもいないよー」
「いるよ。今は目に見えていないだけ。ARDFを展開してご覧」
 ツカサさんに言われるがまま、わたしはWDを操作してARDFを展開させた。部屋の中に拡張現実を表示できる領域が広げられる。これで専用の眼鏡をかけずともARが目視できるようになった。
「さて、今からキョウコを『呼ぶ(call)』わね」
 ツカサさんが自分のWDを操作すると、なにも表示されていなかった領域にCGで映像が投影される。それは人の形を成していきその内に一人の少女の姿を現した。
「キョウコ……」
 わたしの目の前に、生きていた頃そのままのキョウコが出現した。CGで造られているとはいえ、キョウコを見るのは葬式以来だ。嬉しいような切ないような、複雑な感情が込み上げてくる。
「これ、キョウコなの? CGで再現しただけじゃないの?」
 ベッキーの意見も尤もだ。亡くなった人間をCGで再現しただけでは死人を生き返らせたことにはならない。CGはただのCGだ。だがツカサさんは首を横に振って答える。
「今はまだ肉体がないからCGで代用しているだけで、いずれは現実世界用の体を用意するつもりだよ。これがちゃんとキョウコだっていう証拠を見せてあげる」
 ツカサさんは端末のキーボードを入力し始めた。モニターにプログラムらしき文字列が続々と流れていく。するとCGに変化があった。
 キョウコの目が開いた。瞬きをする。口を開く。指先が動く。目が周囲を見渡す。息をする。あらゆる動作がまるで本物の生きた人間のようだ。そんなふうに観察していると、わたしと目が合った。
「また会えたね、ハルカ」
 その瞬間、目の前のCGはキョウコになった。わたしにはそう見えた。キョウコが今ここにいる。ARの世界の中だけど、現実世界にはいないけど、目の前にいるのは間違いなくキョウコだ。何故だかそんな確信があった。
「キョウコ……なの?」
「そうよ。私は私。タチバナキョウコ。信じられない?」
 信じる信じないじゃない。目の前にキョウコがいる。例えCGで再現したものでも、それは疑いようがない事実だ。驚きの方が勝って冷静な判断ができないでいる。
「本物なの?」
「なにをもってして本物と証明するかは定義によるけど、私は私を私足り得るための定義として観測理論を基に存在証明として定義したいところね」
 うん、このめんどくささはキョウコだ。本人の口癖を忠実に再現しているともいえるが、ここまでキョウコらしさを人工的に再現するのは骨が折れるだろう。プログラムするのも大変なはずだ。
「……どうしてキョウコがここにいるの?」
 ベッキーが素朴な疑問を口にする。そうだ、まずはそこから聞かなければならない。
「順番に説明するわね」
 そうするとツカサさんは大き目なモニターを引っ張ってきてそこに図式を書き始めた。わたし達にもわかりやすいようにイラスト付きで説明を書いてくれている。
「10月31日。キョウコの母親がキョウコの部屋で心肺停止状態のキョウコを発見した。すぐに救急車を呼んで病院に運んだけれど、蘇生には至らず死亡が確認された。午後6時11分のことだった」
 ツカサさんはあった出来事を淡々と述べ並べていく。事務的な報告をしているようでより淡泊さを助長している。
「キョウコが心肺停止する前、なにが起こったのか。私はそれを調べるためにキョウコのWDからログを洗い出してあらゆる記録を探した。そこでキョウコがとある実験をしていたログを見つけたの」
「実験?」
 わたしが首を傾げると、CGのキョウコが補足説明を入れてくれた。
「私が行った実験というのは、WDのVRSJ機能を使った人間の精神と肉体の完全なる分離、及びその仮説の実証実験よ」
 キョウコがそう説明してくれるが、わたしにはまだなんのことかわからなかった。ベッキーも首を傾げている。
「VRSJの機能が夢想世界への境界線を越える可能性の話は前にしたわよね」
 キョウコが確認の質問をしてきたのでわたしは頷く。ベッキーはまだわかっていない様子だった。
「私はあのライブの日の夜、ずっとやろうかどうしようか考えていた実験をする決心をした。思い立ったら吉日、私はすぐに決行した。深夜1時、実験開始。といっても難しいことではないわ。いつものようにベッドに寝て、VRSJをする。でも今回はWDの設定をいじって精神深度を基準値を大幅に超える改造をした。普通の手段ではできない危険な行為だったけど、私はやると決めたことはやりとげる人間なの」
「私がキョウコにVRSJの開発者用の設定変更のやり方を教えてしまったのが原因よ。反省してる。もう遅いことだけど」
 ツカサさんが懺悔するように告白した。VRSJの技術を研究しているツカサさんだからこそ知り得たやり方を、キョウコは使ってしまったのだ。
「簡潔に言えば、実験は成功した。私の精神は完全に肉体と分離してVRの世界に転送することができた。私の仮説は証明された。でもそこで予期せぬ事態が起きた」
 ツカサさんが図のキョウコからVR世界に伸びた矢印にばってんを記した。
「キョウコの肉体から分離した精神が元に戻らなくなってしまった。本来なら戻りたいと意識するだけでコマンドが実行されてVR世界から離脱できる。でも肉体から分離してしまったせいでWDが脳の電気信号を読み取ることができなくなって精神のログアウトもシャットダウンもできなくなってしまった。それどころか精神が肉体と完全に分離したことで肉体の生命活動が停止した……それがキョウコの死因の心肺停止に繋がってしまったの」
「そんな……じゃあキョウコは実験のせいで亡くなったってことですか」
 わたしは愕然とするしかなかった。あれだけキョウコの遺志を尊重して気持ちの折り合いをつけてきたのに本人の意思で向こう側の世界に逝ったわけじゃなかった。キョウコが悪いわけじゃないが、裏切られた気分だ。
「私達がもっと早くキョウコがやろうとしていたことに気が付いていれば対処できたかもしれない。少なくとも肉体を生命維持できるように保管しておいて精神を戻す方法がわかるまでとっておくことができていれば、キョウコは肉体を喪わずにすんだかもしれない。すべてもしもの話でもう取り返しはつかないけどね」
「じゃあ……じゃあキョウコは、死ななくてもよかったってことですか」
「ハルカ……」
「わたしがキョウコのことをわかってあげられていれば、キョウコの命を救うことができたかもしれない、そうだって言うんですか」
 わたしはツカサさんに詰め寄る。責めるべきはそこじゃない。それはわかっているけれど、この憤りをどこにぶつければいいのだろう。
「ハルカさん、キョウコの心臓の病気はいつ再発するかわからなかった。それが今回、実験の時に偶然キョウコの心臓が止まって、誰も対処法がわからなくて、キョウコは亡くなることになった。それはどんな理由であろうと、どんなに理不尽であろうと、受け入れなければいけないことなのよ」
 わたしは悔しかった。キョウコの命が助けられるならどんなことでもしたかった。それなのになにもできていなかった自分が歯痒い。
「話を先に進めるわね。私の精神が肉体から離れたことで私の意識はVR世界に取り残されてしまった。そのことに誰も気付かず、どうすればいいかもわからず、私はずっと独りでVR世界を漂っていた。いつか誰かが見つけてくれると信じて、私は待っていた」
「VR世界にいるキョウコを見つけたのは、ハルカさん、あなたよ」
「わたし?」
 わたしは意外なところで自分の名前が出て驚く。そして思い出した。例の幽霊騒ぎの時、キョウコは向こう側の世界から境界線を越えようとしていたのだと思っていた。でも実際はキョウコはVR世界にいて、バグとしてわたし達の目に幽霊として見えていただけだったのだ。
「あの時、私を見つけてくれたのはハルカなのよ。約束を守ってくれてありがとう」
「思ってたのとはちょっと違ったけどね」
 真正面からキョウコにお礼を言われてなんだか気恥ずかしい。それにわたしは約束通りに見つけられていたとは言い難く、てっきり死後の向こう側の世界からキョウコを引っ張り出そうともがいていただけなのだ。それがちょっと格好悪い。
「ハルカさんから報せを聞いて学校に駆け付けた時、私はようやくキョウコの手掛かりが得られると思っていた。それで倉庫のログを解析してたら、まさかキョウコ本人の意識がそこに残ってたなんてね」
 ツカサさんは自嘲気味に笑っている。まるで自分の不甲斐なさを笑っているようだった。
「どういう意味です?」
「キョウコの意識はずっとVR世界を彷徨っていた。でもその中であちこちの記録にキョウコの残滓が痕跡として残っていて、それがキョウコの存在を証明するものになっていた。そしてその中でも一番強い意識が残っていたのが、あの校舎裏の倉庫だったのよ」
「えっ!」
 わたしは驚いた。わたし達がキョウコがいなくなってからもずっといたいつもの倉庫に、キョウコはいたのだ。あれ以来あの場所でVRもARも使っていなかったので気付かなかったのは当然だが、こんなところでもニアミスしていたとは思わなかった。
「あの時の私はVR世界に残る亡霊のようなものだったから気付かなくても仕方がないことよ。バグ扱いされてたみたいだし、こちら側からはどうしようもなかった。そんな私をハルカは見つけてくれた。感謝しているわ」
 またもキョウコから面とお礼を言われてわたしは照れる。
「倉庫でキョウコの残滓を回収して、これなら他のところにもキョウコの残滓が記録に残っているかもしれないと考えてあちこち探し回ったわ。キョウコの部屋、通学路、退廃部のみんなで行った遊び場……いろんなところでキョウコの残滓を見つけた。ある意味これがキョウコの存在を証明してくれていたのかもしれないわね」
 退廃部の活動で行った場所が、キョウコの存在証明になる。新しい仮説だ。
「人間の存在の証明、それはどれだけいろんな人と一緒の時間を過ごすか、にあると私は思うわね。専門じゃないけど」
 ツカサさんの言う通り、わたし達が一緒にいる時間がキョウコの存在を証明していた。
「さて、キョウコの残滓の記録を集めて私達はようやく次の段階に移ることができた。それは――キョウコの意識を復元すること。VR世界に散り散りになったキョウコの意識を一つにまとめて人間の意識として復活させる。それが私達の新たな目標となった」
 ツカサさんはモニターに新しい表題を大きく追記した。次の目標とするものだ。
「開発中だったAIの計画を応用させてキョウコの意識の復元は行われた。そのAIの計画は亡くなった人の情報をかき集めて生前の人間の人格を再現するというもの。専門的な技術の方法については割愛するけど、計画は上手くいっていた。でもとある問題が起こってしまってね」
「問題?」
「問題というほどではないわ。ただ私の意識を元に戻したとして、それはデータの寄せ集めでしかない。それを一人の人間の意識として確立するためには、どうすればいいか考えていたのよ」
 キョウコ本人から解説が入る。専門的なことはわたしにはさっぱりわからないが、難しそうなことはわかる。
「そこで一つの仮説を立てた。キョウコの思想を実現させて、それが本人と瓜二つな考えを持つことを証明できれば少なくともキョウコの思想の再現にはなるんじゃないかと」
「そこにちょうど協力者が現れたの。ヒカリ、あなたよ」
 名指しされてヒカリは強張る。再会してからずっとヒカリの様子は気になっていたが、ここに来てようやく説明してもらえそうだ。
「ボクがキョウコにメッセージを送ったら返信が来て、ここに来るよう言われたんだ。そしたらコンピュータで再現されたキョウコを見せられて、協力してくれないかと誘われた」
「なんでハルカとワタシには言ってくれなかったの?」
 ベッキーが不貞腐れたように頬を膨らませる。
「この計画には目処が立つまで極秘にしておきたかったのよ。特にキョウコの友達の三人には秘密にしておきたかった。故人の精神を再現しているなんて知られたら怒られると思ってね。こういう研究は理解者が少ないんだ」
「そんなこと……わたし達だったら喜んで協力したのに……」
 またここでもニアミスが起きてしまっていた。
「実は他にも言えない理由があったんだけどね。それはちょうどこれから説明するよ」
 ツカサさんが新しい目標の上にさらに大きな丸を描いた。目標の上の大目標だ。
「キョウコの意識の再現を証明するためにキョウコの思想の再現実験をすることになった。それがちょっと問題なやつでね」
「私の思想、つまり退廃抵抗の活動の一環として一つの仮説の証明をする。それが――『人間の仮想世界への完全移住』よ」
 キョウコは大々的に宣言する。その意味とは。
「現実世界の人間には寿命があって、いつか必ず人間は死ぬ。私はその運命を変える手段をずっと考えてきた。自分の命がいつまで保てるかわからないというのもあったけど、私は人一倍人間の命、そして死後の世界について考えてきた。そこへVRSJの技術に光明を見たの。精神だけの世界――夢想世界と仮想世界、そして現実世界の境界線を越えられるようになれば、もう命を喪うことなんて考えなくてよくなる。死を超越して人類は新たな一歩を踏み出す。それを実現するのが『人間の仮想世界への完全移住』なの」
「……壮大過ぎてワタシにはよくわかんない」
 ベッキーはもう脳の許容量をオーバーしてしまったようだ。かくいうわたしもわかった振りをしてわかっていなかった。でもそうやってわかった振りだけをし続けてきたからキョウコのことを理解してあげられなかった。細かなニアミスがキョウコの悲劇を生んだのなら、わたしにできることは一つでも多くキョウコのことを理解することだけだ。
「キョウコ、続けて」
「続けるわね。その計画の一端があのライブの日の夜の出来事だった。私の仮説は間違っていない。でもやり方を間違えていた。この研究所で復元された私の意識は一つの考えに至った。生命維持を安全な状態で出来れば、実験は続けられる。ツカサ姉の助力を得て私は計画を進めることにした」
「表向きはAIの開発のため。でも実際はキョウコの意識を完全に取り戻すために私はどんなことでもやるつもりだった。例え禁忌に触れようともね」
 ツカサさんは思っていた以上にキョウコの死について負い目を感じていたようだ。血の繋がりがある親戚だからかもしれないが、その絆の強さがわたしには羨ましかった。
「実験の被験者にはネットで見つけたとあるコミュニティで現実世界に失望している人――率直に言ってしまえば、自殺を考えている人に協力してもらった」
「自殺って……」
「もちろん実験で危害が及ぶようなことはないように万全の安全対策を施しておいてあるわ。あくまで彼等を被験者にしたのは現実世界に失望していて仮想世界に現実逃避をしているという点において選んだの。」
「じゃあさっき見た生命維持装置って……」
 わたしは研究所で先程見せてもらった冷蔵庫のような箱のことを思い出した。まさかとは思うが、あの中に入っているのは……
「そう。あの中には意識を仮想世界に転送した被験者が保管されている。50名ほどね」
 わたしは背筋がゾッとする寒気を感じた。あの箱は仮想世界に旅立っている人達の体が入っている保管庫だったのだ。想像だにしない怖気さが襲ってくる。
「そしてこれが最近起こっていた行方不明事件の真実。彼等は家族や友達に秘密にしてこの実験に参加している。だから失踪扱いになっていたわけよ」
 被験者は自殺を考えているほど現実世界に失望している。それがもし仮想世界で生きていられる技術があって、その研究に参加してみませんか、という誘い文句に乗ったのなら家族には言えないだろう。
「せめて関係者とか家族には知らせておいた方がいいんじゃないの?」
「明かせるわけがない。これは言ってしまえば人体実験なの。非合法ではないけれど、公になれば確実に問題になる。この研究が中止にでもなれば、キョウコの意識を復元するという本来の目的を果たせなくなる。もう後戻りができないところまで私達は来ているの。キョウコのためにも、先に進むしかない」
 ツカサさんは必死な形相でわたしを見る。この人も倫理の限界まで来ているのだ。それでもキョウコのために自分の責を全うしている。
「被験者達も本人の意思でこの実験に参加している。彼等の声を聞いてみるかい?」
 そう言うとツカサさんはモニターの一つに映像を流し始めた。マルチモニターで複数の画面が映し出されている。そこには50人が思い思いに過ごしている仮想世界を見ることができた。
「会社員のカザマショウジさんは度重なる残業と職場でのパワーハラスメントで心を病んで現実から逃げたがっていた。実験に参加して仕事も職場もない開放的な生活を楽しんでいるよ」
「イマイミチコさんは病気でずっと入院生活を余儀なくされていたけれど、実験に参加して病気のない仮想世界での暮らしを謳歌している」
「中学生のタダイチローさんはゲームだけが生き甲斐で、学校も家族との会話もいらない仮想世界でゲーム三昧の毎日だ」
「大学生のマスダスズさんはいくらダイエットしても痩せられなくて、体重を気にする必要がない仮想世界で好きなだけ甘いものを食べまくっている」
「無職のホンマトシアキさんは二次元の女の子しか愛せない人で、仮想世界で愛する二次元美少女と結婚する夢を叶えるために実験に参加した」
「他の被験者達も自ら望んでこの計画に参加している。みんな現実が辛くて夢想世界に行きたがっているのよ」
 確かに、夢想世界は夢が現実になったような世界だ。でもそれは仮想の偽りの世界。現実ではない。彼等がどれだけ仮想世界での暮らしを楽しんでいたとしても、夢でしかないのだ。
「人の夢と書いて儚いと読む。皮肉な話ね。あれだけ手に入れたかった夢想世界が、近づいたことで手に入れられない夢であることに気付くなんて。でも私は諦めない。絶対に境界線を越えて向こう側の世界に逝くのよ」
 キョウコの決意は変わらない。キョウコはわたしと出会う前からずっと、この計画を考えてきたのだ。それが夢物語だなんて言われても、もうすぐ手が届きそうなのに今更諦めるなんてできるはずがない。わたしだってそんなキョウコを応援したい。でも……
「それでも、キョウコのやり方は間違ってる」
「ハルカ?」
 ベッキーもヒカリもツカサさんも訝しんでわたしの顔を見る。意外だと思われたのだろうが、わたしはキョウコといつも対面で話していたのだ。これぐらいの肝はある。
「キョウコの思想も研究も実験もわたしは概ね理解してるし、同意するよ。でも、他の人や関係ない人まで巻き込むのを見過ごすわけにはいかない。被験者の人達には帰るべき場所がある。多くの人を巻き込んで事件まで起こして、そんなことしてまで危険なことしてほしくない」
「ハルカさん、君は……聖人君子だね」
 ツカサさんにそう言われても少しも嬉しくない。わたしはわたしだ。わたしが許せるものと許せないものを決めるのはわたしなのだ。他の誰でもない、キョウコでもない。
「ハルカは、キョウコに戻ってきてほしくないの? 実験が成功すればキョウコの思想が証明されて、夢想世界の境界線を越えられるようになれば、キョウコは生き返るんだよ」
 ヒカリはわたしに強く言い聞かせようとする。わたしもその気持ちはわかる。だが曲げられない。
「わたしだってキョウコには戻ってきてほしい。でもこのままのやり方じゃ不幸になる人を増やすだけ。キョウコには真っ当なやり方で目的を達成してほしいの」
 あくまでわたしはキョウコの味方の立場だ。でも異議を唱えることができるのも全てはキョウコのためだ。動機も理念も同じだ。それでもなお、今のやり方には不満がある。
「ワタシもハルカに賛成! 危ない橋は渡らない方がいいもん」
 ベッキーもわたしの意見に賛同してくれる。図らずも計画を知らされなかった組と計画を知っていた組で別れることになってしまった。
「二人は楽観過ぎなんだよ。現実世界の大人が全員良い人なわけじゃない。真相を知ったら絶対反対されて止める人間が出てくる。だから今まで秘密裏に計画を進めてきたんだ。今更やり方を変えろなんて聞き入れられないよ」
「私達が一般的に許されない行為をしていることは理解している。けれど何度も言うけど後戻りはもうできないんだ。そちらも理解して納得してほしい」
 ヒカリも、ツカサさんも現状続行を求めている。意見は真っ二つに別れた。雌雄を決するには審判が必要だ。
「そう、わかったわ」
 そこへキョウコが双方の間に割って入る。公平な判断を下せる立場ではないが、キョウコが割って入ることでちゃんと仲裁になっている。主導権は常にキョウコが握っているのだ。
「なら私と二人でゆっくりお話ししましょう、ハルカ。納得するかしないかはそこで決める、というのはどう?」
「いいよ。わたしもキョウコと話したいことは山ほどあるし」
 キョウコの提案にわたしは了承した。元々キョウコとはゆっくりじっくり話したかったことだし、願ったり叶ったりだ。
「ならボクはベッキーと話をしよう。キョウコはハルカとの話し合いに集中してくれ」
「臨むところだ!」
 向こうはベッキーとヒカリで話し合うようだ。そのほうがきっとうまく話も運ぶことだろう。
「さて、ここで話すよりも都合のいい場所があるわ。仮想世界へ行きましょう」
「うん、わかった」
 わたしは快く了承する。二人きりで話をするなら仮想世界が一番手っ取り早い。
「キョウコの転送先は制限がかけられているから、研究所のサーバーにリンクさせておくわね」
 ツカサさんが端末を操作してわたしのWDと研究所のコンピュータとを接続させる。これで準備は整った。
「行ってくる」
 わたしはWDを操作してVRSJした。キョウコがずっといた、仮想世界へと。

3-3

 ハルカがVRSJしたことでこの場に残ったのはベッキーとヒカリ、ツカサだけになった。キョウコはすでに仮想世界へと転送されている。ツカサはもうモニター前の席に座って観覧者モードになってしまっている。
「どうぞ始めて。私は口出ししないから」
「なら遠慮なく。ベッキー、ボクはずっと前から君が……好きだった」
「ふぇ!?」
 ヒカリからの大胆な告白にベッキーは素っ頓狂な声を上げてしまう。
「キョウコとハルカに近づいたのも、ベッキーが二人と友達になったって聞いたから、少しでも関わりを持ちたくて参加したんだ。教室でずっと見てるだけの存在から変わりたくて、友達になりたくて、行動に移した。片想いで終わりたくなかったんだ……」
「そうだったんだ……ごめんね気付いてあげられなくて」
 ベッキーはヒカリの気持ちに気付いてあげられていなかったことを謝罪するが、ヒカリは首を横に振る。
「違うんだ。ボクはそんな謝ってもらえるような人間じゃない。卑しくて、汚らしくて、悍ましい人間なんだ……」
「そんなことない。これまで一緒にいて、ヒカリのこと悪くなんて思わないよ」
 自分を卑下するヒカリを、ベッキーは慰めようと近寄ろうとする。だがヒカリは拒んだ。
「ボクはベッキーに仲良くしてもらう資格なんてない。下心があって近づいたいやらしい人間なんだ……そのことをキョウコはとっくに気付いていた」
「キョウコが?」
 ヒカリが隠していた本性をキョウコは勘付いていた。人間観察が得意なキョウコだからこそ気付けた細かな信号をヒカリは自覚無く発信していたのだ。
「ボクが落ち込んでた時、たまに相談にのってもらってた。ボクの自責の想いをたくさん聞いてもらった。キョウコはボクのことを悪く言わず、でも全肯定もしないでほどほどに悩みを聞いてもらってた。キョウコはボクにとって友達以上の存在、恩人なんだ」
 ベッキーもハルカも知らないヒカリとキョウコの関係。それがこれほどまで深かったとはベッキーは知らなかった。それをここで打ち明けてもらえたのは、ベッキーとヒカリの仲が進展しようとしている証だ。
「キョウコが亡くなったと知った時、とても悲しかったけど、それ以上にもうボクの悩みを聞いてくれる相手がいなくなったことがどうしても脳裏に浮かんで離れなかった。これからどうしていこう。またみんなと仲良くできるだろうかって。だからハルカが新しい目標を言い出してくれた時、助かったと思ったよ。また退廃部のみんなで一緒にいられるんだって嬉しかった」
 ヒカリは遠い懐かしい出来事を思い出すように過去を振り返っている。つい半年前の、けれど短くはない期間だった。
「でもまたすぐに新しい悩みが生まれた。仕事を探しても自分に合う仕事が見つからなくて、目ぼしい所に申し込んでも採用されなかったり、仕事を始めても自分に合わなくてすぐに辞めたり、長続きしなかった。それがとても辛くて、誰にも話せなくて、途方に暮れてたんだ」
「そんな、ワタシ達に言ってくれればよかったのに」
「言えないよ。ただでさえベッキーとハルカはボクよりも働いて収入があって稼いでいるのに、ボクだけなにもできないで足を引っ張ることはしたくなかった。余計な心配をかけさせたくなかった。ボク独りで蹲っていた方がいいと思ったんだ」
「そんなこと……ないよ。ヒカリが辛い思いをしているならワタシ達だって辛い。気持ちがわかるから。ワタシだって毎日が楽しいわけじゃない。アルバイト先でも辛いことはいっぱいあるし、日常生活でも言葉が通じなくて困ることがいっぱいある。ワタシもヒカリも同じだよ。だから退廃部のみんなは同志になったんだよ」
 辛い思いをしているのはヒカリだけじゃない。ベッキーも、ハルカも、他の誰かだって毎日辛い思いをしながら生きているのだ。
「ごめん……でもこれはボクだけの問題だ。ベッキーやハルカを巻き込みたくなかった。でもキョウコは……AIになってもボクのことを理解してくれた。ボクにやるべきことを与えてくれた。それがこの実験だよ」
 ヒカリはモニターに映るキョウコの偶像に思いを馳せるように寄り添う。
「この実験が成功すればキョウコは生き返る。それだけじゃない。現実世界に苦しんでいる人達がみんな仮想世界で生活できるようになれば、悩みなんてなくなる。みんな自由に好きなように生きていくことができる。ボクのように自分の性に悩むこともなくなる。理想郷だ。キョウコはその偉業を成し遂げようとしている。それを邪魔させはしない」
 ヒカリは公私を混同していた。退廃抵抗の活動を自分の個人的な目的に重ねている。その姿がベッキーには見ているだけで辛かった。
「確かにキョウコの成し遂げようとしていることはすごいことだよ。でもみんなが仮想世界で生きるようになったら、現実の世界はどうなるの。ワタシ達が生きたこの世界をなかったことにしてしまうの。そんなの……悲しいよ」
 ベッキーは今にも泣きじゃくりそうな顔で目に涙をいっぱい浮かべていた。ヒカリはどうすればいいかわからずおどおどしているしかない。
「泣かないでくれ。ベッキーに泣かれたら、ボクも泣きたくなってしまう……ボクだって現実を棄て去るのは本当ならやりたくない。でもボク達にはもうこの現実世界に生きていられる場所はないんだよ。それこそ退廃抵抗の反社会運動でもしない限り社会は変えられない。だからあの犯行声明をネットに上げたんだけど……効果は薄かった。世界は簡単には変えられない。だからボク達にできることは別の移住先を探すことだけ。キョウコの実験は最後の希望なんだよ」
「ヒカリ……」
 ヒカリの縋る先はもうこの現実世界にはない。そう思い込んでいるヒカリに、ベッキーは優しく手を差し伸べる。
「ヒカリの生きていける世界なら現実にもあるよ。今は見つからなくても、ワタシ達が一緒になって探して、それでもなければ作ればいいよ。仮想世界だけが生きられる世界なんて悲しいこと言わないで。ワタシがヒカリの居場所を作ってあげる。ワタシ達がいる場所を生きる場所にしようよ」
「でもボクは……ボクは……」
 それでも苦悩するヒカリを、ベッキーは優しく抱きしめた。
「ヒカリはそんなに自分を追いつめなくていいんだよ。ワタシがいるから。ハルカもいるし、キョウコだっていつか一緒になれる時が来る。焦らなくてもいいんだよ。ゆっくりゆっくり進んでいけば、いつかヒカリも幸せになれる。それまではワタシにたくさん甘えていいんだよ」
「ベッキーは……優し過ぎるよ。だから甘えたくなってしまう。頼りたくなってしまう。それじゃボクはますます駄目になってしまう。自制するためには離れていなくちゃいけないんだ」
「遠慮なんてする必要ないんだよ。うんと甘えて、うんと頼って、素直になればいい。甘えられる相手がいるって、素敵なことだよ。ワタシもヒカリのこと、好きだから。これからも一緒にいよう?」
「うん……」
 ヒカリはもう抵抗することをやめた。今まで自分の気持ちに抗ってもがいていたけれど、その必要はもうなくなった。これからは頼れる友達と一緒に歩んでいけばいい。それがわかったんだ。
「青春だねぇ」
 その様子を、ツカサは羨ましそうに見届けていた。

3-4

 VRSJの浮遊感が終わり地に足が付いた感覚を覚えると、わたしは白い壁に囲まれた空間にいた。白い壁以外に何もない。光源もないのに真っ白に明るい。そんな空間のただ中に、キョウコがいた。
「さて、こちらはこちらで話をしましょうか」
 わたしはキョウコに連れられて空間の奥へと向かっていった。なんの飾り気もない無機質な白い通路。花も壁紙もない真っ白な壁。タイルですらない無地の床。白い通路をただひたすらに進んでいく。なんの変化もないからどこまで何m進んだかもわからない。
「ねぇ、どこまで行くの?」
 わたしは前を行くキョウコに尋ねた。するとキョウコはこちらに振り向くと微笑んで答えた。
「もうすぐ着くわ。ここはVR世界だから実際の距離は関係ないのだけど、セキュリティ上の防衛策だと思ってね」
 キョウコの口調はとても優しくて柔らかだった。温和で親切な口振りにわたしは、
「キョウコらしくない」
 と思った。それに小声で言った。それを聞いているのか知らずかキョウコは微笑しながら前を進む。
「ほら、着いたわ」
 気が付くとキョウコとわたしは白い扉の前にいた。キョウコが扉に触れると、扉のセキュリティシステムがキョウコのIDコードを読み取り、認証してロックを解除する。扉が開いて中のこれまた白い部屋が現れた。
「ここは?」
「ここはサーバーの管理室。ここで仮想世界のデータとVRSJしている人達の意識が保管されているサーバをチェックしているの。といっても物理サーバーは現実世界にあるから、ここでは仮想世界内のシステムチェックが主な役割ね」
 確かにこの部屋は先程わたし達がいたコントロールルームに似ている。たくさんのPCとモニターが並べられていて、サーバーの動作チェックを各PCで行っている。重要な施設だ。
「ここのシステムを停止させれば安全装置が働いて仮想世界にVRSJしている人達は強制覚醒させられる。そうすれば生命維持装置に保管されている人達は意識が肉体に戻って目覚めるわ」
 するとキョウコから一丁の銃を渡された。以前にキョウコが好きだと言っていたM1911モデルの拳銃だ。ご丁寧に50周年のマークが印されている点も一緒だ。
「これがサーバーを停止させるトリガー。この引き金を引けば、眠っている人達は目覚める。この偽りの世界を終わらせることができる」
「……もし引き金を引いたとして、キョウコはどうなるの?」
 わたしは聞かずにはいられなかった。
「私にはもう肉体がないから目覚めることはできない。居場所を失って消滅するだけ」
「そんな……できないよそんなこと」
 それではこの引き金を引くことはキョウコをもう一度失うことになるのではないか。わたしにはそんなことできない。
「罪を犯したAIには似合いの末路よ。バックアップもない、本当の意味でデータがロストするだけ。あなたが気に病むことではないわ」
「嫌だよそんなの……せっかくキョウコにまた会えたのに、もう一度会えなくなるなんて……」
 今にも泣き出しそうになっているわたしを、キョウコは両手でわたしの顔を持ち上げて目線を合わせてくる。
「聞いてハルカ。私達はもうすでに離れ離れになった本来交わらない存在なのよ。それが今回なんの因果か再び巡り合うことになっただけ。いつかは来る別れが早まっただけなのよ。あなたはこの半年強く逞しく生きてきたじゃない。悲しまないで前を向いて生きて」
「でも……でも……」
 わたしが煮え切らないでいると、キョウコは小さく溜息を吐いてわたしから離れる。
「そう、ならあなたが躊躇なく引き金を引ける話をしてあげる」
 キョウコはWDを操作すると管理室のモニターにテキストファイルを表示させる。
「あなたが引き金を引かないなら私は私の計画を遂行させる。人類をさらなる進化の道に至らせる、その名も『死越えの楽園計画』よ」
「え?」
 キョウコは大仰に両手を広げて計画の名前を叫ぶ。なんのことだかわたしにはわからなかった。
「私の真の目的、それは『人類を新しいステージに進化』させること。夢想世界と現実世界の境界線を越えることで人類は死を超越する存在になれる。そうなれば死の恐怖に怯えることもない、エネルギー問題も環境問題も政治も戦争も差別も貧富の差も宗教も全て気にする必要がなくなる。人々は仮想世界で好きなように生きて、死に縛られることなく運命を我が物にすることができる。そうすれば、人類は新たなステージに進化することができるのよ!」
 キョウコのいつもの大袈裟な大計画。哲学的で利己的で論理的なキョウコのぶっとんだ理論に、わたしはいつも振り回されてきたんだ。なんだかそれがとても懐かしいものな気がして、涙が引っ込んだ。
「……うまくいくの、そんなこと」
「そううまくはいかないでしょうね。何度も実験を繰り返してようやく辿り着ける夢のような物語だわ。でもね、ハルカ。私にはできるのよ。何故なら私はもう既に夢想世界に逝きながらもこうして現世に戻って来られたのだもの。私の存在そのものが証明となるわ。私自身の存在証明が、私の計画の証明となるわ。だからねハルカ」
 キョウコはわたしの手を取ると、自分の胸に引き寄せた。わたしはキョウコに抱き寄せられるように接近する。吐く息が重なるほど顔が近くなる。
「あなたが私を証明して。私のことを見つけて。私がここにいることをあなたが証明して。約束、したでしょ?」
 確かにわたしはキョウコの存在を証明するために観測すると約束した。でもそれはキョウコが現実世界で生きていた時の話で、もう現実世界に肉体がないキョウコのことをどうやって証明するというのか。
「わたしは、どうすればいいの?」
「私の遺骨から造ったダイヤモンド、持ってる?」
 もちろん今日も持ってきている。お守りに入れて首から紐で下げている。片時も離さない、キョウコの形見だ。
「持ってるよ」
「そう、ならいいわ。そのダイヤモンドは私の遺物。そして私達が同志の契りを交わした血判の契約書。それさえあれば私達の繋がりは永遠のものになる。黒魔術にも使えるかもね」
 キョウコのことだから黒魔術なんて非科学的なものは信じていないだろうが、そんな冗談も言えるほどこのAIのキョウコは再現度が高い。わたしはもうすっかりこのキョウコを本物のキョウコとして認識していた。そもそも仮想世界を漂っていたキョウコの意識を集めたものなのだからキョウコ本人で間違いない疑いようがないのだ。
「……ねぇ、キョウコはどうしてこの計画や実験をしようと思ったの? わたし達に内緒にしてまでやりたかったことなの?」
 わたしは聞かずにはいられなかった。わたし達を友達だと、同志だと信じていてくれたなら、何故あの夜わたし達になんの断りもなく逝ってしまったのか。それが知りたかった。
「あの日、あのライブで私は新たな一歩を踏み出す勇気をもらった。それまで口だけだった私の背中を押してくれたのはアリサの歌だけじゃない、レベッカ、ヒカリ、そしてハルカ。退廃部のみんなが友達になってくれたから私は新たな一歩を踏み出すことができた。本当はあなたと一緒に歩んで行きたかった。でもあの日、ライブが終わって私はあなたに聞いたわよね。『もし私が、向こう側の世界に一緒に行こうと言ったら、付いて来る?』って。そしたらあなたはなんて答えたか、憶えてる?」
 わたしは思い出した。あのライブが終わった後、キョウコはわたしだけを呼び止めて聞いたのだ。一緒に行かないかと。今思えばそれが運命の分岐点だったのだ。それに気付かずわたしは自分が楽しいから断ってしまった。キョウコの決意に付いて行ってやることができなかった。後悔してもしきれない。
「ごめんね、キョウコ。キョウコが新しい一歩を踏み出そうとしていたのにわたしは気付いてあげられてなかった。そのせいで結果的にキョウコは亡くなってしまった。わたしのせいだよね」
「違う、それは違うわハルカ。あなたはなにも悪くない。私がはっきり言わなかったから、心のどこかで迷っていたから、あんな曖昧なことしか言うことができなかった。私の落ち度、死んだのは自業自得よ」
 キョウコは優しい。わたしのせいではなく自分が悪いのだと。責を負うのは自分なのだと。それが結果的に肉体を喪って意識だけが仮想世界を彷徨うことになっても構わないと。そう言っているのだ。
「私は後悔してない。だって望む成果を得られたんだもの。私がこれまで生きてきて考えて編み出した推論が実を結んだ。夢想世界への道が見えただけでも御の字だわ」
 割り切るとしてもあまりにも悲し過ぎる自嘲に、わたしは返す言葉もなかった。後悔してないなんて絶対嘘だ。まだやりたいことだって山ほどあったんじゃないか。
「でもそうね、未練と言えば両親に別れの挨拶もできなかったのが心残りね。産み育ててくれた礼も恩も返してないし、ツカサ姉に遺言の伝言でも頼んでおこうかしら」
「だったら自分の口で言いに行きなよ。ご両親だって突然いなくなったキョウコに会いたがってるはずだよ」
「それは駄目よ。両親にはなにも言わない方がいい。娘が実験に失敗して死んで、その娘を模したAIを造ってるなんて、悪い冗談にしても悪質だわ。知らせない方がいい」
 不幸な真実を知るより、表向きだけの事実だけを知っている方が幸せなのだろうか。いつかは知らせなければいけないと思う。いつが最適なのかはわたしにはわからないけど、家族なんだから話しておいた方がいい。他人からのお節介かもしれないけど。
「なんだか思い返したら後悔はしてないけど未練らしいものはいくらか残ってるものね。退廃抵抗の活動も中途半端なままで終わってしまっているし、ヒカリに私の後釜は荷が重いでしょうし……」
「キョウコの代わりなんて誰にも務まらないよ。だから帰って来てよ、キョウコ。またいつもの倉庫で作戦会議して、帰りに好きなもの食べて、それでまた明日って家に帰って、寝るまでメッセージ送り合って、」
「そうね。それができれば幸せでしょうね。でも……永遠に続く幸せなんてないのよ」
 そう言うキョウコの顔はとても悲しそうで寂しそうで、後悔がないなんて嘘を言っているのがバレバレだった。
「私はね、ハルカ。怖かったの。あなたと出会って、人と関わることの大切さを知った。レベッカとヒカリと出会って、友達の尊さを知った。他にもたくさん知ることができたわ。あなた達と過ごす退廃部の活動はそれはもう楽しくて幸せだった。でもね、同時に怖くもあった。いつかこの幸せにも終わりが来る。いつ私の心臓がまた悪くなるかわからない刹那的な人生を生きてきた私には死の恐怖は身近なものだった。だからこそ夢想世界の境界線を越えることに執着していたのね」
 キョウコは自分の胸元を忌み嫌うように握り締めていた。キョウコはずっと不安と恐怖で胸をいっぱいにしていたのだ。それをわかってあげられなかったのは友達であるわたしの落ち度だ。
「キョウコはずっと辛かったんだよね。自分の心臓の病気と闘ってきて、それを誰にも弱音を吐かずに自分の胸に仕舞い込んで。本当はその辛みをわたしがわかってあげられていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに……」
 わたしがキョウコに寄り添おうとすると、キョウコは顔を背けて離れてしまった。まるで自分の悲しんでいる顔を見られたくないように表情を隠している。
「怖かったのはそれだけじゃない。もう一つの懸念材料があった。それはマジョリティとマイノリティの板挟み。今までずっと私はマイノリティとしてマジョリティを忌み嫌って生きてきた。でもハルカ達と出会って遊ぶようになってどんどん自分がマジョリティと変わらない人間になっていく自覚があった。それが怖かったの。今まではマイノリティの代表として退廃抵抗の戦いを主動するつもりだったのに、自分がマジョリティになってしまったら誰がマイノリティの代わりに戦うというの。私にはもうマイノリティの代弁はできない。旗はもう振れない。生き甲斐にもしていた退廃抵抗が、私のアイデンティティが崩れていく気がして、怖かった」
「キョウコは変わったんだよ。友達と遊ぶ楽しみを知ったとしても、マイノリティの人達の心がわかるキョウコならマイノリティのために戦えるよ。キョウコは自分の目指すことをすればいい。退廃が社会の圧力に屈して自己の同一性(Identity)を退化させて個人の意志(Originality)を廃することなら、キョウコがその信念を忘れなければ戦っていけるよ。だってキョウコが発案した退廃抵抗だもん」
 わたしとキョウコが出会ったあの始業式の日。キョウコの語る思想の話に、わたしは興味を惹かれたのだ。
「キョウコが言ったんだよ。『私は退廃したくない。あなたは?』って。あの答えを出すのにわたしは一晩中考えたんだよ。退廃抵抗に誘ってくれたのはキョウコじゃない。だったら最後まで退廃部の部長でいてよ。わたし達の先頭に立って導いてよ。わたしの前からいなくならないでよ!」
 わたしは思いの丈を思うがままにキョウコにぶちまけた。キョウコは少し呆気にとられたような顔をしたが、すぐに微笑んでいつもの調子に戻った。
「ハルカがそんなに大声出すなんて、珍しい」
「だってキョウコが言わせたんだよ」
「そうね、私のせいだわ」
 キョウコは堪え切れずに笑いだしてしまった。なんだかわたしもばつが悪い。思いの丈をぶつけたつもりだったのに、こっちが恥ずかしくなってきた。
「でもそうね、私が悪いついでに、頼まれてくれない?」
 キョウコはなにもない空間から鞄でも開けるような動作をして数冊のノートを取り出した。キョウコがいつも持っていたノートだ。
「私のノート、家の部屋にまだたくさんあるはずだから、ハルカに預かってほしいの。捨てられても困るし、死蔵されてももったいないし、あなたに預けたほうが有効に使ってくれそうだわ。中身を読んでくれても構わないから」
「いいけど……」
 わたしはキョウコから仮想世界のノートを受け取る。するとノートはデジタルの粒子になってわたしのWDに吸い込まれていった。
「さて、もう未練らしいものも出し切ったし、そろそろお別れね」
 そう言うとキョウコは両手を広げてわたしのほうに近づいて来た。私を撃てと言っているようで、わたしはたじろぐ。今ここで撃ってしまったらサーバーが停止して被験者の人達は目覚める。でもそうしたらバックアップをとっていないキョウコは消えてしまう。そんなことわたしにはできない。
「ねぇハルカ。私ね、二年生の始業式の日にあなたに出会えて、幸運だったと思ってる。始めはどんな誰が同じクラスになるかわからなくて不安だったけど、私には確信に似た自信があった。必ず同志になる仲間が現れるはずだって信じてた。そうしたらあなたが私に話しかけてきた。私はそれがとても嬉しかったのよ。私の酔狂な話を聞いてくれて、私の馬鹿話に付き合ってくれて、あなたは私にとって最高で一番の友達だった。感謝しているわ」
 これはキョウコの嘘偽りのない素直な言葉だ。キョウコがここまでストレートに告白することが今までなかったので面食らったが、わたしも負けじと反論する。
「わたしも、始業式の日にキョウコに出会ってなかったらこんなに人生が楽しくなるなんて思わなかった。キョウコと二人きりだったときも楽しかったけど、ベッキーとヒカリが一緒になって退廃部の活動が始まってからはもっともっと楽しくなった。それもこれも、キョウコが始まりの一歩をわたしに歩みださせてくれたからだよ。ありがとう」
 嘘偽りない言葉には嘘偽りない言葉で返す。それが礼儀であり友達同士の証だ。今度はキョウコが恥ずかしくなる番だった。照れて顔が紅潮している。かわいい。
「ハルカ、私を見て」
「うん」
 わたしは赤くなったキョウコの顔をまじまじじっくりと見る。白い肌がピンク色になっているのがキョウコの美人さをより強調しているようだ。
「ねぇハルカ。今の私は、あなたにはどう見えてる? 私はちゃんとここにいる?」
 わたしはなんて答えればいいのだろう。今ここにいるのは仮想世界のキョウコだ。わたしもVRSJでデジタル化されたわたしだ。それを見たところで、キョウコがこの場に居る証明になるのだろうか。
「ねぇハルカ。私を観測して。私が私であることをあなたが証明して。どこにいっても、あなたが私を見つけて」
 そこにいるのは、まぎれもないキョウコだ。キョウコの姿で、キョウコの声で、キョウコの思考で、キョウコの意志で、キョウコの意識だ。でもそこに、現実世界で生きていたキョウコはいない。肉体はもう喪われてしまった。遺骨のダイヤモンドは今も肌身離さず持っている。では今目の前にいるキョウコはなんだ? なにをどうすればこのキョウコがキョウコであると証明できる?
 わたしは一つの答えに辿り着いた。
「ねぇキョウコ。わたしもキョウコに出会うまでは退屈でつまらない毎日にうんざりしてたただの女子高校生だった。でもキョウコと出会って、わたしは変われたの。わたしは今、人生が楽しい。それはあなたのおかげだよ、キョウコ」
 わたしはいつの間にかダイヤモンドの入ったお守りを握りしめていた。決意が鈍らないように、肝心な時に迷わないように、心をしっかりと握り締めた。
「でもね、キョウコ。あなたはもう向こう側の世界に逝ってしまった。あなたは仮想世界に漂っていた意識の残滓に過ぎないのかもしれない。でもわたしにとっては、肉体を喪っても、デジタルデータになっても、あなたがどんな姿になっても、キョウコはキョウコなんだよ」
 キョウコに渡された拳銃を両手で構える。狙いがブレないようにしっかりと、脇を締めて支える。
「仮想世界か現実世界かなんて関係ない。あの時、退廃部のみんなと一緒に過ごした時間は、仮想(Virtual)世界での出来事だったけど、間違いなく現実(Real)なものだったから。だから、だから……」
 わたしはもう涙を堪えるので精一杯だった。あれだけ考えた言葉が出てこない。最後のお別れなのに、このままじゃまた後悔が残ってしまう。それだけは嫌だ。
 するとキョウコはモニターにペンを走らせてある数列を書き出した。
『1+1≒1』
 思い出した。わたしとキョウコの二人だけの合言葉。もしも『わたし』が消えてしまっても『あなた』が観測した事実は変わらない。何かが二人を分かつまで『わたし』と『あなた』は『ふたりでひとつ』キョウコはそう言っていた。
「約束してハルカ。『わたしとあなたはふたりでひとつ』これを忘れないで」
「……うん」
 今度はしっかりと理解して頷く。もう忘れない。わからないなんて言って逃げない。キョウコの言うことを真正面から受け止めて、自分の中に生かすんだ。キョウコの分までわたしがこれからも生きていくんだ。
「最後に一つだけお願い。私の名前を呼んで」
 キョウコの顔は、もう安らかだった。わたしも決心を揺るがない。
「愛してるよ(I love you.)、キョウコ」
「私も愛してるわ(I love you, too.)、ハルカ」
 互いの気持ちを確かめ合って、わたしは引き金を引いた。



Epilogue

 5月20日。わたし達が研究所に行ってから一週間が経過した。わたしが引き金を引いた後、サーバーは停止して生命維持装置に入れられていた人達は50人全員目を覚ました。仮想世界に未練を持った人もいたが、事情を説明したら皆納得してくれた。
 警察には大まかな事情の説明をしたが、何分研究所内の仮想世界限定の実験だったため50人以外の被験者はおらず、事件はあっという間に終息した。首謀者はもういない。協力者であるヒカリは未成年であること、それから事件自体が内々で解決したこと等から厳重注意を受けるだけで終わった。
 もう一人の協力者で実質実験を主動していたツカサさんは警察に連行されていったが、罪には問われなかった。被害者の行方不明者は50人全員怪我もなく戻って来たし、彼等自身が自分の意志で今回の実験に参加していたということもあり、誰も告訴せず不起訴となったのだ。もちろん無罪放免となったわけではないが、彼女の責は贖罪ではない形で誠意を見せることになりそうだ。
 キョウコのご両親には真実は伝えていない。キョウコの遺言のこともあるが、これ以上ショックを与えてしまうのは得策ではないと判断したためだ。それでもいつかは本当のことを知る必要がある。ただそのいつかを決めるのはわたし達ではない。

 わたしが引き金を引いた後のキョウコの消息を知っているものは誰もいない。そもそもあの場にキョウコはいたのだろうか。わたし達が見たのはあくまでCGで再現されたキョウコだ。キョウコの意識も記録をかき集めて再現したAIに過ぎないともいえる。では本物のキョウコはどこにいたのか。なにをもってして本物のキョウコと断定できるのか。
 わたしは、キョウコはもう向こう側の世界、夢想世界、死後の世界に逝ってしまったのではないかと考えている。本心としてはキョウコにもう一度会いたい、その想いがあの研究所で叶った。それがとても嬉しかった。でも心のどこかで『キョウコはもう死んでしまっていて、今ここに見えているのは仮想(Virtual)のキョウコなんだ』と悟ってしまっていたのは否定できない。
 だからわたしが引き金を引いたのは仮想のキョウコを終わらせるため。死んだキョウコのために偽りのキョウコを消してしまいたかった。でもそれはわたしの傲慢で、間違いだったかもしれない。後で何度も反省して後悔して涙を流すことだろう。でもわたしはもうキョウコを喪う幻肢痛を知ってしまっている。喪った痛みに耐えて生きるのも、この現実世界に残された人間であるわたしに課せられた試練だ。

 ところで、ベッキーとヒカリはあれからいつの間にか付き合いだしたらしい。しょっちゅう二人でいちゃいちゃべたべたするものだから、祝福するのにも飽きて最早鬱陶しさすら感じる。
 わたしはといえば、そんな甘い話はどこにも転がっているわけがなく、今まで通りにバイトに勤しんで、受験生だから勉強に精を出して日々頑張っている。ここにキョウコが居ればその虚しさも埋めてくれたのだろうが、いない人間を頼ってもしょうがない。
 これからも退廃部の退廃抵抗の活動は続けていくつもりだ。おそらくわたしとベッキーとヒカリの進路がそれぞれ違っていたとしてもわたし達はいつまでも同志で友達だ。もちろんキョウコも含めて。退廃部で過ごした楽しくて幸せだった日々は絶対に忘れない。遠い思い出になったとしても、わたし達の友情は永遠のものだ。

 わたしは生きていく。この現実世界で、わたしの人生を、あなたのぶんまで。
「そう、あなたなら大丈夫よ、ハルカ」
 どこかからキョウコの声が聞こえた気がした。

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