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連載長編小説『美しき復讐の女神』17-2

 太一が帰宅したのは午後七時を回ってからだった。八時を回っても帰らなかったら夕飯にしよう、と美代子とは話していた。今日ほど父の帰りを待ち望んだ日はなかった。結局隼人は、凛の存在を警戒して一度も部屋を出ることはなかった。母が様子を見に来て、「お餅はどうする?」と訊かれたが、食欲はなかった。胃袋は空っぽのはずだったのに、本当に食欲を感じなかった。だが不思議なもので、早々に尿意を催した。だが凛を警戒して、隼人はトイレにも立たなかった。太一が帰宅して、一つようやく解放された。
 リビングに移ると、当たり前のように凛がダイニングテーブルに座っていた。美代子は無言で食器を並べているが、太一は楽しそうな笑顔で凛と話をしていた。
 太一は、凛と対角線上に座った。隼人は、父が凛の隣に座ることを期待した。なぜなら普段父と母が並んで座り、対面に隼人が座っているからである。つまり太一が凛の対角線上に座ったということは、凛の隣には自ずと隼人が座ることになる。隼人はそそくさと父の隣に落ち着こうかと思ったが、凛を正面に迎えるのも気が引けた。美代子が太一の隣に座ったこともあり、隼人は凛の隣に着席するしかなかった。
 隼人は腰を下ろすのと同時に椅子を凛から遠ざけた。
 太一は缶ビールを二本冷蔵庫から取り出し、一本を凛に手渡した。太一が凛のグラスに、凛が太一のグラスにアルコールを注いだ。準備万端、とでも言うように大きく頷いた太一は改めて新年の挨拶を述べ、凛の帰省を歓迎した。それから、四人でおせちを平らげた。食事中は太一がずっとしゃべっていた。ビールは一本しか飲んでいないから、酔っ払っているわけではない。ただ、太一は凛の二十歳の誕生日を一緒に祝えなかったことをひどく後悔していた。そのこともあって、食事中の父は頗る機嫌が良かった。警察官の激務など忘れ去るほどに。
 食事を終え、テーブルから食器が片付けられると、凛が三人を集めた。太一と美代子は食事中と同じように席に着いたが、隼人はテーブルの上が見えるようソファの上で座り直した。
「東京での生活、話しておこうと思って」
 凛は柔らかい口調で言ったが、その目は親を軽蔑しているのかと思うほど険しかった。
「食っていけてるのか?」
 太一はたまらず問いかけた。実は食事中に、凛の近況について太一が質問していたのだが、凛は答えずにいたのだ。その反応に太一は不安になったのだろう。隼人はもちろん、両親も凛がどうやって生活しているのかを知らなかった。もっとも美代子はあまり興味がないらしく、席についてはいるものの視線を落としてぼんやりしていた。
「それなら大丈夫。お金のことは心配いらない」
 太一はこくこくと頷いてはいるが、どこか怪訝な顔になっていた。
「私、キャバクラで働いてるの」
 美代子の顔が上がった。眉間に皺を刻んで凛を睨んでいる。太一は困惑顔になって、凛を見つめていた。
「それは」太一が口を開いた。「それはホステスをしているってことか?」
「そうよ」
 凛の答えに、太一は黙って目を閉じた。父親として、娘が水商売に身を投じるのだけは容認できないのだろう。その恥辱の限りを今まさに痛感しているような、そんな顔だった。
「汚らわしい」美代子は顔をしかめて言った。「何て親不孝な娘なの」
「凛……父さんは――」
「親みたいなこと言わないで!」
 凛は激しくテーブルを叩き、立ち上がって両親を睨んだ。隼人は、ソファの上で茫然とした。今の状況がまったく理解できなかった。美代子に対する言葉なら理解ができる。なぜなら凛は美代子のお腹から生まれた子供ではないからだ。凛の母親は、あの新聞記事にあった篠木渚という女性に違いない。隼人はそう確信していた。
 しかし凛は太一にも同じ視線を向けている。凛は太一と篠木渚の子供のはずだ。なのに凛は――。
「これは……」
 凛の取り出した封筒を見て、美代子が声を漏らした。太一は封筒をじっと見下ろし、黙っている。隼人はソファから立ち上がって凛の差し出した封筒の表書きを見た。
 それは、DNA親子鑑定の結果報告書だった。
「見ないでもわかるわよね?」
 凛の視線は、太一にだけ向けられていた。太一は狼狽の色をまったく見せず、「ああ」とだけ小さく言った。
 封筒を手に取ったのは隼人だった。太一は結果をすでに把握しており、美代子は動揺のあまり書類を手に取ろうとしない。隼人はDNA親子鑑定の重大さなどまるで考えず、封筒から書類を抜き取った。
 そこには相馬太一と相馬凛の遺伝子検査の結果、血縁関係は認められない旨が記載されていた。
「凛とは、まったく血の繋がりがなかっ……た?」
 隼人は混乱した。書類をテーブルに置き、ソファに戻って考えた。取り乱すことなく、澄ましてソファに座った隼人だが、思考はショートしていた。この状態を一字一句漏らさず記録した文章が目の前にあったとしても、まるで理解できなかっただろう。
 だが隼人は、凛が突然帰って来たあの日の行動が、凛にとって計画性のない行動ではなかったことを悟った。あの日、凛は太一のDNAを採取するために現れたのだ。隼人は、凛に襲われたことで頭が一杯だった。それから一週間の間、隼人は塞ぎ込んで部屋に籠っていた。太一の様子の変化など、わかるはずもなかった。だがようやく合点がいった。なぜ凛が突然帰省したのか。
 それでも不可解な点はまだあった。凛の本当の母親が篠木渚であると考えるのは隼人も自然なことだと思った。切れ長の目に宿る恐ろしいまでの美しさ、あれほど容貌の似ている人物はそういない。だが凛はなぜ太一が自分の父親ではないと考えるようになったのか。
 そしてもう一つ。
 凛は太一と篠木渚の子供ではない。それなのになぜ凛は太一に引き取られたのか。太一はなぜ血の繋がりのない凛を我が子として育てようとしたのか。
 後者について質問しようと隼人は振り返った。ところがダイニングテーブルの上は、恐ろしいほどの殺気で溢れていた。それが誰から発せられているのかはまるでわからないほどだった。過去を暴かれた太一、軽蔑を滲ませる美代子、出生を知った凛、三人の憎悪と愛情の視線が交錯していたのだ。
 その圧迫感に隼人は吐き気を催した。喉が締め付けられるようで、苦しかった。それでも隼人は、ソファの上から動けなかった。

18へと続く……

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