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連載長編小説『美しき復讐の女神』7

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 チャイムが鳴って四限が終わると、隼人は鞄からプレゼント用の包みを抜き取り、下野にしっかり背を向けて立ち上がった。包み紙の中には新宿の百貨店で購入した髪飾りが入っているわけだが、これを見つけた下野は和葉へのプレゼントだと察するに違いない。
 下野に冷やかされるのはもちろんのこと、和葉にプレゼントをしたことが周囲に知れれば、たちまち噂が広まってしまう。恋の噂は高校生の大好物だ。どれだけ煙たがられようと、しつこく追究してくる。そんな者達に一々説明するなど、考えただけで骨が折れた。
「隼人、昼飯は?」
 下野に呼び止められ、隼人の全身に緊張が走った。和葉に対して恋心を抱いているわけでもなく、これから告白するわけでもないのに、実は隼人は四限の途中からじわじわと変な緊張をし始めていた。
 しかし今は、それとはまた違う緊張を隼人は覚えたのだった。包み紙を隠すために、隼人は首だけを下野のほうに回した。
「もう食べた。今日、授業の合間に早弁してただろ?」
 隼人は和葉よりも早く図書室に入るため、授業の合間に少しずつ弁当を食べていた。
 もちろん、和葉よりも早く図書室に入るという目的は早弁の理由の一つではあったが、最も隼人が懸念していたのは、少しずつ弁当を食べておかないと、昼休みになった時には緊張して食事が喉を通らないのではないか、ということだった。実際に昼休みになって、早弁しておいてよかった、と隼人は思った。
「今日何かあんの?」
「進路指導室に呼ばれてるんだよ。俺の推薦のことで何か用事があるらしい」
 隼人はわざと他人事のように言った。そうすることで、詳しいことは聞かされていない、と下野に示すためだ。
「ふうん」
 下野が弁当箱を開けながら首を振るのを見て、隼人は安堵した。早弁も、昼休みになった直後に教室を出ることも、ひょっとしたら誰かに不自然がられるかもしれないと思い、進路指導室に用事があるという言い訳を事前に用意しておいて正解だった。隼人は、超然と嘘を言ってのけたのだった。
「急ぐから、もう行くよ」
 隼人は教室を出て、ようやく包み紙を持つ手から力を抜いた。渡り廊下を歩きながら、やはり進路指導室に用事があると言ったのは正しかったな、と思った。はじめ隼人は部活を言い訳にしようかと考えたのだが、今日はおそらく和葉と教室に戻ることになると予測し、ならば部活を口実にはできなかった。進路指導室なら、図書室のある校舎の別の階だし、堂々と渡り廊下を歩ける。それに遠回りしていては和葉のほうが先に図書室に入る恐れがあった。進路指導室からの帰り際に図書室に立ち寄っても、特に不自然ではない。
 うまい言い訳だったな、隼人はそう感じ、我ながら自分を褒めてやりたくなった。
 図書室に入ると、空調の音だけがわずかに聞こえた。昼休みに入ってすぐのため、生徒は誰もいなかった。隼人は書架から面白くなさそうな小説の文庫本を手に取り、書棚に据え置かれているソファに腰を落ち着けた。
 冒頭を読むと、なかなか興味を引かれる書き出しだったが、和葉が今来るか今来るかと思うと気が気でなく、小説の内容などまるで入って来なかった。結局冒頭の文章を繰り返し読むだけで、隼人の手は一度もページを繰らなかった。
 図書室に人が入る気配があった。隼人は反射的に出入り口のほうを確認したが、うまい具合に書棚と顔が重なって顔を確認できなかった。しかし、黒髪の毛先が書棚からちらと見出されたその瞬間、ポニーテールであることを認め、隼人は入室したのが和葉であると悟った。
 向き直った隼人は、緊張に震える手で文庫本を閉じた。早まる鼓動を抑えようと深呼吸を繰り返すが、かえって脈は激しくなり、首のリンパから頬、そして額までが燃えるように熱く感じられた。
 隼人は立ち上がり、足まで震えていることを知った。小説を書架に戻そうと踏み出した時、自制の利かない足はバタッと床を鳴らした。隼人はまずいと思い、足と同時に息を止めた。
 今の足音で、和葉に隼人の存在が気づかれたかもしれない。そう思うと、書棚越しに勉強を始めようとしている和葉が今にこっちに来るのではないかと不安になった。
 小説を書架に戻したら、南野さんの前に出よう――隼人はそう決心し、再び歩き出した。
 小説を戻し、隼人はあえて遠回りをし、和葉の前に歩み出た。ノートを開き、参考書を手にしていた和葉がこちらを向いた。隼人の姿を認めた瞬間、和葉はアーモンド型の目を大きく見開き、そして隼人の手に持たれた包み紙を見た。
「相馬君だったんだ。あたしより先に人がいるなんて珍しいなって思ったんだ」
「足音のせい?」
「うん」
 隼人は和葉の利用するテーブルに近づき、プレゼントを差し出した。
「先週東京に行く用があってその時に買ったんだ。部活とかで支えてもらったからそのお礼というか、感謝を込めて」
 一息に言ってしまうと、いくらか胸が楽になった。かなり早口になってしまったのは自分でもよくわかったが、和葉は驚きが勝ったせいか、それは気にならなかったようだ。
 和葉は手を差し出し、そっと包み紙を受け取った。
「あたしが、もらっていいの?」隼人とは対照的な、噛みしめるようにゆったりとした口調だった。
「もちろん。今まで支えてもらった分はこれだけじゃ返せないけど、今度は俺が、少しでも南野さんの受験勉強の力になれたらと思って」
 これだけは和葉の目を見て伝えようと思っていたが、どうしても耐えられず、最後は視線を逸らしてしまった。
 だが和葉は声を震わせて「嬉しい」と言った。包装を解いていいかと訊ねられ、隼人は頷いた。ちらちらと和葉の様子を窺う隼人の前で、和葉はヘアクリップを取り出して、「かわいい」と口にし、ポニーテールに重ねた。「似合うかな?」
「うん、よく似合う」
 一目見て、黄色を選んで正解だったと思った。黄色のヘアクリップが、和葉を鮮やかに彩っていた。
「本当に嬉しい。相馬君、ありがとう」
 隼人は俯き、微笑した。
「喜んでもらえてよかった」
「喜ばないわけないじゃん! プレゼントも嬉しいし、あたしが図書室にいることをわかっててくれたことはもっと嬉しいよ。あたしが図書室に来るってわかってたから、待っててくれたんだよね?」
 もちろん和葉の言う通りだが、そのまま首肯するのは恥ずかしかった。
「時々図書室にいるのを見かけるから、今日もいるかなって思ったんだ」
「うわあ嬉しい! 最近疲れ気味だったけど、めちゃくちゃ元気出た。このヘアクリップのおかげで受験勉強に打ち込めるよ」
「それならよかった。喜んでもらえて俺も嬉しい」隼人は参考書を指差した。「じゃあ、勉強頑張って。邪魔しちゃ悪いから、俺はあっちにいるよ」
「わかった。頑張る」
 アーモンド型の目が柔らかく曲げられ、和葉の余すところない愛嬌が、プレゼントを心の底から喜んでくれているのだと隼人に感じさせた。隼人は素早く書架のほうへと姿を消したが、ちらっと和葉のほうを見てみると、筆箱のすぐ傍にヘアクリップを置いており、手にはペンが握られているが、有頂天の気分がまだ静まらないらしく、口元は弛んだままだった。
 ふと、一月前の和葉の姿を思い出した。
 昼食を食べ終えた隼人が図書室に来ると、すでに和葉が勉強をしていた。体育祭が終わり、いよいよ受験本番に向けて、和葉の表情はより厳しく、真剣味を帯びていた。その和葉の横顔は、隼人が二年前に見た凛の姿を彷彿とさせるものだった。
 あの日を境に、凛は変わったのだ。あの日、法曹の道に進むはずだった姉の人生が、一変したのだ。受験勉強に打ち込む和葉のように厳しい表情で、そして和葉よりも恐ろしい、傍から見る者を戦慄させるほどの、絶望を研ぎ澄ませた眼差し――あの日の凛の表情が、隼人は今も忘れられない。
 あの時、凛は何を読んでいたのだろう。
 書架に並ぶ背表紙を眺め、時々その向こう側の和葉の表情を窺いながら、隼人はそう考えた。当時の記憶は、凛の表情ばかりが強烈に残っていて、視界に映った凛以外の情報はまるで覚えていない。それほどに、あの時の凛の纏う雰囲気には恐ろしいものがあった。
 小説や法律関係の本でないことは確かだ。小説を読んで憤激を目に血走らせる人などいないし、法律関係の本ならもっと冷静に読んでいただろう。何かとんでもない問題でもあったのかもしれないが、だからといって理性を失うほどのことはない。これは受験勉強でも同じことが言える。図書室で見かけたあの日の後、凛は進学を断念した。だからあの時はまだ受験勉強をしていたのかもしれない。より難解な参考書を読んで、法律家になるための高い壁に絶望していたのかもしれない。だがあれほど行き詰まることとは思えないのだ。
 弟が見ても美しいと思わせる切れ長の目は、あの時いったい何を見て、なぜ大きく見開かれていたのか。答えは図書室にあるはずなのだ。だが凛が何を読んでいたのか、図書室内に置かれている本を眺めていてもまるで見当もつかないのだった。
 凛を変えてしまったもの――図書室にいると、それが時々気に掛かって、こうして背表紙を眺めているのかもしれない。図書室に所蔵されている書籍をすべて読むなんてことは無理だから、凛が興味を示しそうな本を探しているのだが、隼人には姉が興味を持つものすらわからないのだった。
「相馬君」
 和葉の声がして、隼人は背表紙に這わせていた視線を止めた。
「何探してるの? もう予鈴鳴ったよ」
 隼人は壁に掛けられた丸時計を見た。五限まであと五分を切っている。
「いや……何も探してないよ」
「真剣に本棚見てたじゃん」
「面白そうな本がないかなって見てただけ」
「チャイムが聞こえないくらい集中してたのに?」和葉はプレゼントをもらったためか、普段より目に見えて上機嫌で、珍しく噴き出すように笑った。「相馬君、集中力すごいもんね。稽古の時とか試合でも、ここぞって時にはキリッとした目つきになって、ね?」
「髪飾りは?」
 隼人は強引に話題を変えた。そして、和葉が胸まで包み紙を掲げると、隼人はそそくさと図書室を退出した。息をするごとに、胸の鼓動が加速している。なぜか頭に血が上って、体全体が重い。微かに口を開けただけで、息切れした時みたいな荒い吐息が繰り返された。
 凛のことを考え過ぎた。やはり姉に拘わって良いことなど一つもない。それほどの魔力を凛は持っているのだ。
 廊下に出て、和葉が小走りで追いついて来た。
「これ、本当にありがとう。校則で学校ではつけれないけど、お守りとしていつも持ってる。もちろんプライベートでは愛用させてもらう」
 隼人は立ち止って、和葉の顔を見降ろした。その瞬間、顔を険しくする隼人に和葉はにっこりと微笑み掛けた。
 隣でささやかに笑ってくれるだけで、心が温かく和む人など他にいるだろうか――隼人はその笑顔に落ち着きを取り戻した。
 だが落ち着きを取り戻すと、隼人は和葉から顔を逸らし、ゆっくりと歩き出した。
 例によって和葉とは教室の前で別れた。にやにやとこちらを見る下野の顔がわかって、教室に入るのを束の間躊躇した。

8へと続く……

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