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連載中編小説『愚美人』第二部5


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 名前を呼ばれて、パソコンを操作する手を止めた。始業早々に、いったい何だろうか、と佐野は思った。佐野はパソコンをスリープにして、席を立った。
 女性事務員に連れられたのは応接室だった。応接室といっても、たいそうなものではない。名前を聞いてもわからない画家の風景画が一枚飾られていて、心ばかりの生け花が据えられている、そこに鉤爪で引っ掻かれた痕のように皮が裂けた多少上等なソファが向かい合って置かれている。ソファとソファの間には、唯一それらしいニスの光ったテーブルがあるだけだ。
 そんな応接室に佐野は入った。待っていたのは少し白髪の混じった髪をきっちりとセットした四十代半ばから後半と思われる男性だった。立ち上がった来客はすらりと背が高く、紺に薄くストライプの入ったスーツが板についていたが、体の芯は細かった。佐野は来客の最も目立つ襟元に思わず緊張した。
「初めまして」来客は丁寧に頭を下げたが、名刺は出さなかった。襟元の赤い章の反射する光が目玉のようにぎらりと光った。「東京地検のヤマグチと申します。山口県の山口です。嶌蘭子被疑者を担当しております。佐野彰人さんですね?」
 佐野は首肯したが、声が出にくかった。同じ場所に章をつけているのに、蓮沼弁護士とは違って異様な圧迫を感じる。山口検事の声が尖っているわけではないのだが、彼の一語に緊張してしまう。味方ではないという認識がそうさせるのだろうか。
 そもそも、今更佐野に何の用があるのだろうか。蘭子の初公判まで残り二週間ほどだった。
「杉下沙希さんを殺害した後、被疑者はあなたのアパートに帰ったそうですが、間違いないですね?」
「はい。僕も外出していて、帰宅すると蘭子さんが部屋の前にいました」
「事件当日の朝まで居候をしていたから、被疑者はアパートに戻った?」
 佐野は一瞬山口検事の目を見て、また視線を落とした。小さく鋭い瞳が一重瞼に半分隠れて、きつく睨まれているように見えた。
「そう思います。他に理由は考えられません」
「事件の一週間ほど前、正確には六日前からあなたはアパートで被疑者を居候させていたそうですが、被疑者を招き入れた理由は何ですか?」
 佐野は鳩尾を突き上げられた時みたいに喉の奥が苦しくなった。秋の曇天を羽織る、白く美しい裸体が思い出された。あの時のことはもうあまり覚えていなかった。しかしあの時の蘭子だけは忘れない。
「良心です」佐野は声を絞り出した。「蘭子さんに声を掛けたのは良心だったんです。困っているように見えたので」
「あなたが良心でも、相手によっては受け止め方が違いますよね」
「何が言いたいんですか?」
 山口検事は嘲るように微笑した。顔の前で手を振る余裕ぶりは見ていて鼻についた。
「まあまあ、そう語気を強めないでください。何も佐野さんを訴訟したりなんて話じゃありませんよ。ただ、その良心というのは誰しもに平等に向けられているのかということです。佐野さんは被疑者と面識がなかったんですよね? なのに声を掛け、その上自分のアパートに連れ込んでいる。これは良心だけでは説明がつかないと思うんです。つまり裁判ではもう少し正確な情報がいるんですよ」
「誰かが助けなければならなかった。それを僕がやっただけですよ」
 山口検事は柔らかい笑みを浮かべたまま、二度三度と首を縦に振った。
「では仮に、嶌蘭子さんでない誰かだったとしたら、あなたはどうしてましたか。同じように手を差し伸べましたか?」
「それは……」
 佐野は言い淀んだ。蘭子だったから、それは確かにそうなのかもしれない。だが佐野は心の中でかぶりを振った。そもそも路上で見知らぬ女性に声を掛けるなど下品極まりなく、下衆な男がやることだと考えている佐野が、美人だからという理由で声を掛けるわけがない。それは蘭子にも言える。
 ただ蘭子が異質だったのは、全裸という異様な恰好で存在し、その上に危険な雰囲気を纏っていたことだ。その美貌だけで男を惑わすことができただろうに、彼女は艶やかな肌を木枯らしに晒し、悠然と立ち尽くしていた。彼女の存在に気づいた時、遥香への長い恋煩いに卒倒しかけていた佐野の中で、抑え切れないほどの欲情が湧き上がってきたのかもしれない。
 佐野は顔をしかめた。
「わかりません」と答えるので精一杯だった。
「そうですか」意外なほど軽い声で山口検事は言った。「仮に邪な気持ちがなかったとしましょう。しかし手を貸してくれた男性の自宅に女性が招かれる。知り合いならともかく、お二人の場合はその時初めてお会いしたんです。女性としては恐怖を覚えるのが普通でしょう。嶌被疑者は特殊という可能性は今省いています。そうして自宅に上げられた女性側が、もし、佐野さんのことを恐怖に思い、正直な気持ちを口に出せていなかったとしたら、つまり女性の捉え方次第では、今回の件で拉致監禁や誘拐といったセンで捜査が行われることもあるでしょう」
「監禁!」佐野は思わず声を上げた。立ち上がると、歯がカチカチと震え出した。「そんなわけがない。僕が蘭子さんを連れ込んだわけじゃないんです」確かにあの時、佐野は蘭子を帰そうとした。しかし蘭子が何も話さないので、仕方なく保護することにしたのだ。「僕が生活の中で制限したことも束縛したこともないし、六日間アパートにいたのはすべて蘭子さんの意志によるものですよ」
「わかっています」山口検事は落ち着き払って言った。「お座りください。ですから、普通なら女性が恐怖を覚えるシチュエーションだと言ってるんです。ですが嶌被疑者は特殊です。佐野さんにそのような容疑が向けられることはないでしょう。ですが」ですが、を山口検事は憎たらしく強調した。「やはり初対面の女性を部屋に上げ、尚且つ六日間も共同生活を送るというのは余程の事情がなければ考えられません。佐野さん、おわかり頂けましたか? 良心では説明がつかないんですよ。突然見知らぬ女性を養うことになった時、あなたにもストレスがあったはずです。それなのに警察に届けず、庇護し続けた。普通なら考えられないことです」
「僕のしたことは普通じゃないんですか?」
「今回に限って言えば、そう言わざるを得ないでしょうね」
 佐野は沈黙した。次の言葉を探していたわけではない。ただただ頭が真っ白になって、街に全裸で佇む蘭子を見ていたのだ。このままだんまりを決め込むのもいいかと思ったが、沈黙を焦らす空調の微音に耐えられなくなった。
 佐野は顔を上げた。
「あの時、蘭子さんは全裸で街に立っていたんです」佐野は言ってから狼狽した。「気が付くと、本当に気が付くと……蘭子さんの手を取って走り出していました。誰かが変質者がいると通報したんでしょう。僕達が去った直後にサイレンが聞こえました。理由はわかりません。とにかくこのままではだめな気がして、蘭子さんを助けたんです。だから警察に届けるわけにもいかず、僕のアパートに。もちろん家を訊きましたが、教えてくれなかったんです。やむを得ずしばらく保護することにして、それから婚約者を事故で亡くしたことを知りました」
 山口検事は苦笑を漏らした。意表を突かれたような、初めて見せる余裕のない笑みだった。
「全裸ですか……」
「もちろんその後は、良心です。事情もわかりましたから」
 不意に佐野の目が潤んだ。佐野はふうーっと長い息を吐きながら天井を仰いだ。涙は落ちず、すぐに乾いたが、どこか蘭子を裏切ってしまったようで、苦しかった。全裸の件は、早苗以外の誰にも語らず、墓場まで持って行こうと考えていただけに、今蘭子を凌辱しているようで、不本意が積もった。
「ところでなんですが」山口検事は座り直して言った。「全裸の被疑者を庇ったことに始まり、その後度重なる自殺未遂、そして生活の面倒など、佐野さんも苦労が多かったと思います」
 山口検事は佐野の反応を待ったらしく、しばらく静寂が流れたが、佐野は何とも言わなかった。
 山口検事は痺れを切らして続けた。
「こうした被疑者の行動を一番近くで見ておられたのが佐野さんです。そこでなんですが、嶌被疑者がこれまで度々問題行動を起こしてきたことを法廷で証言して頂けないでしょうか?」
「断ります」佐野はきっぱりと言った。
 山口検事は超然と首を振っていた。
「ちなみにですが、嶌被疑者と過ごした六日間で、嶌被疑者が精神に異常をきたしていると感じたことなどありますか?」
「精神異常? それはないでしょう。蘭子さんは婚約者を愛していました。それが行き過ぎて、自殺を試みるようになったんだと僕は思います」
 山口検事は満足そうに頷いた。
「それを法廷で証言してもらうというのは?」
「断ります」
 うーん、と山口検事は渋面を浮かべた。「ひょっとして、弁護側で証言をなさるつもりですか?」
 佐野はかぶりを振った。
「その予定もありません。僕にはもう関係のないことですから」
 話はこれで打ち切られた。応接室を出た山口検事を、佐野は会社の外まで見送ることにした。
「佐野さんは裁判を傍聴なさるつもりは?」
「わかりません。気になりますけど、さっきも言ったようにもう無関係だと思っている節もありますから」
「そうですか。まあ裁判を見る機会なんてなかなかないでしょうから、これを機会にしてもいいかと思います」
 山口検事はぴんと胸を張っていた。どれほどの刑を求刑するつもりかは知らないが、勝つ気満々といった様子で、自信に満ち溢れていた。見送った足取りも、ずいぶん軽いものだった。
 はあ、と白い息を吐き出し、佐野はオフィスに戻った。
 外気との寒暖差が激しい。汗ばむことはないが、じりじりと蒸されるような感覚が嫌だった。スリープにしていたパソコンを開き、仕事を再開しようとした時、周囲の会話が耳に入った。
 囁き声でひそひそと話していたが、佐野には丸聞こえだった。話していたのは女性社員三人で、どうやら佐野への来客が検事だと知り、あらぬ噂を語っていた。ちらっとそちらを気にすると、目が合ったことに気づいた社員が慌ただしく顔を四方に動かした。
 三人の女性社員はすぐに散会した。

 最寄り駅から帰路に就き、絶えず振動を繰り返していたスマートフォンを取り出した。時刻は午後六時になろうかという頃だったが、青暗い空が深まり、すでに夜中に遜色ない闇が広がっていた。
 点滅を繰り返す外灯の下で、画面は明るく光っていた。十一桁の数列に目が痛くなった。
 佐野は歩きながら、不愛想な声で電話に出た。電車に乗っている時から、もう三度目の着信だったのだ。連絡先に登録していない電話番号だが、誰からの電話かはすぐにわかった。なぜならこの連絡先を、佐野は削除したばかりだったからだ。
「今日の昼間、検事といるとこ見たんだけど。何かあったの?」
 声と一緒に、車が風を切る音が聞こえて来た。まさか同棲先から掛けて来たのかと思ったが、さすがに屋外らしい。遥香も会社の帰りのようだ。
「別に」佐野は答えた。「旦那さんは一緒じゃないの?」
 遥香の婚約者は同じ建設会社に勤める将来有望の男性だ。しかしこうして着信があるということは、一緒ではないのだろう。それをわかった上で、少しからかってみた。同時に、婚約者など存在しないでくれ、と切ない祈りも含んでいた。
「うん、残業」
「待たないの?」
 胸に悔しさが滲んだが、佐野は噛み潰して言った。感情を殺して平静を装うのはもう慣れた。
うん、という遥香の返事が辛かった。
 それで、と遥香は声をきつくした。右手でスマートフォンを耳に当て、溜息交じりに腕組みをする姿が容易に想像できた。「別に、じゃないでしょ。検事と一緒にいて何もないわけないんだから」
「遥香が気にするようなことじゃないよ。結婚するんだから、もう俺とは連絡取るな」
「はあ?」と向かい風を吹き返すほどの勢いで遥香は言った。「幼馴染だから、何も問題ないじゃない?」
「俺が遥香を襲ったら、旦那さんきっと怒るよ」
「そんなこと起こりっこない。彰人が私を? あり得ない」
 遥香の百八十度真逆の確信笑いが、佐野の胸を焼き尽くした。保育園の頃から積もり積もった遥香への想いが、ぱらぱらと灰と化していくのがわかる。この初恋を、積年の壮大な恋煩いを、美談にできるものならば、きっと儚い悲恋だったと語れるのだろう。
 遥香が鈍感だったわけではない。幼い頃から距離が近すぎて、そこに恋愛感情を挟めるだけの余地がなかったというだけだ。そこをこじ開けてしまったのは佐野のほうで、遥香に非はない。佐野は「そうだな」などと気づけば答えており、普通に路上を歩いているのが惨めに思えた。
 佐野は洟を啜った。何度も啜り上げた。
「寒いな」
「うん」
 遥香は続けて声を出そうとしたが、佐野の声が遮った。
「もう切るから」
「ちょっと待って。話し終わってないから」
「もう俺には電話するなよ。絶対だ。遥香――」佐野はまた洟を啜った。「結婚おめでとう。幸せにな」
 佐野は遥香の返事を待たず、通話を終了した。すぐにまた着信があったが、佐野は応答せずに遮断した。
 立ち止って空を仰ぐと、月が歪に欠けていた。今日は地球との距離が近いのか、やけに大きく見える。佐野にはその欠月が、地上に迫っているように見えた。だが一方で、快晴の空に見つけた冬の大三角には、思わず吸い込まれてしまいそうな浮遊感を感じた。きらきらと鉱物がひしめき合っているような星雲を目で追って、それから視野を広げた。
 冬の天の川がくっきりと見えた。

6へと続く……

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