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連載長編小説『美しき復讐の女神』3-1

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 剣先で間合いを計りながら、一歩踏み込んではまた距離を取った。踏み込んだ瞬間に、相手が面を守ろうとしたのを隼人は見逃さなかった。さっきと同じ間合いを取り、同様に一歩踏み込む。
 竹刀を一閃すると、鮮やかに胴を捉えた。
 旗がすべて上がり、隼人の勝利である。一礼した後、武道場の脇で正座すると、面を脱いだ。頭巾を外すと、汗でびしょびしょだった。しかしその水に浸したような頭巾が隼人は嫌いではなかった。特に今は、汗を流すことに喜びを感じる。稽古の頑張りで噴き出た汗の量を示してくれるものの一つが、この頭巾だった。
「お見事」
 歌うように讃えながら近づいて来たのは、一学年下の後輩菊島総司だ。今の隼人の一本勝負では審判を務めてくれた。
「部員の癖は熟知してるからな」
 きゃっと笑った菊島は隼人の真横で胡坐をかいた。
「キャプテンの観察眼恐るべしっすね」
「これくらい、どうってことないさ。癖がわかってたって必ず勝てるわけじゃない。特におまえにはな」
 菊島は一学年下なのだが、その実力は隼人を優に凌ぐ。その実力は小学生の頃から評判で、実績も輝かしいものがあったのだが、実家から近いという理由で剣道強豪校でもない公立高校に進学したのだ。
 その実力は本物で、隼人が絶好調の時でもなかなか勝つことはできない。菊島の調子が良い時は、三人掛かりでも負けることがあった。菊島は入学直後から団体戦で先鋒を務めており、そのため新選組の沖田総司に倣って一番隊隊長と呼ばれている。菊島も沖田総司と同様、若くして凄腕の剣士なのだ。
「俺の癖って何すか?」
「自分が攻勢に出ない時はヘラヘラして相手を挑発することだ」
 いやあ、と菊島は体を前後に揺らした。「そんなつもりはないんすけどね」
「攻めてこないとわかれば気兼ねなく踏み込める。防戦一方の敵は怖くないからな」
 だが、菊島が攻勢に転じる時は一瞬にしてその表情が変わる。大袈裟でなく、肉眼では捉えられない速度でだ。そのため攻め一辺倒だった剣士は、気がつけば菊島に一本取られているということがよくある。むろん、真っ向から剣を合わせて菊島に勝てる者など、高校生では滅多にいない。
「今度稽古つけてくださいよ」
「もちろんだ。俺が高校で強くなれたのはおまえがいたからだ。大学で出遅れないためにも、みっちり稽古をしておきたいからな」
「へへっ、俺負けないっすから」
「望むところだ。――さあ、俺に構ってないで、おまえ達はおまえ達の稽古をしろよ。菊島おまえは個人戦で上に行くのも大事だが、団体でチームを勝ち上がらせることも同じくらい大事なんだからな」
「もちろん。個人だけじゃなくて、団体でも全国目指してるんで」
 武道場の中央に部員を集め、次に行う稽古について指示する菊島の姿を見ながら、二年後あるいは三年後にはこの剣道部が強豪と言われる日が来るかもしれないな、と隼人は思った。
 しかし、主将を引き継いでからの三ヶ月でずいぶん頼もしくなった。
 隼人は、一人部員達のほうを向き、素振りの数を大きな声でカウントする菊島を微笑ましく見ながら、武道場の外の冷水器で水を飲んだ。
 武道場の出入り口に外を向いて腰掛け、稽古の様子と中庭をちらちらと眺めている時、校舎の窓に人影を認めた。遠目でもわかるポニーテールの髪形は和葉のものだった。和葉は偶然通り掛かったというふうではなく、明らかに窓辺から武道場を望んでいた。
 隼人は咄嗟に視線を逸らそうとしたが、隼人と一瞬目が合ったことを悟った和葉は、笑顔で手を振ってきた。隼人はそれに応えるしかなかった。
 その直後和葉は窓辺から姿を消したが、またすぐに昇降口に姿を見せた。
十月に入っているが、隼人は時々授業中に汗ばむ時がある。そんな時隼人は団扇で自らを煽ぐのだが、和葉は秋口を思わせる紺のベストを今日も着ていた。隼人はまだまだベストなど不要な時期だった。
 しかし、和葉にはよくベストが似合っている。
 隼人は武道場に入って稽古に参加しようかと思ったが、さすがに露骨に和葉を避けているようで、その場に留まった。
 和葉はにこりと微笑を浮かべると、冷水器の水を飲んだ。きっとさっき隼人が水を飲むところを見ていて、それを真似したのだ。
「冷たくておいしいー」
 爽快感、という言葉がぴったり合うように、和葉はポニーテールを華麗に躍らせながら青空を仰いだ。すでに陽が傾き始めていることに隼人はこの時初めて気づいた。
「休憩中?」
 隼人は口を開く瞬間だけ彼女に目をやり、またすぐに自分の足元に視線を落とした。
「うん」と頷くと、和葉はスカートを丁寧に抑えながら、しかしジャンプするように隼人の横に腰を下ろした。「かなり集中できたんだ。だからちょっと休憩。相馬君頑張ってるかなって武道場見たら、やっぱり頑張ってた」
 中庭のほうに顔を向けながら、ふふ、と笑った和葉を横目で見た。他人のことで、どうしてそんなに嬉しそうに笑えるんだろう、和葉の微笑に隼人はそう思った。
「俺なんか……楽しいことやってるだけだよ。今みんながやってるみたいに本格的な素振りとかはあんまりしてない」
「十分だよ」隼人の視界の中で、和葉のローファーとローファーが爪先を擦り合った。「引退してからも毎日部活に行ってるんだから、それだけでも十分だよ。野球部の人達なんか、めちゃくちゃ遊んでるって聞くし」
「俺もちょっとくらい遊ぼうかな」
「え、誰と?」
 冗談を言ったつもりだったが、和葉はらしくない息の詰まった声で訊いてきた。隼人は苦笑した。
「そうなんだよ。誰と遊ぶんだっていうね。みんな受験勉強で忙しいんだから、今は遊び相手もいないよ」隼人は立ち上がった。「そろそろ稽古に戻るよ。あんまり話し込むと、南野さんの時間を奪っちゃって申し訳ないから」
「じゃああたしも勉強再開しようかな」和葉は空に両手を突き上げ、伸びをした。「あー、いい気分転換になった。相馬君も、頑張って」和葉は華奢な手首を覗かせながらファイティングポーズを取った。
「うん、南野さんも」
 隼人は和葉が昇降口に向かって歩き出すと、彼女の姿が消えるのも待たずに武道場に入った。竹刀を持つと、後輩達に混ざって汗を流した。

3-2へと続く……

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