連載長編小説『美しき復讐の女神』3-2
面打ち稽古をしていると、女子部員の声高らかな挨拶が武道場に響いた。隼人は竹刀を下ろし、出入り口のほうを向いた。女子部員に続いて、稽古中だった部員全員が挨拶をした。
武道場の出入り口で剣道部顧問である鹿野が客人とにこやかに話し合っている。隼人はその客人の顔を見て、稽古を中断した。すっかり伸びた髪はおしゃれに整えられていて、高校時代から評判だった端麗な容姿には磨きが掛かっていた。
客人は、隼人の二つ歳上の剣道部の先輩、永岡勝斗だった。永岡はその端正なルックスもさることながら、非常に面倒見のいい先輩だった。隼人は一年の時に関わりがあったが、公私共に世話になった人だ。
「お久しぶりです」
面を外して挨拶すると、永岡は顔全体を明るくした。その整った顔を笑わせた永岡は、高校時代を懐かしむような淡い目になって隼人を見ていた。永岡と会うのは、永岡が高校を卒業して以来初めてのことだった。
「やっぱり隼人だったか」
「やっぱりっていうのは?」
「胴着に相馬って名前があるから、相馬家って隼人の下にも弟か妹いたかなって考えてたんだ。引退したのにこうして部活に参加してるなんて、熱心だな」
「永岡さんだって、引退した後も部活に来てくれてたじゃないですか」
「体を鈍らせるわけにはいかなかったからな。隼人は毎日顔出してるのか?」
隼人は頷いた。
「むしろ現役の部員よりも早く武道場に顔を出してるよ」鹿野が稽古中とは思えない柔らかい表情で言った。教え子の久しぶりの来訪に胸が弾んでいるのだろう。稽古は厳しいが、普段はフランクで親しみやすい兄貴分のような先生だから、こうした顔を見せていても違和感はなかった。
「俺も毎日はさすがに来なかったなあ」
隼人はぎこちなく笑った。永岡さんはデートで忙しかったですもんね、と言うかどうか迷って、結局飲み込んだ。高校時代の永岡の恋愛について語っても、微妙な空気になると思った。
相馬、と鹿野は言った。永岡の言葉に隼人が何も返さなかったせいもあって、お互いが次の一手を探りあって微妙な沈黙が流れていた。そのため鹿野が口を開いてくれたことは、隼人にとって非常にありがたかった。「永岡からおめでたい報告があるぞ」
「報告ですか」
おめでたい、とはいったい何だろうか。隼人は永岡の全身を改めて見回し、その時初めて永岡が二十歳になったのだと気づいた。それに気づいた途端、突然永岡が大人びて見えた。おめでたい報告とは、結婚だろうか。二十歳での結婚はずいぶん早いものだが、永岡ならあり得ない話ではないと思った。
鹿野によって切り出された新たな話題を、永岡が継いだ。
「十月末の全日本学生剣道優勝大会に出ることが決まったんだ」
「え、永岡さんも出るんですか?」
「ああ、団体戦だけだが」
「すごいです……」
隼人は本心から感嘆した。なぜなら永岡の進学した大学は近年剣道部の実力をめきめきと伸ばし、今や強豪校と肩を並べるほどの目覚ましい活躍を見せているからだ。そこで二年生ながら団体戦のメンバーに選ばれるとは、立派なものだ。
「本当はもっと高校に顔を出したかったんだが、稽古に休みがなくてな。なかなか来れなかったんだ。今の三年は俺が三年の時に一年だったやつらだから、最後のインハイ予選は観に行きたかったんだけど、都合が合わなくてな。今日は、俺が全国に出ることも決まって、せっかくだから顔を出そうと思って来たんだ」
「そんなに忙しいんですね……」
あと半年後には自分もそういう環境に身を置くのかと思うと、隼人は頭が重くなった。ただ、隼人の進学先は剣道の強豪校というわけではない。永岡の大学よりは、少し緩い雰囲気だろう。
「相馬ももう推薦で進学先が決まってるんだ」
鹿野は続けて隼人の進学先を口にした。
永岡はうんうん、と首を縦に振って鹿野の話を聞いていたが、隼人の進学先にあまり納得がいっていないようだ。スポーツ推薦なら、もっとハイレベルな大学を選ぶべきだと考えているのかもしれない。
「そうだと思いました」永岡は鹿野のほうを向いた。「進路決まってないと、毎日部活には出られないですもんね。あっ、そうだ。もう進路決まってるなら、観に来ないか?」
「全日本をですか?」
「ああ。観て損はないだろう」
「そうですね……。でも全日本って会場は東京ですよね。どうしようかな」
半年後に自分が踏み入る世界の最高峰を知っておくのは確かに無駄ではない。ただ、東京に出る、というのはそれがたとえ一日や二日のことであっても、隼人には大それたことのように思われた。一人で県境を跨いだことなど、数えるほどしかなかった。
「せっかくなんだから行ってこい。先輩の応援も兼ねてな」鹿野は良心を全面に顔に滲ませていた。「永岡の言うように、損はない」
「はい。そうですね」隼人はぴんと背筋を伸ばして言った。「行かせてもらいます」
「かっこ悪いところは見せられないな」
永岡がそう言うと、鹿野は教え子の肩を軽く叩いた。
「おまえなら大丈夫だ」
永岡は小さく顎を引いた。
隼人が稽古に戻ると、菊島があの人は誰かと訊ねてきた。菊島と入れ替わりで卒業した先輩だと言うと、菊島は「へえ」と首を振りながら永岡を観察していた。
「強かったんですか?」
「もちろん。今度大学の全国大会にも出るくらいだ」
「まじっすか?」
一番隊隊長の目は、闘志に燃えていた。若干の興味を抱いていた菊島の目はすでに消え、その目に宿る剣士の風格は剣を合わせる前から強者の先輩と鍔迫り合いを始めているかのようだった。
その後稽古を続けていると、鹿野と話し終えた永岡が胴着の並ぶ棚を見つめて、その中から一つを選んで着替えを始めた。どうやら稽古に参加するらしい。それを他の部員も察したようで、稽古中にも拘わらず皆の意識が逸れてしまっていた。こんな時喝を入れるべき立場にいるのが菊島だが、菊島は誰よりも永岡の一挙手一投足に目を配っていた。
「気にしないで続けて」と永岡は稽古を促したが、気にならないわけがなかった。
稽古は再開されたが、集中して取り組めている者は少なかった。
胴着に着替えた永岡は、武道場の端でウォーミングアップを行い、軽く素振りをした後、隼人に声を掛けた。永岡は隼人と一本勝負をするために着替えたのだった。
隼人は受けて立ったが、まるで歯が立たなかった。完敗である。本当に同じ竹刀を使っているのかと疑うほどに永岡の間合いに入ることができなかった。現役の時より練習量を落としているとはいえ、稽古を怠っているわけではない。格の違いを見せつけられたようで、隼人は礼をする時も呆然としていた。
隼人が武道場の脇に移動すると、菊島が永岡の前に立ち、稽古をつけてほしいと懇願した。永岡は快く胸を貸し、脱いだばかりの面を装着した。
菊島には珍しく、序盤から攻勢に出ていた。永岡は菊島の剣筋を見極めるためか防御に徹しているが、菊島が圧倒しているふうではなかった。菊島の振り下ろす面は一振り一振りがかなり重い。しかし永岡はそれを苦も無く受け流していた。
菊島は巧みな攻撃を見せたが、永岡を相手に面を奪うことに拘っているようで、そのためなかなか決定機を見出せなかった。そして、永岡が攻勢に転じた。緩急ある剣捌きはさすが大学最高峰のものである。高校生ではとても太刀打ちできない速度と精度だ。しかし菊島はそれをうまく躱しながら、いつも通り相手を挑発する動きを見せた。今菊島は攻める気配を見せていない。
永岡は妙な気配を察したのか、あまり踏み込んでいかない。しかし攻撃を仕掛けるのはやはり永岡のほうで、菊島は逃げ回るようにして攻撃を躱している。その不規則かつ軽快な菊島の動きに、さすがの永岡も間合いに入ることは難しそうだった。
そして一瞬の間に、菊島が攻勢に転じた。喉を突くように繰り出された菊島の竹刀はそこから振りかぶって、永岡の面を捉えた――かに見えた。しかし永岡は間一髪菊島の剣撃を躱し、華麗な抜き胴で一本取った。
菊島の勝利を確信した武道場には一瞬歓声が上がって、直後にはそれが溜息に変わった。にも拘わらず落胆している者は一人としておらず、敗北した菊島ですら満足そうに笑みを浮かべていた。
「まさかあれを防がれるとは思いませんでした」面を脱いだ菊島は言った。
「あのまま突きだったら負けてたのは俺だ。君が面を取ることに執着していることを感じ取っていたから躱せたけど、あれもなかなか鋭い一撃だった。強いね、菊島君」
菊島は大学でも最高峰の舞台に立つ剣士と互角以上に渡り合ったが、その陽気で屈託のない笑顔からは、今の戦いぶりなどまるで想像できなかった。剣を握った菊島の姿を知らないクラスメイトが今の戦いの様子を聞けば、作り話と思うだろう。負けはしたが、清々しい笑顔だった。
永岡は着替えを済ませて胴着を整頓した。隼人も再開された稽古からは外れていた。
「あんな強い子がいるとは、知らなかった」
永岡はまだ菊島のことを賞賛していた。
「菊島のおかげで俺も強くなれました」
「ああ、相当頑張ったみたいだな。今日打ち合っててよくわかったよ」
「完敗でした。まだまだです」
「そんなことない。まだ高校生なんだから、あれだけ俺とやり合えたら十分だ。しかし……よく毎日部活に顔出すな。後輩にあんな強い子がいたら、引退した自分の立場も忘れて本気で稽古してしまいそうだ」
隼人は苦笑した。「よくあります、そういうこと」
「ハードだなあ。たまには息抜きしろよ。彼女は? いないのか?」
隼人は胴着を擦った。
「いません」
「引退ライフ、もっと楽しめよ。なんか変な感じだ。凛の弟なのに付き合ってる人がいないなんて」
隼人は奥歯を噛んだ。表情が歪んでいくのが自分でもわかった。
「……そうですか」
感情を抑えるのに必死だった。何とか穏やかな口調ではあったものの、腹の底では今にも噴き出んばかりの憤怒が入り混じり、隼人の理性を侵食しようとしていた。
凛というのは隼人の姉の名前だ。凛は地元でも有名な美人で、昔から「あの子はきっとモデルさんになる」と言われていた。その評判通り、弟である隼人ですらそう思うほど凛は美しかった。ところが隼人は凛とは似ても似つかず平凡な容姿をしており、そのため常に凛と容姿を比べられ、その度に何とも言い表し難い劣等感を抱いて来た。姉弟なら、どこか一つくらい似ている箇所があってもいいのに、隼人と凛には一つも似ているところがない。まるで違う親から生まれてきたみたいに、本当に違う顔をしている。幼い頃から、凛は常に陽の光を浴びて燦然と輝く薔薇だった。しかし隼人はその薔薇の傍に無造作に伸びている雑草だ。薔薇の隣の雑草など、誰も見ようとはしない。目につけば、笑われるのが常だ。
隼人は今でも、鏡に映る自分の顔が大嫌いだった。どうして姉弟でこうも違うのか。似ていないにしても、なぜよりによって凛が姉だったのか。そう思う度に、まるで自分に責任があるように思われ、さらに強烈な劣等感に苛まれるのだった。
それを一気に思い出し、隼人は腸が煮えくり返った。
皮肉など言ったつもりはないのだろうが、永岡の何気ない一言は軽率だった。なぜなら永岡は誰もが認める二枚目で、隼人とはまるで違う人生を歩んでいるからだ。永岡が高校時代凛と交際することができたのは、その端正な容姿が多分に影響している。誰もが凛と交際することを夢見て、しかしその美貌の傍に自分が並んで歩いているところを想像して、凛を諦めていったのだ。そんな中、永岡だけは特別だった。永岡のルックスはさすがに凛には引けを取ったが、決して少なくない女子生徒が永岡と交際することを望んでいた。そんな二人が交際し、堂々と並んで歩く姿はまさしく全校生徒の憧れだった。
凛と恋人になるような男に、隼人の苦悩などわかるはずがない。
「凛、どうしてる?」
永岡は隼人の憤怒になどまったく気づかず、訊いた。隼人はとっくに頭に血が上っており、こめかみがぴくぴくと脈打つのをはっきりと感じ取っていたが、懸命に自分を落ち着かせた。
「わかりません」隼人は怒りを抑えて言った。しかしどうしても心穏やかでいられず、ついついからかってしまった。「未練があるんですか」
凛の弟の勝ち誇ったような口調を永岡は気にも留めなかった。恋愛について語らう時、照れ隠しで普段とは違う口調になってしまうことがあるが、永岡はそれと感じて特に気にしなかったのかもしれない。
永岡は潔く頷いた。「わからないっていうのは?」
「家を出てから、一回も帰って来てないんです。連絡も一切ないし、もう一年半以上。だからどうしてるかなんてわかりません」
凛は高校三年の時、警察官である父太一の影響もあって法曹の道に進むことを考えていた。模擬試験の結果も順調で、難関私大の法学部に進み、その後検察官か弁護士になるはずだった。だがある日、凛は突然大学受験を断念したのだ。その理由は語らなかった。そして高校卒業と同時に身一つで上京したのだった。
「俺も最後に凛と会ったのは卒業式の日なんだ。でも卒業式の時はあまり話せなかったし、会ってなかったようなものなんだけど……凛、どうしてるんだろう」
永岡は、卒業前に凛に別れを切り出されていた。それが何月頃だったかを隼人は覚えていないが、凛が大学受験を断念した辺りだったのではないだろうか。凛が永岡と別れて以降、凛の口から永岡の名前が出ることはなかった。凛と永岡はクラスも違ったから、二人が最後にちゃんと会話をしたのは、その別れ話の時ではないだろうか。
「気になりますか?」
「もちろん。だって突然出て行っただろ? 十八の女の子が一人上京なんて、心配事しかないじゃないか」
「まあでも」隼人は足元に置いていた竹刀を手に取った。「便りの無いのは良い便りっていうじゃないですか。大丈夫ですよ」
隼人は一礼して稽古に戻った。どっしりと踏み込んで振り下ろす一太刀が、変に力んだ。
3-3へと続く……
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