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連載中編小説『愚美人』第二部6


        6

 部屋の中でも、吐く息が白くなった。目覚めてからしばらく、ぼうっと虚空を見つめていたが、たゆたう霧がふと視界に映り込み、佐野は体を起こした。
 カーテンを開けて全身に陽を浴びたが、心地よくなかった。空は白が鈍ったような灰色で、ブロック塀の上には雪が一センチほどこんもり積もっていた。窓を開けて雪に手を伸ばそうとしたが、吹き込む風の凶暴さに、全身が悶えた。しかし沢木は雪を撫でた。まるでスイカを齧った時みたいに、一部が不揃いに欠けた。
 佐野は掌の雪に思わず笑みを浮かべたが、胸の中では、今日は何だか気が乗らないな、と考えていた。寒い上に悪天候で、誰のために働いているのかもわからない佐野にとって、モチベーションが上がらない日ほど憂鬱なことはない。掌を拳に変え、今日一日分の握力を使い果たす勢いで佐野は強く握った。雪は圧縮され、凶器になるくらいカチカチになった。
 佐野はそれを、ブロック塀に思い切り投げつけた。雪玉は交通事故を起こした車みたいに粉々になり、果たし合いに敗れた剣士のように足元にずり落ちた。
 手を叩き、佐野は窓を閉めた。
 歯を磨いて寝癖を直したところで、電話があった。掛けて来たのは早苗だった。「槙原早苗」という名前を見て、佐野は蘭子に会いたくなった。もう一ヶ月会っていない。しかし佐野は、もう蘭子とは会わないと決めていた。彼女とは、何の関係もなかったのだから。
 佐野は電話に出た。
「ごめんね朝早くに。昨日は仕事で忙しくて」
「大丈夫ですよ」佐野は愛想良く言った。「それで、どうしました?」
「うん、蘭子から伝言を預かったの」
 胸がどきっと跳ね上がった。一ヶ月も面会に顔を出さない男に、いったい何の用があるのだろうか。佐野は蘭子のほうから会いたがっているのではないかと淡い思いを抱いた。
 しかし落ち着き払って佐野は訊いた。
「何ですか?」
 早苗は一拍置いて、言った。
「初公判、観覧に来るように」
「それだけですか?」思わず佐野は訊き返した。「あ、いや、何でもありません」
 佐野は顔が真っ赤になっているのが自分でもわかった。頬がやけに熱い。自分で自分を愚かしく思った。純愛に身を滅ぼすような蘭子が、今更男を求めるはずなどないのだ。特に自分は、完全に拒絶された身であるというのに……。
 もう会わないと決めたのに、軽薄な夢想に誘惑される自分がつくづく嫌だった。
「それから」
 早苗が言葉を繋いだ時、佐野は息を吹き返したように、また胸を躍らせた。が、すぐに自重した。
「どうして面会に行かないの? もうずっと面会に来てないって蘭子言ってたけど」
「蘭子さんとは深い関係じゃありませんから。理由はそれだけです。むしろ俺が面会に行く理由がないんですよ。婚約者じゃないし、恋人でもない。槙原さんのように友達でもない、ほんの少し居候させたくらいですからね」
「少しでも一緒に暮らした仲じゃない」
 佐野は苦笑した。
「この場合、仲、なんて言うんですか? たかだか一週間ですよ。蘭子さんにしてみれば、旅先の民泊みたいなものでしょう。それ以上何も発展しない」
 電話の向こうで早苗は低く唸った。
「じゃあ裁判も来ないつもり? 蘭子は見届けてほしいんじゃない?」
 蘭子は死刑しか望んでいないから、わざわざ佐野に見届けてほしいとは思っていないだろう。しかし佐野は、蘭子の判決が確定されるまで見届けたいという気持ちはあった。面会と傍聴は別だという認識もある。ただ、佐野は蘭子の裁判で傍聴席に座るつもりはなかった。この電話を取るまでは。
 蘭子は、佐野の中で遥香を越え得る唯一の存在だった。しかし蘭子には揺るぎない愛の対象がいて、佐野には見向きもしない。あのまま居候を続けていればいつか肌に触れることはあったかもしれないが、それも蘭子の逮捕で露と消えた。今でも蘭子の美貌と危険な雰囲気は佐野の胸に刻印されたかのように残っている。だからこそ、前に進むために蘭子と決別しようとしたのだ。忘れようとしたのだ。
 しかし、それが不可能であることを佐野は悟った。初公判の観覧に来るよう言われ、蘭子のほうから頼んでいるのだから、と自分の弱さを甘やかし、結局は拭い切れぬままなのだ。
「いや」と佐野は言った。「裁判には行きます。必ず行きます」
「じゃあ待ち合せよう。また連絡するから」
「はい」
 通話を終えると、佐野はトーストを咥えながらネクタイを締めた。身支度を整え、口の周りのパン屑を確認して、部屋を出た。
 外は白かった。一瞬、雲が降りて来たのかと思った。白濁の空からは、埃のような雪が舞い落ちていた。

 瑞々しいほどに澄んだ青空は、放射冷却の威力をそのまま映しているかのようだった。ぎらぎらと太陽が照り、しかし凍てつく寒さがマフラーの隙間を縫って佐野の首筋を切った。冬は、快晴の日ほど冷え込むものだ。
 気温は零度前後だろう。雲が掛かれば忽ち雪になりそうな寒さに、通行人の多くは背中を丸めて歩いている。植栽に茂る草枝だけが燦々と胸を張っていた。佐野はそこに蘭子の姿を見た気がして、思わず立ち止っていた。そして裁判所を認めると、ぶるっと全身が震えた。
 彼女はあそこで、死刑を歓迎するために胸を張っているのだろう――。
 まさか死刑宣告を受けるはずはないが、それを望む者の裁判が始まるのだと思うと恐ろしかった。佐野の全身を駆けた震えは、武者震いではなく恐怖なのだ。
 帰るか?
 ふとそんなことを考えたが、佐野は帰れなかった。
 今になってようやく蘭子の残像が瞼から消えかかっていた。蘭子のことを思い浮かべることも殆どなくなっていた。だが目の前の建物に彼女がいて、今から彼女の運命が決するのだと思うと、佐野は歩みを進めていた。腹の底ではすっかり怖気づいていたが、帰るという選択肢はなかった。
 アルテミスが天秤をぶら下げた銅像の前で合流した早苗も、佐野と同じ顔をしていた。早苗は不安に表情を硬くしていたが、佐野とは違って覚悟が決まっているらしかった。頬の緊張に反して切れ長の目はどっしりと座っていて、その上月のクレーターを正確に撃ち抜きそうなほどまっすぐで、少しも揺らぐことがなかった。
「来ないかもって思った」
 予想に反して早苗の声は震えていた。皮肉にも、佐野はそれに安心してしまった。
「約束は守ります。嘘は嫌いですから」
 早苗はじっと佐野を見つめてから、不自然で小さな笑みを浮かべた。
 二人はアルテミス像を過ぎて屋内に入った。高い天井の、神殿を歩く時みたいに足音が響く静謐な空間を進み、法廷に入った。
 傍聴席はがらんとしていた。報道関係者が四名ほどと傍聴を趣味にしていそうな老紳士が最後列で居眠りしているだけだった。二人は構わず最前列に陣取った。佐野と早苗が入廷してからしばらくして、傍聴人が十名ほどになった。詳しい内訳はわからないが、その中には沙希の家族もいるのだろう。
 開廷まで、二人は一言も言葉を交わさなかった。時折飲み込む唾の音が相手に聞こえてしまうのではないかと思うほど、二人の間には緊張感が漂っていた。早苗は頻りに時刻を確認し、佐野は法廷内を隅から隅まで見回していた。
 やがて、検察官が入廷した。二週間前に佐野を訪ねた山口検事だ。濃黒の背広にはいかにも威圧感が滲み出ていた。検事というよりは刑事だった。入廷した山口検事は傍聴席には目もくれず、手元の資料を整理していた。あの資料の中に蘭子を罰する証拠があるのだと思うと、無性に破り捨てたくなった。佐野は自制するために弁護側に視線を移した。
 そこには蓮沼弁護士がいた。佐野の知らぬ間に入廷していたのだ。久しぶりに見る蓮沼弁護士はあの快活な雰囲気を微塵も感じさせず、落ち着き払って、やはりこちらも資料を整理していた。その佇まいには勝訴を思わせる信頼感があった。
 ただ、蘭子の姿がないのが気になった。被告人は、弁護側の椅子に座って開廷を待つはずだからだ。しかし弁護側の席に蘭子はいない。蓮沼弁護士は、それを気にする素振りもなく裁判の準備を進めていた。
 まもなく裁判官が入廷したが、蘭子は姿を見せなかった。
「被告人は?」
 裁判官が蓮沼弁護士に訊いた。弁護士は初めて異常事態に気づいたみたいに周囲を窺った。テカテカとセットした髪を掻きながら、首を傾げている。
「被告人は用を足したいということで、現在お手洗いに。まもなく入廷します」
 刑務官が代わりに答えた。山口検事が椅子にどかっと座るのと同時に、傍聴席の報道関係者が愚痴をこぼした。そんな中、「大丈夫かしら」と早苗は漏らした。佐野は彼女の不安げな横顔を見つめ、早苗の手の上に自分の手をそっと添えた。目が合うと、早苗は二度首を縦に振った。
 三分ほどで蘭子は入廷した。全身灰色のドラマで見るあの囚人服だった。手首には手錠が掛けられていて、蘭子の両脇には常に刑務官が足枷のようについている。佐野は蘭子をじっと見つめたが、彼女が俯いているせいで顔色は窺えなかった。血色のいい薔薇色の唇だけが、黒髪の隙間から垣間見えた。
 裁判官が立ち上がり、弁護士検事と共に蘭子も起立した。そして一礼すると、裁判が開廷した。一度全員が着席した。
「被告人は証言台の前に立ってください」
 裁判官に促され、蘭子はのろのろと立ち上がった。証言台に立った蘭子は、極刑を望んでいる者とは思えないほど背中を丸くしていた。首が頭の重さを支えられないようにがっくりと垂れ下がり、初めて目にした時からは想像できないような姿勢になっていた。
 しかし佐野は希望を見た。蘭子がようやく死に対して慄然としたならば、もはや死刑を望まないはずだ。蘭子は猛省を示し、蓮沼弁護士の戦略通りなるべく軽い刑を勝ち取ることができる。そう思った。
 が、裁判官が人定質問を開始すると、蘭子は鯨が海からその姿を見せる時のように背筋を伸ばしていった。はじめ蘭子は何も答えなかったので、裁判官が代わりに氏名と住所を読み上げた。蘭子は「はい」と淡々と返事をするだけだった。しかし返事の度に、背筋はそれ自身が自信を持ったかのように伸びていくのだった。
 佐野は、背筋から黒髪が浮いたのを見て、足を震わせた。
「ご職業は?」
 裁判官の質問に、蘭子は笑い出した。自嘲、ではなかった。蘭子の場合、寿退社をして結婚するはずだったから「無職」と答えるのが妥当だ。それを嫌ったのかと佐野は思ったが、蘭子の笑いは一秒ごとに勢いを増し、いつしか高笑いとなって法廷を包んでいた。
 その笑い声は、まるで何かを讃えているかのように佐野は感じた。しかし蘭子が何を讃えているのか、なぜ笑い出したのかは佐野にわかるはずもなかった。
「被告人は質問に答えてください。答えられないようなら私が答えます。被告人ははいかいいえで答えてください」
 注意を受けても、蘭子は笑うのをやめなかった。長い、狂気の笑い声が法廷に絶えず反響している。裁判を妨害しようとしているわけではない。無理に笑い続けているのではない。蘭子は腹の底から喜びを歌い上げるように、まるで快感を得ているように声を高くしていく。
 揺れる黒髪を見て、佐野は手に汗を握った。
「無職で間違いないですね」
 裁判が言うと、蘭子は笑うのをやめた。
「いいえ」蘭子は力強く答えた。「無職じゃありません。あたしは……花嫁よ」
「花嫁? 被告人は体調が優れないよう――」
「花嫁よ! あたしは花嫁なの!」
 蘭子が叫んだ瞬間、山口検事が証言台に飛び掛かった。しかし検事が蘭子に触れる前に、蘭子は弁護人席に向かって体を倒した。
 何が起きたのか、まるでわからなかった。
「救急車だ!」山口検事は怒号を飛ばした。「至急救急車を呼べ! 水だ! 水を持ってこい! いいから早く! 運べるだけ持って来るんだ!」
 佐野は立ち上がって、横たわる蘭子を見下ろした。彼女は瞼を伏せていた。悲しみが消え、睫毛が軽くなったかのように蘭子は薄っすら目を開いた。ところが瞼を持ち上げるだけの体力がないらしく、丸々と大きな瞳は半分ほどしか覗くことができなかった。
 目が合った。
 蘭子は華奢な腹部から胸を激しく二度上下させ、喀血した。薔薇色の唇はどす黒く染まり、白い頬は赤い血で塗れた。長い睫毛の何本かにも血が付着しているらしく、照明を反射して微かに赤いものが見えた。彼女は佐野に微笑み掛けた。次の瞬間、また喀血した。蘭子の顔の周りに太陽のような血溜まりができていた。山口検事はそれすら気にならない様子で、蘭子の口に水を注いだ。蘭子は嘔吐した。消化が済んでいない今日の朝食が吐瀉物として吐き出され、やはり血も混ざっていた。検事は構わず水を注いだ。蘭子は抵抗せず水を飲み、何度も嘔吐した。
「山口検事、これは何です。何が起こったんです?」誰よりも取り乱して裁判官が言った。
「わかりません! 何かが口の中に見えた。毒じゃないでしょうか? 被告人は自殺を図ったんです! 早く胃を洗浄しないと!」
 山口検事は絶えず蘭子に水を浴びせた。だが蘭子はもう動かなかった。顔の半分を悍ましい色に染めているのに、まるで仏のように穏やかに目を閉じていた。
 佐野は傍聴席から身を乗り出して、蘭子に手を伸ばした。だが山口検事に止められた。佐野はどっさりと椅子に腰を落とし、初めて自分の息が荒くなっていることに気づいた。早苗は隣で、顔全体を手で覆っていた。救急隊員が到着するのに五分も掛からなかったが、蘭子はすでに死んでいた。

7へと続く……

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