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連載長編小説『美しき復讐の女神』2

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「今日はぼちぼち引き上げてくんねえかい」
 威圧感のある野太い声に、三浜浩介は食器洗いをしている手を止めた。水の束が筒状になって流し台を穿とうとするのも気にせず、三浜は時刻を確認した。厨房とカウンターの間に置かれたデジタル時計は午前零時五十二分を表示している。三浜は食器洗いを再開する時、すぐ横の大将をちらっと見て、不愛想な表情のまま首を傾げた。
「何で?」と常連客は当然の返しをした。
 三浜がアルバイトで世話になっているこの居酒屋は、午前五時までが営業時間だった。まだ日付が変わって一時間も経っておらず、店を閉めるまであと四時間もあった。大将の具合が悪くなったのならまだしも、今日はむしろ、いつもより元気そうに見える。元気、ではなく上機嫌、と言うべきかもしれないが。今日は俺のバイト最終日だから気を利かせてくれているのかもしれない、などとシフト一つ融通の利かなかった大将の人柄を無視して、三浜は考えていた。
「次来た時に一杯奢るからよ。今日はぼちぼち切り上げてくれ」
「一杯? 三杯は奢ってもらわないとな」
「わーったよ。だったら三杯奢ってやるから、今日は切り上げてくれ」
 常連客はグラスに残っていた芋焼酎を飲み干すと、席を立った。三浜が金額を打ち込んでいる時、「この後何かあんの?」と酒臭い息を吐きながら常連客は言った。喧嘩を売る時みたいな口調だったので、三浜はじろりと睨み返して小さく首を捻った。「さあ、俺は何も」常連客は納得のいかない顔をしていたが、三浜の睨みに威圧されたのか、悪態を吐くようなことはせずに店を出て行った。三浜は食器を下げてテーブルを拭くと、厨房に戻って洗い物を再開した。
「浩介、もう店閉めるぞ」
「まだ一時半ですけど」
「今日はいいんだ。心配すんな。今日の分の時給は五時までちゃんと入れてやるからよ」
 大将は厨房の隅の椅子にどかっと尻を落とすと、煙草に火を点けた。
「そこは別にいいんです。金には困ってませんから」
 大将は白い息を宙に吐くと、言った。「そんなことより洗い物、とっとと片付けちまえ。それからこの後、ちょっと付き合え」
「付き合うって、何にです?」
「それは後のお楽しみだ」三浜が手を止めて大将を見たからか、大将はくっくっくっ、と上機嫌に笑いながら暖簾をしまいに行った。
 逃げやがった、と三浜は大将に気づかれない程度に舌を鳴らした。今日は普段よりも営業時間が短いこともあって、洗い物は少なかった。水を出したまま次から次へと皿を取り換えていく。普通二年続けたアルバイトの最終日なら、皿洗い一つにしても名残惜しく、多少は感傷に浸るのだろう。だが三浜には、そんな感情はまるでなかった。ではとっとと終わらせて立ち去りたいかというと、そうでもなかった。三浜は一枚ずつなくなっていく皿の数を実感しながらも、その一枚一枚がただ退屈を思わせるだけで、特に何も思わなかった。
「しかし、もうこうして浩介が厨房に立つ姿を見れねえってのは寂しいもんだな」
 そんな熱血っぽい一面もあるのか、と思いながら三浜は手を動かしていた。「そうですか」
「そうですかっておまえ、味気ねえな。最近の若えのは変にサバサバしてやがる。こっちは一人前の男にしてやろうと思って面倒見て来てやったのによ、息子みてえなもんだ」
 三浜はふっ、と口元を曲げた。息子とは、大将の口から出る言葉にしてはあまりに似合わない。
「何だよ、澄まして笑いやがって」
「澄ましてなんかいませんよ」
「澄ましてんじゃねえか。普通もっとこう……あるだろ、感謝の言葉とか、別れ際に見せる切ない表情とか」
 どんな時でも己の身一つでやって来た一匹狼に見えて、大将は案外、絆とか信頼とか、そういったものに拘る熱い性格だったのかもしれない。煙草の先から立ち上る煙を感慨深げに見つめる大将の姿が目の端に映って、三浜は小さく笑った。しかし今度は笑ったことを気づかれないように、大将からは見えない右頬を緩めた。
「洗い物終わりました」三浜は三角巾を解き、ばさっと強く振ってから続けた。「それで、何に付き合えと?」
 大将は灰皿に煙草を押し付けた。
「ついてくりゃわかる。とっとと着替えて来い」
 言われた通り身支度を整えて厨房に戻ると、大将も着替えを済ませて待っていた。高校までラガーマンだったことをまざまざと見せつける胸筋は分厚く、グレーにストライプのスーツ姿は迫力満点だった。おまけに禿げた頭が威圧感を何倍にも跳ね上げていた。
「そんなんじゃかっこ悪いのう」
 三浜の全身を舐め回すように見ると、大将は二重顎と眉間に皺を刻んだ。三浜はファッションには無頓着だった。アパートから大学まで通い、居酒屋でアルバイトをするだけの毎日に、おしゃれなど必要ない。極端なことを言えば、着られるものであれば何だって構わない。それでも今日の大将なら、高級なスーツでも買ってくれるのではないかと期待してしまう。だが、ただのアルバイトのためにそこまでする余裕はないようだった。
「みっともないけど、まあ行くか」
 店の前に出ると、すでにタクシーが横付けされていた。大将に乗り込むよう促され、三浜は訝りながらも後部座席に座った。大将も後部座席に座った。歌舞伎町まで、と大将が早口で言ったのを聞き、三浜はぎょっとして大将を見た。
「そんなに構えなくていい。社会勉強だ、社会勉強。最後に一回だけ付き合えよ」
 べつに構えてなどいないが、こんな時間に歌舞伎町に赴くなんてこれまで考えたことすらない、三浜にとっては突飛なものだった。そのためどうしても戸惑ってしまい、そして歌舞伎町に自分を連れて行くためにわざわざ店を早く閉めた大将に呆れ果てた。しかしタクシーを降りて大将の後ろを歩いていると、やがて大将が構えることはないと言った理由がわかってきた。大将は歌舞伎町のネオン街から路地に入り、三浜の想像していた歌舞伎町からどんどん離れていった。ところが大将が入った建物は、やはり歌舞伎町と聞いて連想する店だった。「セイレーン」と看板が掲げられている。三浜は入り口で立ち止り、中の様子を確認したが、キャバクラという先入観と比べるとずいぶんこぢんまりした、狭い空間が広がっていた。
「何してんだ、さっさと入れ」
 入り口に突っ立ったままの三浜に、大将はまるで胸倉を掴むみたいに下から激しく手招きした。中に入ると、突然光に包まれたような錯覚に陥り、目がちかちかした。大将は三浜の肩に手を回し、出迎えてくれた五十代前後と思われる派手な化粧に派手なドレスの女性に話し掛けた。
「こいつ、今日でウチ最後なんだ。せっかくだから連れて来た」
 三浜は名乗った。それに返事をするみたいに女性は名刺を差し出した。ピンク色の目立つ名刺だった。そこには玲華と印字されていた。どうやらセイレーンの店主らしい。よろしくと言われたので、適当に会釈した。大将と一緒に案内され、三浜は白革のソファに腰を下ろした。どうやら大将は懇意にしている女性がいるそうで、その人を呼んだ。女性が来るまで、三浜は漆喰の壁や吊り下げられたシャンデリア、飲み物を運ぶ制服の男性の動きを眺めていた。そうしていると他の客も目につき、その傍についている女性のカールした後ろ髪などが目についた。客の殆どが五十代か六十代と思われた。三浜は客の中では頭抜けて若かった。
「いいか浩介。女ってのは金しか見てねえ。見ろ向こうの席のおっさんを。がりがりのくせ禿げ上がっちまって、靴べら載せたみたいな頭してやがる。でも傍についてる女は愛想よく相手してるだろう?」
「仕事ですからね」
「それだけじゃねえよ。ああしておっさんをよいしょしてたらいろいろ貢がせられるからな。女ってのはどれだけ貢がせられるかを常に考えてる。そしたら必要なもんは何だ?」
「お金」
 大将は太い指をぱちんと鳴らした。「そうだ。女は懐を見て愛想を変える。毎日店に通って来るような常連客でも、ボトル入れてくれなきゃ一円にもならねえんだ。女ってのは金にならない男には見向きもしねえんだよ」
 この世の女イコールホステスという思考になっている大将の話などまるで参考にならないが、はあ、と納得しておいた。そもそも大将の持論は前時代的だし、そもそも三浜はこうした場所に興味はない。恋愛する気もなければ結婚願望もない。仮に大将の持論が正しいのだとしても、三浜には豚に真珠だ。
「じゃあ逆に、大将は女性のどこを見てるんですか?」
 大将は不敵に笑みを浮かべて、立ち上がった。大将は懇意にしている女性と笑顔で握手を交わした。気を利かせたつもりか、三浜にも一人薄ピンクのドレスに身を包んだ女性がついたが、挨拶を交わしてみると紙粘土を被せたような厚化粧に面食らった。胸は豊満だが化粧のせいで色気など微塵も感じられなかった。三浜は彼女にまったく興味を示さず、大将のほうを向いた。大将についている女性はややふくよかで、その分胸も大きい。顎のラインはシャープで、目元が銀色に光っていた。三浜は、美人とは思わなかった。
「体だよ」と大将は何の躊躇いもなく言った。女性の横で、セクハラだと訴えられても仕方がないものだ。
 だが水商売の女性にとってこういう客は慣れっこなのか、「やだあ」「ちょっとお」などと言って愉快に笑っている。三浜は神経が狂ってしまいそうだった。そこに大将の入れたシャンパンが運ばれ、三浜の感覚はますます鈍くなった。それでも傍についている女性の厚化粧には目も当てられず、ぴったりと体を密着されるのが耐えられなかった。「青いなあ」と大将は笑い、大将につく女性も嘲笑うかのように口元を緩めている。それを見ても、三浜は屈辱など一切感じなかった。女性に不慣れなわけではない。この厚化粧の女性は耐えられないというだけの話だ。それを察したのか、女性は三浜の傍から立ち去って、またべつの女性がやって来た。今度はいくらかマシだったが、三浜はその女性にも何の魅力も感じなかった。営業中の客からのご馳走とセイレーンに来てからのシャンパンで大将はとっくに出来上がっていた。大将はさっきから女性の体を触ったり、自分の膝の上に女性を座らせたりしているが、三浜はついてくれる女性との距離を詰めようとせず、投げられる質問に淡々と答えていくだけだった。酔いは適度に回ったが、三浜はキャバクラの楽しさを見出せないままでいた。やがて女性も質問を思いつかなくなり、表情に余裕がなくなってきた。三浜も退屈して、立ち上がった。
「帰ります」大将に言った。
「何言ってんだおまえ、もうちょっと楽しめよ」
「俺には合わない遊びなんですよ。シャンパン、ご馳走様でした」
「待てっつってんだ。今日だけ付き合えって言ったろ。もうちょっといろ。おまえが心開けばわいわい楽しくなってくらあ」
 呂律の回らない大将に三浜はうんざりした。今日はやけに上機嫌だと思ったら、こうしてセイレーンに来ることを決めていたからなのだと思うと、虚しくなった。
「こんなとこで遊んでるから結婚できないんですよ。いつまでも独身のままなんですよ」
「俺はな、結婚できないんじゃねえ、結婚しないんだ。何でよぼよぼになってくカミさんしか抱けないなんて縛りにあわなくちゃなんねえんだ。俺はいつまでも若い女を抱いていたいんだ。胸の弾力、ケツの張り、そんな女を結婚したら抱けなくなるなんて損しかねえ。それを知ってるから結婚しねえんだよ」
 三浜は溜息を吐くしかなかった。そもそも自分も結婚願望がないのにどうして結婚することが正しいなどという理念が口を衝いて出たのか。すっかり酔いが回っているらしい、と三浜は気づいた。
「俺……こういう場は向かないんですよ。きっと」
 三浜は大将に背を向けた。その時――。
 ホールの隅から赤いドレスを纏った女性が現れるのを見て、息を呑んだ。
抜群のスタイルを持ちながら華奢でない、適度に肉付いた体は彼女の健康さを思わせた。高い位置にある腰は見事な曲線を描いていて、それに続く胸は豊満だ。ドレスから露出された胸、さらに鎖骨にまで色気がこぼれるほどに溢れ出ていて、血色のいい顔に切れ長の目元が輝いている。肩を覆い、鎖骨まで届く黒髪は十メートル以上離れていてもその艶の良さが見て取れる。
 三浜は身動きが取れなくなり、彼女が客の待つテーブルに着くまで目を離せなかった。三浜は瞬きを繰り返し、尚も彼女の黒髪に見入っていた。

3へと続く……

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