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連載中編小説『愚美人』第一部5

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 カーテンの隙間からまっすぐ差し込む光が、床に座る蘭子を照らしている。目を覚ました時から挨拶も交わさず、口を開いたと思えば溜息ばかりだ。昨日洋食屋で婚約者の家族と再会し、かなりショックを受けたらしい。佐野も、もしかしたら蘭子を引き受けてくれるのではないかと微かに期待していた。しかしそんな素振りはまるでなかった。
 刺々しい小姑とは違って舅は柔和だったが、それでも蘭子は勘当されたようなものだった。婚姻届を出していたら、彼女の居場所はあの空間にあったのだろうか。そんなふうに、佐野は考えたりした。
 実家に帰れ、とも言えない。帰るなら、最初に実家を選んでいただろう。それをしないということは、何か事情があるのではないかと思った。父親に結婚の挨拶をしたと話していたから関係が悪いわけではないのだろうが。
 一つ気になるのは、父親に結婚の挨拶をした直後に事故に巻き込まれていることだ。日にちと時間を父親に指定されたとしたら、蘭子は父親のことを憎んでいるかもしれない。彼女は度々、あの日あの時あそこにいなければ、と悔恨を口にしていた。
 事実がどうであれ、軽率に問うのは蜂の巣をつつくようなものだった。
 佐野に着信があったが、蘭子は少しも気にする素振りを見せなかった。瀬尾遥香と表示されたスマートフォンを取り上げ、佐野は玄関に移動した。遥香とは保育園の頃からの幼馴染だった。
「もしもし」と佐野は小さな声で言った。
「よかった、繋がった。今大丈夫?」
 佐野は部屋の中の蘭子を見て、頷いた。
「大丈夫。どうした、突然?」
 ふふん、と陽気に鼻を鳴らすと遥香は言った。
「明日会えないかな?」
「ちょうど有休取ってるから、いつでも」
 そう答えながら、佐野は何か運命的なものを感じた。しかしそれも無情な運命に思えて、自分が惨めだった。
「夜でも大丈夫?」
「遥香は仕事?」
「うん。お昼はいろいろ立て込んでて抜けられそうにないの」
「いいよ、夜で」
「お店は私が探しとくから。後で詳細送っとく」
「わかった。じゃあ、明日」
「うん。突然でごめんね」
「いや、全然」
「じゃあね」
「ああ」
 声を聞いたのは二カ月ぶりだろうか。どこか名残惜しくて、佐野は通話終了ボタンを押せなかった。遥香の声が聞こえて来るわけでもないのに、スマートフォンを耳に押し付けたまま、機械の音を感慨深く聞いていた。虚空を舞う埃すら、愛おしく思えた。
 電話を終えて二分ほどで部屋に戻ったつもりだったが、時刻はもう十分以上も進んでいた。蘭子は変わらず一条の光に美貌の半分を照らされていたが、ふとこちらを向いた。狂気を孕んだ、刺すような眼差しだった。
「ここを出て行くわ」蘭子は言った。
 予期せぬ一言に佐野は面食らった。狂気が、少しずつ蘭子の瞳を侵食していくように見えた。佐野の元を離れたら、また奇行を繰り返すのだろう。あるいは今も、もう少し電話が長引いていたら、その隙をついて奇行に出ていたのではないか。初めて蘭子を見た日から、彼女は毎日奇怪な行動を取っていた。今日は気分が落ち込んでいるためか何もしていないが、遂に何かをやろうとしているように思えてならない。
「どうして突然?」
「決めたの。いつまでもあなたに迷惑掛けるわけにもいかないし」
「迷惑だなんて……。ここを出て、どこに行くつもりですか?」
 ややあって、蘭子は答えた。
「杉下さんのところに行くわ。彼女あたしを預かってくれるって言ってたから」
「でも昨日は」佐野は床に腰を下ろした。「杉下さんと行くのは嫌だって……」
「一晩考えて、彼女の言っていることが正しい気がしてきたの。あたしの周りの人からすれば、あなたはやっぱり見ず知らずの人。一緒にいるのはまずいかもって。杉下さんなら元同僚だし」
 佐野は、もう見ず知らずの人ではないと思っていた。むろん蘭子の周囲の人間に言わせれば見ず知らずの人間なのだろう。しかし蘭子と共有した決して短くない時間で、佐野は精一杯誠意を持って彼女と接してきた。彼女を保護し、自殺を引き留め、食事だけでなく衣服と住居まで与えたのだ。その上で、薔薇色の唇には刺激されるだけで指一本触れていない。それを蘭子の口から説明すれば、周囲の人間も佐野を「見ず知らず」の一言では片付けられないのではないか。
 だがそれも、夢破れた男の虚しい弁論に過ぎなかった。蘭子にとって佐野は、見ず知らずの人間ではないだろう。だがどんな手を尽くしたって、本人以外には訝しい存在として映ってしまうのだ。もし佐野の友人に蘭子との出会いから今日までを語ったとして、いったい誰が佐野の切なさに共感してくれるだろう。殆どの人間が、得体のしれない女性を保護した物好きで、その上捨てられた男と嘲るだろう。
 佐野と蘭子は、今はどうしても許容されない関係なのだ。ただ、時間が経って周囲の目が変わったとしても、佐野は蘭子を手に入れられるとは思えなかった。蘭子の全身を纏う鋼鉄の純愛は、誰も突き破ることができないからだ。それをわかっていながら彼女に憧憬を抱く自分を、佐野は愚かだと呪った。
 彼女に惚れていることは、もはや明白だった。
「わかりました」
 佐野は答えた。
 明日で有休は終わる。明後日からは仕事で昼間家を空けることになる。蘭子を見張っておくことなどできないし、自分が面倒を見ている間に自殺でもされたら厄介だ。いっそのこと、厄介払いができて好都合ではないか。
「杉下さんには、俺から連絡しておきます」
 沙希から受け取った名刺は名刺入れに保管してある。
 五時を過ぎたら連絡しよう、そんなことを考えていると、ふいに影に覆われた。見上げると、蘭子が迫っていた。彼女は包容力に溢れた純真で柔らかい瞳を微笑ませていた。氷のように冷たい手を佐野の頬に添えると、憧れることしかできなかったあの薔薇色の唇を突き出して、軽く口づけした。小さいが、適度な弾力に胸が飛び跳ねた。小鳥が啼く時のような小さな音が部屋に響いた。
 佐野は茫然と蘭子を見つめた。いつのまに開けられたのか、カーテンのない窓からは陽光がどっと押し寄せて来て、蘭子の顔を見えなくした。佐野は焦燥感を掻き立てられて、慌ただしく立ち上がった。
 今度は佐野が、蘭子に口づけを迫った。
「今までありがとう」
 蘭子の声で我に返った。
 佐野は動きを止めた。陽の光を浴びて煌々と湿る唇は妖艶で、かぶりつきたいとさえ思った。丸々とした瞳は輝いて見えるのに、長い睫毛にはやはり悲しみが載っていて、どこか危なっかしさを感じさせた。これまでの数々の奇行が、切々と蘇って来た。
 そうか、と佐野は思った。
 蘭子の美貌に惹かれるのではない。蘭子の持つ独特の危険な雰囲気が佐野を惹きつけて離さないのだ。直面した危機、奇怪な発言、生まれ持った美貌――美しさは、その愚かさを以って昇華する。蘭子から溢れる弱く愚かな部分が、男の本能を強く刺激するのだ。
「明日出て行くわ」
 その一言に、佐野の気持ちは昂った。抑え切れぬ欲望に沙希への連絡を忘れそうになりながら、必死に平静を装って夜を迎えた。夕食を摂り、広げた布団に眠る蘭子はあまりに無防備だった。
 佐野は初めて蘭子の寝顔を見た。玄関ではなく、部屋の中にいた。月光が、額の産毛を可憐に照らした。自分と同じ洗剤を使っているのに、やけにいい匂いがした。蘭子の美貌と自分の手が視界で重なった時、佐野の中で欲望がすっと鎮まった。
 蘭子は無防備に、規則正しい呼吸を繰り返していた。その信用を、佐野は裏切ることができなかったのだ。
 佐野は諦めて、玄関に戻った。自分の手を見ると、涙が溢れそうになった。

6へと続く……

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