連載長編小説『美しき復讐の女神』18-2
年が明けてから初めて訪れるセイレーンに、三浜は微かな高揚を覚えた。いや、セイレーンに対してではない。クリスマス以来、一度も顔を合わせていない凛と会えることに胸が高鳴っているのだ。店内に入った三浜は、笑みを浮かべて近づく玲華など気にも留めずホール内に凛を探した。
だが凛の姿はどこにもなく、先月から続くセイレーンの違和感が店から華やかさを削ぎ落しているかのように三浜には思えた。
「凛なら奥にいるわ。三浜君を待ってる、心配いらないわ」新年の挨拶を済ませると、玲華は三浜の怪訝そうな目を察して言った。
「もちろん、凛を指名して予約もしてありますから心配なんて」
「でもね、三浜君だけなの」
悲嘆に暮れたような玲華の声に三浜は微かに首を捻った。
「俺だけ……というのは?」
「凛が接待するお客様。今となっては三浜君だけなのよ。年末辺りから、凛は突然常連のお客様の席につかなくなったの」
「年末じゃありませんよ」三浜は言った。「もっと前からです。俺がわかる範囲でも十二月の頭かな。玲華さんが俺のどこからそんな大金が湧き出て来るのかって訊いた頃から」
「そうなのよね」玲華は推理中の探偵のように腕を組み、親指と人差し指を顎にやった。「兆しはその頃からあったのよ」
「気づいてたんですか? でも兆しって……」
「気づくわよ。変じゃない、突然接待しなくなるなんて。店頭でお客様をこうして迎えるのはあたしなんだから、気づかないわけがないでしょ。凛はあたしに今日は気分が優れないから断って、なんて言ってたの。でもとうとう年末になると、もうこの人とこの人とこの人の席にはつかないから、なんて言い出したの」
凛は元々客を選ぶタイプだ。気に入らない客を見限ることは不思議ではない。だが何かがおかしいと三浜は思った。凛の粛清はあまりにも唐突で、あまりにも大規模なものだった。
「それで、残ったのが俺だけってことですか?」
「そうよ。何かあったのか訊いてもはっきり答えないし、もしよかったら三浜君のほうから事情を訊いてほしいの。お願いできる?」
「わかりました」
玲華がホールの奥に姿を消すと、入れ替わるように凛が姿を見せた。三浜以外の客を除外しただけあって、まったくの素面だ。アルコールが一滴も入っていない凛をセイレーンで見るのは珍しかった。三浜は案内されたソファに深く腰掛けながら、玲華から預かった用件をどう切り出すべきかと考えた。どうにか話をうまく誘導できればと三浜は考えたが、凛を相手にそんなことができるかどうかはまったくもって確証がなかった。それに、凛は回りくどく切り出されるのを嫌うだろうとも思った。単刀直入に切り出すべきだろうか、ゆったりと近づいてくる凛を横目で見ながら三浜は考えた。
いつも通り、何気ない様子で接しよう。三浜はそう決心した。
「俺の席にはついてくれるんだな。安心した」凛が席に着くと、三浜は言った。「明けましておめでとう」
「何が言いたいの?」
「俺以外の客にはもうつかないんだろ? どうして?」
凛は三浜に飲み物を選ばせ、長い足を組むとこちらを向いた。
「あなたのせいじゃない」骨張った手を揉みながら凛は言った。やや前かがみの姿勢の胸元にティファニーのネックレスが輝いていた。改めて見ると、凛の赤い衣裳によく似合う。「あなたがいるから他の客を切り捨てたのよ」
三浜は凛の言葉に有頂天になったが、だからといってホステスである凛が客を切り捨てる意味はまるで理解できなかった。
「もう少し具体的な理由は? それじゃ漠然とし過ぎだろ」
凛は三浜の手元をじっと見つめた。その視線の先に凛からもらったオメガの腕時計が嵌めてあるのだった。凛は自分が贈った腕時計を見つめた後、三浜にクリスマスを思い出させるかのように胸元のルビーに触れた。
「これまでは、五十代六十代のおじ様方を相手にするのが私の仕事なんだと思って来た。でも去年あなたが現れて、若者の、同年代の瑞々しさに触れると、もう私はおじ様方の相手をしていられないって感じたわけ。手に触れること一つとっても、張りがあるあなたの手と違ってヨボヨボなんだもの。物足りなくなっただけ」
やはり三浜の思惑通り、若さは金で買えない絶対的な神秘性を持つのだ。結局凛は、三浜の若さに惹かれたのだ。
「それだけか?」三浜は口元が緩むのを必死に我慢しながら言った。「でもホステスである以上、そこは仕事だと割り切って――」
「あんたまたそんなこと言うの? 私を愛してるんじゃないの? あんたに独占欲はないの? こんな高価なジュエリーを贈るくせに。男がジュエリーを贈るのは独占欲の表れじゃなくって? 私に、他の男の横にいろって言うのね。仕事だと割り切れば、あんたは私があんた以外の男と手を繋いでても、キスをしてても平気なの? それで愛していると言える?」
「すまない。もちろんそんなことは嫌だ。想像したくもない。ただこれは仕事の話だから、言っただけだ。凛がホステスである以上つきまとう話だろ?」
三浜は凛を落ち着かせるために運ばれて来たシャンパンを飲ませた。凛は仏頂面を浮かべてなかなかグラスを口に運ぼうとしなかったが、乾杯の後三浜が一気にシャンパンを飲み干すのを見て、自分もグラスを口元に運んだ。不味そうにシャンパンを飲んだ赤い唇がちょっと濡れて、妖しかった。
「他に何か理由は?」三浜は訊いた。
「遺産ね」凛は不満の残る、やや尖った声で言った。「あなたご両親が残した保険金が二億円以上あるんでしょ。あなたは私に惚れてるから、ここに来なくなるなんてあり得ないもの」凛は唇を舐めた。切れ長の目は瞳の奥で三浜を睨んでいた。まるで、私が誘き寄せているのだから、と言わんばかりだった。「そうでしょ?」
女ってのは金しか見てねえ――初めてセイレーンに連れて来られた時の大将の声が耳に蘇った。もし今隣に大将がいれば、我が物顔で高笑いを店内に響かせたことだろう。
しかし、三浜はあの軽蔑した大将の言葉が正しかったことを知った。女は金しか見ていない。凛も、鋭い瞳の奥で常に客の懐具合を睨んでいたのだ。
若さと金で選ばれた……刹那胸がすく思いをしたが、それでも三浜は満足した。たとえ凛が自分のことを見ていなかったとしても、若さと金は自分の持つ武器だ。それだけで凛が自分だけのものになるのなら、何と容易いことだろう。約束された凛との運命を思うと、言い表しようのない興奮と独占欲が三浜の中で溢れた。
「そうだ」三浜は頷いた。「金と時間ならいくらでもある。でも金も時間も、もっと有効に使う方法があるはずだ」
「何かしら」
「ふん、わかってるくせに」三浜は凛の手を取った。「ここを辞めて、俺と暮らさないか。店に来るより、そのほうが凛のために金も時間も使える。そうだろ?」
凛は三浜の手から自分の手を抜くとグラスを手に取った。シャンパンを口に含むと、食べるように口を動かした。
「辞めるねえ……」
「俺が店に来なくなったら凛はどうするつもりなんだ。信用を失った客は戻ってこない。新しい常連を手に入れるまで凛の居場所はここになくなるんだ。それなら店を辞めて、二人で過ごしたほうがずっといいと思わないか? 旅行だって食事だって自由だ。九十九里浜もクリスマスも楽しかっただろ?」
「……そうね」美しい切れ長の目がふっと伏せられた。「辞めても辞めなくても、私はあまり変わらない気がするけど。とにかく今は何とも言えないわ。仕事だからって私を他の男の横に座らせようとする人なんだから、あんたは」
「でも、考えてくれるんだな?」
「さあね」
帰り際に、三浜は店を出たところで玲華に凛との会話について伝えた。普段温厚な玲華だが、これには憤慨した様子だった。
「ホステスにあるまじき行為だわ。一人や二人特別なお客様を持つのは構わないけど、それ以外の方もちゃんと接待しないと。凛はウチの看板娘なのに、凛にお客様がつかなかったらウチにとっては死活問題じゃない。まったくあの娘は……また潰すことにならなきゃいいけど」
19へと続く……
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