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連載長編小説『美しき復讐の女神』6

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 色づき始めた紅葉の木を、気にも留めないで三浜は学内に入構した。昼休みののんびりした雰囲気のせいで、紅葉を見た学生が漏らす感嘆の声が、やけに間延びして聞こえた。学内にも数カ所に紅葉や銀杏の木が植えられている。そのため意識せずとも、紅葉が視界に映った。だが三浜は、葉が色づくだけでそれに何の価値があるのかわからない。だから紅葉にはしゃぐ学生の感性を理解できなかった。十一月となったが、快晴の空に昇る太陽の陽射しは鋭い。濃密に凝縮された陽光が校舎に反射し、三浜の網膜を焦がした。ぼんやりと視界を阻む残光が鬱陶しかった。三浜は四階まで階段を上がった。体が気怠く、いつもより時間を掛けて階段を上ったおかげで、教室に入る時には残光は消えていた。ドアを開けて中に入ると、ぽつぽつと同じゼミの学生がすでに着席しておしゃべりをしている。入室した三浜のほうに一斉に視線が注がれ、すぐにまた殆どの視線が元通りに会話を始めた。その中で、教室の最後列に陣取る瀧本潤也と月島乃愛だけがこちらに視線を向けたまま、挨拶代わりに手を挙げた。三浜は瀧本の昼食らしいサンドウィッチと乃愛の昼食らしいドーナツに一瞥をやって、二人が並んで座る座席の一列前に腰掛けた。三浜は「よう」とだけ言って、教室前方を向いた。瀧本と乃愛は恋人同士なのだ。そんな二人の睦まじいランチデートを邪魔するわけにはいかない。
「浩介、おまえ一限サボったろ。寝癖くらい直して来いよ」
 笑い混じりの瀧本の声に三浜は椅子の上で体を回転させた。
「昨日飲み過ぎて、起きられなかっただけだ」
「浩介、最近多くない?」
 オールドファッションのチョコレートの部分をかじった乃愛が言った。二年に進級する時に染めたピンクのインナーがいつも目につく。本人はおしゃれのつもりだろうが、体育会系だと一目でわかるそのがっちりとした筋肉質な体格では、かえって不似合いだ。むしろ柄が悪く見えて、女性らしさは失われている。
「べつに犯罪してるわけじゃないんだから、ほっとけよ」
「俺だって酒は飲むから、飲みたい気持ちはわかるけどよ、ほどほどにしとけよ。飲むならせめて週末にするとか、そうしないと、単位落として痛い目みるぞ」
「経験者はこう言ってます」乃愛は畏まった態度を取り、恋人を指差した。「潤也も前期に単位落とした科目あったもんね」
「馬鹿、あれは酒関係ないだろ。テストが難し過ぎたんだよ。俺以外にも落ちてたやつはいっぱいいたよ」
「でもあたしと浩介は単位もらったけど?」
「おまえら勉強してないって言ったくせにしっかりと対策してきやがって。一年怨むからな」
「何それ、一年だけなの? 呪力弱そう」
「馬鹿、一年に怨みを詰め込むんだ。強力だぞ」
「何で一年?」
「俺の再履修が終わるまで」
「ああ、なるほどね」
「浩介、先生がもう休んでる余裕ないって言ってたぜ。まじで単位落とすぞ」
「べつにいいよ」
 それが本心だった。単位が認定されなくても、構わない。何だったら、素行不良や成績不振を理由に強制退学になったって構わないとさえ思う。中途半端に登校したりしなかったりを続けるくらいなら、学費を納めるのだってもったいない。
「浩介最近変じゃない?」乃愛が言った。「一年の時なんか全科目皆勤だったんじゃない? 今年の前期だってそうでしょ? なのに夏休みが明けてから突然休みだして、あんなに優等生だったのに……」
「たしかに」瀧本が突然険しい顔になって頷いた。「夏休みに、なんかあったのか?」
 三浜はカップルの顔を交互に見つめ、椅子の上で体を回転させた。尻をずらし、背もたれに頭を預けた。三浜は天井を虚ろな目で見上げた。
「俺はそんなに大したことと思わないんだけどな」
「何だよ、やっぱり何かあったんだな」
「二十歳になったことくらいだよ。酒が飲めるようになった」
「やっぱりお酒なわけ? だめじゃん浩介、ちゃんとした生活しないと。酒に飲まれてる」
「酒癖悪いとモテないぞ」瀧本はからかうように三浜の肩を強く叩いた。「彼女作れって言ってんのに、そんなんじゃお先真っ暗だ。話にならない」
「浩介今彼女いないんだよね? 確かに彼女作って、乱れた生活矯正してもらうっていうのも大事かも。服だって、彼女ができたらジャージではさすがに来ないでしょ」
「俺なんて、乃愛と晩飯食う時しか酒飲まないって決めてるよ」
「そういう約束はちゃんと守ってくれるもんね」
「当たり前だろ。酔っ払って気づいたら乃愛以外の女とホテルなんてことがあったら、とんでもないからな」
 三浜はふう、と息を吐き、立ち上がった。授業開始までカップルの惚気話を聞かされると思うと堪らなかった。三浜は、二人が自分のことを気に掛けていることを感じながらも、どうしたって二人の惚気話へと移行していくことを熟知していた。
「待てよ浩介。どこ行くんだよ」
「トイレだよ。あと十分ちょっとで授業始まるだろ。おまえも昼飯さっさと食えよ」
 三浜は教室を出て、トイレに向かう廊下を歩いた。しかしトイレには入らず、吹き抜けになっているフロアで手摺に身を預け、一階を覗いた。昼休みも残り十分ほどとなり、午後の授業に向かう学生で一階は慌ただしさを見せ始めていた。その中でも、のんびりと腰を落ち着けている学生がいる。三限の予定が空いている者だろう。その者の中でも静かに読書に耽る者がいれば複数人で集団を作って騒いでいる連中もいる。三浜は後者のような者が嫌いだ。人が集まれば声が上がるのは当然だが、周辺の学生すべてを巻き込まんばかりの大声ではしゃぐ連中を見ると、とても大学生に見えず、虫唾が走る。そういった連中は貞節を弁えておらず、近くに授業中の教室があっても構わず大声を発しているし、会話の内容といえば決まって下品なものだ。そんな馴れ合いをわざわざ大学に来てまで求めるのか? 三浜は連中を軽蔑する。自分自身、入学直後に知り合った瀧本と、そして入学後しばらくして瀧本と交際を始めたことで知り合った乃愛と殆ど一緒にいるが、わざわざ授業以外で会おうとは思わない。二人が恋人関係ということが、三浜が彼らに一線を画すのに作用しているのは確かだが、仮に二人が交際していなかったとしても、三浜は瀧本と乃愛と馴れ合うつもりはなかった。瀧本とは多少連絡を取り合っているが、業務連絡程度のものだ。時間を確認したが、授業開始までまだ五分以上あった。やることがない上に時間が進むのが遅い。見下ろした一階に鼻につく連中がいることもあって、三浜は苛立った。四階から唾を吐き落してやろうと思ったその時、声を掛けられた。同じゼミに所属する澤部だった。
「三浜、こんなところで何してんの? そろそろ授業始まるよ」
「ああ、もうちょっとしたら教室戻るよ」
「そうか」と言うと澤部は歩き出した。
 授業開始が近づき、同じゼミの学生の姿が目立ってきた。いずれの学生も三浜の前を横切る時、声を掛けるか訝しむかした。三浜は声を掛けられる度に適当にあしらったが、中にはなぜ廊下に突っ立っているのかを追及してくる面倒な輩がいて、その時は瀧本と乃愛の惚気話を聞かされるから逃げて来たのだと説明したが、正直瀧本以外の学生と会話を交わすのは煩わしかった。さらにそうして廊下にいる理由を説明する度、瀧本と乃愛のお節介な言葉が聞こえて来るようで苛々した。そろそろ彼女作れよ、と瀧本には以前から言われている。正直鬱陶しい。三浜は、恋人など求めていない。なぜなら恋人ができても今のつまらない生活が満たされることはないし、むしろ恋人ができたせいで面倒事が増え、ストレスが今以上に嵩むことは目に見えているからだ。瀧本に便乗して、乃愛はしょっちゅう三浜に彼女はいないのかと訊ねてくるが、恋人がいないからどうだというのだ。恋愛も酒も、同級生に心配されるのも、世話を焼かれる筋合いもないのだ。三浜は、恋人にしたい人ならいる、と打ち明けてやろうかと思ったが、そんなことをしたらかえって面倒なので、凛の存在は決して口外しない。凛は唯一、三浜の心を満たしてくれる特別な存在なのだ。俺の事情も知らないくせに干渉しないでくれ――三浜は時刻を確認して、教室に戻った。

7へと続く……

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