連載長編小説『美しき復讐の女神』11-1
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昼食を食べ終え、隼人はソファの上で毛布に包まった。皿洗いをする美代子のいるキッチンと、ダイニングテーブルを繋ぐ通路に電気ストーブが置かれているが、リビングのほうにストーブは置いていない。ストーブ一台でリビングまで温かくなるからだ。
それでも熱気と冷気が循環するため、時々刺すように厳しい寒さが身に応える。暖房をつければ済む話だが、隼人は暖房をつけるのが嫌いだった。夏場の猛暑は全裸になっても対処できないが、冬ならば、極寒の地であっても厚手の服を重ねれば何とか凌げる。隼人はそう理屈づけて、暖房を使用しないのだった。
母の作った昼食で腹を満たし、少し離れた場所のストーブが適度に部屋を暖め、隼人はうつらうつらと微睡んだ。そんな時間が十五分ほど続き、気づけば一時間を昼寝に費やしていた。休日で部活も休みのため問題はないが、睡魔に呑まれるというのは怠惰な生活を送っている証拠のような気がして嫌だった。
今呑気に昼寝をした一時間も、同級生にとっては死闘の一時間なのだ。誰に迷惑を掛けるわけでもないが、申し訳ない気持ちになった。
毛布をソファの上に置き、隼人は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。乾いた口を潤していると、美代子が突然言った。
「凛が何か事件に巻き込まれたんじゃない?」
隼人は口の中の麦茶を飲み込み、寝ぼけ眼を擦った。
「急にどうしたの?」
「この前探偵がお父さんに会いに来たじゃない」
「ああ、あのこと……」
先週、探偵を名乗る男が太一を訪ねて来た。その時隼人と美代子は席を外すよう言われたため詳しい事情はわからない。太一は過去の事件について話を聞きにきたのだと言うが、隼人も美代子も少し不信がっていた。というのも、太一によると探偵は過去の解決済みの事件について調査しに来たらしく、すでに解決した事件を調べる理由は何なのか、という疑問を母子共に抱いているからだ。
もしかしたら、その事件には違法捜査や冤罪の可能性という後ろ暗い事情があったのではないか。そしてそれに太一も関わっていたのではないか。もしそれが暴かれれば、この先一家はどうなっていくのか。そんな不安が隼人に、そして美代子にも重く圧し掛かっていたのだ。
だが美代子が口にした不安は、それとは違う性質のものだった。隼人は普段とは違う母の様子を察した。
「凛が事件に巻き込まれたって、そんな心当たりでもあるの?」
美代子はかぶりを振った。しかし不安げに頭を横に振る姿は、明らかに何かを察知しているように隼人には見えた。
「何となくなの。心当たりなんかない」
「そうは見えないけど?」
「本当に何となくよ。だってあの娘、家を出てから一切音沙汰ないし、それに東京なんて日本で一番犯罪発生数が多い場所じゃない? だから何かに巻き込まれたんじゃないかって、不安になるのも当然でしょ」
母が姉の心配をするなんて、珍しいこともあるものだ、と隼人は思った。
だがそれも束の間のことだった。
「もしあの娘が犯罪に関わったりして、隼人の進路に支障が出たらどうしよう……」
隼人は呆れて、溜息も出なかった。
「いつもそうやって凛を目の敵にするな、母さんは」
「そうかしら?」
「そうかしらって」無自覚な母に、笑うしかなかった。「普通こういう時って俺じゃなくて凛のことを心配するだろ」
「心配してるわよ。もちろん凛も心配だけど、隼人だって大事な時期じゃない。もしあの娘が犯罪に巻き込まれて、それが大学のほうに知れたら推薦が取り消されるかもしれないのよ。本当にそういうことがあるんだから」
もし本当にそんなことがあったら。それを思うと、隼人は何も言えなくなった。幼い頃から積み重ねた努力がようやく認められ、晴れて推薦をもらうことができたのだ。それが、もしかすると一瞬で崩れ去るかもしれない……。
隼人は思い直した。凛が犯罪に巻き込まれたと決まったわけじゃない。美代子が勝手に深刻に考えているだけだ。きっと杞憂に終わるだろう。
「大丈夫だよ。父さんを信じよう」
隼人はそう言って、リビングを出た。だが、最後の言葉は母に向けたものではなく、自分に言い聞かせるものであることを隼人は自覚していた。
美代子と同様に、探偵が家を訪ねて以来隼人は何とも居心地の悪い不安を感じていた。それは凛に関係しているとか、自分の将来に関わるとか、そんなものではなかった。もし太一の言うように過去の事件に関する調査だったとしても、それは何となく一家を揺るがす重大なものであるような気がしているのだ。
過去の清算か、将来の十字架か。あるいは何事もなく、ただ平穏な日々が待っているのか。隼人は、決して先読みできない近い将来に怯えているのだった。
二階に上がり、自室へ入る前に凛の部屋の前を通過しなければならない。凛の部屋は、二年前に凛が家を出て以降、誰も手を付けていない。太一が時々掃除をしているようだが、埃が堪らないように簡単に済ませる程度で、物に触れることはない。
隼人は、美代子が不安視したことが気に掛かった。気がつくと、凛の部屋に入っていた。
ドアを開けると、まず華やかなピンクに彩られた壁紙が目に飛び込んだ。隼人の部屋とは対照的だ。壁にポスターこそないものの、シーツと同様真っ白の枕元には女の子らしくぬいぐるみが三つあり、掛布団は寝る人の安眠を妨害しそうな赤色をしていた。凛は読書を好み、部屋の隅には書架が六段に分かれた本棚が置かれていた。そこには小説や新書、漫画にファッション雑誌と多種多様な書物が並べられていた。太一が定期的に掃除しているだけあって部屋は綺麗だし、凛が高校時代に着ていた衣服がクローゼットに何着も掛けられていた。これは、もう捨てるべきだろう。勉強机にはやはり凛が高校時代に身に付けていたアクセサリーや化粧をする際に使っていた丸鏡などがあった。勉強机の棚には、高校三年時に使用した教科書類が今も並んでいた。
二年前も、この部屋は同じ様子だったのだ。凛が変わってしまった二年前も。
隼人は、そっと勉強机の抽斗を開けた。そこには古い新聞記事が入っていた。発行年は十五年前で、見出しにはでかでかと『篠木渚死刑囚 死刑執行』と印刷されている。なぜこんな記事を抽斗にしまっているのか、そう思った次の瞬間、掲載されている顔写真に衝撃が走った。
そこには凛によく似た女性の顔写真が、いや、凛そのものの顔写真が掲載されていた。
隼人は目を凝らしてその写真を見たが、見れば見るほど凛であり、そんなはずがないと思えば思うほど凛にしか見えないのだった。だが、当然ながら十五年前の凛は五歳である。ここに掲載されている写真が凛のものであるはずはなかった。
隼人は震える手で、次の記事をめくった。
今度は今から二十一年前の記事だった。それは殺人事件を報じた記事で、篠木渚の逮捕を報じるものだった。篠木渚は新宿歌舞伎町で随一の人気を誇ったキャバクラでホステスとして働き、そこで人気ナンバーワンにまでのし上がった、当時は言わずと知れた絶世の美女だったようだ。その篠木渚が常連客十名を自宅に集め、全員を同時に毒殺したことが書かれている。そして新聞記事はこう結ばれている。
――一世を風靡した絶世の美女は、現代を代表する高嶺の花ではなく、黒々とした素顔を持つ魔性の女だったのだ。
魔性の女……あまりに現実味のない言葉に、隼人はますます混乱した。それに記事によって報じられた衝撃と、見れば見るほど凛で、しかし凛ではない篠木渚の顔写真が、隼人を困惑させ、篠木渚が凛なのか、凛が篠木渚なのか、それとも二人は何も関係がないのかもわからなくなった。
ふと、背後に人の気配を感じた。瞬きも忘れ、むしろ早まる鼓動に急かされるように瞳孔が開いていく。隼人は、乾き切った口の中で必死に唾を呑み込もうとしながら、しかし咄嗟に後ろを振り返った。
「なんで……」
部屋のドアを開け、そこに悠々と佇む凛を見て、隼人は狼狽した。
「何してるの?」
凛は燃えるような真っ赤な唇を微かに曲げ、隼人に突進するように長い脚で大股に進んできた。隼人が言い淀んでいると、凛はさっと新聞記事を取り上げた。それを見て、凛は切れ長の目でこちらを睨んだ。だがすぐに、恐ろしいほど美しい笑みを浮かべた。
隼人は姉の表情に目が離せなくなるほど魅了された。そして息が詰まるほどに息を呑んだ。
「何だよこれ」焦りに身を任せ、隼人は言った。「こんな記事……」
「知らなくていいことを知ったのね」
さっと表情を殺した凛は、隼人の胸元を押した。凛の見た目以上の力に、隼人は踏ん張り切れずに倒れ込んだ。凛のベッドがクッションになったのは幸いだった。
が、起き上がろうとする隼人の上に凛が覆い被さった。上半身を起こそうとしていた隼人は、そのまま凛に押し倒された。男を見下ろす勝ち気で美しい姉の顔から、甘い匂いが香る。隼人の顔を包むように垂らされた黒髪からも、隼人の神経を麻痺させるかの如く甘い香りが放たれていた。凛は、不敵に笑った。
その瞬間、隼人は二年前のことを思い出した。「もう私達は姉弟じゃない」と言われたあの日のことを。
二年前の冬だった。当時高校一年だった隼人は部活にひどく疲れて帰宅し、夕飯も食べずに寝入ってしまいそうな状態だった。ようやく慣れ始めた高校生活とはいえ、そんな日が毎日続いていたのだ。そんなある日、凛に呼び出された。
勉強机に向かって椅子に座っていた凛は、ベッドに座るよう隼人に促した。そして凛は、隼人に近づくと肩を殴るように押し、今よりずっと体の小さかった隼人は何の抵抗もできずにベッドに押し倒された。凛は隼人の上に跨り、早熟とも言える大人びた、あの切れ長の目で弟を見下ろした。凛の目は隼人をまっすぐ見下ろしながらも、どこか切なさを感じさせる憤怒の色を灯していた。完全に理性を失い、野獣のように荒れ狂った凛は、噛みつくように隼人に接吻し、制服を脱がしていった。隼人はたちまち全裸にされ、動揺が静まった時には凛も下着姿となっていた。
「何すんだよ」
隼人は姉を引き剥がそうとしながら叫んだ。必死にもがいたが、腰を押さえつけられた隼人は、上半身の力だけでは凛を突き飛ばすこともできなかった。それでも腕力に頼ろうとした隼人だが、突然全身に電気が走った。力が抜け、指先の感覚はなくなった。まるで腰だけが紐で吊るされて宙に浮いているような、奇妙な感覚が全身を駆け巡っていた。
恐る恐る視線を下げると、凛は跨るのをやめ、隼人の性器を咥えていた。
「もう私達は姉弟じゃない」
吐き出すように性器から口を離した凛の一言が隼人の反抗を封じ込めた。疲れ切った頭がさらに惑わされ、隼人は何が起きているのかすらわからなかった。むろん、凛の言葉の意味などわかるはずがなかった。隼人は女として乱れ狂う姉の姿に戦慄を覚えた。些かの興奮すら感じられない、女の衝撃と恐怖が隼人の心の奥底に刻み込まれた。そして姉の女として見せる顔が隼人にはとても受け入れられず、心に負った傷をより一層深くした。
それ以来、隼人は無意識の内に女性を避けるようになった。凛のように獰猛で淫乱な女性ばかりでなく、和葉のように温和で誠実な女性もだ。
もう私達は姉弟じゃない――凛の声が、二年前の肉声をそのまま再生したかのように耳に張り付く。抽斗にあった新聞記事の篠木渚と凛の関係を悟り、隼人は頬が熱くなるのを感じた。
隼人は身を翻した。二年前のことを思い必要以上に力を入れると、凛はいとも簡単に吹き飛んだ。二年前とは、比べものにならないくらい体格が良くなっているのだ。
隼人は凛を見下ろし、凛は隼人を上目遣いに見た。美しい弧を描く長い睫毛から溢れ出る色気に、隼人は目を合わせていられなかった。視線を落としたものの、露になった鎖骨と豊満な胸が、隼人に男としての興奮を与えた。
隼人は、自分と凛に血の繋がりがないことを悟ったために、この一瞬で凛を異性として認識していた。美しいボディーライン、豊満な胸、細い首元、そして色気だけでなく可憐さも携えた美と艶の象徴。
呼吸は乱れ、興奮はどんどん膨らんでいく。挑発的に見上げる切れ長の目が、隼人の乾いた口の中で唾液を生成させる。うなぎ上りに上がっていく脈拍は、息を呑むことすら許さないほどの緊迫を感じさせる。隼人はじっと凛を見つめた。凛は妖しく笑い、顔を近づける隼人に抗う様子もない。
鼻が触れ合おうとする時、隼人は自制した。虚を突かれたように目を丸くし、口をすぼめる凛をしばらく見つめたが、ぐっと瞼を伏せ、隼人は顔を背けた。
「あんた女が怖いんでしょ」
不意に凛が言った。目を開けると、凛は口元に嘲笑を浮かべていた。瞳の奥に獰猛な火が宿っている。隼人はそれを見て、凛にすべて見抜かれているのだと思い、震え上がった。まるで蛇に睨まれた蛙だった。凶暴な目で睨まれ、完全に委縮してしまった。
だが隼人は、凛の言葉を肯定するわけにはいかなかった。
「怖いわけがない」
「いいや、あんたは女を怖がってる。こうして私を押し倒して、こんなに近くまで顔を近づけてるのに最後の最後で顔を背けるっていうのはそういうこと。キスはおろか、あんたじゃ女の手に触れることもできないでしょうね。情けないわ」
隼人は凛を睨んだ。この二年、凛のせいでどれだけ苦しんできたか。和葉だけでなく、授業で交流を持つ女子生徒のいずれとも満足に関わることなどできなかった。部活でも女子部員とは結局最後まで打ち解けられず、クラス替えの度に担任教諭は男性であってくれと願った。そんな苦しみと屈辱に翻弄され続けた二年間を思い出すと、憤怒のあまり腸が煮えくり返る。隼人は目を剝き、白目を血走らせた。
だが凛は悠々と隼人を見返し、凄みすら感じさせる笑みを浮かべている。それは隼人を嘲るのと同時に、挑発的でもあった。そしてその挑発は誘惑でもあった。
隼人は凛の長い脚を大股に開かせた。気がつくと隼人の理性は失われており、夢中になって凛を抱いていた。股間から腹にかけて伝わる女の熱に、隼人は涙を滲ませた。
11-2へと続く……
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