見出し画像

連載長編小説『美しき復讐の女神』1

        1

 骨張った手がカツカツと動いている。ペンを握る細い指はその角度と微動で手全体の美しさを際立たせた。その手から書き出される文字が流麗であることを、相馬隼人は知っていた。
 残暑を思わせぬ白い手首には彼女のポニーテールを束ねるためのヘアゴムが巻かれていた。袖が一重だけ折り返されたカッターシャツ、紺のベスト、鎖骨の延長のような首筋、そして顎から視線をやや上へ向けると、南野和葉の真剣な眼差しがあった。その真剣な横顔から、隼人は思わず目を背けた。
本棚に隠れ、当てもなく背表紙に視線を這わせる。苦い記憶がじんわりと胸に広がりかけたが、視覚が無意識に文字を認識し、隼人は意識を逸らすことができた。
 落ち着くと、再び当てもなく背表紙に視線を這わせた。
 体育祭が終わり、十月に入っていた。学校行事もなくなり、隼人達三年はいよいよ受験本番に向けてのラストスパートだ。昼休みの今も、自習室や教室で勉強に励む生徒は多い。教室の一角でおしゃべりに勤しむ生徒もいるのだが、隼人は人生を賭けんばかりの集中力を見せる受験生の邪魔をしたくなくて図書室にやって来た。隼人は先月、剣道推薦で進学先が決まっていた。そんなやつが、一生懸命勉強している生徒の横で気楽におしゃべりなどしていたら、癪だろう。
 小説の文庫本が並ぶ書架をゆったりと眺めながら通り過ぎ、スポーツ関連の専門書が並ぶ書架で、隼人は本に指を掛けた。
 和葉の視界に入らないよう、図書室中央に置かれているテーブル席には着かず、書棚に据え置かれている一人掛けのソファに腰を下ろした。
 スポーツ医学について書かれた本を読みながら時間を潰したが、その内容はまったく頭に入って来なかった。剣道部だけでなく、野球部やサッカー部の同級生の中には整体師やスポーツトレーナーなどスポーツ医学の道に進もうと考えている者は多い。しかし隼人は違った。隼人は父である相馬太一が警察官をしていることから、幼い頃から警察官になることを夢見ている。剣道を始めたのも、太一の存在が大きく影響していた。小学生の頃は柔道も習っていたのだが、まだ体が小さかったこともあって、中学に上がる時から剣道一筋になった。
 だからスポーツ医学には特に興味を持っているわけでもないし、勉強しなくてはならないものでもなかった。隼人が本を読むのは、ただ時間を潰すためだ。
 ソファに腰を落ち着けて十分ほどが経った時、隼人は難解な文章でなく眠気と格闘していた。意識は途切れ途切れになり、視界はもうずっと暗かった。昼休みだからうたた寝していても何ら問題はないのだが、このまま気持ちよく寝入ってしまうと五限が始まってもまだ夢の中にいる可能性があった。
 相馬君、と頭の上から声がした。図書室という空間に即して声は抑えられているが、和やかで女性らしい高い声は、和葉のものだった。
 口の端を薄っすら濡らしている涎を手の甲で拭い、隼人は背筋を伸ばした。いや、突然声を掛けられて勝手に背筋が伸びた。隼人は振り仰ぎ、アーモンド型の和葉の目を見て、すぐに視線を伏せた。
「ごめん、邪魔した?」たどたどしく声を出しながら、隼人は読んでいた本を閉じた。
「ううん、邪魔だなんて」
 和葉は前屈みに上半身を倒したのか、ポニーテールに束ねられなかった、こめかみを覆うようにして垂れる黒い髪が隼人の視界に入り込んだ。
「何読んでたの?」和葉は言った。
「これ?」隼人は本の裏表紙を一往復擦って、表紙を向けた。「スポーツ医学。……でも、全然ちゃんと読んでないよ。興味があるわけじゃないから」
 言い終わると、胃がもたれる感じがした。昼食の弁当はむしろ量が少ないくらいだが、それでも今は胃袋が張っていた。
「興味ないの? あってもおかしくないのにね」
「南野さん、勉強はいいの?」不思議がる口調の和葉に隼人は言った。隼人は胃袋が張っている原因が和葉であることをよく理解していた。そのため早く和葉を追い返したかったのだ。「中断させたみたいで、ごめん」
「ううん、中断じゃないよ。今やる分は終わったから」和葉は膝を抱いてしゃがみ込むと、隼人の顔を覗いた。「終わって伸びしたら、相馬君の肩が見えてさ」
 アーモンド型の大きな目の間にはすらっと通った鼻があり、その下の小さな唇は口紅を塗っていないのに赤々と血色がいい。その小さな口が微笑んだ瞬間、隼人は耐え切れず目を逸らした。
「邪魔してないんだったら、よかった」
「あたしこそごめんね。何だか気を遣わせちゃって」
「そんなの……気にしなくていいよ」
 隼人は立ち上がった。和葉にはテーブル席に戻ってもらいたかったが、どうやらその気配すらない。このまま自分はソファで、和葉はしゃがんだまま、話を続けるのは気が引けた。テーブル席に着くことを促すと、和葉は笑顔で頷いた。
 席に着くとすぐに和葉が言った。
「相馬君大学決まったんだよね」和葉はきれいな二重瞼をより際立たせるように笑みを浮かべた。「おめでとう」
「南野さんはもちろん、殆どの人がこれから受験だっていうのに、俺一人だけ手放しには喜べないよ」
「でもさ、相馬君が努力してきたからこうやって推薦をもらえたんだよ。あたし達推薦じゃない受験生は相馬君のしてきた努力を今してるだけ。別に相馬君が気を遣う必要ないよ」それかもしかして、と和葉は嬉しそうに笑った。「剣道部の主将をして沁みついた特性なのかな」
 もちろん和葉の言うように、この三年間の部活動への取り組み、さらには剣道を始めてから今日までの日々を、隼人は信じている。他人から何と言われようと揺らがない鋼の努力であった、と。
 しかし受験勉強に励む同級生が大半の中、一人悠々自適な態度を取るなんて、人間性を疑われてもおかしくない行為だ。
「ありがとう」
 とにかく今は和葉の祝福を素直に受けよう、と隼人は思った。
「相馬君、髪伸びたよねえ」
 和葉はテーブルに両肘をつき、両手を組んで作った小さな拳の上に顎を載せた。上目遣いに隼人の頭髪を眺めている。隼人が部活動を引退したのは六月のことだが、引退してからも部活動に参加しているため、夏休みまでは丸刈りだった。しかし二学期になって野球部の頭髪が伸び始めたのに触発されて、隼人は少しずつ髪を伸ばし始めていた。夏休みが明けて一ヶ月と少しが経ち、髪が伸びたと見て取ることができるようになった。しかしまだまだおしゃれな髪形にできるほどの長さではなかった。
「そうだね」隼人は答えながら、目線のやり場を探した。和葉が上目遣いで自分の顔を見つめるものだから、俯くと彼女と目が合ってしまう。横を向いてしまうのはあまりにあからさまな気がして、それは失礼だ。
「この前の体育祭で部活動対抗のリレーがあったじゃん? あの時一二年生もリレーに参加してたでしょ。それでリレーが終わった後にみんなが面を外して、そしたら相馬君だけ頭が黒々してるなあって思ったの」
「かっこ悪いんじゃない? こんな中途半端な長さで」
「ううん、そんなことないよ。かわいいし、似合ってると思う」
 女子生徒にかわいいと言われることほど恥ずかしいことはなかった。少なくとも隼人は武の道に立つ男だ。かわいいなどと評されることは耐え難いことだった。
「髪の毛伸ばすの?」
「まあ、そのつもり」
「そっか」和葉はなぜか悲しそうな声で言った。「あたし丸刈りの男の子好きなんだよね。クリクリしててかわいいし」
「普通厳つく見えるんじゃない?」
「それは人によるよね。こう――」和葉は両脇を大袈裟に広げて体格の尺度を表現した。「体がこのくらい大きな人なら厳ついかも。野球部とかラグビー部の人で体の大きい人はすれ違う時ちょっと怖い……」
「俺は怖くない?」
「相馬君も身長はあるけど、線が細いもんね。ああでも、やっぱり相馬君はさ、どんな人か知ってるし、だから怖くないっていうのもあると思う」
「南野さんにかわいいって言われたこと、今度みんなに自慢するよ」
 隼人は皮肉を口にした。和葉は入学当初から学校一と言われるほどの美少女だった。隼人自身、その称号は決して間違っていないと思う。和葉は美人だ。入学から僅か一ヶ月で二十人から告白されたことがそれを証明している。しかしこの時和葉は、中学の頃から交際している相手がいて、誰の告白も受けなかった。和葉に恋人がいることを知ってからも四人が告白しているのだから、和葉は正真正銘の美人だ。
「絶対あたし以外にも丸刈りの男の子がかわいいって思ってる人いると思うんだよなあ。その人が見つかるかも」
 和葉は嬉しそうに顔中に笑みを広げたが、隼人はその顔を見て反射的に顔を逸らした。
「冗談。そんなことわざわざ言わないよ」
 和葉は「だよね」と苦笑したが、その後気まずい沈黙が一拍あった。会話を継いだのは和葉だった。
「その本、もう読まないの?」
 隼人は表紙を撫でながら小さく頷いた。「もう昼休みも終わるし」
 図書室の壁に掛けられた円形の時計によると、昼休みはあと五分数十秒しか残っていなかった。和葉が振り返って時刻を確認した時、予鈴が鳴った。隼人はさっさと立ち上がっていた。
 テーブルに向き直った和葉は目の横を人差し指で掻きながら愛想笑いを浮かべていた。
「中断させちゃったの、あたしだったね。ごめん」
「さっきも言ったけど、ちゃんと読んでないから。そもそも開始してないんだから、中断もないよ」隼人は和葉に背を向けた。「俺本直してから教室戻るから、待ってなくていいよ」
 そう言って書架に専門書を直し、教室に戻ろうとすると、図書室の出入り口で和葉が待っていた。隼人は思わず溜息を吐いた。
「先に戻っててって言ったのに」
「本を戻すくらいで遅刻なんてしないんだから、大丈夫だよ」
 和葉と並んで歩き始めてから、隼人は鼻で溜息を吐いた。和葉は歩きながらも話し掛けて来るが、並んで歩いている分顔が見えなくて気が張らない。普段よりは、うまく話せた気がした。
「相馬君、今日も部活行くの?」
「そのつもり」
「そっか。頑張って」
「南野さんも勉強、頑張れ」
 他人を応援することに慣れていないせいで、頑張れ、がぎこちなくなってしまった。それでも和葉は健気に「うん」と言って、隼人の教室の前で別れた。隼人は、和葉のポニーテールが揺れるのを見送って、教室に入った。
 座席に着くと、下野英太が含みのある笑みを口元に貼りつけ、こちらをずっと見ていた。隼人は徹底して無視を貫き、そして五限が始まった。

2へと続く……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?