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連載長編小説『美しき復讐の女神』5-2

 客席からだと、一閃された竹刀を目で追うのがやっとだった。同じ競技を自分もやっているというのに、まるで違う競技のように感じる。高校生と大学生の差は、歴然としていた。
 団体戦の決勝は互角の試合だった。二勝二敗で大将戦へと移り、お互い技を繰り出しては防戦し合う一進一退の攻防で、残り時間はわずか三十秒となっていた。観客は頻りに残り時間を気にするようになったが、睨み合う大将同士は時間など気にならないようだった。いや、時間を気にしている余裕などないと言うべきか。一瞬の油断が隙を生み、その隙を相手が見逃さないことくらい、ここまでの打ち合いを見ていれば誰にでもわかることだ。
 残り四十五秒を切った辺りから二人は示し合わせたかのように攻撃を繰り出さなくなった。お互いが剣先をカチャカチャと触れさせるだけで、一定の距離を保って膠着状態が続いている。隼人は、何とも気持ち悪い間だと感じていた。というのも、両者が自分の間合いを作り、そこへ相手を誘い込もうと画策しているのだが、お互いにそれを察知して、誘いに乗りそうで乗らない、妙な動きを繰り返していた。この高度な駆け引きを、隼人は息を呑んで見つめていた。
 二人の間合いがじりじりと詰まっていく。残り時間は十二秒。お互いの剣筋は練り上げられており正確だ。次の一撃で勝負が決まる。
 一方の剣士が踏み込み、振り被った。真っ向勝負か、隼人がそう思った瞬間、振り被った竹刀から片手を離し、まさかの突きを繰り出した。これには相手も不意を突かれた様子だった。が、相手は咄嗟に右前に踏み込んで、逆胴を入れた。
 残り三秒で、勝負は決した。
 隼人は閉会式を待つ間、日本武道館のロビーへと下り、永岡の姿を探した。出場選手でごった返す中、隼人はその端正な顔立ちを頼りに永岡の居場所を見つけることができた。
 人を掻き分け、永岡の近くまで来た時、永岡が塩見雄一郎と話をしているのを見て一瞬引き返そうかと思った。永岡と塩見は高校の頃から関東大会で顔を合わせており、その頃から交流があるのだ。そして、永岡の大学は塩見の在籍する大学に準々決勝で敗れていた。
 ちょうど向きを変えた時、永岡が隼人に気づいた。永岡は隼人を呼び込み、そして塩見に隼人を紹介した。
「お二人ともお疲れ様でした。永岡さんも塩見さんも、さすがの試合でしたね」隼人は何となく居心地の悪さを覚えながら言った。
「隼人の前で負けなかったのはよかったよ。後輩の前で負けるのはかっこ悪いからな」
「いやいや、かっこ悪くなんてないですよ。負ける時もあって当然ですから」
「相馬君の言う通りだ」塩見は言った。「負けを知らない人間は有限、負けを知る人間の可能性は無限だ。人は負けて強くなる」
「もちろん雄一郎の言う通りだ。負けた時ほど学べる時はない。でも雄一郎、そういうことは最後まで勝ってる時に言うもんだ。おまえは最後の試合で負けただろ。負け惜しみに聞こえるよ」
 永岡は冗談めかして言ったが、塩見が敗れた相手というのはさっき決勝戦で見事な逆胴を決めた、つまり優勝校の大将だった。それに、決して恥ずかしい負けではなかったのだから、負け惜しみとは言えない。
 それを塩見もわかっているのだろう。二人は優勝校の大将の凄まじさについて剣道談義を始めていた。直接戦っていない永岡も、やはり決勝戦を見てその強さを肌で感じたそうだ。最後に一本を取った逆胴が狙い澄まされた一撃だったのか、咄嗟に繰り出された偶然の一撃だったのかはわからない。だがそんなことはどうでもよくて、あの土壇場に逆胴で一本を奪えるその技術力と精神力に、隼人も含めた三人は脱帽するしかなかった。
「塩見ー」と女性が駆けて来た。
 その声に、隼人の背筋が凍った。
「あっ、永岡君だよね?」
 女性は塩見の前で止まると、隼人と永岡を交互に見て言った。面を被るとひどく蒸れるであろう長髪はピンクのインナーカラーが何本か染められていた。ちらりと見ただけだが、この女性は背が低いが筋肉質で、がっちりとした印象を受けた。もう一人、華奢で短髪の大人しそうな女性がいたが、彼女は自ら話し掛けるようなことはせず、塩見の傍に立っているだけだった。
 永岡は「そうだけど」とさらりと返した。二人の口振りから初対面であることを察したが、なぜ初対面の相手に、それも女性を相手にしてそんなに自然体でいられるのか、隼人には理解ができなかった。
 二人がお互いに名乗った後、永岡が隼人のことを紹介した。隼人は今紹介された月島乃愛を出場選手一覧で検索した。乃愛は塩見と同じ大学で、今日男子と並行して行われていた女子の部で団体戦に出場していた剣士だ。
 乃愛は隼人が高校生だと聞き、興味を失くしたらしく、永岡の今日の剣道について話を始めた。永岡は次鋒として団体戦に出場しており、塩見率いる強豪大学を相手に唯一一本勝ちを収めたこともあって、乃愛達に一目置かれているのだった。
「アキナとも永岡君強いねって話してたんだよ」と乃愛が言った。「ねえ、アキナ?」
 乃愛は塩見の傍の大人しそうな女性に言った。隼人は一瞬、その華奢な体つきを見て、アキナはマネージャーではないかと思ったが、出場選手一覧で探してみると、名前があった。柊明奈、珍しい苗字だな、と隼人は思った。
「……うん、そうだね」
 か細い声だった。端正な顔をしている永岡に緊張して、とか、恥ずかしくて、とかそういうふうではなく、あまり自分に自信がないような、そんな声に聞こえた。
「明奈、まだ落ち込んでんの? そろそろ切り替えなって。相手も強かったんだから」
「わかってるけど……もっとやれることはあったと思うし」
「考え過ぎだって。明日からまた練習して、次は勝てるようにすればいいだけでしょ?」
 隼人は男子の部だけではなく、女子の部の試合もいくつか見ていた。その内の一つが、乃愛や明奈が出場していた試合だった。乃愛は先鋒で見事に勝利を収めたが、次鋒以降勢いに乗れず連敗、副将を務めた明奈が競り合った上で惜敗を喫し、大将戦に持ち込めなかった。しかしハイレベルな試合だったのをよく覚えている。塩見ら男子団体が準決勝まで進出したのに対して、乃愛と明奈ら女子団体はベスト十六で敗退となった。
 確かに明奈にとっては後悔の残る一戦だったかもしれないが、相手は明らかに格上で、明奈はよく食らいついていた。闘志は前面に出ていたし、立ち居振る舞いもかっこよかった。そんな剣士が、面を脱げばこんなに大人しい女性だとは、意外だった。
 乃愛と明奈が男子の試合を観戦していたように、塩見も女子団体の試合を観戦していたのではないか? 乃愛の励ましは明奈のような気の弱い人にとっては高圧的かもしれない。塩見がそっと励ましてあげれば、明奈の気分もいくらか晴れるかもしれない。
 ちらっと明奈のほうを見ると、一瞬彼女と目が合って、咄嗟に顔を背けた。
「塩見、そろそろ閉会式始まるよ」
 囁くほどの声で明奈が言った。明奈のほうに意識を向けていなければ聞き取れなかったであろう声に隼人は反応し、ホールのほうを見た。明奈の言うように、優勝旗や賞状、盾などが並べられており、マイクスタンドやスピーカーが設置され、閉会式の準備が整っていた。
 塩見率いる男子団体は三位決定戦で勝利を収めたため、表彰されるのだ。塩見は清々しい顔でホールへと入っていった。その姿を見送っていると、明奈とまた目が合った。彼女はよそよそしく会釈を向けて来たが、隼人は顔が強張ってうまく返せなかった。
「じゃあ隼人、俺もそろそろ行くわ」
 永岡はそう言って、ホールへと入っていった。すっかり永岡と親しくなったらしい乃愛は、隼人は自分の後輩だと言わんばかりに堂々と手を振って、永岡に続いてホールに進んだ。
 隼人は、閉会式の後に永岡と少しだけ会話をして、日本武道館を後にした。
 新宿駅で乗り換える時、駅構内に百貨店が多いせいか、この前下野に言われた言葉が耳に蘇ってきた。
 ――感謝の気持ちがあるなら受験頑張れって、恩返しのつもりで何かプレゼントしてやれよ。
 やはり女性に何かプレゼントを贈るなんてことを考えると、隼人にとってかなりハードルが高い。それに和葉にプレゼントをして、それが学校に広まりでもしたら、誤解を解くのにかなりの労力を使うことになる。それを思うと、煩わしい。
 だがあの時下野に言った通り、これまで和葉が支えてくれたことには感謝している。このままでは、和葉に支えてもらいっ放しで、隼人は和葉に何も恩返しできないまま卒業することとなる。それでは、あまりにも薄情ではないか。
 これまでの感謝に対する恩返しだ。もしプレゼントを贈って、和葉の受験に対するモチベーションが上がったり、ほんの微々たるほどでも和葉を支えられるのなら、それは価値のあることなのかもしれない。
 隼人は百貨店を見て回りながら、いったい何を贈るべきか考えた。女性へのプレゼントなど初めてだ。隼人はいつかドラマで見たことがあって香水店に入ったが、甘い香りが混じり合った店内に酔ってしまいそうで、すぐに離脱した。それに香水店を出てすぐに、和葉は香水などつけていないことを思い出した。
 香水以外で女性へのプレゼントと言えば何があるだろう。すぐに思い浮かんだのは化粧品だった。しかし隼人は化粧品のことなどまるで知らず、さらには化粧品を購入している自分の姿を想像して、周囲の視線にとても耐えられないと思い却下した。ハンドクリームくらいならどうかと思ったが、手に馴染まなかった時のことを考えるとプレゼントには適さない気がした。
 アパレル店の前を通り掛かり、衣服なら大体のサイズは見当がつくし、プレゼントとして失敗する可能性は低いと思われた。だが、隼人は自分のファッションへの疎さを思い出し、センスのないシャツをプレゼントするのは絶対にやめるべきだと思った。
 無難なのは食べ物か。しかし受験を頑張れるために渡すのだから、形として残る物のほうがいいのではないか。食べ物だと胃袋に入ってしまえばすっかりなくなってしまう。
 隼人はベンチに腰掛け、重い溜息を吐いた。世の中の男性は、いったいどうやって女性へのプレゼントを決めているのだろう。
 そんな時、勉強に励む和葉の姿を思い出し、隼人は立ち上がった。雑貨屋に入り、何か珍しいヘアゴムでもないかと探した。和葉はいつもポニーテールにしているから、ヘアゴムなら試験の時も身につけられるし、何より普段から使うことができるだろう。そう思ったが、なかなかこれといってめぼしいものは見当たらなかった。どれも同じ、多少色が違うだけで、どこにでも売っていそうな品ばかりだった。
 隼人はヘアゴムから髪飾りの棚へと移り、ぼうっと品物を眺めて歩いていた。そんな時、気に入った髪飾りがあった。ヘアクリップに、小ぶりなリボンがついていて、派手過ぎなくていい。リボンもそれほど目立たないので、子供っぽくもない。これにしようと隼人は思った。値段を見ても、隼人が買える金額だった。
 問題は色だった。
 隼人が気に入ったのはベージュだったが、和葉にはやや渋みが強い気がしたのだ。他に赤や青、黄色といった色があって、隼人はそれらを見比べては和葉のポニーテールを想像した。そして十分ほど熟考し、和葉に一番似合うと思われる色を選択した。
 会計の際、プレゼント用の包装をしてもらった時、隼人は清々しい気分になって、珍しく胸が躍った。
 その気分がそうさせたのか、切符を買う直前、隼人はふと凛のことを考えた。隼人は今、凛がいるはずの東京にいるのだ。家を出てから音沙汰がない。凛の住所なら両親に訊けばすぐにわかる。
 凛の様子を伺おうか――あまりに気分がよかったので、隼人はそんなことを考えた。
 が、凛に直接会った時のことを考えると、愉快だった隼人の気分は一瞬の内に冷え切ってしまった。姉の恐ろしさは自分が一番よく知っている。いくら気分が良かったとはいえ、凛に会おうなどと考えるものではない。
 自ら凛に会いに行くなんて、愚か者のすることだ。

6へと続く……

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