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連載長編小説『美しき復讐の女神』9-2

 オリオン座の胸の三つの星々が、夜空に浮かぶ星の中でも一際目立って見える。子供の頃から、星空に探す星座と言えばオリオン座か北斗七星、あるいは夏と冬の大三角だった。その習慣かそれとも癖と言うべきか、今でも夜空を見上げると、それらの星々が自然に目につく。
 この数週間で、陽が落ちるのがずいぶん早くなった。剣道は屋内スポーツだから日没の時間など関係ない。しかし木枯らしも観測され、本格的に冬の冷え込みが顔を覗かせる今、陽が沈むと気温は一層下がる。冷気の張りつめる武道場で、裸足ですり足を繰り返すのは慣れても辛いものだ。それに、後輩を指導していると、特に一年生に多いのだが、未熟な剣筋故に防具のない箇所に竹刀が飛んでくることがある。冬は、すり足以上にこっちが応える。今日打ち込み稽古に散々献身した隼人は、体中に痣を背負ったかのような痛みを感じて、帰路の足取りはずっと重かった。
 それでも、滅多にないほど澄み渡った星空を見上げると、いくらか気持ちが和んだ。今日は、むしろ悪い予感がするくらいに晴天の星空だ。今年の七夕には曇って見られなかった天の川がくっきりと見える。
 隼人は空を見上げて、思わず微笑んだ。
 この気温だと、空は氷点を下回っているだろう。夜空にせせらぐ天の川の流れは凍り付き、織姫と彦星は氷上で感動の再会を果たしているのではないか。
 隼人は家に着くまで、オリオン座と共に二人の再会を見守った。天を仰ぎながら歩くのもたまにはいい。前を見て歩くのも大切だが、こうして時々空を見ながら歩いていると、どことなく気分が上向く気がする。
 ただ、視界に空しか映らないため、注意を払う必要がある。慣れ親しんだ道でも、ずっと星空を眺めていては家を通り過ぎてしまう。隼人は鼻孔をつく香ばしい匂いにふと足を止めたが、そこが我が家であった。美代子が絶品のカレーライスを作っていなければ、隼人はまるで星空に吸い込まれて行くようにして、どこまでも果てしなく歩いて行ったかもしれなかった。
 隼人はおっちょこちょいな自分を自嘲し、玄関に入った。美代子のサンダルの横に、太一の革靴が並んでいた。今日はもう帰ってるのか、と隼人は思った。
 リビングに入ると、「お帰りなさい」という美代子の声が、有無を言わさぬカレーライスの香りに包まれて隼人を酔わせた。
「もうできてるけど、すぐごはんにする?」
 鍋を煮込みながら、美代子は言った。
「うん。家に入る前からお腹ぺこぺこだ」
「はい。じゃあとっとと着替えて来て」
「食べたらすぐに風呂入るし、このままでいい」
 美代子は火を止めると、振り返って眉間に皺を寄せた。「もう……」
 太一は相当疲れが溜まっているらしく、まだ午後七時を過ぎたばかりだというのに、さっきから欠伸ばかりしていた。美代子が火を止めたのが食事の合図となり、太一はごろんと寝そべっていた三人掛けのソファから立ち上がり、ダイニングテーブルへと移動した。太一は奥二重なのだが、今ではすっかり二重瞼が刻まれていた。
 その時、インターホンが鳴った。隼人はダイニングテーブルに腰を下ろして、太一と顔を見合わせた。
「ごめん、どっちか出てくれる?」美代子がキッチンから言った。
「誰なの? 宅配?」
「いや、そんな予定はないけど……」
「隼人、出て来い」
 太一に言われて、隼人は立ち上がった。俺も疲れてるんだけどなあ、と腹の底で悪態を吐いたが、太一の仕事がどれだけ過酷かはよく理解しているつもりだ。泊まり込みなんてしょっちゅうで、その上凶悪犯と対峙しなければならないのだ。太一は、もうずっと強行犯係の第一線で働いていた。
 隼人はドアを少しだけ開けて、来客を窺った。そこにいたのは三十代後半から四十代前半と思われる男性だった。男性は髪を七三に分けて、丸い金縁眼鏡をかけていた。紺のジャケットの上から黒のロングコートを羽織っており、手にはビジネスバッグを提げていた。
 隼人はその男性に見覚えはなかったが、何だかかっちりした人だな、と感じた。
「相馬太一様は御在宅でしょうか?」
「はい。父ならいますけど。呼んできます」
 隼人は太一の来客と知り、安堵した。来客の男性の服装から、警察の同僚か、担当事件の弁護士といったところだろうと考えたのだ。
 隼人はリビングに戻って太一を呼び、一緒に玄関に戻った。しかし隼人は、「初めまして。私こういう者です」と来客の男性が名刺を差し出すのを見て、首を傾げた。どうやら太一の知り合いではないらしい。
 隼人はリビングに戻った。
「誰なの?」美代子が訊いた。
「わからない。男の人だったけど、父さんとは初めて会うみたい」隼人はダイニングテーブルに腰掛けた。「お腹空いた」
「ちょっと待って。お父さんが戻って来てからね。すぐに終わるだろうから」
 美代子の言った通り、太一はすぐに戻ってきた。が、父の傍には来客の男性の姿があった。隼人はそれに驚き、絶句した。
「すまんが、二人ともちょっと外してくれるか」
 泰然とした口調だったが、太一がどことなく狼狽しているように隼人は感じた。柔らかい声だったが、父の目はどこか決然としているふうでもあった。それが警察官としての父の顔なのか、あるいはもっと別の問題に対して見せる父の顔なのかはわからなかった。
 隼人は美代子と共にリビングを出た。二階に上がって、出て行ってから誰も手をつけていない凛の部屋の前を素通りして、隼人の部屋に入った。
「何だろう?」
「名刺もらってたみたいだし、初めて会う人だと思うんだけど。警察の幹部とかかな? 本部の幹部とか……でもそれなら父さんに敬語なんか使わないか」
 美代子は、隼人の椅子に座ったきり、何も話さなかった。
「別の署の刑事とか? 向こうで起きた事件が父さんの管轄にも関係して、それで自宅で作戦会議とか……」
「そんなこと」と美代子は言った。弱々しい声には不安が感じられた。「そんなこと今までに一度もない。もし仕事なら、呼び出しがあるはずだから」
「そっか」隼人はどっさりとベッドに体を沈めた。「そうだよな……。あの人、何なんだろう」
 隼人は、殺風景な天井を見上げるのが辛かった。さっきまで晴天の星空を眺めていたせいだ。映画やミュージシャンのポスター一枚でも貼れば多少は華やぐかもしれないが、別に隼人は部屋に華やかさなど求めない。感情をぐらっと揺さぶられるほど澄み切った星空を見た直後なだけに、感化されるところがあっただけだ。
 森閑と静まり返った部屋に、美代子が載った椅子の回転する音だけが響いていた。
「母さん寒くない?」
 しばらくして、隼人は口を開いた。もう二十分ほど経つ。リビングではまだ話が済まないようだ。美代子は大丈夫、と一言だけ答えた。
「布団入る? 場所変わろうか」
「ううん。大丈夫だから」
「先に風呂入っとけばよかったな」
 切実な思いが、隼人の口から漏れた。
 家に帰ってすぐはあれほど腹ぺこだったのに、今や来客の正体が気になって空腹感などどこかへ消え去ってしまった。ぼうっと天井を見上げていても、来客の金縁眼鏡が頭から離れない。
「お風呂入る?」美代子が言った。「いつ終わるかわからないし」
「どうしよう。でももうちょっとで終わるかも、わかんないけど。母さんにも席を外させるってよっぽどじゃない?」
「そうねえ、仕事だったら、わかるんだけど。でも、家族にも見せられないような仕事を一捜査員の自宅でやるとは思えないし」
「俺もそう思う」
 何となく、隼人は嫌な予感がした。太一の仕事について、いつも太一が行っている形を考えたせいだ。太一は警察官だ。犯罪者を取り締まるのが太一の仕事だ。現行犯で逮捕することもあるが、通常逮捕は裁判所から発行された捜査令状を持って被疑者の自宅などに出向いて手錠を掛ける。
 今回は、その逆なのではないか。つまり、太一が捜査対象になっているのではないか――その一抹の不安が、隼人の胸を重くした。
 もしかすると、美代子も同じことを考えているのではないだろうか。それで、ずっと不安がっているのではないか。
 リビングから人が出る気配があり、隼人は飛び起きた。少しして、玄関が開閉する音がした。隼人は美代子と一階に下り、リビングに入った。
 太一は、苦い表情を浮かべていた。毅然と振る舞うようならば、何か後ろ暗い話だったのだと推測できたのだが、これではまるでどんな話だったのかわからない。あるいは、疲労に追い打ちを掛ける重大な話が、もはや誤魔化しの利かないほどに太一を追い詰めたのか。それすらも、隼人には判断がつかなかった。
「お客様は誰だったの?」美代子が訊いた。
「探偵の方だ」
「探偵!」隼人と美代子の声が重なった。図らずも、不安が的中してしまった。太一は来客の正体を明かしてしまうと怯えたように体を震わせ、隼人と美代子を見て微笑した。
 隼人は、父の次の言葉を待つ他なかった。
「昔俺が担当した事件について、当時の状況を教えてもらいたくていらしたんだ」太一は言った。「ずいぶん昔の事件だから、思い出すのに時間が掛かったんだ。一応捜査内容に触れるから、二人には席を外してもらった」
「探偵の人には話してよかったの?」
「探偵にも守秘義務があるから、大丈夫だ。隼人、そんな顔してどうしたんだ? 父さんが何かしたんじゃないかって顔に書いてあるぞ」
「俺はともかく、母さんまで席を外すってただ事じゃないなって思っただけだよ」
「父さんは警察官だ。悪いことなんてするわけないだろ」
「若い頃はギャンブルしてたじゃない」
「合法のな」ようやく太一は自然に笑った。「とにかく何も心配いらない。昔の事件の話だったんだ。待たせて悪かったな」
 隼人もようやく肩の力が抜けた。
「はあ、またお腹空いて来た」
「急いで温めるから」
 美代子はキッチンに急いだ。
「悪い、俺は後でいい。疲れて、今はあんまり食欲ないんだ」
 そう言うと、太一はリビングを出た。寝室に向かうのかと思ったが、どうやら太一は風呂場に向かったらしかった。美代子は溜息を吐いた。
 隼人は、再び立ち込める香ばしい匂いに、一層空腹感を掻き立てられた。ただ、リビングを出る直前に父が見せた青々とした表情だけが胸に蟠りを残した。

10へと続く……

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