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【最終回】連載中編小説『愚美人』第二部7



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 死因は砒素中毒だった。法廷で蘭子が絶命した二日後、司法解剖を終えた警察から正式な発表があったのだ。法廷での服毒自殺という前代未聞の大事件を、メディアはこぞって取り上げた。一人の女性が命を落としているというのに、偶然傍聴席に取材に来ていた局はいかにも鼻が高そうに当時の状況を溌溂と語っていた。
 それでも、蘭子の死は謎だらけと言われている。
 どこで毒を仕込んだのか。
 なぜ被告人が毒など持っていたのか。
 こうした議論が、蘭子の死に得も損もしない連中によって一週間が経った今でも続けられているのだ。
 しかし佐野は知っていた。いや、気づいたと言うべきだろう。法廷で蘭子と唯一目が合ったあの瞬間、佐野は蘭子の思惑をすべて悟った気がしたのだ。
 蘭子が毒を仕込んだのは、開廷前だ。普通裁判では裁判官が最後に入廷する。ところが蘭子は用を足すと言って数分遅刻していた。その時に蘭子はトイレで毒を仕込んだのだ。佐野が実際に見た蘭子の砒素毒はカプセル状になっていた。開廷前も同様だったとすれば、カプセルを舌の下か奥歯の辺りにでも忍ばせていたのだろう。だから裁判官の質問に最後まで応えなかったのではないか。あるいは、スパイ映画でよく見る自決用の義歯を用意していたのかもしれない。
 いずれにせよ、蘭子は砒素毒を開廷直前に仕込んだのだ。
 だがさらに大きな問題は、なぜ蘭子が毒を持っていたのかという点だ。逮捕前から持っていた、では説明がつかない。なぜなら逮捕され拘留される時にはすべての持ち物が没収されるからだ。毒物や凶器を持ち込んでいるなど論外だし、そうでなくとも首吊り用の縄になりそうなものは自殺防止の観点からすべて押収されるのだ。毒物など、拘置所に持ち込めるはずがないし、もっとも裁判所への道すがら調達することも不可能だ。
 この問題をマスコミが解明できるはずはなかった。マスコミでなくとも、真実を知り得るのは佐野だけだと思われた。なぜなら佐野は、心当たりがあるからだ。
 蘭子は言っていた。
 それが男の限界よ、と。
 法廷で山口検事が「毒だ!」と叫んだ瞬間、佐野は蘭子が服毒自殺を試みた時のことを思い出した。蘭子が致死量を遥かに超える砒素をコーヒーに投入し、二分の一で運命を試したあの時のことを。
 蘭子は言っていた。
 逮捕されれば人生は終わり――。
 彼女はアパートに刑事が来た時、すでに死ぬことを考えていたのだ。だから蘭子は、佐野がアパートに戻るまでの時間で砒素毒をすべて隠した。叢のない、あの清潔な陰部の中に。
 それならば、持ち物検査はおろか、身体検査でも発見されることはない。拘置所に収容されてからは、どこか物陰で保管していたのだろう。それを初公判のあの日、持ち出したのだ。女性器に忍ばせて。
 蘭子の最期の言葉は、声高らかな宣誓だった。自分は彼の花嫁なのだと、宣言した。そして旅立ったのだ。婚約者と幸福の待つ楽園に。
 これが天に選ばれなかった者の末路なのか……。
 佐野は、蘭子の言葉を思い出していた。蘭子は自分の観念に即して死んでいった。まさか、本当に死ぬとは思わなかったが。
 外に出ると、綿飴のように膨れ上がった雲が空を覆っていた。また蘭子が、どこかに全裸で立っているような気がした。そんなはずはないとわかっているのに、周囲を探してしまう。ふと、蘭子の抱えていた苦しみの大きさが可視化されたように感じた。
 佐野が蘭子を喪った苦しみなど、蘭子が婚約者を喪ったことと比べれば足の小指にも満たないものだろう。そう思うと、蘭子が全裸で街に出たことも、狂人のように死を求めたことも、合点がいった。婚約者の死は、特に蘭子の人生においてそれは、大き過ぎる喪失だった。佐野が街に蘭子を探してしまうなど、愚かな行為だ。蘭子は街に、婚約者を求めに行っていたのだから。それは今や、崇高な行為であったかのようにも思えて来た。
 俺に曇天は羽織れないな。
 佐野はそう思って、鼻腔を掻いた。蘭子とは、背負っているものが違い過ぎる。人生はやり直せる――そんな考えが、佐野の頭の片隅にはあった。蘭子はそれすら考えられないほど、錯乱してしまったのだ。
 彼女は愚か過ぎた。あまりにも愛し過ぎたのだ。純愛に身を滅ぼすのは貞淑な妻の宿命などと言って、本当に自らを滅ぼしてしまった。
 佐野には、生涯踏み込めない領域なのだろう。そのせいだろうか、蘭子の生き様に憧れている自分がいることに佐野は気づいてしまった。
 押上駅で合流した早苗は、憔悴しきっていた。あれから一週間、会社も休んでいるそうで、食事も喉を通らないようだ。喀血と嘔吐を繰り返す蘭子を目の当たりにしたのだ。佐野だって未だに気分が悪くなることがある。早苗は、正常だ。
「どんな判決が出ても、私達は変わらない。必ず会いに来るからって、最後の面会で伝えたのに……」
「蘭子さんは、何と?」
 早苗は一生懸命唾を飲み込んだ。
「ありがとうって笑顔で……」
 佐野は早苗に腕を貸しながら、店の中へ入った。元気よく迎えてくれたのは、果穂だった。蘭子の訃報を聞き及んでいるのだろう。気まずそうに、視線を伏せた。
 佐野は初めてテーブル席に座った。注文を取りに来たのは店主で、店主も娘同様複雑な表情を浮かべていた。水を持って来たのは果穂だった。
「あり得ない」果穂は言った。「本当あり得ない! どうして死ぬの? 恵ちゃんは、何のために命を張ったの?」
 佐野は椅子の上で体を反転させた。この時、カウンター席に寺本の姿を認めた。
「今は蘭子さんが亡くなったばかりだし、恨むのも憎むのもわかるけど、悼んであげてくれないかな」
「無理だよ」果穂は言った。「だって、恵ちゃんはあの女を守るために死んだのに、その女が自殺するなんて、恵ちゃんただの無駄死にじゃん! 助けてもらったなら、せめて長生きするのが恩返しでしょ? それなのに……」
「もうやめろ」果穂の肩に手を添えて、寺本が言った。「亡くなった人を悪く言うのはよせ。無駄死になんて言うな。死んだ人は何も言えないんだ。果穂が怨み辛みを延々と言い続けても何も変わらない。それに恵介が、浮かばれないだろう?」
「でも私は!」
「恵介の分も、果穂が幸せになるんだ。恵介も嶌さんも、きっと望んでいた人生じゃなかったはずだ。死んだ人が何も言えないように、死んだ人は人生をやり直すこともできない。でも俺達なら、生きてる内は、何度でもやり直せる」
「あたしだけ……あたしだけ幸せになるって、そんなの」
「恵介は、望んでると思うぞ。果穂が幸せになることを。気になる人がいるんだろう? 恵介はきっと、応援してくれると思うぞ」
 果穂は泣き顔を、水を運んで来た盆で隠した。五分掛かって落ち着くと、早苗の前に立った。早苗は一言も話しておらず、ただ茫然として、今のやり取りにすら関心がないように見えた。
 果穂は赤く腫らした目で佐野をちらっと見た。
「あの人を、赦します。きっと、赦します。だから、私幸せになってもいいですか?」
 佐野は静かに頷いた。早苗も小さく頷いた。
 厨房に戻って行く果穂と入れ替わりで、料理が運ばれて来た。佐野は早速料理に手をつけたが、早苗はじっと見つめるだけで、食べようとしなかった。
「食欲ないんですか?」
「ちょっとね……」
「俺もです」佐野は無理に笑った。「でも、無理にでも食べないと倒れますよ。ここの料理はうまいですから、きっと食べられます」
 佐野は早苗のハンバーグをナイフで小分けして、その一つを無理やり口に運んだ。
「どう?」
 早苗は、血色の悪い顔を綻ばせた。
「おいしい」
「でしょ? 食べられそうなら、おかわりもしてください。俺が奢るんで、気にせずどんどん食べてください」

fin

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