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連載長編小説『美しき復讐の女神』4-1

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 入り口のドアに伸ばした手が震えた。三浜は一度手を下ろし、ふう、と息を吐いてから把手を掴んだ。ドアを開けると、シャンデリアの装飾が照り返す光点が無数に出現した。ブルーのドレスを身に纏った玲華は三浜のことを覚えているらしく、入り口に客を迎えに来ると眉をしかめて意外そうな顔をした。その後で、玲華は接客用の笑みを口元に浮かべた。三浜は、気まずくお辞儀した。大将にセイレーンへと連れて来られた日からすでに半月が過ぎていた。半月前のあの日は三浜に何の満足感も与えなかった。しかし店を去ろうとしたその時、三浜は一人の女性に目を奪われた。赤いドレスを身に纏った、切れ長の目が色っぽく、美しい黒髪が特徴の女性だ。三浜はその女性に一筋の光を見た気がして、夜が明けてもまだ眠れなかった。酒も入っていたのに、こんなことは初めてだった。それ以来三浜は彼女の姿が忘れられず、幾度となくセイレーンに足を運ぼうとしたのだが、前に厚化粧のホステスに不愛想な態度を取ったこともあり、セイレーンの敷居は三浜には高く感じられた。だが半月が経ち、彼女に会いたいという思いが限界に達し、三浜はセイレーンに足を運んだ。半月前の自分の態度はもう誰も覚えていない、そう思うことにしたが、玲華の反応は三浜に現実を突き付けた。三浜の評判は、セイレーンではすこぶる悪いと思われた。もしかしたら、ブラックリストにでもつけられているかもしれない。
「いらっしゃい。まさかまた来てくれるなんて、思わなかったわ」玲華は素直に言うと、三浜を空いている席に案内した。「誰か希望は?」
「名前は知りません。でも、特徴なら」三浜は半月前に見た赤いドレスの女性を思い浮かべた。「すごくスタイルの良い人です。すらっとしているんですけど、華奢じゃない。黒髪がこの辺りまでの長さです」
 玲華は話を聞きながら考え込んでいたが、三浜の挙げた特徴を持つホステスが何人かいて絞り込めないらしかった。三浜は抽象的だと思いつつ、言ってみた。
「赤がよく似合います。この前俺が来た時も赤いドレスを着てました」
「赤ね」という玲華の声は明るかった。「それならリンじゃないかな。リンは今……今なら空いてるわ。少々お待ちを」
 三浜の心臓は迫り来る足音のように少しずつ脈を加速させた。言い表し難い高揚感のせいか、顔は自然に上向いた。しかし天井に吊り下げられたシャンデリアが眩しく、それらを見ていると酔いそうで、肘を膝に預けて足元に視線を落とした。そのまま二、三分待つと、薔薇色のハイヒールが視界に入った。その瞬間、濁っていた視界が華やいだ。
 露になった足は骨張っていて、細い。真っ赤なドレスの裾からちらりと窺えるふくらはぎは肉付きがよく、腿から腰に掛けては女性らしい、いや、女性を超越したかのように見事な曲線美が描かれている。ドレスからはみ出た胸は豊満で、ドレスの色も相俟ってか、三浜を熱情的にさせる。胸から鎖骨に掛けて溢れ出る色気、そして美しい顔の中で際立つ切れ長の目は、刺すように鋭い。その目が微かに動くと、真っ赤な口紅に彩られた唇が冷笑を帯びた。そして同時に、黒髪が靡いた。
 三浜は息を呑んだ。側に腰を下ろしたリンから、甘い香りが漂ってくる。三浜は蜜に誘われる虫のように、その匂いに感覚が麻痺してしまいそうだった。
「飲み物はどうしましょう」
 ぶっきらぼうにリンが言った。澄んだ声は、涙腺を刺激するほどに美しかった。
「そうだな……」三浜はリンの美貌にうっとりしながら口を動かした。「ロゼ・シャンパンにしましょう」
「ボトルで?」
「ボトルで」
 リンはロゼ・シャンパンを呼び込むと、ナプキンにペンで何やら書いた。そこには「凛」と書かれていた。
「凛です。よろしく」
「三浜浩介です。よろしく」
「あなたは、ロゼが好きなの?」
「いや、そういうわけじゃないけど、あなたにはロゼが似合うんじゃないかと思って」
 ボトルと共にシャンパングラスが運ばれて来た。名前の通り薔薇色のスパークリングワインが、鮮やかにグラスを彩った。二人は乾杯した。
「似合うかしら?」凛はこちらも見ないで言った。一口飲むと、凛はグラスを下から眺めた。「私、あまりロゼが好きじゃないわ。色も味も中途半端じゃない?」
 やはり凛はこちらを見ない。
 だが、こちらを見ていないのに引き込まれる瞳。その瞳はどこか現実離れしていて、常に虚空を見つめているようで儚い。三浜が彼女をじっと見つめていると、ぴたっと目が合った。切れ長の目は刺すように美しいが、その瞳の奥には得体の知れない獰猛さを感じさせる奇妙な光が宿っている。こちらを下からねめつけ、冷たい笑みを張り付けたその顔を見て、三浜は彼女が血に飢えた狼だと思った。まるで獲物を威嚇するかのように見えたと思えば、すぐに三浜には気がないとでもいうように顔を逸らした。
 三浜は口元を曲げた。
「遠慮がないね。俺は客だよ」
「そんなこと関係ないわ」
 凛は冷めた視線を三浜に向けた。
「関係なくはないだろう? 客がいないと商売にならない」
「勘違いしないで。お客様はあなただけじゃない」
 つんと顎を上げ、そっぽを向く凛の横顔すら冷ややかだった。しかしその冷たさが、彼女の美しさを増幅させた。気の強そうな口調も、三浜は気に入った。
「失礼だけど、年齢は?」
 前に三浜の席に着いたホステスも年齢は二十二、三歳だと思われるが、凛はそれよりもずっと若く見える。というのも、肌艶が他のホステスと比べて遥かに健康的なのだ。それは凛の若さを示しているのではないか。
「二十二よ」
「本当に? 他のホステスと比べてみてもずいぶん若く見えるんだけど」
「それはあなたの見方じゃないの?」
 凛はこちらを向いて、じっと三浜を見据えた。しかし彼女は何も言わず、ロゼ・シャンパンを口にするだけだった。
「ここに勤めて何年?」
「あなた何なの? そんなことを訊きたくて私を指名したの?」
「いや……初対面なんだから、お互いのことを知っておかないと」
「二年よ」
「じゃあ、二十歳の時からここに?」
「……そうなるわね」
「大学に通いながら、夜はここで働いてるの?」
「大学は行ってない」
「じゃあ、高校を卒業してからの二年間はどうしてたの? ニート?」
「失礼ね。どうだっていいでしょ、そんなこと」
 三浜は凛の美貌を目に映しながらグラスを口に運んだ。果物のように甘い味が、酸味を伴って三浜の胸に沁みた。この美貌に自分は惚れているのだ、と三浜は心地よくなった。
「凛は俺のことを訊かないんだね。この前俺についた人はいろいろ訊いて来たんだけど」
 意地悪く微笑を帯びた三浜だが、凛の表情を見て思わず頬を痙攣させた。
 凛は三浜を凍り付かせるが如くその冷たく美しい目を見開き、刺すような眼差しを向けていた。口は横に大きく開かれ、勝ち誇るように冷笑を浮かべていた。
「この前あなたがしたことじゃない」
 三浜は大将に連れられた日のことを思い出して、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
 自分だけが躍起になって、相手に軽くあしらわれるなど、これほど屈辱的なことがあるのか。そしてそれを今凛が報復している。やはり、彼女の瞳の奥には獰猛さが光っていたのだ。面白い、三浜は思った。
 その勝気な性格も含めて気に入った。
「もう少し飲み進めてからゆっくり話そう」
 酔わせれば、凛も気を許して話が弾むだろう。凛のことを知るのはそれからでも構わない。
 しかし凛は三浜を拒否した。
「申し訳ないけど、今日はあなた以外に大切なお得意様がいらっしゃるの。こんな時間から酔うわけにはいかないわ」
 三浜は目から生気が抜けるのがわかった。体も重い。「そんな……」
「私とゆっくり話したいなら予約を取ってくれる? 今日みたいに飛び込みで来られても、そんなに時間は取れないわ」
 そう言うと、凛はホールから姿を消した。三浜はその場で項垂れて、彼女のドレスの衣擦れの音だけを聞いていた。

4-2へと続く……

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