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心の異常停止である孤独、そこから生まれる本心が好き

 忘れられないことがあるとして、まずは忘れることを自分に許さなきゃいけない。ひどいことをされて怒りで絶対忘れちゃダメだと思ったり、人を傷つけてしまって後悔で絶対忘れちゃダメだと思ったり、それは心の自然な作用で、自分なりに償う時間が必要だ。しかし、壊れたものは元に戻らないから、自分の心の天秤が正常に戻るまで待つしかない。自分の人生が進んでゆくにつれ、昔のことはふっきれていくものだと最近思う。人生が進むとは、友人と会って話すとか、結婚するとか、働くとか、旦那さんの言葉にはっとするとか、を意味する。
 この心の異常停止期間を孤独と呼ぶのだと思う。私の一年の宅浪時代の孤独もそうだった。図書館で80円で売ってる缶コーヒーを飲む時が唯一安心した。毎日図書館に来ているおじいさんたちと顔見知りになった。予備校に夏期講習に行くと浪人生はみんな群れていてずいぶん呑気なもんだなと冷たい気持ちになった。京大に落ちたら看護婦になろうと思っていた。Z会の京大コースにはずいぶん助けられ、いつも封筒満杯に回答用紙を入れて84円切手をたくさん貼って送っていた。図書館が休館の日は柏のサンマルクカフェで勉強してよくオール明けの若い男女が隣で寝ていた。冬の朝、勉強する前に公園を散歩していつも手賀沼と空を見ていた。そういうひとつひとつが、私を作っていったと思う。
 そして、心の天秤が完全に正常に戻ることはない。正常かも、という範囲におさまるかどうかだ。人間はずっと孤独だ。ただ、優しい気持ちになると、あなたのその孤独は、きっとあなたが好きな人のために使われるのだろうと、遠くから思う。孤独だから人と話せることはあるし、強い孤独がわからない人が無責任に無敵の人を糾弾するような世の中は本当にクソだ。
 好きな人とお酒を飲んだ時の心の通い合いのために、少しくらい孤独であった方が、いいかもしれないと思う。私は狂ってるとか頭がおかしいとかよく言われるけれども、そのバランスの崩れと調整で人に優しくなるから、やっぱり得るものと失うものの量は一緒だ。恵まれているからこそ感じる必要がある喪失感だってある。私は、人を地位とか属性で見ることが嫌いで、孤独から搾り出された本心を一番愛している。

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