『わたしは最悪。』を観て:「最悪」な私たちは、脱皮してエピローグを生きる

『わたしは最悪。』が良い映画だった。
 多分、明確な答えを押し付けてこなかったからだと思う。どんな人だって子供作って「良い親」になったっていい。平凡な人生はクソだと拒否して仕事で自分を見つけてもいい。主人公がどう感じ、どう決意したかわかりやすくは描かれない結末だ。だからこそ、余韻が深い。
 Twitter上のレビューで、主人公ユリヤは自分が大好きだから奔放に生きている、というのを見かけたが、むしろ逆だと思う。ユリヤは自分の外見の美しさと才気を強く強く自覚しているからこそ、今の自分がどこまでも許せないのだと思う。自信がないのだ。だからこそ、パーティに忍び込み、自分の美しさを再確認してくれる人を探している。唯一無二のパートナーと生きていく自信もない。子供を作る自信もない。だからこそ、道を外れた恋にのめりこんでいく。その感情の揺れが、とても美しく表現されていて、ユリヤほどの美しさも才気もないわたしでも、共感した。
 新婚で、子供を作る将来に不安を感じているわたしは、この作品を観たら、死にかけの元恋人の「君はいい母親になる」というセリフに泣いてしまった。そして、同じように「君はいい母親になる」と言っていた旦那さんを思い出し、「わたしは、どんなに気持ちが落ち込んでも、家庭におさまる自分に幻滅しても、浮気なんて絶対しない!」と勝手に思った。そして不思議と、子供を作ることが怖くなくなった。不思議だ。なんというか、どのような生き方でも肯定してくれるような映画だったのだ。不思議。
 わたしもまだ「ママ」にはなれないと思うし、老いるのは怖いし、昔の恋人たちがフラッシュバックする。ユリヤが感じている恐怖は万国共通、アラサーの女性に響く。そして、恋のきらめき、そしてきらめきが過ぎた後の絶望、別離、その後のかろやかな自分。これも響く。
 わたしは恋愛映画や小説を読むとき、自分が感じた恋の高まり、失望をなぞってゆき、登場人物に語り掛けてもらっている気分になる。そして映画館を出るとき、本を閉じるとき、少し新しい自分になっている。『わたしは最悪。』はまさにそんな作品だった。人がなぜ芸術を享受しなければならないか、と考えるとき、もちろんその美を享受するのだが、同時に精神的に脱皮する作用があると思う。見事に脱皮するユリヤを見届け、わたしの価値観もまたひとつ脱皮する。
 『THE WORST PERSON IN THE WORLD』という原題を見て、予告を観たわたしは浮気をすることが悪いという意味なのかと思っていた。でも、このタイトルは、ユリヤがすべてを経験した後に、失ったものに気づき、自分の罪を受け入れたという意味だと鑑賞後は感じた。そんなこといったら、わたしだって、誰だって、「最悪」だ。でもユリヤはかみしめて、エピローグを生きる。わたしも、わたしのエピローグを生きてゆこうと思えた。

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